11

 泣いた瞼が熱を持っていた。目元が腫れているのを母に指摘されるのは、今日ばかりは耐えられない。トゥーリは、ラザックシュタールに戻るのは止めた。
 陽が落ちるころ、ラザックの夏の宿営地に到着した。水場で顔を洗い、馬を引いて幕屋に向かった。
 突然の客は日常である。誰も驚かず、当たり前にヤールが出迎えた。
 平伏するヤールの挨拶を受け、跨いだ。
 ヤールは食事に誘った。
「今晩は子羊を一頭絞めました。いい時においでくださった。ご賞味あれ。」
「そうか。それはいい。……近頃はどうか?」
「天気もよろしく、良い風が吹いている。草もよく芽吹き、家畜も元気。子もたくさん産まれました。上々です。」
「争いごとは?」
「ございません。仕事が忙しくてそれどころではない。」
 ヤールが笑うのを見、周りの者の満ち足りている風を見て、トゥーリは安心した。
「今年はいい年になりそうだね。」
「ええ。風の神のお恵みと、シークのご采配の正しさです。」
 ヤールは恭しく頭を垂れた。
「別に何もしておらん。」
 ぶっきらぼうな返事を聞いて、ヤールは苦笑した。そして、トゥーリの顔をじっと見て
「おや……どうなさった? 目が赤いです。」
と言った。
 彼は、そのまま屋敷に帰らなくてやはりよかったと思った。ヤールにも涙目を悟られるわけにはいけないと、出来るだけ軽い調子で
「……砂が入った。」
と言い、何か言う間も与えず訴えかけた。
「腹が減った。料理の具合はどうかな?」
「まだ少々……。アルヒが飲めるころだな。ひとつお持ちしろ。」
 ヤールが側にいた奴婢に命令した。
「茹でているのではないんだね。香ばしい匂いがする。焼けるのを見ながら飲むか。」
「お供しましょう。」
 肉の焼けるのを見ながら酒を飲み、焼けた外側から小刀で切り取っては口に入れる。仕事を終えた者が次々に加わり、大勢でわいわいとたらふく食事をした。
 終れば、歌が始まる。武勇伝を語るのを聞いては囃し立て、別な話し手が更なる自慢話を始める。
 酔って声高に笑い、ある者は居眠りを始める。若い恋人たちは寄り添う。
 母親は眠くなった幼子を抱いて、幕屋に帰った。
 子羊は粗方食べ尽くされた。食い意地の張った子供たちが、骨に残った肉を器用に削ぎ取っては食べている。髄まで啜る子供もいた。
 高歌放吟、欲に忠実。この辺りが、都の人々に卑しいと思われる理由のひとつだった。

 トゥーリは食事に使った小刀を仕舞い、盃を伏せた。
「よう食べた。五日分くらい食べた。」
「ご満足いただいたようで……ようお召し上がり。」
「屋敷はいかん。母上の料理人の作る小洒落た料理は好きになれん。肉は丸ごと、焼くなり煮るなりがいい。刀子でざっくり切り取って、岩塩を振って喰いつくのが旨いよ。苦菜の粥と一緒に。」
 いかにも草原の食事である。ヤールは嬉しそうに笑った。
「草原の子ですな。」
 トゥーリは立ち上がり
「充分な接待を受けた。帰る。」
と別れを告げた。
「お泊まりにならん? もう遅いです。」
「さほど遠くない。帰る。」
 ラザックの見送りを受けて、街へ向けて歩み出した。
 清かな月が上っていた。

 夜更けに屋敷に到着した。
 家族はもう寝間に入っているようだ。出迎えた宿直を去らせると、屋敷の中は静まり返った。
 寂しさが募った。ラザックのところに泊まればよかったと思っていると、母の部屋から灯りが漏れているのに気づいた。
 トゥーリは扉を控えめに小突いた。
「誰か?」
と応えがあった。
「母上、まだ起きていなさる?」
「今ほど床に入ったところだよ。」
「もうお休み?」
「いや。」
「入ってよろしいか?」
 少し戸惑うような間があった。
「構わん。少々待て。」
 中からごとごと音がした後、母が燭台を手に扉を開けた。
「入ってよし。」
 母の寝室に入ったことなど、彼には覚えがない。初めてではないかと思った。ぼんやりした灯りの中、周りを眺めると、想像もしていなかった優しげな調度に囲まれていた。
 花の柄の壁掛け。青い彩色のセリカの大きな壺。寝台の天蓋に、薔薇色の東方の織物が掛けられている。桃色の薔薇が活けられ、芳香を放っていた。
(何やら……母上にはそぐわない女っぽい部屋……)
 彼は照れくさくなった。
 壁際の、これまた女っぽい華奢なつくりの長椅子に、彼は腰を下した。
 母は寝台の端に座って、息子を訝しそうに眺めている。
「で、何?」
 彼女の言葉には、いつもと少しだけ異なった響きがあった。
「何といって……皆、眠ったようで。」
「何時だと思っている? 当主の帰りは寝ずに待てという主義か?」
「いえ。」
「ラザックのところに泊まるのだと思った。早い帰宅だな。」
「寄っただけです。食事をして帰って来ました。」
「そうか。」
 それからは、お互いに話すことが見つからなかった。
「……墓に参ったか?」
「はい……」
 二人ともに、リースルに対する思いがある。しんみりと黙り込んだ。

