7

 南の街に多い商人や職人には、元より応戦する術がない。そうでなくとも、自ら草原の軍勢を引き入れたのだ。刃向う者などいない。
 家の扉を細目に開けたり、路地から恐る恐る顔を出しては、草原の戦士が駆けていく様子を眺めていた。
 納得の上とは言え、誰もが不安を抱えている。
「城が落ちたら……草原の者は酷いことをするのかな?」
 一人が問うと、他の者も次々に不安を吐き出し始めた。
「そうだなあ……。勝った奴らは、好き勝手するもんだ。」
「女子供は隠れた方がいいかもしれないね……」
「隠れただけで済めばいいがな!」
「そこら辺は、ヤロシュの旦那が話をつけたんじゃないのか?」
 それを信じるしかないのだ。皆はお互いを安心させる為に頷き合った。
「そうだ、そうだ。約束を取り付けているはずさ。」
「お味方したんだ。町方には手をつけねえって話になっているんだろう。」
 だが、いつかのキリルの事件を思い出した者は、疑いを口にした。
「でも……ほれ、シークはもっとお若い時に、何とやら言う村を跡形もなく焼き払ったとか……」
「ああ、そうだ。噂では、女も子供も皆殺しだったって話だ。お怒りになったら、何をやらかすか解らねえ類のお人かもな。」
 皆は顔を見合わせ、身震いした。何人かが慌てて家に帰って行った。
「あの美しいシークが、そんな残虐なことをなさるかねえ……」
「姿形でやることじゃないだろ。弟を殺されたんだ。相当恨んでいるだろうよ。」
「俺の親方、シークに贔屓にされていたんだ。見逃してもらえないかな?」
「うちの亭主もだよ。何とかならないかい?」
「そんなもん! 畏れながらって言っている間にばっさりだ。決まっているだろ!」
「きっと都は火の海だ。逃げなくっちゃ!」
「何処へ逃げるんだい? 外は草原の戦士がぎっちり囲んでいるんだよ。」
 何を問いかけても絶望的な答えしか返ってこない。
 誰もが途方に暮れ
「鍵をかけて、家に籠っているしかないね……」
と諦めをつけ、嘆息した。
 しかし、中にはやけっぱちか、逞しいのか
「怖れても仕方ないよ。どうぜ食べる物もないんだ。死ぬときは死ぬ。城が落ちて、草原の戦士が去るのを待っていたらいいのさ。」
と言う者もいた。
「なら、早々に城が落ちてくれればいいんだよ。」
 皆は城の方を睨んだ。
「大公さまが代わってから、ろくでもねえことばかりだ!」
 その言葉の主を咎める者は誰もいなかった。
 そうしているところに、べえべえと羊の鳴く声が聞こえた。何事かと眺めると、南門から羊の群れが入って来た。後ろから草原の戦士が、鉾や槍で追い立てている。
 皆は慌てて路地の奥へ退散した。
 戦士の一人が一言
「食え。」
と大声を挙げた。
 町人は意図が俄かには解らなかった。
「シークがくだされた。塩は北の門で買え。」
 その言葉に皆は仰天した。
「北の門? 北門も開いたのか?」
 戦士は答えもせず、先の一旗を追って駆け去った。
 全員が狐につままれたような思いだったが、やがて羊の群れに殺到し、我先に連れ去った。


 城の濠に渡される跳ね橋は上がっていた。
 築城当時、この城は北に小さめの跳ね橋、南に大きな跳ね橋をかけた体裁だった。時を経て、南の橋の側は守り方の兵を伏せられるように造られた。
 また、貴族たちが都に屋敷を構えるのに従って、東側の上町へ橋が架かった。
 東の橋は、叛いた諸侯が兵を入れられないように、すぐに落とせる構造になっている。案の定、落とされていた。
 トゥーリは城の南の橋を望む辺りで、一旦立ち止まらせた。そして、戦士たちの間に入り、大声を出した。
「南の馬出しには、兵が伏せてあるかもしれない。いないかもしれん。だが、レーヴェの軍勢は絶え、デジューさまも禁足されている今、テュールセンの兵はいない。いるのは、大公の子飼いだ。」
 皆は黙って頷いている。
「東の上町には諸侯のだらけた兵がいるだろう。飯を食っておらん。へろへろのはずだ。」
 気力の漲った戦士たちは、仕事を始めたくて仕方がない。口上を聞き続けられなかった。
 誰かが勇ましい声を挙げた。
「へろへろでもいいです。焦らさずに、早くどこから攻めるかご命令あれ!」
 皆から笑い声が挙がったが、すぐに止み、トゥーリの命令を待っている。
 彼は小さく笑った。そして、表情を引き締め、静かに告げた。
「西から回って、北の跳ね橋を攻める。そこから大公は逃げるんだから。さあ、北まで駆け抜けろ。じたばたしているが、逃げ足だけは早いかもしれんぞ!」

