5

 都の包囲には、草原でレーヴェの残党を一掃し終えたラザックの氏族も加わった。今や都の外は、見渡す限り草原の騎兵に埋め尽くされている。
 都の側から為されていた申し訳程度の攻撃は完全に無くなった。二百五十旗の大軍勢を蹴散らす力もなければ、策もないのだ。
 幾度か和議の打診があったが、トゥーリは全て拒んだ。
「蟻の這い入る(・・)隙間もないほどに囲めよ。」
 彼の命令は厳格に実行された。
 囲みは数か月に渡った。
 春が訪れた。
 ヤールたちの意気が下がっている様子はなかった。草原の戦士たちも、シークの命令がなければ、帰るつもりがない。

 トゥーリは、少ないが幾らか来る地方からの隊商は全て止め、商品を買い上げては帰した。都へ入る文物は完全に無くなった。
 勿論、ラザックシュタールからの荷は止まって久しい。彼は己の領地が産する最も重要な商品が、都に与える影響について考えた。岩塩である。
 冬を前に、何処でも肉や魚を大量に塩漬けにする。塩そのものは少なくなっているはずだ。
 ラザックシュタールから岩塩を買っている商人のことを思い出し、都に今ある塩の量を推量した。
「塩が無いのは、そろそろ辛いと思うのだが?」
 問いかけられたヤールは
「まあ……多少の蓄えはあるでしょうよ。」
と答えた。
 それでも、都は落ちない。トゥーリは幾重にも巻かれた都を毎日眺めた。

 月がまた欠け、また満ちた。
 時折、都の南の街で煙の上がるようになった。大きな煙ではなかったが、幾度となく上がった。
(混乱し始めている……)
 その煙が上がらなくなったら、この囲みが動く可能性が出てくる。
 トゥーリはそう遠くないうちに起こるだろう変化に備えるよう、軍勢に通達した。
 また彼は、比較的近くを故郷にしている氏族に、家畜を連れてくるように命じた。一緒に樽も集めてくるように伝えた。
「樽はどうなさる?」
 ヤールは訝しんだ。
「施しに使うんだ。大きな物は要らない。背負えるくらいの大きさでよい。」
 ヤールは怪訝なままだったが、依頼に応じた。

 ある日、定例の軍議をしている時だった。トゥーリは、側に座ったラザックのヤールの臭いに気づいた。
 彼は別のヤールの帷子を引き寄せ、臭いを嗅いだ。こちらもやはり臭う。
「臭うわ。」
 すると、二人とも苦笑し
「そうそう身体を洗えませんからなあ。」
と言う。
 西の河から、飲む水、炊ぐ水は取る。長い髪の草原の戦士の中には、髪だけは洗いたがる者もいた。その水を取ることはあったが、身体を洗うほど十分ではなかった。
 ラディーンのヤールがトゥーリに近寄り、髪のにおいを嗅いだ。
「そう言うシークも臭う。」
と言って笑った。
 春も盛りを迎えた。冬場の水と違って温んでいるだろう。
「河に行って、洗うか。」
と言うと、全員が賛成した。
 極々小分けにして、望む者に行かせることにした。
「まずシークからどうぞ。」
「そんなに臭い?」
 ヤールたちは苦笑した。
「野生的な感じのにおいですな。それはともかく。トゥーリさまから行かないと、皆が行きにくいでしょうが。」
 ラディーンのヤールはそう言って、彼の背中を押した。

 トゥーリは近習を連れ、河まで駆けた。
 水は温んでいるとは言え、どっぷり浸かりたいほどではない。彼は膝の辺りの深さで跪き、髪を濡らした。
「マシリアは?」
 近習に石鹸を頼んだが、川下の遠くを眺めており気づかない様子だ。
「何を見ている?」
「ああ、申し訳ない。何か騒いでおりましたので……」
 近習の見ている方に目凝らすと、二・三人の戦士が小さく丸く、誰かを取り囲んでいた。
 トゥーリは近習にもう一度石鹸をくれるように言い、別の近習に
「見てこい。」
と命じた。
 髪を洗っている間に、近習が戻って来た。
 後ろの戦士が誰かを連れている。子供だ。トゥーリが見覚えのある、そして待っていた子供だ。
「ラースロゥ! やっと来たか!」
 子供は目を輝かせて
「父ちゃん!」
と叫び、河の中の裸のトゥーリに抱きついた。
 皆はぎょっとした。トゥーリが父称を与えたことは、あの時いた近習しか知らない。
「こいつ、俺の息子なんだよ。隠し子。」
 彼はにやりと笑った。すると、皆はどっと笑った。
「いつお生まれ? 七・八歳でしょ? その頃……シークは初陣したかしないかじゃないですか!」
「冗談だよ。父親がいないと言うから、俺が立候補したんだ。あっさり縁組できた。」
 彼は近習や戦士にそう説明し、ラースロゥに笑いかけた。
「……遅かったな。ずっと待っていたのに。」
 ラースロゥは照れくさそうに笑い
「俺だって待っていたさ。ここでずっとね。」
と言い、戦士たちに向かって
「俺はもう十になっているよ!」
と怒鳴った。
 トゥーリは内心驚いた。ラースロゥの年齢を戦士たちと同じように思っていたのだ。年齢に比して身体が小さいのは、食うや食わずやの生活の所為だろうかと思うと、憐れだった。
「髪を洗っているんだ。少し待て。」
「父ちゃんは、前は溝臭かったけど、今日も臭うんだね。」
 ラースロゥはけらけら笑い、河原に下がって腰を下ろした。
 そのうち、戦士たちに何か揶揄われているのだろう、陽気な笑い声が挙がった。