 ソラヤは、一向に話し始めない息子に焦れた。気まずくもある。
「帰ってからこの方、悪さもせずに真面目にしているようで何より。お前が外泊をせずに毎日屋敷で寝ていると、私はかえって落ち着かない。退屈でもある。どうした? 何故悪さをしないのだ? 具合が悪いのか?」
 始まったと思ったが、不思議なことに、トゥーリはさほど不愉快には思わなかった。
「面倒なんです。」
「面倒? ……お世辞のひとつも言わねば、どんな娘も言うことを聞かないだろうよ。」
 彼女はそう言って苦笑している。彼はやはり不愉快になった。
「そういうのじゃなくて! あなたは……」
「まあ、良い。あの縁談のことを気にしているのか? お前は本当のところ、気が進まない話だったのだろう? 私もそうだ。気に病むことではない。……そうそう。ウェンリルの兄から書状が来ていた。」
「ウェンリルさま? 何と?」
「お前に辱めを与える結果になって申し訳ないとか。自分が口利きしたゆえ、よろしく取り成ししてくれとか。」
「はあ……余計な心配です。」
「どうしたの? 奥歯でも痛むか? 何か用があったのではないのか? 早く申せ。」
「別段、用というほどではないのです。話し相手が欲しかったまでのこと。」
「おかしな子。だったら、お前ももっと話せ。そんな心細そうな顔、誰が教えた? 情けない。……墓参りして、寂しくなったか。泣いてきたか?」
 どこまでが冗談なのか本気なのか解り辛い。だが、褒められていないことは確かだ。
「うるさいな。口を挟む間もないですよ、母上のそのしゃべり。」
「まさか、ラザックのところでもその調子でいたのか?」
「普段通りしていましたよ!」
「どうだか……」
 彼女は不審そうにじろじろと彼を眺めた。

 薄暗がりに目が慣れ、トゥーリは横の壁に掛かった額絵に気づいた。鐙に片足を掛け、今まさに騎乗しようとする戦士の姿が描かれていた。女っぽい他の調度とは合っていない絵だった。
 彼は絵の前に立ち、じっくり眺めた。
 黒い髪。両脇だけ肩で切り揃えているが、長々と編んだ後ろの髪は鎧の帯に挟み込まれている。相当長い髪だ。大昔の戦士のような風体である。
 緑色の瞳が絵の中から、彼を睨みつけていた。
 彼は鏡を見ているような気分になった。似ているのだ。
 ミアイルの言っていた“絵の中の父さま”だと思った。
「父さま?」
「そうだ。お前のわけがないだろうが。」
「何でこんなところに……」
「朝一番に、殿さまの顔を見られる。一日の終わりに、殿さまに挨拶して横になれる。」
 なるほど、寝台から見れば正面に当たる。だが、母がしようとは思えないことだ。
「そんなことをなさるのか……」
 トゥーリは驚き感嘆しただけで、嗤ったわけではなかった。
「悪いか?」
 ソラヤの応えは、いつにも増して挑戦的だった。
 友好的に話をするには、彼が挑発に乗らないのが最上唯一の方法である。彼はよく弁えていた。
「これがミアイルの言っていた絵か……。ヘルヴィーグ伯父上が、私が父上によく似ていると、懐かしがっておられました。昔話をなさった。……父上、どういった方でした?」
「何故、そんなことを聞きたがるのだ?」
 彼は少し表情を曇らせたが、薄明りでは母に見られなくて済むだろうと、素直に述べた。
「私は父上のことをよく覚えていないし……。皆が父上に似ているとばかり言うので、どんなお人だったのかと思うのです。」
「何も似ておらん。父子ゆえ、多少の顔立ちの似ているところはある。だが、父さまの方が百倍は男前だ。」
 彼は小さく溜息をついた。
「……ええ、ええ。そうでしょう、そうでしょう。で?」
「立派な人だった。清廉で勇敢……おしゃべりなお前と違って、物静かでね。お前も父さまのようにならねばならん。今ひとつ、お前は肝の据わらんところがあるようだ。」
「はい、しっかり修行します。」
「珍しく素直だな。」
「いつも素直ですよ。……ところで、父さまは母さまのどこがよくて……いや、どういう経緯でお二人は結婚なさったの?」
「どこがだと? 私の美点は沢山あるではないか。何故、そんなことを訊く? 早く寝たらどうか?」
 細かな言い間違いを厳しく指摘するが、彼女は慌てた様子だった。
「聞かねば寝ません。ねえ、母さま教えてよ。」
「大きななりして、何が“ねえ、母さま”だ。子供か。」
「教えてくれるまで、ここにいるから。」
「はあ? さては、酔っておるな?」
「残念、酔ってなんかいない。話して。」
 強硬に拒まれ、部屋を追い出されるのかと案じたが、彼女はしばらく考え込む様子を見せ
「話してやってもいいが、最低限だけだぞ。」
と言った。
「かたじけない。」
 だが、彼女は話の端緒が掴めず、柄にもなくぐずぐずとし
「何か飲むものでも?」
と腰を浮かせた。
「要らない。ラザックのところで、アルヒを沢山飲まされた。」
「……酔っているのではないか! 道理で様子がおかしいと思ったわ。危ないから、酔ったら泊まってこい。」
「はい……」

