約束の地
8
広間には、沢山の人々が犇めき合っていた。
ラディーンに追われた西方の領主だけではない。戦の前から都に滞在していた者、戦が激しくなるのと同じくして都へ避難した者も多くいる。都に留まるしかなかったのだ。
こんな状況であるのに、彼らは朝議でするように、順位を守って二列に分かれて立ち、真ん中を通路に開けている。
そしてトゥーリが命じた通り、町方の長たちもいた。広間の隅には、フォントーシュの長が居心地悪そうに立っている。その側に隠れるようにして、ラースロゥの手を引いた老婆のような母親が立っていた。
トゥーリは三人を見やって、軽く手を挙げた。ラースロゥの顔が輝いた。しかし、長と老婆は緊張した面持ちのまま、縋るような目で彼を見つめている。
“忠実なるラザックと勇敢なるラディーンのシーク・ローラントの息子、アナトゥール。御身は幼くしてすべてを得……”
トゥーリは諸侯の開けた通路を、ゆっくりと正面に歩いた。広間は静まり返っている。鎧の札がしゃらしゃら鳴る音だけがする。
彼が真っ直ぐに見つめる先、正面の段のすぐ下に、ソラヤとアデレードが立っている。ソラヤの三人の兄の姿もあった。
通路を挟んだその向かい側には、草原の戦士たちに一層に固く囲まれたコンラートとマティルド、赤子を抱いた乳母がいる。宮宰も側にいた。
トゥーリは彼らの前で立ち止まった。彼はコンラートを見下ろした。コンラートは俯いたままだ。
逆にマティルドは怯えた様子ながら顔を上げ、トゥーリが何を言うのか待っている。彼は彼女を一瞥し、乳母に抱かれている赤子を覗きこんだ。
赤子は不思議そうに、初めて見た彼を見つめている。
アデレードに似た青い瞳。彼は目頭が熱くなるのを感じ、天井を見上げた。どうにか涙を抑え
「ラグナル、知らないだろうね……草原のシークだよ。」
と笑いかけた。
“指から零れ落ちる砂のように失う……”
勿論、答えはない。ラグナルはきょろきょろと、乳母とマティルドの顔を見上げ
「まあま……」
と言って、乳母の胸に顔を埋めた。
トゥーリは両手を差し出した。乳母は戸惑い、マティルドとコンラートを交互に見た。だが、主が何も言わないのが解ると、渋々彼に赤子を渡した。
赤子は顔を歪め乳母に手を伸ばしたが、泣き出すまでではなかった。
トゥーリはラグナルを抱き締めた。初めての重さ。赤子の柔らかく温かい身体。子供独特の甘い匂い。抑え難い抑え難い感情が、再び込み上げてくる。
真実を叫び、そのまま草原へ連れ帰りたいと思った。
しかし、彼は苦労して己を宥め、正面の段に上がった。大公の座る椅子を見下ろした彼は、一つ息を付いた。そして、その椅子に腰を下ろし、ラグナルを膝に載せた。
アデレードは微笑した。だが、その他の全員は目を見張った。
直後には、どよめきが起こった。
皆は周りの者と盛んに何か話し合っている。どの顔にも驚きがあった。
やがて、諸侯が非難の声を挙げ始めた。
「それは大公さまのお椅子だぞ!」
「臣下が座るなどもっての外!」
「降りろ!」
口々に叫んでいる。
だが、草原の戦士たちに囲まれているからか、駆け寄る者はいない。
「黙らんか!」
トゥーリは段上から一喝した。
それでも鎮まらない。
すると、ウェンリルの公子が通路に出、皆を見渡した。諸侯は途端に静かになり、彼の言葉を待った。
「我々は負けたのだ。シークが如何なさるおつもりか伺わねばならん。」
ある者は悄然と頷き、ある者は憎しみの籠った目でトゥーリを睨んだ。
皆は既に、彼が大公になり支配するのだと思い込んでいる。
(大公の椅子に座っただけで、これだ……)
彼は苦笑した。
“されど、嘆くなかれ……”
「宮宰、カラシュの公爵、参れ。」
宮宰が躊躇った。真っ先に処罰を受けるのだと思った。それも厳しい仕置きだろう。トゥーリが子供の頃からずっと蔑み、厳しい態度を取り続けていたのだ。斬首に処されるはずだと思った。
