7

 その晩、かなり更けた時間に、ヴィクトアールはトゥーリを訪ねた。
 いつも男のようななりをして、ふらりと訪ねてくる陽気なテュールセンの姫に、彼の屋敷の者はもう慣れっこになっていた。
 彼女は遠慮なく彼の居間の扉を開けて入ってきた。
 彼は長椅子から立ち上がりもせず、気だるそうに尋ねた。
「おや、ヴィクトアール。こんな夜更けにお越しとは? 忙しいんじゃないのか?」
 彼女は大口を開けて笑った。
「忙しかったら、あんたみたいな売約済みに、わざわざ会いに来たりはしないわよ。」
 彼は肩を竦めた。
「売約済み? ひどいこと言うね。まだ売れていないよ。」
 彼女は彼の表情を探り、拗ねたような顔を作って
「……あの小娘と婚約式をなさるんでしょう?」
とひっそりと言った。
 彼は笑い出した。
「気に入らない顔……そんなことが不満なのか?」
「別に。」
 彼女はふくれ面をして見せた。
 彼は立ち上がり、彼女に歩み寄った。
「婚約しようが結婚しようが、ヴィクトアールとの楽しい友情は、末永く保ちたいね。」
「都合のいい人!」
「あんただって、その方が楽しいだろう?」
 彼はにっと笑った。彼女は作り顔を止め笑い返した。
「まあね! 正直言うと、同い年のトゥーリが売れるんだから、私もそろそろ大人しく……なんて思ったけど。あんたがそう言うなら、もうちょっと楽しんでおくわ。」
「あんたが大人しくなったら、世の男どもが嘆くというもの。そういうわけで今後ともよろしく。」
 二人は、婚約する直前とは思えない不道徳な会話を交わして、笑い合った。

 トゥーリは向き合って立つヴィクトアールの顎を撫でた。彼女は彼の手を避けた。
「何故かわすの?」
 彼女はくすくす笑った。
「あの小娘とずいぶん仲良くなさっているとか。」
「そこそこな。しっかり誑し込みにかかっているよ。」
「やっぱり……兄貴の言った通り……」
「清らかな仲だよ?」
「嘘。兄貴が様子が怪しかったって。」
 彼女は彼の瞳を覗き込んだ。彼は半歩距離を詰め、彼女を見つめて
「リュイスと俺と、どちらの言うことを信じる?」
と尋ねた。
「どちらも信用ならんわ! 面だけ最低男!」
 彼女は彼の胸を押し返し、きゅっと睨んだ。彼は怒るでもなく、にっと笑った。
「酷いことを言うね! 面だけの最低男と、二目と見られない修道僧のような男と、どっちがいい?」
「修道僧……を誑かすのがいい。」
「地獄に堕ちるといいよ。」
「あんたも地獄の仲間でしょ。ずっとよろしく。」
 二人は毒を含んだ楽しい会話を堪能した。
「で?」
 彼女は彼の胸を押し返し、きゅっと睨んだ。
「酷いことを言うね!」
「あんたの言うことを信じておくわ。」
「正しい選択ですな。」
 彼女は皮肉な笑みを浮かべた。
「やっぱり信じられないわ。あんたは嘘つきだもの。」
 彼は苦笑した。それを知っているのは、ヴィクトアールとアデレードとニコール。ニコールだけ反応が違う。
 それだけニコールには酷い扱いをしているということだと改めて思うも、もう取り繕うのは無理だ。するつもりもない。
 僅かな物思いだったが、彼の表情は微かに揺れ、視線は遠くに流れた。
 ヴィクトアールは、トゥーリの様子をじっと見つめた。

「何だよ?」
「小娘に何かしたんでしょ? 浮気者ね。」
「つまらんことを……だったら、あんたのあの男は何?」
 少し前の話だ。ヴィクトアールの寝室に入ったら、突然誰かに斬りつけられ応戦したのだ。
「あれは……あんたが遊びに来ないから、間に合わせよ。」
 ヴィクトアールは含み笑いを漏らした。
 トゥーリは鼻を鳴らし、不愉快そうに顔を顰めた。
「間に合わせの男に殺されかかったというわけか。得体の知れない男を引きずり込むのは感心しないな。俺にもとばっちりが来るというもの。結婚するのにさ。」
 彼女が何と返すか、彼には分っていた。彼女は奔放ではあるが、手を出す男の選別はしっかりしているのを知っている。
 彼女は笑いながら、彼の頬を軽く抓った。
「意地悪ね。結婚するのにだなんて。あの男は得体の知れた男よ? ちゃんとした家柄。」
「一太刀入ったと思ったが……暗くて、よく判らなかった。俺の知っている奴か?」
「よく知っている人よ。彼はあんただと判っているよ。」