 ソラヤはまだ躊躇っていた。
「何から話していいのか……。父さまのことで、どんなことを覚えている?」
「私は……父さまのことは、何も知らんと申し上げたでしょう? 覚えているのは、身体の大きな人だったこと。……鞍の上に乗せて、草原へ連れて行ってくださったこと。そして、臨終の床にお召しになって、大声で怒鳴られたこと。“アナトゥール、顔を上げよ! ”ってね。」
 彼女は小さく笑った。
「そんなこともあったな。」
「ほら、全然知らないでしょう? 父さまのことを知りたいのです。生い立ちからどうぞ。」
 彼女は溜息をついた。彼は、知らないのだろうかと思った。
 彼女は咳払いをし、重々しく始めた。
「生い立ち、その一。父さまはシークのご次男だ。」
「次男……?」
 末子相続の風習はない。彼は、父も先のシークの長男だと思い込んでいた。
「生い立ち、その二。父さまのご兄弟は兄君が一人、後は女性ばかりだった。」
「その兄君は?」
「生まれながらにお目がご不自由で、家督は継げなんだ。」
「その方……今は?」
「随分前に亡くなった。」
 彼女の話し方は、まるで歴史書の記述を読み上げているようだ。彼には不満で仕方がない。
「母上。私の希望しているのは、そのような事実のみの報告ではありません。もう少し何とかなりませんか?」
 だが、彼女はじろりと睨んだだけで、それには応えもせず同じように続けた。
「その方は最初の奥方の最初の子。父さまは末子だから、親子ほど年が離れていたと思われる。」
「そんな方がおいでとは知りませんでした。族譜にお名前がありません。父さまがご長子かと思っていました。お祖父さまはずいぶん遅い子持ちだとばかり……」
「族譜には載らない。ほんの幼い時に、家を出られたのだそうだ。」
「ご生母は?」
「ラディーンの王女。そう呼ばれておられる。」
 彼は、聞いたことがある言葉だと思った。よくよく思い出せば、それを題名とする求愛の歌があった。
「“ラディーンの王女”? 歌にある美女のようなという意味ですか?」
「逆だ。姑殿が先で、歌が後。それほどに、鄙には稀な美貌だった。“ラディーンの王女”と渾名がつき、歌が出来るほどにな。」
「その……父さまはご生母によく似ておられたとか。」
「知らん。私が嫁いだのは、彼女の死後だ。」
「“ラディーンの王女”とお祖父さまとの結びつきで、父さまが生まれたのですね。」
 彼女は渋い顔で黙り込んだ。
 簡単な質問だ。質問というよりは確認の問いでしかないのに、彼女は答えない。
 彼は訝しく思った。
「……いかがしたのです?」
 彼女は唸り声を漏らし、ようやく
「それはそうなのだが……」
と言った。
「何かあるのですか?」
 その問いに答えるのは、ソラヤには辛いことだった。都の倫理のうちで育った彼女には、未だ理解ができず、厭わしいとさえ思えることが含まれているのだ。
 出来れば、我が息子には教えたくない。幸い、息子は何も知らされていないようだから、これからも耳に入らないかもしれないと思った。
 だが、何かあるように彼女自身が答えた後だ。息子は勘づいている。拙いことになったと思った。
 彼女はようよう考えて、他から息子の耳に入るよりは自分が明かそうと決めた。
「……ラディーンの王女が側へ上がったのは、ローラント殿の祖父君のところだ。ラディーンのヤールと彼女の父親が諮って差し上げた。小娘一人に、可惜立派な戦士がいがみ合うのを嫌ったのだ。老人と孫娘のような夫婦だが、シークの夫人になってしまったからには、草原の者は文句が言えない。ようやく治まりがついたわけだ。」
「なるほど……」
「やがて、老いたシークは亡くなり、息子殿が家督を継いだ。その折、亡父の夫人の中から“ラディーンの王女”を望んで妻にした。」
 彼女は辛い話を終えてこっそり溜息をつき、息子を窺った。
 彼女が案じたほどではないが、トゥーリも些かの衝撃を受けていた。
 多妻の草原では稀に、生母ではない亡父の妻を、息子が受け継ぐことがあった。生産性を重視した大昔の風習の名残りで、今も認められている。
 彼も知ってはいるし、実際にそうだという男女を見たこともあった。己に近い者にいようとは想像もしていなかったが、厭わしいとまでは思わなかった。
 ただ、望んだ男はともかく、“相続”された女の気持ちがどうなのかは疑問だった。
「そうですか……“ラディーンの王女”は、どんな気持ちだったのだろう……?」
「姑殿は……どうかな……わからん。大事にされていたのだろう。舅殿が姑殿に揃えた調度は見事な物だ。そのセリカの壺、姑殿の持ち物だった。彼の地の皇帝の所有する窯で作られた逸品だ。簡単には手に入らん。」
 彼女の指す壺を眺め、彼もその価値を認めた。だが、それを直ちに愛情の証左とはできなかった。
「ええ……美しい物です。高価なのでしょう。」
 それを聞いて、彼女は薄く笑った。皮肉な笑みにも見えた。彼女とて、取って付けたような根拠だと思っていたのだ。
「……だが、ローラント殿だけを相手に閉じこもっていたようだから、何か思うところはあったのかもしれん。」
「閉じこもって?」
「ああ。ローラント殿は、いつまでも少女のような母だったと仰っていた。耳が聞こえないから、外出は不安だったのかもしれんな。」
「え? 耳がご不自由であったのですか? なら、父さまはどうやって相手を?」
「申さなんだか? ……話さずとも、ローラント殿は母君の言いたいことが解ったそうだ。だからかな? 異様に口の重かったのは……」
「“ラディーンの王女”はその後どうなったの?」
「ご夫君に殉死なさった。」
「自分を譲り受けた方に?」
「ああ。やはり深い愛情が芽生えていたのかもしれんな。」
「それから?」
「ローラント殿は父君の跡を継いで、シークになられた。以上。」
「以上って……。その後が重要なんじゃないか。核心に近づいておいて終わりは無しです。父さまと母さまのことは?」
「父さまは家督を継いで、都にやって来た。私と知り合った。結婚した。以上。」
 ソラヤはそう吐き捨てるように言った。明らかに、無理に話を終わらせようとしている。
 彼は負けず嫌いのソラヤがどうすれば話すのか、よく知っている。
「また……。ああ、照れくさいんですね! そうだろう、そうだろう。母さまにも照れくさいことぐらいありますよね。それがこれか。なるほど。」
 そう言って、含み笑いを漏らしてみせた。案の定、乗ってきた。