諸侯は宮宰の様子を見つめている。彼は見苦しい姿は見せられないと、動揺を隠してゆっくりと正面に歩いた。
トゥーリは、宮宰の動きを目で追い、表情をじっと観察した。
宮宰の様子は堂々として見えた。しかし、トゥーリと対峙すると急に落ち着きが失われ、視線が泳いだ。
トゥーリはいつも尊大だった宮宰を思い浮かべ、今目の前にいる男と比べた。意外なほど、憐れさを感じた。
「そなたはどうして宮宰でいるのかな?」
彼の声は静かだった。
宮宰は、戦に破れた今も宮宰と自認していることを嘲っているのだと思った。既にその地位にはないと言われたのだと考え、やはり斬首されるのだと思った。
位人臣を極めた身が命乞いなど出来るはずもないという矜持と、不名誉な死を免れたい気持ちが、彼の心の中で争っている。
彼は血の気を失い、トゥーリを食い入るように見つめた。何か応えねばならないと思っても、どうしても口に出てこない。
トゥーリは宮宰の誤解を正した。
「処刑はしない。そなたの家は何故、宮宰の地位を得たのかと訊いている。」
宮宰は直ぐに答えを思いつき、トゥーリの意図を理解した。処刑どころではなく、末代まで名誉は地に落ちる。彼の脚は震え始めた。
「史書は嫌いだったから忘れたのだ。二百年ほど前なのかな?」
宮宰は俯いた。答えられなかった。
二百年前ではないが、百と数十年前、大きいとはいえ伯爵領の主だった当時の宮宰の先祖が、女の大公の夫となり、カラシュの公爵領が与えられた。
二人の間に生まれた息子はやがて、当然に大公の位を継いだ。父であるカラシュの公爵は絶大な権力を振るい、生家は代々宮宰の地位を与えられることになった。
子供は父系に属すると考えるロングホーンの社会にあって、カラシュの公爵家は隠然たる権力を持ち続けている。
テュールセンの公爵家とは違い、元から大公家と深い血縁があったわけではないのだ。
宮宰だけではなく、コンラートも益々蒼白でいる。
マティルドは何も知らされていなかった。この会話の意味が解らなかった。産褥で生死を彷徨っていた彼女は、息子だと見せられたラグナルを実子だと疑ってもいなかった。
しかし、父や夫が激しく動揺しているのを見て、解らないまでも怯え始めた。
広間の皆も不審顔を見合わせた。
トゥーリは再び促した。宮宰が自ら答えることが必要なのだ。
「三度目に訊く。大昔に何があった? これ以上は訊かない。自分で考えて。慌てないで、ゆっくりとね。……答えよ。」
宮宰は俯き、答えもせず床を睨み続けた。その後ろ姿に、広間中の視線が注がれている。
答えは簡単極まりないことだ。皆が知っている事実である。わざわざ尋ねるトゥーリも不審だったが、答えない宮宰にこそ何かあると思わせた。
トゥーリはほっと溜息をつき、苦笑した。
「悪いけれど……気が短いんだ。焦らさないで、早くその気にさせてくれ。」
皆は訝しんだ。そこかしこで囁きが交わされ始めた。
宮宰はぎゅっと目を瞑った。もう答えないわけにはいかない。
彼は低く呟いた。
「父公……になったからです。」
当たり前の答えを返すのにこれだけ時間を要したことに、皆は再び首を捻った。
「次の大公は誰か? ……断っておくが、俺ではないぞ。」
宮宰は眉間に皺を寄せ、嗄れ声を絞り出した。
「……公子さま。ラグナルさまです。」
トゥーリは視線を落とし、膝のラグナルを見つめた。小さな手が、彼の右手の指環を弄んでいる。
彼はラグナルの手を離させ、広間を見渡した。
「ラグナルは大公になる。近いうちに。……伯父上方、継承権を主張なさいますか?」
ウェンリルは二人の弟たちと顔を見合わせた。ガラードは苦笑し、挙げた手を振った。ヘルヴィーグは慌てて首を振った。
「いや。三人とも歳を取り過ぎたようだ。」
