15.

 午後に、父の屋敷を訪ねた。
 母は居間の控えまで出てきて、私たちを迎えてくれた。私にゆっくり歩み寄りぽろりと涙を落して、そのまま胸で泣いた。
 母とは、赤ん坊の時に別れて以来だ。小柄で金髪の可愛らしい人だった。私と同じ青い目をしていた。
 父は鼻を鳴らして
「また、泣く……」
と言った。
「こんなに大きくなっているし、歩いている……」
「十九年経つのですから。」
 母は私に抱きついて、大泣きした。父はそれをじろり見て
「馬鹿か、お前。二十歳の男が、這い這いしているわけないだろ! そんなことより、嫁さんだ。ラグナルもいい歳して、母親に抱きつくんじゃない。紹介しろよ。」
と吐き捨てるように言った。

「母上、これがラザネイト。結婚しました。」
 母はラザネイトを見て、微笑み
「まあ……草原のお姫さまみたい……」
と言って、絶句した。表情が凍りつき、視線が腹で止まっていた。
「子がいるのです。」
「……先日、結婚したと聞いたけれど……?」
「ええ……」
 母は眉を顰め、溜息をついた。
「順序というものがあると思うのだけれど……いつの間に……?」
 私が、考えておいた母に対する柔らかい説明をしようとすると、父が止めた。
「もう名前も決まっているんだ。細かい順序は糺さなくてもいい。」
「名前?」
 母も私たちも怪訝な顔で父を見た。
「オールガって名前なんだよ。なあ、ラグナル。」
 私はぎょっとした。
 父は涼しい顔をしていたが、瞳の奥に奇妙な光があった。
「オールガ? 変わった名前ね。……馬を捕まえる道具のことじゃないの?」
 母は気づいていない。
 ラザネイトは頬を赤らめて、私の袖を引いた。早く別な話しに替えてと、目が語っていた。
「そうですよね。変わっていますよね。その名前はよくないな。止めよう。ところで……」
 私は父に目配せをしたが、父は素知らぬふりで続けた。
「絶対いいよ。男でも女でもいけそうじゃないか。」
「こだわるのね。どうして?」
 母は興味を惹かれたようだった。
 私は慌てて止めた。
「お聞きにならなくてもいいですよ!」
 しかし、父は実に楽しそうに
「緑煌めく大平原。眩しい夏の陽光。濃い影を落とす馬套棹オールガの許、情熱の赴くままに抱き合う恋人たち……」
と言い出した。
「父上! ……それ、何という芝居?」
「これか……題して、“オールガの恋”。今度、宮廷で役者を呼んで上演されるやつだよ。衝撃の問題作。きっと大評判だね。」
「……そんな興行の予定は知りませんよ?」
「それはそうだろう。今から、俺が書くんだから。お前、早く筋を話せよ。ありていにな。全部申せ。」
 父は、目をきらきらさせている。母はようやく事に気づいた。
「ちょっと! それって……?」
「そうなんだよ。」
 父は嬉しくて堪らないようだ。母が困った顔をすると、益々嬉しそうにした。
「ラグナル! あなた……。ま、いいわ。」
「申し訳ございません……」
「謝らなくていいの。それより、アナトゥール! あんた、見ていたの?」
「さよう。そりゃあまあ、激しいの何のって。大騒ぎしているから、元気なのがおるなって見たら、こいつらだったんだよ。」
と言って、父は大笑いした。
 勿論、母は笑わなかった。眉間に皺を寄せ
「呆れた……。あんた、私に黙っていたのね。」
と低く呟いた。
 すると、父は途端に慌て始めた。父はやはり母に話せなかったのだ。
「それは……言うと怒るじゃないか。」
「怒らないわよ。」
「嘘つけ! 今だって、怒った顔しているじゃないか!」
 自分で怒るようなことをわざと言っておきながら、怒ると責める。父の矛盾した言動の真意を測りかねた。
「ただ、そんな所で……って思っただけよ!」
 父と母の間に不穏な空気が流れた。私は、何とかしなければいけないと
「……つい抑えが効かなくて……」
と謝ってみた。
 母は、今さら責めることもできないが、気が済まなかったのだろう、渋い顔で
「それにしたところでねえ……」
と呟いた。
 父は、今度は私の弁護をする気になったらしく
「おいおい、息子を責めるなよ。お前だって、俺としたじゃないか。しかも……」
と言い出した。どうにも弁護の下手な人らしいと、私は嘆息した。
 案の定、母は激高した。
「黙りなさいよ! 本当におしゃべりなんだから! そのくせに、大事なことは隠すのね! ちっとも若い頃と変わらない。おしゃべりで意地悪で、ぐずぐずしているくせに、偉そうで……」
「何だと!」
「違うとでも言うつもり?」
 母が睨むと、父は俯いた。
「いえ……その通りでございますよ。奥さん。」
 父が屈服すると、母は舌打ちをしたが、それ以上は言わなかった。
 自分の身に攻撃を引き受けて、私を助けようという作戦だったのかと思ったが、そういう計画性は、父の言動に感じられない。
 しゅんとしているのかと、父をこっそり見たが、むしろ嬉しそうな顔をしていた。可笑しかった。
 ラザネイトも同じように観察していたらしく、笑い出した。
「シークは、前も思ったけれど、奥方さまに頭が上がらないのね。」
「見ての通り。氏族の男どもに言うんじゃないよ。」
 父は照れくさそうに、ラザネイトに微笑んだ。
 私は失笑した。
「父上は、完全に尻に敷かれているんですね。何だか……父上は話し出すと、その……」
 ところが父は、私がラザネイトと同じことを言うのは気に入らないらしく、急に挑戦的な態度で
「悪いとでも? お前とて、姉さん女房の上に、押し出しの強そうなラザネイトなんだ。すぐに尻の下だよ。お前も俺のように、洗練された敷かれ方を学んでおかねばならん。それから、何? 俺は話しても男前だよ?」
と言い放った。
 この言い草。幼いころに憧れ、畏怖すら感じていた父の像が、がらがらと崩れた。
「これだからね。ラグナルは、お父さまの見た目に騙されちゃダメよ。」
「ええ。よくわかりましたよ、今ので。」
「今まで騙されていたか。さぞかし、格好よく見えていたのだな。罪作りだな、俺も。」
 母は呆れ顔で、深い溜息をついた。
「この男の言うことは、二人とも、もう聞く必要ないわ。相手をすると喜んで調子にのるから、無視でいいわよ。」
 母に言われるまでもなく、父の減らず口の相手は、私たちにはもうできなかった。



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