「まだそいつと繋がっているの? ……まあ、その男は黙っていてくれているわけだ。恥ずかしい行状が知れて、名を穢さずにすんだ。お互いによかったってことだな。」
 彼は些細な事件の話は終わりだと思ったが、彼女はにやりと笑い、その話を続けた。
「その男がさ……」
「うん?」
「鉢合わせしたときのことを……」
「根に持っているの? 気の短いお人のようだったから、怖いね。」
「ちっとも怖がっていないくせに。」
「いやいや。夜道には気を付けないとって思っているよ。」
 彼女は大笑いした。
「存分に夜中じゅう歩き回ったらいいわよ! あの時の男は、兄さまなんだから。」
 彼は思わず尋ねた。
「ええっ? 兄さまってどっち?」
「下の方。」
 そう言って彼女は、忍び笑いを漏らした。
 その笑い方が、彼には怪しく思われた。やりかねないという気持ちが挿してきた。
「リュイス……お前ら、兄妹で何しているんだよ!」
「あら、変かしら?」
 彼女は否定もせず、あっけらかんと答える。
 彼は慌て出し、声を顰めた。
「変も何も……リュイスもリュイスだよ。よりにもよって妹に手を出すなどと……リュイスは止めておけ。」
 彼女は目を丸くし
「上の兄さまならいいの?」
と尋ねた。
 彼は厳しい顔で、彼女を諭した。
「もっと悪いわ! レーヴェはカミさんがおる。近親相姦の上に不倫か?」
 すると、彼女は腹を抱えて笑い出した。そして、笑い咽び
「トゥーリ……トゥーリ! あんた、本当に面白いね! 本当にケッサク。大真面目に!」
と大声を出した。
 彼はむっとして言い返した。
「あんたの方がおかしいわ! 俺とは桁違いにおかしいぞ。」
「誤解しているわ。兄と妹は、寝間で話していてはいけないの?」
「真っ暗にして話すことって何だ? 肉体の会話か?」
「肉体の会話!」
 彼女は身をよじって笑っている。彼は言葉もなく、苦々しく眺めた。
「上手い言葉! あんたの修辞の先生、優秀かも!」
「お前は馬鹿というやつか?」
「まあまあ……あんたが来るまで、灯りは点いていたわ。場所は寝台の上だったけど、服も着ていた。あんたの期待していたことはしていない。するわけないでしょ? 世間話していただけよ。そこへあんたが思いがけず来たから。」
 彼は揶揄われたのだと知り、悔し紛れに
「これからは先ぶれしてから行くよ。」
と返した。
「いいわよ、そんなの。要らない。つまんないじゃない。……それで、兄貴は面白がって“トゥーリの奴を驚かせてやろう”と言って、灯りを消したの。で、私の恋人のふりをした。」
 はめられたのも、勝手な想像をさせられたのも悔しいが、見事に騙された。降参である。彼は長椅子に座り込んだ。
「……ご期待通り驚いたよ。入ってくるなり斬りつけるんだから。」
「あんただって斬りつけたじゃない? いい腕前。兄貴が褒めていたよ。胸に切り傷が入った。浅かったけど。」
「そりゃあ、悪さの罰だな。」
「兄貴は“どの面下げて去ったか、見たかった”とけたけた笑っていたわ。」
 彼女の愉快そうな様子に、リュイスが重なった。いつかの夜会で嬉しそうに披露したわけが解った。
「兄妹揃って悪魔の手先だな。ご想像通り必死で逃げたが、何か? 見せられんわ。見られなくて残念だったね! こんな行状が上にばれたらどうなることか……長年に渡って築き上げた私の虚像というものがだね、完全に崩壊するってものだよ。なにせ“行儀のよい貴公子”で通っているらしいから。おまけに今は“ニコール姫の忠実なる求婚者”に成り果てていますわ。もうすぐ求婚者から許婚者。目出度いね!」
「何が“行儀のよい貴公子”よ! そのナントカ姫の忠実なる求婚者さんが、さっき私に何をしようと思ったの? お腹の皮がよじれそう。」
 彼女は身を折って笑っている。彼は渋い顔で眺めた。
「ニコール姫だよ。ニコール姫の忠実なる求婚者さんは、悪魔の手先のヴィクトアールの誘惑に負けて悪徳を……止めておく。」
「止めるの? 臆病ね。」
 彼は再び立ち上がり、早足で彼女の胸の前まで歩んだ。
「……あの晩の話を聞いたからには……お仕置きだよ。ほら! ひん剥くぞ!」
 彼は彼女を荒っぽく抱き寄せると、上着の襟を掴んだ。
「何をなさるの? わくわくしちゃう。」
 彼女の瞳はきらきらしていた。
 彼は笑い
