6

 トゥーリは、療養中のニコールに、毎日見舞いの品を送りつけた。彼女は毎日、彼のあの日の恐ろしい言動を思い出すはめになった。
 そうとも知らず、侍女や家族は感心し、彼を嫌っている父すらも、早く良くならなければいけないと言って、ニコールを励ます。
 贈り物には小さな紙片が付いていた。
 最初は、当たり障りのない文言が書かれていた。
“お加減はいかがですか? 早く元気になってね。”
 それは直ぐに変わった。
“今日はお目通りできる日であったのに、と思うと残念です。”
 数日後には更なる変化があった。
“早く会いたい。私の心はあなたのことで一杯です。”
 日に日に熱っぽくなっていった。
 彼女は、彼一流の嫌がらせだと思った。何を考えているのかわからない上に、心とは裏腹のことを白々と書ける彼が怖かった。
 贈られた品々を見るのも恐ろしかったが、捨てよと言うこともできない。かといって、本当のことも言えない。困り果てていた。
(もし、ご本人がいらしたら……私は……?)
 彼女には何が起こるのか想像もつかなかったが、身震いが出た。

 その日に受け取った紙片には、ニコールにとって恐ろしいことが書かれていた。
“とても嘉ばしい知らせが届きました。それも二つ。一つは親切な侍女が教えてくれました。あなたのお加減がそろそろよろしいと。もう一つは内緒。近いうちに会いに行きますから、その折にお教えしましょう。共に喜びを分かち合えると思います。”
 近いうちに行くと宣言されて、彼女は震え上がった。
 どの侍女が話したのだろう、罰を与えてやりたいと思ったが、皆が彼に好感を持っている。誰もが告げ口しそうだ。
 彼女は舌打ちを繰り返した。
 それよりも心配なのは、“嘉ばしい知らせ”だ。忌まわしい知らせに違いないと思った。
 何とか対処法を捻り出そうと、彼女が考え始めた時、侍女が小走りに部屋に入ってきた。
「姫さま、ラザックシュタールさまがお見えです。」
 二コールは飛び上がった。
「ええっ! もう? 近いうちにって……今、見たところなのに……」
「姫さまにお会いしたくて仕方がなかったのでしょうね。早く会わせてくれと、せっつかれてしまいました。ご居間にお通ししました。」
 侍女はにこにこしている。
「そんなところに……どうしましょう……」
 怖い彼氏が目と鼻の先にいると思うと、恐怖が先に立ち、彼女はますます方策が考えられなくなった。
 侍女は全くのんびりとした答えを返す。
「そうですねえ……お支度せねば。」
 ニコールは、彼に対面する時間を少しでも遅らせようと考えた。その間に、急用で彼が帰ることがあるかもしれないと、まず有り得ないことに期待した。
「念入りにして!」
「少しおやつれになったから、驚かれるといけませんものね。」
 侍女たちは何も疑っていないどころか、嬉しそうだ。