「話せるわ!」
「で、父さまが都に来て?」
「父さまは……先にも申した通り、お前の百倍は男前だ。都の姫君は大騒ぎした。私は、また浮かれた若いのが一人増えたと苦々しく思ったが、別に関わりのないことだからな。気にもならん。」
「そうでしょうね。」
 照れくさそうなのと、想像通りのことを言うのに、トゥーリは失笑を堪えきれない。
「何が可笑しい? 真面目に聞かんのなら、もう話してやらん。」
 むくれる母がまた可笑しいのだが、彼は堪え
「可笑しくないです。どうぞ、続きをお話あれ。真面目に聞いております。最後までお話しいただけないうちは、私はここから退きません。」
と促した。

 ソラヤはトゥーリをじろりと睨み、話を続けた。
「そんなで、名前をよく聞くようになったと思った矢先、たまたま父さまを見た。若い姫君に囲まれていた。その中には私の後をついて回っていた姫君もいて……誤解するな。別にそういう趣味はない。」
「どんな趣味? 何も言っていないでしょう?」
「お前が相手では、言葉に細心の注意が要る。まあ……不愉快だった。」
 彼女の言葉は強気だが、口調に迷いがある。彼は面白がり茶化した。
「母さまは、父さまと姫君の関心を争う敵同士であったということですね?」
 彼女は向きになり、言い返した。
「頭がおかしいのか? 違うわ! 私は女子の間を泳ぎ回っているような伊達男は嫌いなのだ。女のような美しい顔をして、上手に歌ったり踊ったり。全く草原の田舎でどうして覚えたのやら……」
 彼女の言葉の最後が独白になりかけた。寸でのところで気づき、彼女は偉そうな口調で語った。
「まあ、舞踏というのは武芸に通ずるところもある。そんなわけで、私の嫌うところの華やかな公達ぶりであった。」
「お嫌いだったのですか?」
「まあな。……見かけや包装は二の次、三の次。格好ばかり気にする伊達者、私に負けるような軟弱者は、男とは言わんのだ。これは、お前のことでもあるぞ。」
「失礼な。今なら母さまに勝ちますよ。」
「どうだか……。お前を見ていると、打ち落とされて、泣きべそをかいていたところばかり思い出す。」
「歳を取ると、昔のことばかり思い出すと言いますね。」
「黙れ。もう話してやらん。」
「前言撤回します。続きお聞かせあれ。」

 ソラヤは疑わしそうにトゥーリを眺めたが、先を語った。
「……そんな風で、父さまは目立ち過ぎたのだよ。ある日、くだらん決闘騒ぎになった。色恋のいざこざだ。逆恨みした男の言いがかりなど取り合わなくとも、誰も非難しなかっただろう。だが、ローラント殿は黙って受けた。」
「なんで?」
「“俺の行いの結果だ”と仰った。誠に清廉な方……」
 母は感心してたが、トゥーリは気障ったらしいことを言うものだと嗤った。
「かっこいいですなあ。」
「茶化すともう話してやらん。お前には出来ん真似ゆえ、茶化したくなる気持ちも解るが控えておけ。ローラント殿は常にご立派だった。」
 母は自慢気だ。彼は殊更浮ついた風に言ってみたくなった。
「ええ。その姫君と何かあっても、何もないと言い張りますよ。例え現場を抑えられても、介抱していただけと言い張るでしょう。」
「酔っ払いめ! 淫らがましいこと申すな。まったく、お前は誰に似たことやら……」
「鬼っ子なのです。お気になさらずに。それから?」