「お約束の監獄ごっこじゃないか。拷問ごっこだったか? 拷問ごっこって、どうやればいいんだ?」
と言った。彼女も
「私も知らないわ。」
と笑った。
「何だ、知らんのか。じゃあ、看守と女囚ごっこにする?」
「まあ、素敵! する、する。」
「じゃあ、女囚は看守の言うことを何でもするんだよ?」
「ええ。何か命令して。」
「着ているものを全部脱げ。」
「どうして?」
「答える義務はない……これ、俺が監獄で獄吏に言われた言葉だよ。」
「うひゃあ、本当っぽいわ! ……ちょっと何なさるの? およしになってえ。」
 彼女は、上着を脱がそうとする彼の手を抑えた。
「黙れ。大人しくするのだ。」
 彼は上着に手を掛けたまま、ふと考え込んだ。彼女は手を抑えたまま、期待しながら次の行動を待った。
 彼は内心、笑いを堪えていた。
「……ヴィクトアール、ちょっといいかね?」
「何?」
「監獄って、そういう感じではなかったぞ。」
「そうなんだ?」
「我々のしているのはどうも……お殿さまと女中ごっこではないか?」
 彼は眉根を寄せ、困った顔を作ってみせた。彼女は苦笑した。
「そうかも! 不満? 当たり前過ぎてつまらん? ラザックシュタールの殿さまは屋敷で散々しているから、つまんない?」
「こういうのは、もっと歳をとった人がすることではないのか? 女中なんか襲わんでもなあ……」
「ま、年寄りっぽい趣味ではあるわね。」
 二人とも、笑い転げた。

 二人は身を離し、ヴィクトアールは上着を直した。そして、卓を挟んで座った。
「例の姫と人形遊びばかりしていたから、ごっこ遊びは食傷気味。」
「人形遊びか……アデレードさまとしょっちゅうしていたね。得意じゃないの?」
 彼女はにやにやしていた。子供の頃の話を揶揄われ、彼は舌打ちした。
「この歳になった男が、人形抱いて何が楽しい? おまけに、妹のマティルドまで、この間までついてきていた。……それにしても、二人とも勇ましい名前。」
「勇ましい?」
「ニコールというのは、ヘレネスの勝利の神の名前だよ。」
「ああ、私と同じ意味か。マティルドは?」
「あれは、女の戦士という意味らしい。」
「その勝利の女神と女戦士相手に、人形遊びで勝負なさっているのね。」
 彼女はまた大笑いした。
 彼は彼女の様子を愉快そうに眺め、皮肉な応えを返した。
「非常に有意義な勝負ですよ? そして、非常につまらん勝負ですわ。」
「人形の持ち主を抱いたら?」
「乳臭くて、全くその気にならん。」
「そのねんねが、来年にはあんたの奥方よ?」
「そうだね。恐ろしい。もう十日もしたら、正式に売約済みになってしまうし。今期は地味な暮らしぶりだったのに、来期はこともあろうか、あのねんねと永遠の愛などというものをだね、誓ってしまうのだよ。厭しさに気が狂いそう。俺の都の美しいご婦人たちとも、もうお別れなのだね。」
 彼はしんみりした風を装ったが、すっかり見透かされて
「浮気するくせに。」
と笑われた。
「舅の目が光っている。舅だってさ! 宮宰を義父と呼ばねばならんとはね!」
「ご立派な義父君でよろしいこと。つまみ食いは草原ですることね。」
「草原では、ばばあの目が光っておる。」
「気にすることないんじゃない?」
「お袋はその点は固いんだよ。後家になってこの方、浮いた話のひとつもない。女盛りで旦那に死なれたというのに、寂しくないのかねえ。親父によっぽど惚れていたのか……」
 思わず漏らした彼の本音の疑問に、彼女は真面目に答えた。
「短くても、内容が濃い結婚生活だったのよ。あんたのお父さまだって、奥さん一人を守って固かったって聞いたわよ。」
 美しく想像されることの辛さを、彼は自らの身で理解し始めていた。疎ましい気持ちがある父だが、その点では同情を感じた。
「そうでもない。勝手な偶像化をしてはならん。」
「えっ! 何? 何かあるの? 教えて。」
「そんなにギラギラして……醜聞好きなの? まあいいや。醜聞でもない。十何年も前の話。時効だよ。ただし言いふらすなよ。」
「言わない、言わない。特に父さまには絶対言わない。」
「……俺がまだ小さい時、親父とラザックのところへ行ってさ。泊まったんだけど。俺は乳兄弟と一緒に寝て、親父は親父の天幕で寝ていたんだよ。夜中に目が覚めて、子供だったから……何だ、その……寂しくなってしまったんだろうね、親父の幕屋へ行ったんだ。」