 ニコールは中々現れない。トゥーリは庭を眺めたり、庭先の鳥籠の鳥に鳴き真似をして遊んだりしながら、これからする陰湿な行為を確認していた。
 やっと現れた彼女に、彼は満面の笑みで歩み寄った。
「嗚呼、ニコール! お会いしたかった!」
 いかにも嬉しそうに見えた。
 彼女は背を寒くした。それでも、侍女たちの手前、何とか平静を装った。
「妹を……マティルドを呼んで。会いたがっていたわ。折角だから呼んで。」
 彼は侍女を制した。
「妹君はもうよいではありませんか。」
 そう言って目を伏せ微笑んだ彼の様子が、彼女にはひどく物騒に思えた。妹を呼ぶなと命じられたとも感じた。
 侍女はあっさり同意し、彼女を窘めた。
「そうですわよね。侯爵さまはマティルドさまに会いにいらしたわけではありませんもの。姫さま、妹君はよろしいでしょう?」
 ニコールは応えず、ただ身構えて彼を見つめた。
「しばらくぶりですから、二人でお話がしたい。ゆっくりとね……」
 彼は彼女ににっと笑いかけた。酷薄な笑みだった。
 侍女たちは顔を見合わせた。
「お二人でですか? 私どももお側に。姫さまのご用をせねばなりませんから。」
 ニコールは、彼の希望を侍女たちが頑強に拒むことに望みを賭けた。父の宮宰を恐れて、そうするだろうと思ったのだ。
 トゥーリは大袈裟な溜息をつき、困った顔を作って侍女を見つめた。
「悪趣味だね。忠実なふりをして、私がどんなことを言うか興味があるんだろう? 面白可笑しく都中に広められるのはごめんだよ。」
 侍女たちは苦笑いした。
「あら、ようご存じ。」
「知っているよ! 集まってはぴいちくぱあちくと雀のように。あなたたちがいると私は思うことを語れない。やっと会えたのだから、あなたたちも少しは気をつかってくれないかな?」
「それはねえ……」
 侍女たちは笑いながら、お互いを探り合っている。
「本当に辛くて辛くて、死ぬかと思ったよ。どうか、私のことを憐れんで。少しの間、思いのたけを語るのを許しておくれ。」
 侍女は忍び笑いを漏らし、彼を上目に見た。
「でも……二人きりで?」
「何を考えているの?」
「だって……」
 彼はじっと侍女の目の奥を覗きこんだ。
「あなたたちのご経験で考えてはならんよ。第一、この無垢なる姫君に、何かできると思うの? 私が何かすると、疑っているのかな?」
 侍女には真剣な目に見えたのだろう、赤面して首を垂れた。
「そうですわよね。失礼なことを申し上げましたわ。では、私どもはあちらに……」
 ニコールの思惑は外れ、侍女たちはいとも簡単に、彼の言うなりになった。
 ニコールは、行かせまいと叫んだ。
「ちょっと! 何処へ行くの!」
 しかし、侍女たちは笑っただけだった。
「侯爵さまが、ああ仰るから。しばらく下がっています。」
 そして、トゥーリに含みのある笑みを向け
「ごゆっくりどうぞ。私どもは侯爵さまのお声の届かぬところへ下がりますから、ご安心なさって。姫さまのこと、喜ばせて差し上げて。」
と言って去った。
 扉の向こうで侍女たちが笑いさざめいていたが、それもすぐに遠ざかった。