「ローラント殿は三合と打たせず落とした。首を斬ろうともした。」
「馬場の勝負でしょう?」
「ああ。皆で止めたよ。」
「怖いお人ですなあ。」
「お前のような軟弱者はそう思うのだろうな。……大変な手練れであった。実際の働きぶりからも武勇のほどが知れる。ローラント殿は少年のころから、草原でさんざん場数を踏んできたのだろう。都の若君とは、腕前も心根も雲泥の差というもの。」
 彼もそれは納得できた。都の若い貴族たちは、例え武門の者であっても、草原の戦士のような殺気丸出しの勝負はしない。父は都の空気を知らず、本気で闘ったのだろうと思った。
「母さまはわざわざ決闘の場にお出ましになって、ご覧になったの?」
「そうだよ。シークだという若い伊達男が、無様に這いつくばる様を見てやろうと思ったのだ。さぞかし痛快であろうと……。そのあては外れたけれど、思いがけず見事なものを見た。」
「それで、父さまの勇姿に恋してしまったと。」
 そう言って、笑いながら母の表情を窺うと、彼女は慌てて言い繕った。
「お前と違って、私はそんなに惚れっぽくないぞ。大体言い寄って来たのはローラント殿の方……いやいや、何でもない。」
「耳に刻まれてしまったよ。もう遅いです。でも、どうして母さまに?」
「知らん。」
「知らんって……何か思い当たることはないの? 全部話す約束でしょう?」
「そんな約束はしておらんぞ! ……強いて言えば、私が美形であったゆえだな……今も容色は衰えていないが。……私の色香に迷ってしまったのかもしれんなあ。罪作りだな、私も。」
 彼女は笑いもせずに、真面目な顔で言った。
 彼は失笑した。
「正気で仰っている?」
「勿論……都に行って年寄りに訊いてみろ。皆、私を褒め称えるぞ。“ソラヤさまは凛々しく麗しい。まるで大神のワルキューレだ”と。そこを過去形で申す奴がおったら、私に教えろよ?」
「腹の皮がよじれるわ。都の年寄り全員の名前を報告しなければ……。さぞかし大量の紙が要ることでしょうね! ……確認ですが、“年寄り”だけでいいのですね? “年寄り”だけで?」
 大笑いしている彼を、彼女は睨みつけた。
 最後まで聞きたい彼は、どうにか笑いを抑え込んだ。
「失礼……。その麗しき公女の色香に迷ってしまったシークはどうしたのですか?」
「嫌味か? ……言い寄って来た。私は身持ちが固いから、そう簡単には色よい素振りも見せなんだが……しつこくて……。いや、熱心で。多少、印象が好転していたとはいえ、煩わしかったよ。でも諦めないから……」
「情に絆されてしまったとか?」
 彼女は怒ったような顔で
「まあ……いいかなと思ったまでだ!」
と吐き捨てるように言って、そっぽを向いた。
「どういいの?」
「どうって……誤解するな。立場にあるまじきことはしておらん。父さまは、その点はしっかりしておる。放蕩息子のお前とは違う。いったい誰に似たことやら、お前は……」
「俺はそんなに乱れていません。今日も帰って来たでしょう?」
「いつまで辛抱できることやら。」
「で?」
「で? 何が“で? ”なのだ?」
「父さまはどうしたの? 母さまは?」
「私はまあ……世間一般で言えば適齢期であったし、父さまも遅いくらいだったし。結婚する話になり、華燭の典に至る。終了。」
 彼女の結婚した年齢を、彼は当然知っている。何が適齢期だと可笑しかったが、黙っていた。

