5

 トーナメントの日が巡ってきた。
 トゥーリは、一回戦で負けたかったが、そうもいかない事情がある。
 昨年の成績が良く、配慮があった。また、このような行事には賭けが行われ、胴元は大公なのだ。初戦で、作為的な敗退をするわけにはいかない。体面もある。
 その結果、思いがけずか思った通りか、テュールセンのリュイスと勝負することになった。

 夜会で言っていた通りに、リュイスは鎧の結び尾にアデレードの手巾を結んでいた。縁談がなかったら、その手巾を結んで頑張るのはトゥーリのはずだった。
(あれを結んだリュイスと勝負するより、熊みたいなおっさんと打ち合った方が、よほどすっきりする……)
 彼の勤労意欲は激しく消沈した。
 リュイスは、トゥーリが物憂げに自分を眺めているのに気づき、苦笑いした。
(お前の大好きな彼女の手巾だぞ? 腹立ちまぎれに、すさまじい闘志を見せてくれるのかな? ……すると、ニコールの為に頑張っているように見えるわけだが……)
 彼は先に馬場の真ん中に出て、トゥーリを挑発した。
「アナトゥール! いつもより剣が重たかろう! 早く済ませてやるぞ。」
(“いつもより”って何だよ? “いつもより”って!)
 トゥーリは、見透かされていることに苛立った。
「どうしてあいつは、いつもあんなに元気なのだろうね……」
 近習相手の呟きが、聞こえたのかは定かではなかったが、リュイスは
「俺はいつも意気軒高だぞ! お前はもう体面を気にする必要もない。俺に負けても、恥じ入らなくていいぞ。生娘のようにもじもじしておらずに、早く駒を出せ!」
などと、大音声で呼ばわっては笑った。
「言うことが下品だな。」
 またもや聞こえたのか聞こえていないのか
「何だと? 小さい声になったなあ! 聞こえんぞ!」
と、馬を輪乗りしながら笑っていた。
「吠えるな。少し待て!」
 トゥーリは怒鳴り返した。今度は
「大きな声で怒鳴らずとも、聞こえるぞ! 俺は、耳は遠くない!」
と言った。
 トゥーリは舌打ちし、近習に囁いた。
「前置きが多いな。」
 今度は聞こえなかったのか飽きたのか、リュイスは黙って馬場を歩き回っていた。
 トゥーリは髪を直し始めた。ほどいて櫛を入れ、編み、弓の弦で結える。リュイスは痺れを切らした。
「姫君か、お前は? 支度に時間をかけすぎだぞ! 俺が格好良く切ってやるゆえ、早くせよ!」
 トゥーリはゆっくりと騎乗し、リュイスに駆け寄った。
「聞き捨てならんな。似たようなことを言って、無様に腰を抜かしたこと、忘れたのか?」
 リュイスは、考え込むふりして見せ
「そんなこと、あったか?」
としれっと答えた。
 トゥーリは編んだ髪を更に輪に回し、ニコールの手巾を結んだ。リュイスは、トゥーリの顔に指を向けた。
「その綺麗な顔、傷を入れてもいいか?」
「顔は止めてよ。父上にそっくりな顔に傷をつけると……母上と奥さま方が嘆く。俺の小さな恋人もね。」
 二人は笑い合った。リュイスは、トゥーリが元気なようだと安堵していた。
「真面目にやれよ!」
 リュイスがそう声をかけた後、試合が始まった。

 勝負は、相手を落馬させるか、得物を取り落させるかで決める。大抵、得物を落とすことで決まった。
 だが、二人の勝負はなかなか決着しなかった。
 少年の頃、同じ武芸の教師の下にいたのだ。お互いの手の内はよく知っていた。
 リュイスの出自は武門の名家だ。普段は不真面目な言動が目立つが、こういう時の彼は非常に真面目だった。しかし、最初から戦闘意欲を欠いているトゥーリは、次第に愚かしく思う気持ちが強くなってきた。
 トゥーリはリュイスの攻撃を受けると、剣を落とした。巧妙な作為だったが、リュイスは気づいた。
(わざと負けるつもりだな!)
 真面目にやっているだけに我慢ができず、彼は怒鳴った。
「こらあ! 二本目を抜け!」
 トゥーリは猛る馬を鎮め、馬場の真ん中で立ち止まらせた。二本目の剣に手をかけることもしなかった。
 “こんな茶番に熱くなるのか? ”
 視線がそう嘲っていた。リュイスは更に血が上った。
「抜かんのか? なら……カンテーヌのようにそこに立っていろ!」
 リュイスは剣を振り上げ、馬に拍車を入れた。
 トゥーリは何の抵抗も見せない。
(あ! 本当にカンテーヌになるな!)
 リュイスは焦ったが、勢いのついた腕はそのまま剣を振り下ろしていた。