 居間が静まり返ると、トゥーリが豹変した。
 ニコールの真前に立ち、低い声で早速凄んだ。
「お前、何故マティルドを呼ぼうとするんだ?」
 ニコールは、つい先ほどの貴公子然とした彼(そとづら)と、このならず者のような彼(うちづら)との差に、恐怖した。
「ごめんなさい! だって……マティルドも懐いていたから……」
「なら、姉妹で俺の女房になるか?」
「ええっ!」
「草原では当たり前のことだよ。一端の戦士なら二・三人女房がいる。シークが、二人いっぺんに女房を連れ帰ったところで、誰も驚かん。」
 それはほぼ事実であったが、彼女には信じられないことだった。
「なんて恐ろしいところでしょう……」
 彼女の小さな呟きにも、彼は余さず言い返した。
「お前の家の方がよっぽど恐ろしいわ! 大袈裟なこと計画しやがって!」
「大袈裟な計画?」
「そのことを教えてやりに来てやったんだよ。書いてあっただろう? “嘉ばしき知らせ”その二だ。」
 彼は吐き捨てるように言い、彼女を憎々しげに見下した。
「お前の親父は本当に大袈裟なことが好きだな。大公さまにお願いしたんだよ。婚約式なんて大時代的な代物を挙げさせてくれと。笑えるよ! 婚約式だと! 今時、そんなものせぬわ!」
「こ、婚約式って?」
「聞いて言葉の如しだよ。俺とお前と二人して、神さんの前で神妙に頭を垂れてだな、婚約しますって誓うんだよ。お前、親父から聞いておらんのか? 俺が近いうちに草原へ帰るから、その前に正式に婚約して帰れってことだよ。俺の首に縄をつけるということだ。喜べ。」
「そんな……私はまだ十五歳なのに!」
「それがどうした? 俺だってまだ早いさ。この若さで、よりにもよってお前などに捕まるとはな! 嬉しくてならんわ。」
「嬉しいですって!」
「お前は悲しいか? この期に及んで悲しんだところで、どうにもならんことがわからんのか。しっかりお勤めしたら贅沢だけはさせてやる。タイースの衣装に宝石か? 羊と馬しかおらんところで、誰に見せるのか知らんが……。そういや、誕生日にダイヤモンドのピンをやったな。あれはどうした?」
 鋭い視線を受け、彼女は慌てて答えた。
「鏡台の引き出しに入っています! 一つも失くしていません! 全部揃っているわ!」
「何をびくついている? 失くしたところで文句はない。気に入らんのなら捨てれば? ……そういうわけで、今月の終わりには婚約して、次に俺が上京したら結婚式という運びになる。」
「そ、そんなに早く?」
「早いも遅いも、初めからそういう話だろ? お前は十六になったら嫁入りするんだよ。お前は自分の歳も知らんのか? 今十五歳なら、来年の十二月には、お前は十六歳になる。 十五にひとつ足したらいくつ?」
「十六……」
「ご名答。解ったか? 十二月になったら、晴れて夫婦になるんだよ。くどくど説明せねばわからんのか?」
 彼は笑いを堪えた。予定していたことをいよいよ実行するのだ。
「……時期的にもちょうどいい。お前、服を脱げ。」
 思わぬことを命じられ、彼女は戸惑った。
「ええっ? 何をなさるおつもり?」
「この間の続きを教えてやる。」
「続き?」
「仕込みが三月なら、弾けるのは十二月だろう? お解かり? また算数のお勉強か? 三に九足したらいくつ?」
「十二……」
「だろう? 呆けていると思ったが、足し算くらいはできるんだな。新しい発見をした。早く脱げ。」
 苛立っているのが、あからさまにわかる口調だった。彼女は恐る恐る尋ねた。
「何故?」
「言っただろ? 今から子供を作るんだ。」
「ええっ? まだ結婚もしていないのに?」
「結婚していようが、していまいが作れるんだよ。今作っておけば、結婚式が済んだらすぐ生まれる。」
「作る?」
 彼が思った通り、彼女は男女のことを知らない。予定通りにいたぶることができると、ほくそ笑んだ。
 彼はさも意外だというように驚いて見せた。
「それか! それが解らんか。……来年には嫁入りするというのに、お前の乳母は悠長だな。まあいい。俺は親切だから、一応教えておいてやる。……庭先の夜啼き鳥はつがいか?」
「ええ……」
「卵を産むだろう?」
「一回だけ産みました。」
「雛が孵ったか?」
「ええ……」
「その前に、雄の鳥と雌の鳥が何かしていただろう?」
 彼女はじっくり鳥を観察するような性質ではない。よくよく思い出してみても、覚えはなかった。
「さあ……」
「雄が雌の上に乗っていただろう?」
「……覚えていない……それが何?」
「そうすると子供ができるんだよ。鳥も人間も同じ。動物はみんなそう。時期が来ると、交尾をして子孫を残す。」
 そう言われても、彼女はまだ意味が解らなかった。
「解ったか? ぼかしておいたが、要点はしっかり説明した。」
 彼女は言葉を返せなかった。解らないと言えば、どやしつけられるだろうと怖かった。
 言い返しもせず途方に暮れている彼女を、彼はどんどん攻め立てた。
「だから! 我々に当てはめると、雄の鳥が俺、雌の鳥がお前。で、今から交尾しますので、十二月になったらお前は子供を産みます。うまくいけばな。ありていに言えば、そういうことだよ。」
 彼女は泣き出しそうな顔で黙り込んでいる。彼はもっと酷いことを言って、ますます困った顔をさせてみたかった。
「お前、子供はコウノトリが運んでくるとでも思っていたのか? 萵苣畑か? どうでもいいが、コウノトリも萵苣畑も嘘。男と女が身体を重ねなければ子供は生まれん。以上。核心に迫った説明終了。一応、お前の意見を聞いてやるぞ? 言いたいことがあったら言え。」
 彼女は混乱していた。尋ね返したり、言い返すのは怖かった。だがそれよりも、物理的にこれ以上彼と近づくことが嫌だった。結婚前に懐妊するのも嫌だ。
「……そんなことをするのは嫌です……」
 辛うじて答えた言葉も終わらぬうちに、彼は尊大な様子で無慈悲な回答を返した。
「却下。」
「どうして? そういうことは、愛し合った者同士がすることでしょう? 侍女どもがそう申しておりました。」
 彼女は必死に訴えかけたが、彼は鼻で笑う。
「またそんな嘘を教えるんだから……。信じるおめでたいお前もお前だが。愛情などなくともできる。」
 彼女は悔し紛れに呟いた。
「心貧しいお付き合いをなさっていたのね……」
 的を得た批判だった。彼は真顔で怒鳴りつけた。
「うるせえ! ひん剥かれたくなかったら、早く脱げ!」
 明らかに顔色が変わった、触れられたくない部分に触ったのだと、彼女は感じた。一矢報いるならここなのだと思った。
「お見舞いに来て……何という無礼者でしょう! どうせ結婚するのだから、それから好きになさったらいいでしょう?」
 彼女はありったけの敵意を込め、睨みつけた。彼は怯むどころか負けるものかと、再び揶揄うような顔で言い返した。
「ご希望通り、結婚したら草原で辛酸を舐めつくさせてやるよ。だが、俺は気が短いのでね。嫌な仕事は早く済ませて自由になりたいのだ。お前もそうだろう?」
「自由って?」
「説明する必要はない。問題は、草原の跡継ぎは男でなくてはならないということだが、しっかり男の子を産めば、お前はお役御免。都へ帰してやる。」
「何ということを……」
 言い淀む彼女に、彼は更に衝撃的なことを言い放った。
「最初に男の子を産みやがれ! 女など産んだら許さん。名前はつけない。」
 彼女は凍り付いた。娘なら即刻殺すということだろうが、この男なら平然とやると思った。
 表情が変わったのを見て、彼は一頻り笑った。
「早くしろ! 正直、お前が相手では、首尾よく済ませる自信がないわ! 何なら、そのままでまくり上げてやるか? 侍女どもが入ってきても言い訳しやすいぞ?」
 嘲る口調だった。だが、緑色の瞳が虎のようにぎらりと光った。ニコールは、本気に怒らせたのだと縮み上がった。