 トゥーリには尋ね難いが、聞きたいことがあった。迷ったが、今晩こそが母を語らせられるのだと意を決して尋ねた。
「その前に、ひと悶着あったでしょう? その……或る女性のことで。」
 ソラヤは目を逸らし、渋い顔で答えた。
「……ギネウィスか。まあ、当然お前の耳にも入るんだろうね。都の者はそういう話が大好きだからな。卑しい奴らだ。」
「父さまが……ウェンリルさまの姫君を捨てたとか……」
「そうではない。ギネウィスは……若過ぎた。相手の心を計れなかったのだろうよ。父さまは、彼女のことをそういう目で見たことはないのだ。……元気にしているのならいいのだが……。あれ以来、絶交状態なのだ……」
 彼女はそう言って溜息をついた。
 母は辛そうでもあり哀しそうでもある。
 彼には母に後ろめたいことがあるとは思えなかった。
 ギネウィスに聞かされた話が全部嘘だったのかと考えたが、そうとも言い切れない。
 二人の話はどちらも、己にとっての真実なのだ。一方から見れば、他方は嘘になる。そういった種類の話なのだ。
 彼は後悔した。尋ねる意味など最初からなかったのだ。
「そう……」
「終了。」
「結婚してからは?」
「草原に下って、すぐお前ができた。お前が生まれたときは都でお勤めなさっていたが、帰って来てくださったよ。最初の子が男の子で、とてもお喜びでいらした。あんなに早く帰って来てくれて……」
 彼女の表情は柔らかくなっていた。思い出に引き込まれているのだ。
 彼の見たことのない顔だった。感慨深くなり呟いた。
「お幸せだったのですね……」
 すると、彼女ははっと我に返り、また憎まれ口を言った。
「そうだよ。悪いか? ……お前は……春を待って生まれればいいのに、冬の真っ盛りに生まれた。」
「それは……冬場に生まれるようにしたのは父さまでしょう?」
「大変だったんだから! 大きくて丸々肥えて。丸一日苦しんだよ。気絶するかと思った。お前だけだよ、なかなか生まれなかったのは。お前は屋敷中の女に、竈門さんの前で歌い踊らせた。」
「母さまがよく食べるから丸々肥えたのです。……俺の所為かよ?」
「赤子が宿ると口が卑しくなるのだ。お前の所為だよ。」
 彼女は涼しい顔でそう言った。
 彼はそれについて反論することを控えた。疲れるだけである。
「なら、そういうことでいいですよ。……父さまはどうして、俺にアナトゥールなんて名前をつけたの?」
「安心しろ。“金髪のアナトゥール”とは、全く関係がない。日の出の時刻に生まれたから、それだけの話。それを、お前は……左利きとはね! 皆、怖れるわ怖がるわ……。草原の者は迷信など信じないと聞いていたが、そうでもないのだな。」
 彼女なりの乱暴な慰めであった。
 彼は慰めにもなっていないと苛立った。聞き流しておけと自分に言い聞かせたが、無理だった。
「利き手のことも、俺の所為ではないのですが?」
 彼の声色の微かな揺れにも気づかず、彼女は苦笑した。
「直らなかったのだから、お前の所為だ。……お前は名前負けしておるな。」
「さようですか……。でも、左利きは直して欲しかった。本当に……」
 その言葉の最後は震えていた。彼女は、息子の様子が変わったのに気づき、利き手の矯正を強いなかった理由を述べた。
「父さまは“左利きのアナトゥールだ”などと、喜んでいるようだった。私は、左利きは器用だと聞いていたから、無理に治すこともないと思った。」