(やってしまった! だが……手ごたえが軽かったぞ?)
 駆け抜けたリュイスは瞑った目を恐る恐る開けて、振り返った。
 そこには、無事な姿の友達がいた。首ではなく、結わえていた手巾が千切れ落ちていた。編んだ髪がさらさらとほどけて、風に踊っていた。
(髪か……? 髪を薙ぎ切っただけか……)
 彼は胸を押さえ、深い溜息をついた。
 トゥーリは髪をかき上げ、するりと馬から下りた。
「参りました。」
 微笑む彼に、リュイスは呆気に取られたまま答えられもせず、ただ睨んだ。

 二人は桟敷の前に馬を進めた。アデレードはリュイスに微笑みかけた。
「テュールセンさま、とても素晴らしいお腕前。感服いたしました。」
 リュイスは戸惑い
「はあ……過分なるお言葉、いたみいります。」
と歯切れの悪い答えを返した。
「……ラザックシュタールさまも、お怪我がなくて安心しました。」
「斬られたとお思いになりましたか?」
 彼女は口ごもった。子供のころ、トゥーリの稽古を見たくて、頻りに馬場について行った。彼の剣の癖は、見知っているつもりだ。また、今は彼の動きばかりを見つめていたのだ。彼の作為を確信していた。
 彼女は素早く周囲を見渡した。誰も、彼の振舞いに気づいていないようだ。波風の立たない応えを返さなくてはならないと思った。
「……ええ。」
 辛うじてそう答えたのに、彼は
「ご覧になったでしょう? 私の振舞い。」
とくすくす笑った。
 リュイスは厳しい目で、トゥーリを制した。
「アナトゥール、止めんかね。」
「余計なことを申し上げました。」
 彼は笑いを噛み殺した。彼女は上気した。
 大公は何も気づいておらず、鷹揚に
「姫。リュイスがそなたの名誉を守ったよ。さすがに武門の要、テュールセンの御曹司だね! 手練れの技に私も感服したよ。アナトゥールもね。馬はそなたの方が上のようだね。人馬一体を目の当たりにしたよ。両名とも大儀。戻って休みなさい。」
と言葉を掛けた。
 大公が満足そうに馬場を退出すると、観戦していた人々も三々五々帰り始めた。

 リュイスはトゥーリに小声で言った。
「お前、もっとわかるように避けろよ! 寿命が縮んだ。」
「凄まじい形相で斬りつけるから、驚いて動けなかった。」
 リュイスは呆れると共に怒りを感じ、声を低め詰った。
「つまらんことを!」
 しかし、トゥーリは薄く笑うばかりだ。
「よいではないか。何はともあれ、公女さまの名誉は守られたのだから。」
などと晴れやかに言う。リュイスは顔を顰めた。
「何はともあれか……」
「大公さまもお慶びだよ。」
 リュイスが何と言おうか迷っているうちに、トゥーリは馬を引いて馬場を去って行った。