 トゥーリは、一向に動かないニコールの肩先に手を伸ばした。
 彼女はぶるりと震え、泣き出しそうな顔で見上げている。彼は背が粟立つのを感じた。
「そういう目、堪らないね。以前のお前より、近頃の方がずっといい。ある意味……愛しているかもしれん。」
「……嘘つき……」
「本当だよ。その姿には……ぞくぞくする。」
 そう言うものの、彼は遠い目をしていた。
「俺がお前のことをどんな風に思っているか、お前は知っているか? ここのところ、お前のことばかり考えていた。」
「私のこと?」
「そう。会いに行ったらどんな顔をするかと……どんなことを言うのかと。思っていた通りだった。お前は俺が怖いのだろう? 何故? 恐れるのはどうしてだ?」
 怖がらせておいて、何故と尋ねられても、彼女には答えもない。
「おべっかを言わない公達は初めて見たか? でも、皆が何を考えているのか知れたもんじゃない。言うことを真に受けていたら大変だよ。都では特にそうだ。お前の取り巻き、友達だと思っているのだろう? お気楽な娘だよ。裏ではお前のことを散々罵って、嘲笑っているのに。」
 図星だった。彼女は、他の姫君が自分を何と思っているのかなど、考えたこともなかった。彼の言うように思われているなら、不愉快だ。素振りだけの親しさを結ぶのは虚しいとも思った。だが、孤立して寂しそうに見えることも嫌だった。
 彼女は、相手の真意など測らず心地よさに酔いしれていればいいのだと自分に言い聞かせた。
 まずは、目の前の訳知り顔の無礼な男の手には乗るまいと、気を奮い立たせた。
 彼女は傲然と言い放った。
「ええ。そう仰られてもお友達だと思っていますわ。」
「あからさまな美辞麗句を信じ切って、いい気になって……取り巻きが大事か? 見栄っ張り! 周りは嘘つきだらけだぞ!」
 彼の応えは、彼女の惑いと俄かの決心を揺るがしたが、悟られまいと言い返した。
「あなたが一番の嘘つきでしょう!」
 彼は笑い出し、笑い咽た。
「お前の嘘つき蒐集帖の中で、俺が一番手とはな! 光栄極まりない。」
 彼女は悔しさに震えた。言を繋げない彼女に、彼はにっと笑いかけた。
「ああ。俺はそれに我慢がならんのだ。だから、止めた。お前の取り巻きにも、お前の装飾品にもなるつもりはない。……自分の奥方の前で、一生取り繕うのは真平だよ。」
 静かな口調だった。しかし、彼の瞳には冷たく物騒な光があった。
 それは、彼が初めて本性を曝け出した時の目に似ていた。あの時の恐怖は、彼女の心にくっきりと刻まれていた。これ以上に盾ついて、怒らせてはいけないと思った。
「私は……私は死ぬまでの短い間……多分そうだわ。あなたと結婚したら、私は長生きできないはず。その短い間だけでも、以前のあなたを装ってはくれないの?」
「無理だね。奥方の前で嘘は嫌だと言ったろう? 義務を果たしたら、お互い自由だ。浪費、陰謀、不倫。何でもしたらいい。俺の命を狙うのもいいかもしれんぞ? 上手くやったら、お前はシークの生母として、思うがままに暮らせる。それだけの頭があるとは思えないが、俺は退屈しなくて済む。」
「恐ろしい人!」
 彼は彼女の襟を掴んだ。
「恐ろしいかな? どうせなら、俺と同じ気持ちになってみるといい。」
 彼女は襟を抑えたが、彼は容易く退け、襟を開いた。
「どんなに我慢がならないか、疎ましいか、厭わしいか知ればいい……どれほど憎いか!」
 彼は衣装を剥ぎながら、そう呟いていた。
「憎む……?」
 彼は少し焦った様子を見せたが、慌てて取り繕い
「俺はお前が嫌いだ。初めて会った時から嫌いだった。会う前から憎かった。」
と彼女の帯を解きながら憎々しげに言った。
 彼女は泣き出した。咽び泣いて抵抗しない。彼は苦い想いに目を瞑り、黙って作業を進めた。
 我慢がならないのも、疎ましいのも、厭わしいのも、憎いのも。彼女のことではなく、彼自身に呟いたことだった。