 父も母も軽く考え過ぎだと、トゥーリは激昂した。我慢が出来なかった。
「都では……都では、左手は悪魔の宿る手、悪い知らせを運ぶ手、不吉だと言われた。宮廷で食事をすると皆、俺の手元を見ては眉を顰めて。……厭わしいともはっきり言われた。小さい頃は解らなくて……。皆の様子を見て、右手で食事をしようとしたが出来なかった。恥ずかしかった。」
 利き手のことで、息子がどんな目に遭っていたのかを聞いたのは、ソラヤには初めてのことだった。
 これだけ嘆く息子を見たのも、思えば初めてのことだ。ちくんと胸が痛んだ。
「……気にするな。名前のことがあるから、最初は驚かれるだろうが……意図しておらん。関連はない。」
 彼は彼女をじろりと睨み、低く呟いた。
「草原では……左利きを治さないで、そのままでいる者もいる。右腕を失って、左手で生活する者もいる。だけど……」
 彼はその後の言葉を吞み込んだ。
 都や宮廷での嘲りは、母に具体的に聞かせられる話ではなかった。

“左利きのアナトゥール。左手に剣を握って死ぬんだな。”
“左利きのアナトゥール。我々の為に大手柄を立てて、潔く散るがよい。壮麗なる弔いをしてやる。”
“左利きのアナトゥール。名に恥じぬ働きを見せよ。”

 何度そう囃し立てられても、彼は堪えてきた。
(母上には解らないのだ。母上には!)
 彼は悔し涙を耐え、目の前の床を睨み続けた。

 言葉の先をソラヤは待っていたが、一向に話さないので諦めて尋ねた。
「まだ話を聞くか? もう良いか?」
「どうぞ、全部お話しください……」
 彼女はほっと息をつき
「塩辛い顔だな。性根は変わらんというけれど、お前は赤ん坊の時からそうだった。夜泣きも抱き癖も酷かった。老ヤールに渡そうものなら、殺されるとでもいうかのような泣きっぷりだった。あの頃から、お前は女に抱かれていれば大人しかった。」
と言って笑いかけた。赤ん坊の頃の笑い話のつもりだったが、トゥーリには通用しない。
「じいやは赤ん坊を抱くのが、下手だったのでしょうよ。」
 彼はそう言い捨てたが、彼女は懐かしそうに、まだその話を続けた。
「よく泣く赤子であったよ。父さまが耳に穴をあけた時も格別であった。一日中泣いた。その後しばらくは、父さまを見るだけでひきつけを起こした。」
 彼女は失笑していたが、トゥーリはますます不愉快になった。
「疳の虫の強い赤子は賢いという。」
「例外も当然いる。」
「俺は例外か?」
「賢いと思っているのか?」
「人並みにはなっていると思うけど?」
「悪さは人並み以上だね。」
「だから、そんなにしていませんって!」
「程々にせよ。妻女もおらぬうちから、外に子供を作るな。」
「女はいいけど、子供はだめってこと?」
「最悪の事態における選択だよ!」
 言い合っているうちに、いつもの調子に戻ったと二人とも思っていた。
 しかし、それを言って聞いて、二人とも気づくことがあり、黙り込んだ。
「……母上は、去年は赤子を望んでおりました。」
「……考えを変えたのだ。もう遅い。自分の寝間に。」
「はい……」
 そう言いながらも腰を上げない彼に
「何? もう父さまの話は他には無い。」
と彼女が言った。
 妙に優しい口調だった。