 トーナメントの後は、リュイスの祝勝会が催されることになっていた。ニコールと同伴しなくてはならないと思うと、トゥーリにはうんざりだったが、世間の付き合いである。
 鎧を脱ぎ、身体を洗って、服を着終えた。髪を風に晒して乾かしながら、ニコールからの遣いを待っていたが現れない。いやに遅い。彼は小姓に様子を見に行かせた。
 小姓が出て行くと、ほどなくまた扉が開き、アデレードが入ってきた。
 彼女はつかつかと早足に歩み寄り、彼の真ん前に立った。挑むような目をしている。
「私、トゥーリが言った通り、さっきの見たわよ! リュイスさまにわざと負けたところ。」
「だったら? こんなもの、本気の勝負は初盤のだけさ。最後には、高位の若さまが勝つようになっているんだよ。本当の戦場なら、お上品な若さまが勝てるわけがない。」
 彼の態度は柔らかかったが、言うことは嘲るようだった。彼女は向こうっ気が湧いた。
「あんたたちは、その高位のお上品な若さま同士じゃない。堂々と戦ったらいいじゃないの!」
「リュイスは、お前の手巾を結んでいたからな。お前の名誉の為じゃないか。」
「……そんなので守られた名誉などいらないわ。」
 彼女は拳を握って、ぽかぽか彼の胸を叩いた。彼は何度か叩かれた後、彼女の手首を取り強く握り上げた。彼女は、彼の手を振り切った。そして、彼を平手打ちにした。彼女の指環が擦れて、彼の頬に軽い擦り傷ができた。
「トゥーリはよう誤魔化す。あんな下手くそな誤魔化し……ずっと誤魔化して生きていくつもり?」
 彼はそれには答えなかった。黙って彼女の頬を打った。彼女は燃えるような目で睨みつけた。
「トゥーリなんか、トゥーリなんか……いっそ死んでしまえばいいのに!」
 彼はそっと目を逸らし、帯に挟んでいた牛刀を鞘ごと抜き取って、彼女に手渡した。
「それを使うといい。よく切れる。」
 彼女は手渡された牛刀と彼の顔を交互に見ていたが、やがて牛刀を握りしめたまま、くるりと踵を返して出ていった。

 その直後、今度はニコールが扉を開けた。
 時機が悪い。トゥーリはたちまち苛立った。それでも彼は平静を装った。
「宴席、もう用意ができたのですか? 髪を編むから、少し待って。」
「宴席など……」
 ニコールは顔を歪め、彼を睨んだ。
「どうなさったの? ご機嫌がよろしくないようですね。私が負けたから?」
「負けたですって? わざと負けたくせに! あなたがテュールセンさまとお桟敷の前でお話していたとき、そんな風に聞こえましたわ。私の為に戦ったのに、公女さまの為に負けたのでしょう?」
 彼は小さく舌打ちした。
(おかしなところでは勘がいい。)
 表情を見られないように彼は横を向き、髪を編みながら答えた。
「それはね、仕方ないでしょう? 大公さまだって、公女さまの騎士が勝つところをご覧になりたかったのだから。ご主君のお悦びを察して差し上げねばなりません。」
 宮廷的には、これ以上ない正論だ。彼女は一瞬だけ俯いたが、昂然と顔を挙げ詰った。
「……一番上等な薄物のセリカを差し上げたのに!」
「ああ、リュイスもねえ、気の利かない男だ! 遠慮なく斬りつけるから……」
「それに……それに今、公女さまが出ていかれるのを見たわ。何のご用でいらしたの?」
 彼は胸の底がひやりとしたが、平然と答えた。
「……労いを掛けてくださりに、わざわざ来られたのです。」
「それだけなの? 何故、公女さまとそんなに親しいの?」
「親しい?」
「お答えになって!」
「それは……ほら、私は子供のころ城内に住んでいたから、アデルとは……」
 親しげな呼び方に、二コールが反応した。
「アデル?」
「ああ、失礼。小さいころは、そう呼んでいたのです。公女さまとは遊び友達だったのです。」
「理由になっていませんわ。」
「なっていなくても、そうなのだから。幼馴染みだからですよ。」
「子供のときだけ? 今も親しいの?」
「今はそうそうお側に寄れませんよ。この前の夜会のときと今日と、久しぶりにお話しましたね。」
「そう?」
「そうですよ。」
 彼は顔色も変えずに、すらすらと答えたが、彼女は疑って譲らない。
「わざわざ労いに?」
 また、最初の質問に戻った。彼に苛立ちが募った。顔を見るのも苦痛だった。
「ただ今、申した通り。リュイスのところにも、いらっしゃったのではありませんか?」
 彼女はリュイスの名前を聞いて、足を踏み鳴らした。
「テュールセンさま……私の手巾、気に入っていたのに!」
 彼は、そんな些細なことがそれほど腹立たしいのかと呆れたが、公女の話から逸れたのは有り難い。
「代わりの品をお贈りしましょう。ご機嫌なおして。」
 そう言って微笑むと、彼女は頷いた。しかし、再び疑念を口にし出した。
「公女さま、何だか慌てて出ていかれた。」
 彼は出来るだけ軽い調子で応えた。
「そう? どうなさったんでしょうね。」
 彼女は、探るような目を彼に向けた。二人は黙って、しばらく見つめ合った。
「やっぱり変よ! 公女さまとあなた、立ち合いの後だって何だか……じゃれついているみたいな……そう、じゃれつくみたいに、あなたはくすくす笑って、楽しそうにしていらした。」
「そんなこと言われてもねえ。別に、楽しくはなかったけど?」
「今でも親しいのでしょう? ……何よ! “俺の小さな恋人”なんて仰ったくせに。私の夫になるくせに! 浮気者!」
「浮気者って……私は何もしていませんよ。」
「したわよ! 私の侯爵が他の方と親しくするのは、許せません!」