 ニコールの上着を脱がせると、紐で締め上げる形の下着が現れた。トゥーリは手を止めた。療養中のニコールが締めているとは思っていなかった。
 彼は紐を外しかけ、紐のかけ方を知らないと思いついた。
「お前、紐のかけ方くらい知っているよな?」
「侍女がするから……わからない。」
 彼は驚いた。
「十五年も女をやっていて、自分でできんのか?」
 彼女は慌てて
「そんなに責めないで。」
と哀願した。彼は咄嗟に慰めとも聞こえることを口にしていた。
「責めてはいないが……」
「私は自分で服を着たことも脱いだこともないの……。侍女が全部……」
 十五歳にもなって、着るものの脱着もできないことに驚くのと同時に、侍女のするのを毎日見ているくせに出来ないというのに、彼は唖然とした。彼女のことだから、なまじ嘘とも思えない。すると、事が終わったら、彼が着付けをせねばならないのだ。
 彼は手を止めたまま、彼女を眺めた。
 彼女は小さく蹲った。寒そうな姿で、実際まだ寒く、怖くもあり震えている。首筋に栗色の巻き毛がくるくる垂れている。
 彼は、アデレードが髪を上げたときのことを思い出した。白い首筋に垂れていた後れ毛に触れてみたいと、あの時思ったのだった。
 彼は急に切なさを感じたが、今思い出すことではないと振り払った。そして、彼女の首筋をそっと撫でると、抱き寄せた。
 彼女はびくりと震えて呟いた。
「怖い人……あなたは私を殺すわ。男の子が生まれたその日に。お父さまが仰った通りの怖い人……」
お父さま(・・・・)が何て? 殺されるとでも言ったか?」
 彼女は、それには答えなかった。
「それとも、公女が卒倒したあの話か?」
「あの話?」
「猟犬に生餌を与えた話か? 虜囚の女の首をどうのという話か?」
「ええっ!」
「お前の首もずいぶん細いね。その女の首をどうしたと、お前は思う? 折ったと思う? 折らなかったかな?」
 首についての恐ろしい話題に、彼女は悲鳴を上げかけた。彼は彼女の口許を抑え、全く楽しくない睦み事を始めようとした。
 やがて彼女は、身体に触れる冷たい手に堪え切れず、とうとう声を挙げた。
「もうやめて! この悪魔! 草原の狼!」
 彼は身を起こし、立ち上がった。
 彼女は慌てて離れ、散らかった服をかき集めた。
「気の利いたことを言う。そう。草原の狼かもしれんな。俺の耳飾りは、日輪を喰らう天狼だ。俺の喰らう日輪はお前かな?」
 そう言って彼は、彼女を見下ろした。小さな背中や肩が震えている。彼女をいたぶるのも、自分に嘘をつくのも十分したと思った。
「もういい……止めた。服を着ろ。」
 彼女は抱えた服を見つめ、途方に暮れているばかりだ。
「何をじっとしている? 誰か入ってきたら困るだろう?」
「だって……」
 彼は溜息をついた。
「お前、自分で服を着られないんだった。……何て面倒な女だろう! 仕方ないな……」
 彼は服を着せつけ始めた。彼女はもじもじしながらも、彼に従った。
「こっちがこうで……これがこうなっていたかな? ……最初の通りにしておかねば……」
 脱がし専門の彼氏と着せ替え人形の彼女は、初めての共同作業を何とか終わらせた。