「え?」
「無いのだ……。」
 探った母の表情は苦し気だった。
 トゥーリは、母には語って余りある思い出が無いのだと悟った。彼女はそれを思い知るたびに、哀しくなっていたのだろうと思った。
「充分伺いました。満足です。」
「ラザックのところに泊まれば良かったのに。風邪を引く。自分の部屋で休め。」
「ええ。」
 だが、彼は立ち上がりもしない。
 彼女は心配になり
「どうした?」
と腰を浮かせた。
「母さまの部屋にいたい。」
 ぽつりとした小さな声だった。
 彼女にも、心細そうに聞こえたが、咄嗟に出たのはいつもの調子だった。
「気色悪いわ!」
「そうですね……そうでしょう。そうでしょうよ! 母さまはあの時、嘘をついてまでラザックシュタールにお帰りになった。俺を置いたまま。母さまはいつも、俺にだけは厳しくて……弟たちに見せるような顔は、終ぞ俺には見せてくださらなかった。同じ腹から生まれたのに……! 金色の髪ではないからですか? 青い瞳ではないからですか? 俺がそうだったら、もっと俺を愛してくださったのか?」
 彼女はぎくりとして、言葉を継げなかった。
「つまらん妄想を申すな。」
 辛うじてそれだけ言えた。
 彼は顔を歪めた。言わないでおきたいと思ったが、もう抑えられなかった。
「妄想などではない! 母さまは一度でも、俺に優しい言葉をかけてくださったことがあるか!」
 彼女はぎゅっと拳を握った。怒鳴り声に怯んだわけではなかった。
「悪酔いしておるぞ……」
 精一杯気を落ち着け、低く窘めた。
「もういい……寝る。」
 トゥーリは長椅子に横になり、目を閉じた。
 好きにすればいいとソラヤも寝台に横たわったが、胸に刺さったままの彼の言葉が痛かった。
(気持ちの優しい子だった。ローラントの面影をこの子だけが宿して……私は殊更に辛く当たった。アーマが泣いても、この子が凍りついた目をするようになっても、私は毎日馬場で打ち据えた……)
 泣いてはいけないと思った。それは後悔していると認めることだった。
 何より、彼と彼女の今までを否定することだと思った。

 物音も無くなった。
 ソラヤは静かに寝台から下り、眠っているトゥーリに毛布を掛けた。
 その拍子に起きたのか、寝ているふりだったのか、彼は目を開けて、自分に屈みこむ彼女を見つめた。
「ありがとう……」
「え?」
「毛布。」
「身体が冷たい。夜はまだ寒いのだから、夜半に帰るのはよくないぞ。夜露は身体に悪い風を入れる。」
 それだけ言い、彼女は再び寝台に上った。
 渡された毛布の襟元には、あまり上手くない小さな花が刺繍されていた。完成したものではないのか、中途半端に施されていた。
 かすかに母の香りがした。切なく苦しい香りだった。

 寝床のソラヤの背中は、妙に細く小さく見えた。
「母さま……父さまが亡くなって久しいですが、寂しくはないのですか? ずっとお一人で……」
 眠ってしまったのだろうかと思うくらいの間があった。
「寂しいなど……。ローラントに勝る優れた者などいない。私のことを愛していると本気で言った男も、ローラントしかいない。それで十分。」
 細い声だった。それがソラヤの一番飾らない思いだった。
 トゥーリは言葉もなく、静かに退出した。
 “ローラント殿”でもなく“殿さま”でもなく、“父さま”でもない。ローラントと呼んだことに、彼は不思議な安堵を感じていた。

 単純で解りやすい。飾らない。愛とは本来そういう気持ち。湧き溢れる想い。
 何の勝負でもないが、トゥーリは負けたと感じた。

 自分を捕えて離さないもの。
 囚われることが喜びとなるもの。
 尽くしても尽くしても、苦労など微塵も感じない。それどころか、悦びでさえあるもの。
 たちどころに屈伏させてしまうのに、悦びをもたらすもの。
 トゥーリには、それが全てアデレードに通じていた。雁字搦めになりたい、どうかそうして欲しいと熱望した。
 強いアルヒに酔っているのか、熱情に酔っているのか、指環の石がアデレードの青い瞳そのものに思えた。口づけせずにはいられなかった。
 そこに塗りこめられたい、もう塗りこめられていると思った。



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