 北の跳ね橋は下りていた。今まさに、一台の馬車が橋の上に差し掛かっている。護衛はさほど多くないが、周囲を固く守っている。
「案外、素早かったな。」
 トゥーリは並走するヤールに笑いかけた。ヤールも苦笑した。
「さようですな。どこへ逃げるおつもりか知りませんがね。」
 その間にも馬車は橋を渡り始めた。橋に不随する塔の衛士が気づいたのだろう、身を乗り出し眺めては、迎撃の準備を呼ばわっている。
「橋の衛士を射よ! 橋の鎖を切れ! 馬車を止めろ! ……古のラディーンのヤールのような手練れは誰かな?」」
 言う端から、風を切る弓矢の音が鳴り響いた。
 塔では、衛士が矢を受け後ずさり、或いは転落する者がいる。だが、塔からの攻撃は激しく、止むことがなかった。
 馬車にも何本もの矢が降り注ぐ。
 御者は慌てて台から下り、車両の陰に隠れた。暴れる馬車馬に何本も矢が刺さった。止まった馬車の車両は見る見るうちに、針山のようになった。
 やがて馬が倒れた。車両が傾く。
 塔からの攻撃はまだ続いていたが、弓を下ろした何人もの草原の戦士たちが怖れもなく、馬車に殺到した。
 護衛が斬り伏せられ、濠に落とされる。塔から慌てて加勢に出てきた衛士と斬り結ぶ間に、戦士の一人が馬車からコンラートを引きずり出す。
 城の兵は武具を下ろした。
 あっけなく戦闘は終わった。
 トゥーリは歩み寄り、這いつくばるコンラートを見下ろした。
 コンラートは蒼白で、激しく震え、馬上のトゥーリを見上げている。何度も唇を舐め、ようやく口を開きかけた時だった。
「大公、逮捕。」
 その瞬間、コンラートは喉元で言葉を飲み込んだ。
 トゥーリは静かにコンラートを見つめた。そして、ゆっくりと馬を返した。
 馬車の中にいたマティルドとラグナル、その乳母も確保された。
 彼らを盾に取ることもなく、鎖を切られた北の門から入城できた。

 城の中には多くの兵が残っていた。だが、誰もに覇気がない。大公を取り戻さねばならないはずなのに、抵抗は緩慢だった。
 ヤールはトゥーリに、戦闘から離脱するように勧めた。
「奥方さまを探しに行きなされ。」
「探すも何も。お伽話の中でも、そういうのは天守の塔(ダンジョン)って決まっているんだよ。」
「わかっているのなら、行かれたらどうです?」
 ヤールは笑いながら
「五騎! ……いや。三騎、シークのお供だ!」
と命じた。
“金髪のアナトゥール”の言い伝えに倣って、三騎にしたのだろう。
「天守の下は、厳しい構えだぞ?」
 そう言いながらも、トゥーリはそれ以上の兵を要求することなく駆け去った。後に三騎が続いた。

 天守の入り口を守る兵は粗方斬り倒した。加勢に現れた兵を供の三騎に任せ、トゥーリは天守に馬を入れた。
 螺旋状に階段が上っている。
(あ……意外と階段が急。無理では?)
 咄嗟にそう思ったが、怒りが沸々と湧き上がってきた。
(こんなところを……脚の不自由なアデレードによくも登らせたものだ。)
 ふと、彼は乗っている馬の因縁に気づき、微笑んだ。
「流星、あの時もお前だったね。お前と俺と、今から頑張りの見せ所だよ。」
 馬の首を叩いて、手綱を握り直し、腹を蹴った。
 そして、階段を駆け上がり始めた。


 階段は時計回りに上がる。右手に得物を握るからだ。
 階段の陰から、衛士が斬りかかった。
 トゥーリは、鞍に下げた“ジークルーン”を半身抜いて防御した。
 左利きの彼には楽なことだった。そのまま、その古い馬上刀を抜き、振り下ろした。初めて使ったにも関わらず、妙に手に馴染んだ。
 斬られた衛士が悲鳴を挙げ、階段を転げ落ちて行く。
 彼は剣を握った左手に、奇妙な感覚を得た。うねるとも震えるともつかない蠢きだった。それは徐々に力強い脈動となって、ありありと手に伝わってくる。
 何か囁きかける声がしたようにも感じた。
 また一人斬り伏せた。
“御身と共にある。”
 そう聞こえた気がした。
(アナトゥールさま……?)
 彼は、近習が誇らしげに語って聞かせた物語を思い出した。

“左手に血刀を握って、金髪のアナトゥールさまは竜船に駆け上がったのです。”

(左手に血刀を握って、黒髪のアナトゥールさまは天守に駆け上がったのです。……なんてね。子々孫々に語られたいものだな。)
 そんなことが思い浮かんだ。益々気力が満ちてくる。
 彼は馬を励まし、どんどん駆け上がった。