トゥーリはひっそりと立つ太后に目を向けた。彼女は数々の心痛の所為で、驚くほど老け込んでいた。
「太后さまは、異論ございましょうか?」
「いいえ。もう一人の継承権が放棄されるならば、申し上げることはありません。」
彼女の答えは晴れやかでさえあった。彼女も公子を作り上げたことを後悔し、その秘密に押し潰されそうだったのだ。
彼女は子供の頃の彼にしたように、何の繕いもない優しい微笑みを向けた。
彼も微笑み返し、頷いた。
「アデレード、大公になりたいか?」
アデレードは問いかけも終わらぬうちに、首を振った。涙を堪えるのに必死で、返す言葉も出なかった。
彼は満足そうに頷いた。そして、アデレードの側に立つソラヤを見やって、少しだけ頬を引き攣らせた。
ソラヤが何と答えるのかが心配で尋ねようか、敢えて無視しようか迷った。
(尋ねなければ、ぎゃんぎゃん言い立てるのだろうから……)
彼はかなりの勇気を振り絞り尋ねた。
「一応、母上。あなたにも継承権がありますが?」
ソラヤはにっと笑った。そして、胸を反らし、声を張った。
「国を乱すわけにはいかん。」
彼は安堵し、ようやく全てを明らかにした。
「カラシュの先祖は父公であった。だが今、新しい父公がいる。カラシュ、挨拶はしないのか?」
皆が驚きの声を挙げた。
宮宰は顔を歪めたが、頭を深々と下げた。
「父公さま。お目にかかり恭悦に存じます。」
広間はこれ以上ないくらいに静まり返った。
「挨拶の仕方が違うぞ。俺は草原のシークでもあるのだから。」
宮宰はトゥーリの足許に蹲った。
「尊き父公にご挨拶を申し上げます……」
トゥーリは、片脚をゆっくりと宮宰の背中の上に回した。
“すべては草原に還るのだから……”
コンラートは唇を噛み一部始終を見届けた。彼は宮宰の後姿を睨み、何度も舌打ちすると
「ぼくを処刑するんだな!」
と叫んだ。
諸侯は眉を顰め、ある者は白々と、ある者は厭わしそうに彼を見た。自分たちが彼を留められなかったことには勿論忸怩たる思いがあったが、この混乱の責は全て、驕り高ぶった彼にあると思っていたのだ。
トゥーリはじっとコンラートを見つめた。
私的な恨みと妄想じみた怖れを持って彼の命を奪おうとし、草原に軍勢を遣った男。弟の死を嗤った男。妻を幽閉したことは何よりも許しがたい。
憎しみがある。それも強い憎しみである。言われた通りに処刑してやりたい気持ちがあった。
彼は目を閉じ、己の気持ちを探った。
探っても探っても、処刑という選択しか思い浮かばない。躊躇はあったが、宣告しようと心を決めた。
その時、退屈して手足をばたばたさせていたラグナルが、彼の膝から落ちかけた。彼は慌てて抱き留めた。
ラグナルの重みは思いの外、腕にずっしりとかかった。
ラグナルは、危うさが面白かったのか、けらけら笑っていた。
(いい気なもんだな。寸でのところで怪我をしていたんだぞ……)
彼は胸を撫で下ろしかけて、はっとした。
彼が守り通さねばならなかったにも関わらず、敢え無く命を落とした者が思い浮かんだのだ。
愛し親しんだ大切な人々、恋人・守役、そして弟。悔やみは強く、慰むことがない。
また、別の死についても想った。
己に敵意を向けた人々、戦場で対峙した相手。相手は死に、自分は生き残ったが、虚しさしかない。
命を失った者だけではない。別れ、去って行った人々の記憶も、脳裏を駆け巡った。
死んだ者もそうではない者も、誰もが己の信念に従い、その生を生きていた。誰の生も等しく尊い。そして、唯一のものなのだ。
(思うままに奪い、傷つけ、捨て去り……気ままに生きてきた。過ちを見つめず、見つめることを恐れ、目を逸らして生きてきた。罪を省みることもなかった……)
彼はコンラートをもう一度見つめた。コンラートの瞳には、火を噴くような憎しみがあった。
トゥーリは自問した。
(できるか……? 許すことが……。許せるか?)