 二人は離れ、ニコールは長椅子に座り込んだ。トゥーリは対角の壁際に立った。沈黙が流れた。彼は気まずさに負けた。
「お前、何故そんなに着こんでいるんだ?」
「寒いから……」
「まあ……寒いけど……。だったら、俺なんかどうなる? 温かいところの生まれなのに。お前は我慢が足りないんだよ。」
「草原は温かいの?」
「都よりはな。風は強いけど。ここみたいにどんより雲がかからないから、陽射しがある。そろそろ草原の芽吹く頃だ。やがて白い野いちごの花が一面に咲く。」
 それは、子供のころに、アデレードに見せると約束した光景だった。
「野いちご?」
「ああ。雪が降ったみたいだよ。春の終わりには、小さい赤い実がなる。娘たちはそれを摘んで煮詰める。平たいパンに塗って食うんだよ。甘酸っぱくて旨い。」
 草原の話をしているうちに知らず知らず懐かしくなり、彼の表情は和んでいた。
「へえ……」
 彼は相槌の相手がニコールであることを思い出し、慌てて表情を厳しくした。
「どうでもいいわ、そんなこと! お前、もう少しまともに年相応になっておけよ。服も着られない脱げないではいかん。まさか、飯も一人で食えないんじゃないだろうな? 草原に下ったら俺と天幕暮らしなんだから、自分のことは自分でできるように。」
 それは、意地悪な気持ちだけで言っていることではなかった。家族水入らずで草原で暮らしたいのは、彼の本心だった。
「天幕暮らし?」
「そうだよ。ラザックの宗族と一緒に羊と馬を追って、草原で暮らすんだよ。」
「ラザックシュタールのお屋敷では……?」
「屋敷になぞかったるくておられんわ。俺とお前と、俺の幕屋で生活する。炊事、洗濯の心配はしなくてもよろしい。ラザックの女が……」
 彼の言葉に彼女の大声が重なった。
「嫌です!」
 美しい生まれ故郷を即座に否定されたように感じ、彼は激昂した。
「うるせえ! 俺がそうすると言っている。黙って従え。この前いっただろう? 殴りつけられたいのか!」
「嫌、嫌!」
 彼女は声を挙げて泣き出した。
(そんなに草原が嫌か……!)
 彼は黙って腹立たしさを堪えた。