 身体を洗い終えると、トゥーリはそのまま河原でラースロゥと話した。都の内部の様子を勿論知りたい。そして、考えていたこともある。
 先ずは、口に入れる物の状況について尋ねた。
「水はあるのか? ものは食っているのか?」
「冬の蓄えがあったけど、最近はそれも尽きてきたよ。水はある。上町の貴族たちは、城に貯めてあった食い物を分けてもらっているね。あいつらはいいよなあ。町人の街はそういうわけにはいかないから……」
 それは予想通りである。やがて城も自分たちの食べる分で精一杯になり、貴族たちも困り始める。だが、アデレードや母、伯父たちは、まだまだ大丈夫ということだ。
「食い物を扱う商人を焼討ちしているだろう?」
「そうじゃねえよ。焼討ちに気づいたの?」
 ラースロゥは意外そうな顔をした。
 食品の商人を襲ったのでないことこそ、トゥーリには意外だった。期待感が湧いた。
「南の街に煙が何度も上がったからね。じゃあ、どこを襲った?」
「塩だよ! 塩の問屋を襲ったんだ。あいつら、汚ねえよ。」
 ラースロゥは、ぷっと脹れっ面になった。
 トゥーリは、思惑通りになったとほくそ笑んだ。
(食い物より先に塩か。もっといいことになった……)
 子供は
「ま、一番汚ねえのは父ちゃんか!」
と笑った。
「止めたわけじゃないよ。止まっただけ。」
 トゥーリはラースロゥの耳に
「フォントーシュには、お前みたいなすばしっこい男の子が、どれくらいいるのかな?」
と囁いた。
 ラースロゥは指を折りながら数えていたが途中で止め、小声で答えた。
「いっぱいいるけど。食い物と塩のせいで、弱っているやつもいるからさ。二十人くらいだな。」
 トゥーリは十分だと思った。
「お前らもずいぶん死んだり、弱ったりしているのか? 長は? あの婆さんは?」
「まあ、そこそこだな。長は元気だ。婆さんって……あれは俺の母ちゃんだよ! 生きているよ。」
 トゥーリには老婆と見えたが、まだそんな歳でもないのだ。また驚いたが、生きていく苦労の結果だったのだろう。切なかった。
 そして、都の底辺にいる者の暮らしが想像以上であること、それを考えたこともなかったのを恥じた。
 気を取り直して
「お前、例の快適な通路から来たんだろう?」
とにやりと笑って囁くと、ラースロゥは
「あそこじゃねえよ。」
と言う。
 包囲の手薄な所があるのかとトゥーリは焦ったが、思いつかない。当惑した。
「どこから?」
「フォントーシュのいる所の少し内側にも、ああいう出入り口があるんだよ。そっから入った。」
 よりいいことだと思った。彼らの住むのは、北の門のすぐ内側なのだ。都を出て、北にしばらく行くと海だ。
「皆を楽にしてやる。その出入り口から、目立たないように、お前の友達を少し連れて出てこい。」
「皆を少しずつ出すのかい?」
「そうじゃない。」
 ラースロゥは訝しそうに見つめて、答えを待っている。
「塩をやる。ただし、俺の軍勢も要るから、岩塩はやらん。少し苦労してもらう。」

 その夜、北側の河原に幾つも火を焚かせ、草原の戦士を五人待機させて、ラースロゥを待った。
 夜闇に紛れて、ラースロゥと友達の少年たちが出て来た。
「何だ、六人連れて来たのか。こういう時は、キリのいい数でくるもんだよ。」
 トゥーリが苦笑すると、ラースロゥは脹れっ面で
「キリのいい数ってのが解んねえよ。」
と応えた。
「指で楽に数え易い数の塊を、キリがいいと言うんだ。」
 途端に、脹れっ面が感心したような顔に変わった。
「俺は五人用意したんだが……まあ、いい。その樽を背負い、こいつらの馬に乗せられて、お前らは海に行く。」
 ラースロゥは意図を理解し始めた。
「そして、海の水を汲んで帰ってこい。」
 トゥーリが皆まで言う必要はなかった。ラースロゥはにっと笑い
「そいつをその焚火で煮詰めるんだろ!」
と言った。
 トゥーリは少し驚いた。
(キリのいい数は知らんのに、煮詰めると塩が残ることは知っているか……。案外賢いな。)
 教育次第では、使える人材になるだろうとも思えた。
 だが、それは全てが終わってから考えることである。今は海に出すだけだ。
「時間はかかるが、小さい鍋を使えば、少し早くできるだろ?」
「ああ。町方に分けてやろうか?」
「それはならんな。お前らが、俺に通じているってばれるじゃないか。……戦が終わってラザックシュタールから岩塩が来るようになるまで、作った塩を売るといい。その状況なら、結構な稼ぎになるかもな。」
 ラースロゥは神妙な顔で頷いている。
 黙って聞いていた少年たちは笑い出した。
「おめえの父ちゃん、本当にお貴族さまかよ? 商売っ気ありありじゃねえか!」
 そう言って、少年たちはラースロゥを小突いた。
 河原が陽気な笑い声で満ちた。



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