彼は答えを出し切れなかった。ただ、老ヤールが今際に残した言葉を思い出していた。
(弟の氏族には寛大に。弟……)
コンラートは、彼の最愛の妻の弟だ。個人としての兄と弟、氏族としての兄と弟。どちらの意味でも、不信と憎しみを抱えている。
象徴的だと思った時、彼は微笑み、すらりと口にしていた。
「コンラート。お前は俺の弟じゃないか。殺すなどしないよ。」
広間を溜息が覆った。
「ラグナルは大公になり……俺が死ねば、シークになる。」
もう全ての者が意味を理解している。誰も何も言わなかった。
「ラグナル・アナトゥーリセン。」
トゥーリはラグナルの髪を撫で、顎の下をくすぐった。赤子は笑い声を挙げ、トゥーリの長い髪に手を伸ばした。
「お前は、髪を伸ばさなくてはいけないね。」
彼はそう囁くと、ラグナルを抱き締め、椅子を立った。
そして、放心している乳母に赤子を返した。
また、テュールセンの元の公爵、陽気な友達のリュイスと奔放なヴィクトアールの父であるデジューの前に立った。
デジューの真っ直ぐな視線を受け止めるのは、トゥーリには辛かった。デジューの後継であったレーヴェを殺したのは彼なのだ。受けてもらわねばならないことがあるが、何と話し出せばいいのか惑った。
彼が何故戸惑っているのか、デジューには解っていた。肩を叩いた。
「戦の常です。大公さまのご命令とは言え、国の半分を攻撃するなどと愚かなことをした。父ならば、何としても止めなければならなかった。」
「あなたは禁足されていらしたのだから……」
「それでも、息子の為に何か……」
デジューはそこで言葉を詰まらせ、目頭を押さえた。
トゥーリは彼の空いた手を両手で取り上げた。
「デジューさま。表裏のない忠義を持つあなただからお願いするのです。……あなたを宮宰に。ラグナルを守り育ててほしい。テュールセンの爵位はリュイスに。それから、もう俺をあまり都に呼び出さないでくれ。」
デジューは驚き、唖然とトゥーリを見つめた。だが、直ぐに気を取り直し
「かしこまりました。父公さま。」
と言って、微笑んだ。
ウェンリルがゆっくりと手を叩き始めた。諸侯も町方も顔を見合わせ、やがて拍手し始めた。
トゥーリは広間を見渡した。歓迎している者もいれば、戸惑っている様子の者もいる。
「いや……やはり来るよ。時々、ラグナルの顔を見に来る。気が向いたころにね……」
その宣言は、大きな意味を持って諸侯たちに響いた。
再び、ウェンリルが進み出た。
「父公さま。今しばらくお待ちあれ。」
彼は早足で扉まで向かい、誰かを招き入れた。
ギネウィスだった。その後から金髪の若者が姿を現した。
ソラヤは弾かれたように駆け出した。
「ミアイル!」
彼女は涙ぐみ、若者を抱き締めた。
都が制圧されてから彼女は、ヘルヴィーグの所は勿論、あちこちに消息を尋ねてきた。残念な答えを聞かされ続けたが、必ず探し出すと決意し、毅然とした態度を保っていた。
それが望外の再会だ。彼女の厳めしい仮面が剥がれ、涙が次から次へと落ちた。
その様子を、トゥーリは喜びと羨みの半ばした気持ちで見つめた。
アデレードは彼の気持ちを察していた。腕に触れ頷きかけると、彼は困ったような笑顔を向けた。
ソラヤはミアイルの身体を確かめ、無事な様子に安堵して、ようやく涙を拭った。
ギネウィスは少しだけ顔を歪めた。目の前にいるソラヤは、彼女の知っている傲慢なほど堂々とした貴人ではなく、息子を愛し案じていた当たり前の母親に過ぎない。
彼女は戸惑いを悟られぬように、軽くお辞儀をした。
「叔母さま、ごきげんよう。ご子息をお返しに参りました。」
その声には硬さがあった。
ソラヤは、話しかけられたことに驚きを感じていた。ギネウィスとの間には、確執がある。生涯無くならないものだと思っていた。
「ギネウィスが匿って?」
そう尋ねたソラヤは、妙に気弱に見えた。ギネウィスの固い表情が緩んだ。
「ええ。お父さまにお願いしたのです。ヘルヴィーグの叔父さまの所では危険過ぎましたから。」
ソラヤは目を伏せ、長く息を吐いた。
「ありがとう、ギネウィス……」
低く呟くような声だった。心の奥底から出た感謝の言葉が、ギネウィスの心を打った。
だが、ソラヤの側に来たトゥーリを見て、彼女は悪戯をしたくなった。
「わたくしこそ……叔母さまのご子息には随分慰められましたもの。この方の髪を切ったことだけは申し訳ないと思いますわ。」
彼女は一瞬だけ、含みありげな視線をトゥーリに向けた。
トゥーリは気まずい思いがしたが、何も言わないわけにはいかない。
「髪など……お気になさらずに。直ぐに伸びます。」
それを聞いて、ミアイルは目を輝かせた。宮仕えをするならば、髪を伸ばす必要はないのだ。
「大きい兄さま、ぼくは草原に帰していただけるの?」
「ああ。待っている者がいるだろう?」
トゥーリは、何度も頷く弟を見て、満足そうに微笑んだ。その一方で、側近くにいるギネウィスが何を言うのかが気になって仕方がない。
彼が素振りだけ落ち着いた様子を装っているのは、彼女にはお見通しである。益々悪戯心がもたげてくる。
(あなたは今も嘘つきなの?それとも、昔のあなたのように素直なの?)