 天守の二階は元々籠城の際に、城主が家族と共に閉じこもる場所である。だが、そこはがらんどうだった。
 三階に上がった。登り切った先の扉には新しい閂があった。
 トゥーリは閂を外し、思いっきり扉を蹴った。

 窓の中に、アデレードが座っていた。刺繍の道具が足許にある。
 急の風が通り、彼女の髪を吹き乱した。彼女は髪を押さえ、トゥーリに微笑みかけた。
「あなたったら、ラザックシュタールのお屋敷だけじゃなく、天守にも馬を入れるのね。」
 彼はゆっくりと馬を歩み入れた。
「で? 俺が苦労していたっていうのに、お前はゆっくり刺繍か?」
 彼女は笑い声を挙げ
「いつもそういう意地悪を言うのね。」
と言って、きゅっと睨んだ。
 彼は苦笑した。
「迎えに来た。」
「英雄のように? だったら、もっと感動的な台詞を言いなさいよ!」
 彼女はそう言って笑おうとしたが、上手くいかない。泣き笑いになった。
「すぐ泣く……。“嗚呼、姫君。私がお助けに参りました”とでも言えって?」
「あなたが言うと嘘くさいわ。でも……」
 彼女は込み上げる涙を留められず、すすり泣いた。
 心の中では、最前の言葉を否定していた。全く“嘘くさく”ない。お伽話の通りだ。彼は子供の頃からずっと、彼女の忠実な騎士だった。この瞬間もそうなのだ。
 彼が見つめている。口調とは裏腹に、表情は申し訳なさそうだ。口だけが偉そうないつもの彼が、彼女にはまた嬉しかった。
「“私のシーク”がきっと来ると思ったの。どんな意地悪を言おうか考えながらね。」
「その通り。まあ……奥さん、半年ぶりにお目にかかりました。」
「半年ですって? 七か月と四日よ。」
「憎らしいことを言い返すようになったじゃないか!」
 トゥーリは馬から下り、アデレードに背中を向けた。
「ほら、負ぶされ。」
「え? 馬は?」
「お前、馬鹿か? 馬に乗って下りろとでも? こんな急な階段、恐ろしくてできるか!」
「じゃあ、どうして馬で上がったのよ!」
「格好いいだろうが! 金髪のアナトゥールみたいで。」
 彼女は笑いながら、背中に負ぶさった。
 彼女の重みは、彼の覚えよりずっと軽かった。
「流星はゆっくり下りておいで。俺は、この重い女を背負わねばならないからな。」
 彼女は背中をぽかぽか叩いた。
 彼は背中の温みを確かめながら、慎重に階段を降り始めた。
 彼女は安心した様子で、彼の背中に身体を預けている。その軽さが切なかった。
「お前、軽くなったんじゃないか?」
 彼はひっそりと尋ねた。
「……そうかもしれない。」
と小さな声が返ってきた。
「腹減らしてないか?」
 言ってから馬鹿なことを尋ねたと思ったが、彼女は嗤うでも怒るでもなく
「ううん。」
と言って、彼の首に回した腕に力を入れた。
 七か月と四日の間の、彼女の孤独な闘い、心痛、葛藤。そして、彼を信じ待ち続けた心。
 彼は、彼女の想いをしっかりと胸に刻んだ。

 軟禁から解放されたソラヤも、いくらか痩せて見えた。彼女は先ず、アデレードを抱き締めた。
「お義母さま……よかった。」
 ソラヤは、泣き出したアデレードの背中をさすって、慰めた。
 トゥーリはまた胸が痛んだが、ソラヤの気力は少しも損なわれていない。
「遅いぞ。いつもながら、仕事が遅すぎる。」
と彼を詰った。
「申し訳ございません。」
 彼の心からの応えだった。彼女は探るような目を向けたが、何も言わずにただ頷いた。

 トゥーリは、都にいる貴族たちと町方の長たちを広間に集めるように命じた。
「フォントーシュの長とラースロゥ、その母親も呼べ。」
 ラザックのヤールはこの戦をどう収めるのかを尋ねた。
 トゥーリが答える前に、ラディーンのヤールが
「トゥーリさまは大公になるの?」
と揶揄った。
「大公にはならん。」
「では、王さまになる?」
 言った本人も、聞いていた全員も笑った。
「それもいいかもな。……完全無欠の身ならね。」
 トゥーリはそう言って、やがて高笑いした。
 皆はその後の言葉を待ったが、彼は何も言わない。訝しげに顔を見合わせていると
「何が完全無欠か。お前の脛は傷だらけ。叩けば、埃で息が詰まる身だろう?」
とソラヤが苦笑した。
 そこかしこで失笑が漏れた。
 ソラヤは心持ち俯いて、目に滲んだ涙を隠した。構えていた心が緩み、家族の無事を喜び安堵する気持ちが押し寄せてきたのだ。
 彼女は目許をこっそり拭い、目の前の息子の肩を叩いた。



  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.