 しばらくして、侍女たちが戻ってきた。ニコールは長椅子の背に顔を埋め、泣き続けていた。
「どうなさったのです?」
 彼女は黙って泣いてばかりで答えない。代わりに、トゥーリが答えた。
「婚約式のこと、ご存じなかったのですね。突然の話で驚かれたのでしょう。」
「そんなことで……」
「ご体調がまだ無理だったのかしら……ああいうご様子だったから、私たちもお知らせしていなかったのですけれど……」
 二コールは、しゃくりあげながら
「草原へ下るのは嫌……」
と言った。
 侍女たちは眉を顰めた。
「我儘を仰らないで。侯爵さまに失礼ですよ。」
「姫君は都からお出になったことがない。だから、不安に思われるのでしょう。都と違って何もない田舎ですから、初めは寂しく物足りなく思われるでしょうが、のんびり静かに暮らせます。」
「怖い!」
「怖いって……姫さま、何も草原の真ん中で暮らすわけではないでしょう? ラザックシュタールは大きな街です。都と変わりませんよ。」
「だって……」
「例え草原の真ん中でも、シークの奥方に狼藉を働く者などおりません。ラザックとラディーンの戦士が守ってくれる。それ以前に、私があなたを守ります。何も心配しないで。」
(あなたが一番狼藉を働くんじゃない!)
 彼女は、彼の振舞いを暴露したかった。
 しかし、貴公子然とした彼しか知らない侍女たちだ。易々と言いくるめられるのではないかと躊躇しているうちに、彼は困った顔をしてみせ
「困ったなあ……。あなたに泣かれるのは一番辛いよ。私の説明が悪かったのかもしれないね。どうしたらご機嫌をなおしてくれるの?」
などと優しく問いかけ、侍女たちの同情を喚起した。
 ニコールが応えずにいると、彼は寂しそうな顔で考え込み、やがて
「そうだ。こういうのはお嫌いかな? ……ラザックシュタールはマラガに近いから、都では見たことのないような品が手に入るよ。カウラヴァの綾絹とヴァンベレツカのレースで、マラガの仕立て師に衣装を作らせたらいい。宝石も珍しいのが入ってくるよ。私の母はそういうのが好きだから、あなたとは気が合いそうだな。寂しかったら……南の国の話をする鳥を飼ってみるかい? それとも、セリカの皇帝が飼っている黄金の毛をした小犬にする?」
と言って微笑んだ。
 この彼ならいいのにと思うと、先程の彼が余計に恐ろしい。落差の激しさが、ニコールの理解を超えていた。
「……ここにいたいわ……」
「姫さま、こんなに仰ってくださるのに!」
 トゥーリは侍女たちの間をゆっくりとすり抜け、ニコールの前に立った。
「寂しいね……。ニコールには私の生まれたところを見て、できたら気に入ってもらいたいのに。私の我儘なのかな……。でも、離れたくないのだよ。その気持ちだけはわかって。少し考えてね。」
 彼の目はやはり、口調や言葉とは裏腹の冷たさだ。彼女は目を伏せた。
 侍女たちは嘆息し、彼女を責めた。
「姫さま、優しい殿さまでよかったではありませんか。そうまで言われて、まだ嫌とは申し上げられません。本当にいい方。」
 彼は背後の侍女たちをこっそり横目で窺い、ニコールに視線を戻すと唇の端を上げた。冷酷な笑みだった。
「そう……私はきっと良き夫になるでしょう。」
「涙をお拭きになって。……止まりませんの?」
「お加減が悪いのですか?」
 侍女たちがいろいろと尋ねたが、二コールの反応は悪い。侍女たちは、これ以上見苦しいところをトゥーリに見せるわけにはいかないと思い始めた。
 侍女の一人が彼の背を叩いた。
「後は私どもで何とかしますので……」
「ああ、気の付かないことで。よくわかったあなたたちに頼んだ方がよさそうだね。」
「申し訳ありません。」
「いや……もう日にちもないことだし、よろしくご機嫌を直してもらって。婚約式でも泣かれたら、哀しくて草原に戻れないよ。離れるのすら哀しいのに。」
「侯爵さまのお心に適うように努めます。安心なさって。」
「頼んだよ。」
 トゥーリは、泣いているニコールの顎をそっと持ち上げた。
「泣かないで、可愛い人。当日は笑顔でね。」
 先刻と同一人物とは思えないと、彼女は唇を噛んだ。

 侍女たちは手を替え品を替え、ニコールを慰め諭したが、一向に泣き止まない。
 彼女たちは長々と説得することも、話をじっくり聞くこともしなかった。
 誰もが、結婚前によくある状態だと思っていたのだ。
 また、先程のトゥーリの申し出を聞いて、妬ましく思ってもいた。本気で心配する者などいなかった。

 トゥーリは、自分の行いに一抹の罪悪と悔みを感じていた。
 しかし、ニコールがこの期に及んで嫌だ嫌だと言っていたのを思い出すと、その気持ちも失せた。嫌だと言えば、皆が慰めたり、上手く計らってくれるものだと思っている彼女に、我慢がならなかった。
(悪魔などと……! 悪魔だろうが野獣だろうが、もう逃げられないんだ。根性すえろというのに。俺とて諦めて、根性すえた。)
 諦めたと思いながらも、深い溜息が出た。

“私の安らぎは消え、私の心は重い。もう二度と安らぎは帰ってきはしない。”

 曲調だけは陽気な糸紡ぎ娘の歌を口ずさんだ。
 並走していたラザックの近習が
「シーク! ご機嫌がよろしいな!」
と声をかけた。半ば皮肉な気持ちでかけた言葉だった。
「おう! あんな可愛らしい幼な妻をもらうんだ。待ち遠しいではないか!」
 トゥーリは、上を行く言葉を返して高笑いした。



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