「父公さま。初めまして。」
彼女はそう言って、深々と正式なお辞儀をして見せた。頭を下げる瞬間ににっと笑ったのに、彼は気づいた。
彼が同じように言っても、何らおかしなことはない。彼と彼女だけが嘘だと知っている。
(試しているな……!)
彼は彼女の挑戦に、敢えて乗った。
「お会いしたことがあると記憶しております。」
「いいえ。“父公さま”とは初めて。」
確かにそうなのだ。彼女と親しかった時の彼は、ラザックシュタールの侯爵であって、それ以上でも以下でもない。
嘘でもなく、真実でもない。言葉遊びのようでいて、真意の測れない彼女独特の表現だ。
しかし彼は、彼女が拗れた関係を新たにしたいと望んでいるのだと理解した。それは、もう愛憎の入ることのない従姉弟同士の穏やかな関係であろうと思った。
「そうでしたね……」
彼が苦笑すると、彼女は小さな笑い声を挙げた。誰もが、彼の記憶違いを笑っていると信じて、疑ってもいない。
ミアイルは、何くれとなく世話をしてくれたギネウィスとの別れを惜しんだ。
「ギネウィスさまも草原にいらしたらいいのに。」
彼女は目を伏せた。微笑んだままだったが、寂しそうな色が浮かんでいた。
「いいえ。わたくしのような者には……わたくしのような嘘つきには、草原は生き辛いところなの。最近になってようやく、それが解りましたわ。」
柔らかくはあったが、はっきりとした断りだった。ミアイルはしょんぼりと俯いた。
トゥーリは同情した。別れの辛さはよく知っている。愛する者が経験せずにいて欲しいと願う。だが、別れは誰の人生でも度々起こるのだ。
彼は弟の肩を抱いた。
「ミアイル。ウェンリルの公女さまにお礼を申し上げよ。」
「今までお世話になりました。ごきげんよう。草原に戻っても、将棋の練習をして、次は互角に戦えるようにしておくね。」
「将棋?」
「ギネウィスさまはとてもお強いんだ。」
トゥーリが知り過ぎているほど知っている事実である。彼はギネウィスに目配せし、小さく笑った。
「そうか……」
「ごきげんよう。偽りなく、治まるところに治まったのですもの。このお別れは、いいお別れですわ。」
「そなたと、こうして話せることはないと思っていた。」
ソラヤは手を差し出した。ギネウィスはその手を握ることはなかった。その代わり、ソラヤの背を抱き締めた。
二人はじっと抱き合った。やがて、どちらからも悔恨の涙が流れた。
「わたくしも。でも、何もかも過ぎ去ったのです。過ぎ去らないことなどないのに、捕らわれたままの自分が愚かだったと後悔しています。沢山の嘘を……自分にも他人にもついてきたこと。偽りの上に建つ城は幻に過ぎないと……父公さまがお示しになられた。」
アデレードは感極まってすすり泣いた。最も許されない偽りを持ったこと、それをトゥーリに強いたことが思い起こされていた。
彼女が何を嘆いているのかは、彼にはすっかりと解った。しかし、既に正されたのだ。彼は彼女を抱き寄せ、背を撫でた。
彼はまた、もう一つの感慨を噛みしめた。
(ようやく、ギネウィスと俺は、掛け違ったあの恋を清算したのだ……)
「そんな大事は成しておりません。」
ギネウィスは周りの皆を一人ひとり眺めた。
「これからは偽りはなさらずに。どなたも。」
彼は唇を綻ばせ、小さく頷いた。彼女は彼をこっそり眺め、満足そうに微笑んだ。