 トゥーリが何を言っても、ニコールは受け付けない。彼は、苛立ちを通り越して、怒りが突き上がるのを感じた。
「私とだけ同伴して、私とだけ話して、私とだけ踊って、私の為だけに何でもするの!」
 この傲慢な言い様に、まだ我慢をせねばならないのかと思ったが、彼は堪えた。
「それに……何、その傷? 頬に傷があるわ!」
 彼女は、眉間に皺を寄せた。いかにも不愉快そうだ。
「え? 何時ついたんだろう? どこかに擦ったのかな? 目立ちますか?」
 彼女は、彼の傷をじっと観察した。
「……まあ、いいわ。それほど目立たない。……気をつけていただかないと、困りますわ。顔に傷など……連れて歩けないでしょ! それに、勝手なこともなさらないで。私の思う通りでいてもらわないと!」
 彼は言葉を失った。こうまではっきり添え物扱いされる謂れはない。
「お返事は?」
「……はい。」
「聞こえませんわ!」
「はい!」
 どうして我慢できるのか、彼は自分でも不思議だった。
「私のセリカの手巾、あんなことになってしまって! ……それを申し上げに来ましたが、つまらんことまで申し上げなくてはならなかったわ。あなたの所為!」
「つまらんこと?」
「つまらんことですわ。これ以上、不愉快な思いをさせないで! 髪、それでよろしいわ! 宴席が始まってしまう。早くして! 早く! 私の言う通りしていればいいのよ!」
 足を踏み鳴らし、顎をそびやかして悪態をつく彼女に、彼はくらくらするような怒りを感じた。
(この娘!)
 彼は彼女の腕を引っ張り、抱き締めて口づけをした。
「何をなさるの! 離して!」
 驚いて抗う彼女を抱きすくめ、更に深々と口づけをした。
「私の妻になるのでしょう?」
 そう囁いて、胸に抱き込み、腰をゆっくり撫でた。
 彼女は赤面し、怒鳴った。
「こんなこと! およしなさいよ!」
「何故? ご自分でさっき仰ったではありませんか? 私があなたの夫になると。」
「でも……」
「それに、公女と親しげだと……嫉妬なさったのかな? 困ったよ。ただ話していただけなのに。そんなに妬きもちを。」
「妬きもちなど……」
「だから、もう少し親しくなったらよいではありませんか? あの程度で妬かなくてすむ。ご婦人とお話もできないのは少々困ります。」
「話くらいは……だから、もう離して……」
「嫌なの? あなたのお好きな物語の騎士だって、姫君に口づけして、抱き締めるじゃない? あなたは“あなたの侯爵”にそれすら許さないの?」
「そんなこと……」
 彼女は半ば妙な気持ちになっていたが、ふと相手の顔を見上げて、身を固くした。
 そこには、優しくて思い通りになるいつもの“私の侯爵”ではなく、冷たく底光りする瞳で彼女を睨む見知らぬ男がいた。

 トゥーリは、二コールの凍り付いた顔を見て薄く笑い、身を離した。
 彼女は視線を彷徨わせ、言い訳がましい言葉を繋いだ。
「私はただ……あなたが私の手巾を、わざと負けて……」
「臣下ならなすべきことをなしただけだと申し上げたでしょう? それはあなたもお解りのはず。手巾は好きなだけ作って差し上げる。……百枚でも二百枚でもね。」
 柔らかな優しい口調だった。彼女は、さっき見たのは気のせいだと思い込もうとした。
「でも……」
「黙らんか! お前は俺の言うことに、素直にはいはい申しておればよいのだ!」
 彼女はびくりと飛び上がった。未だかつて、男の怒声など浴びせられたことはなかったのだ。