「うん、うん。」
「そしたら中に誰かいるみたいでさ。」
「うひゃあ、女ね!」
 彼女は先を読んで喜んでいる。いつもなら、彼にはうんざりするところだったが、不思議と楽しかった。
「待て待て……話には順序というものがある。……外から“父さま、一緒に寝て”って具合に声をかけたら、“そこで待て”って言うんだよ。で、待っていたんだけど寒いし。春先だったのかなあ。秋かもしれん。まあ、夜冷える頃だな……。“早く、まだ? ”って聞いたら、親父は“アナトゥール、もう少しゆえ待て”って。」
「もう少しって? もう少しって?」
「……もう少しだったんだろうが。」
「鼻血が出そう……」
 彼女は身悶えしていた。彼は苦笑し続けた。
「それで入っていいと言われて入ったら、女がいて、布団に入れてくれた。親父は“暑い”とか言って、がばがば水を飲んでいた。」
「もろ現場!」
「そうだな。くしゃくしゃの髪で裸でさ。天幕は冷えるから裸で寝るのだが、この寒いのに、親父は何故そんな暑がっているのかと……」
「そんなところへ息子を招き入れる?」
「堂々としたもんだったけどな。悪びれた感じもなく、俺の横に入って。俺は、親父と女に挟まれる形で寝た。ま、いい親父ですわ。」
「へえ! カッコいい! 浮気……ではないね、内緒でもないか。他所の女とのことも、それだけ堂々とやるとなると、感服以外の何ものでないわ!」
 彼の意図に反して、色好みの彼女は父の大胆な行為を好ましく思い、敬意すら感じている。だが、苦々しい思いはなかった。少なくとも、父を冷たい偶像ではなく、人間だと感じただろうと思った。
「親父もしっかり生身の男だったということだ。生きていたら、俺のいい弁護人になってくれただろうにね。何で死んでしまったの? 親父の奥さん、俺の手に余るよ。」
「意外な話……。ローラントさまは清廉で勇敢で、まさに“テュールの猟犬”の渾名通りのお人だと……。それが大胆不敵な“その道”の先達だとはね!」
 彼女が別な偶像化を始めた。
「“ラザックシュタールの狂犬”じゃないの? その話は……下の弟が出来たころになるのかな。親父も不自由だったんだろう? まあ、勝手にきれいな印象を持ってはいかん。親父のことも、俺のこともな。」
 彼はだめ押しに父の悪名を出し、当たり前の欲求であっただろうことを強調した。
「不自由って……」
「その言い方は、美名高き父上には失礼か。」
「飢えていた?」
 それくらいの言い方でいいのだと彼は思ったが、さすがに下りすぎで貶めていると思われかねない。否定した。
「もっと悪いよ。あんた、もう少し上品な物言いができないのか? 淫売みたいな言葉を使ってはならん。あんたの父さまが嘆くぞ。」
「今に上品な奥さまをもらうんだからいいじゃない。変わった趣向で。」
「奥さまだなんて……思い出させないでくれる? 上品な幼な妻のことは、考えたくもないんでね。」
 彼女は大口を開けて笑い、彼もつられて笑った。
 二人で酒を飲み、相変わらずの与太話に興じていると、明け方になった。

 ヴィクトアールは帰り際にふと目を伏せて、溜息をついた。
「今度のこと、何とか断れないの? いつも……あんた、辛そうな顔をしているわ。兄さまも言っていた。」
 彼女の顔は神妙で、声はひっそりしていた。兄妹が心配してくれるのが切なかったが、どうしようもないことなのだ。彼は何でもない風を装った。
「家と家の大人の事情がある。」
「律儀ね。」
「“忠実なるラザック”だろ?」
「あんたが忠実になるのはそこじゃない。」
「どこに忠実になれと?」
「……いい子にならなくてもいいじゃない。慕うだけで辛いのに、まだ厄介事を背負って。」
「慕う?」
「忍ぶ恋のつもり? 少なくとも、兄さまと私は知っている。」
「……何の話?」
「婚約などしたら、永遠に忍んでいなくてはならない。」
 彼女は彼の瞳の奥を覗いた。彼は真っ直ぐ見つめ返した。
 やがて彼女は目を伏せ、中途半端な笑顔を作った。
「またね、トゥーリ。今度は私のところへいらっしゃいな……気長に待っているわ。」



  
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