その時になって初めてソラヤは、息子と姪がかつて親しかったのだと悟った。必ずしも近しくはなかった息子が、更に遠くなった気がした。意外なことに、不愉快な感覚ではなかった。
ただ、釘を刺しておかねばならないことがある。
「アナトゥール、心しておけ。これからは、偽りはせぬことだ。隠し事もだ。……あのようなこと、公子さまのことだ。真っ先に私に告げねばならんことだぞ!」
そう怒鳴ると、彼女の息子は笑い出した。
「母上はすぐ態度と言葉に出るじゃないですか!」
「隠し事をする悪い癖は、何時になったら治るのだろうな。だが、拷問されても言わなかったのは褒めてやる。肝の据わらん身が、よう頑張った。」
ぶっきらぼうな上に、一言多い褒め言葉だった。彼にとっては、長い間欲していた言葉だった。感じ入ったが、いつもの調子で言い返した。
「訊かれなかったんだから、答えようもないでしょう? それより、耳は治ったんですか?」
「あんな掠り傷、治ったよ。孫が二つの地位につくのを見ねばならんゆえ、まだまだ死ねんな。」
「俺よりも長生きなさるってことですね。……息子より孫ですか……」
「当たり前だ。」
「……あなたは、殺しても死なんでしょうね。」
彼が溜息をつくと、彼女は更に何か言おうとしたが止め、苦笑した。
「黙ることを学ばれたのですね!」
彼の感嘆は余計だった。彼女は顎を上げ言い放った。
「私は以前から奥ゆかしいではないか。」
皆が失笑していた。
トゥーリは、ラースロゥの前に立った。
フォントーシュの長は
「あっしらのシークがねえ……」
と言葉を詰まらせた。
「ラースロゥ、お前の弟は大公になるんだ。」
ラースロゥはくすぐったそうに笑い、咳払いすると、胸を精一杯に反らした。
「じゃあ、うんと勉強して、弟にいろいろ教えてやらなくっちゃね!」
「三日坊主で終わるんじゃないよ!」
老婆のような母親が小突き、皆の見ているのに気づくと、慌ててぺこぺこ頭を下げた。
「アデレード。草原へ帰るよ。」
アデレードはまだ涙を落とした。
「また泣く……幾らでも出るんだな!」
「枯れないのよ。嬉しくて。いるべき所へやっと帰られる……」
トゥーリは彼女を抱き上げた。
「皆! よくよく“襁褓の大公”を支えよ! 我々がかつて“襁褓のシーク”にしたように。」
諸侯は静かに頭を垂れた。
「いいえ、父公さま。“襁褓のシーク”はお名すらなかった。大公さまにはある。ラグナル・アナトゥーリセン。我が国の主にして、ロングホーンの諸族の主。」
デジューが深々とお辞儀をした。
生まれたときに下った巫女の予言は、確かに成った。
また、父のローラントが望んだ通り、ロングホーンとの新しい絆が結ばれた。
指環に彫られた予言の文言は、不思議な力の作用か、きれいに無くなっていた。
“愛しい狼、草原に還れ”
次の春、アデレードは赤ん坊を産んだ。
「あなたと私の“花のようなお姫さま”。」
彼女は誇らしそうに、産着に包まれた元気な赤子を示した。
トゥーリは恐る恐る抱き上げた。赤子はずっしりと重く、熱く湿っていた。眩しそうに、盛んに瞬きをしている。
二人は額を合わせて赤子を覗き込み、微笑み合った。
「約束通りだろう? 俺は“忠実なるラザック”のシークなんだもの。約束は守る。」
そうして、トゥーリはアデレードを抱き寄せ、開け放たれた窓の外を指した。
「野いちごの花がもう一面に咲いている。これこそ……お前に語った約束の草原だ。」
おしまい