 小姓が現れた。
「宴席においでなさいませ。」
 トゥーリは
「今行く。」
と応えた。
 彼は、長椅子によろよろと座り込んだニコールを見下ろした。そして、冷酷な決心をつけた。
(下手に出れば、調子に乗りやがって! あの親父にこの娘かよ! 親父も胸糞悪いが、娘も上等だよ。もう我慢ならん。)
 彼女は身を縮め、ちらちら彼を盗み見ていた。先ほどの彼の行いが、愛情の発露でないことは、彼女にもわかる。
「姫君はご気分が優れぬようゆえ、少々時が要る。お前は先に行って、我々の席を守っておれ。」
 彼は小姓を去らせ、立ち上がろうとしない彼女の真ん前に立った。
「ニコールよ。お前、耳が遠いのか?」
 彼女は、意味が解らず、ただ彼を見上げた。
「宴席が整ったと、お前も聞いていただろうに。明日まで座っているのか? 早く立て!」
「はい……」
 一向に立ち上がる素振りがない。
「立てというのがわからんのか! 根が生えたか? いつまでも、こんな所にはおられん。早くしろ!」
「私……宴席はご遠慮したいと……」
 彼女はようやくそれだけ答えたが、彼は冷淡に拒んだ。
「ならん。お前も一緒に来るのだ。」
「でも……」
「口答えするなと、今言ったと思うが? もの覚えの悪い娘だな! もう一度だけ言ってやる。俺の言った通りになせ。」
 彼女は黙り込んだ。恐ろしくて、何を言っていいものか分からなかったのだ。
「返事をせよ。」
「はい……」
「聞こえんわ!」
「はい。」
「三度言わすな! 次は殴りつけてやる。鼻が曲がるのが嫌なら、よう覚えておけよ。早く立て! 同じことを何度も言わすな!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 彼女は泣き出した。
「誰が泣けと言った? 立てと言ったんだよ! それに、服の襟もとを直せ!」
「は、はい……」
 彼女はびくびくしながら立ち上がり、もたもたと着衣の乱れを直し始めた。
「早くしろよ。のろまな娘だな!」

 トゥーリはさっさと部屋を出て行った。二コールは慌てて後を追ったが、速い足に追いつけずに遅れた。
 彼が立ち止まり、彼女の側に戻ってきた。彼女は殴られるのかと首を竦め、立ち尽くした。
 彼は彼女の顎を乱暴に持ち上げ、低く凄んだ。
「下を向くな。しっかり顔上げるんだよ。いつも通りに振舞え。お前、皆の前で涙なんぞ見せたら許さんぞ!」
 彼女は握った手を口に噛ませ、叫び声を堪えた。彼は彼女の手を掴んだ。彼の手の冷たさに、彼女はぞっとした。
 彼女の足はいきおい縺れたが、彼は構うどころか、叱責する。
「早う歩かんか! 号令でも要るのか!」
 弾けきった彼の怒りは、暴走して止まらない。今まで鬱々としていた分、異常な昂りを感じていた。
 広間に入る前、彼は彼女の手をぎゅっと握った。
“下手なマネをしたらどうなるか、わかっているだろうな? ”
 彼の目はそう語っていた。彼女は震え上がった。
 広間に入ると同時に、彼は表情を和ませた。それは彼女が以前に知っていた公達だ。
 いつもと同じく、行儀よく礼儀正しくしている彼を見て、彼女は先程のことは白昼夢だと思い込もうとした。
 だが、彼女に向ける彼の目は刺すようだった。
 彼女は逃げたくて仕方がなかったが、後でどんな恐ろしい目に遭わされるかと思うと、足が竦んだ。側に居続けるしかなかった。
 見た限りでは、仲が良く大変結構な様子だ。他人はおかしいと思うこともなかった。

 二人を見つけたテュールセンのリュイスが近づいてきた。
「先ほどはどうも。」
 馬場でのことを気にしているのだろう、彼らしくもない大人しい口調だった。
 トゥーリも多少気まずかった。
「宴席の主役が自らお声をかけてくれるとは、ありがとう。」
「どういたしまして。姫君も……あら、お顔色が冴えないようですが?」
 ニコールは慌てて否定した。
「えっ! そんなことありません。」
 トゥーリは彼女の顔を覗きこんだ。そして、リュイスに向かって苦笑し
「さっきのに驚いて……まだ動揺しているのだよ。」
と言った。
 リュイスは、俯く彼女を眺めた。
「そうかなあ。」
「そうだよ。お前が遠慮なく斬りつけるから。ね。恐ろしかったんだよね?」
 彼女は彼を上目にちらりと見て
「ええ……」
と小さく答えた。
「へえ……で、寄り添って、離れないというわけか。仲睦まじいな!」
 リュイスが、いつもの調子で揶揄うと、トゥーリはにっと笑い
「とても心配してくれて。……可愛くて仕方がない。」
と言って、目を伏せた。
「……それはよかった。早くも新婚みたい。結婚式早めたら?」
「待っている間が、また楽しいんじゃないか。……式が済んだ後もね。」
「ま、仲良くて結構。」
 リュイスは妙な気がしたが、何がおかしいのかわからなかった。彼は、わからないことは深く考えない陽気な性質だった。
(遅れて来たが……その間に何かしたようだな。ようも手出しできたもんだ!)
と驚嘆し、また
(ということは……アデレードさまのことは諦めるってことだな。)
と一人納得した。
 ニコールは、結婚と聞かされ凍り付いた。結婚後の扱いがどうなのか、底知れぬ恐怖を感じた。
「あの……少し気分が悪いの。」
 思わず口にして、拙かったと思ったが
「それはいけない。人いきれに酔われたのかもしれない。外の空気に当たっては?」
と既に手を取られていた。

 人気のない庭園に出ると、ニコールは腰掛に倒れ込んだ。そして、青い顔をして俯いた。
 トゥーリは彼女を見下ろし、つけつけと言った。
「お前、どういうつもりだ? いつも通りしていろと言っただろう?」
 彼女は顔を上げ、彼を睨んだ。
「……あんなこと……白々とよく言えたものですね。」
「何が? いくらでも言えるわ。舌先三寸、勝手に出てくるね。昨日まで、お前にも散々してきた。」
「ようも……」
 彼は腰を折り、彼女の顔を覗きこんだ。
「どうしたの? そんなに眉を寄せると、可愛らしい顔が台無しですよ。」
 刺すような目で睨み、猫撫で声で言う。彼女は唇を噛んだ。
「どうか、いつもの無邪気なニコールに戻って……ってか!」
 彼は高笑いした。
 彼女は精一杯の勇気を振り絞り、罵った。
「恐ろしい人!」
「何も恐ろしいことは申しておらんぞ。」
「昨日までのあなたは何だったの?」
「難しい質問ですなあ。お前の思いに適うと思ってやっていたんだが? 将棋の駒のように政略の相手と縁付くより、嘘のように愛が芽生えましたという方が、お前の肥大した虚栄心が満たされるだろう?」
「酷い! あんなに優しくしてくれたのは嘘だったの?」
 彼は薄く笑い、平然と答えた。
「ありていに言えばそうだよ。」
 そして、絶句する彼女に言い放った。
「……お前に愛情が湧いたとでも思ったか? 奇蹟でも、そんなことはありえん。この結婚も、お前の親父も、何よりお前自身がうんざりだ!」
「そんな……」
 彼女は泣き出した。彼はすかさず怒鳴りつけた。
「うるせえ! 泣くな!」
「だって……」
「いつまで泣いている? 化粧が落ちる! 早く泣き止め。広間に戻るんだよ!」
 止めろと言われても止まらない。彼女はすすり泣き続けた。
 彼は黙って彼女を見下ろした。しかし、全く後悔の念が湧いてこないばかりか、余計に腹が立ってきた。
「そんな肝の据わらんことでは、草原ではやっていけん! ましてやシークの奥方など。息子が生まれるまでの仲ではあるが、しっかり根性を据えておけ。俺の息子がお前に似て、ぴいぴいすぐ泣くようでは困る!」
 彼は、一向に立ち上がらない彼女の腕を掴んで、無理やり引きずり上げた。彼女の身体は腕を取られたまま、ふらりと脱力した。
(根性無しが!)
 彼はますます苦々しく思い、そう重くもない彼女を抱え上げた。

 ニコールの意識は、すぐにはっきりした。あれこれ気付けに慌てていた侍女たちはほっと息をついた。
「姫さま……よかった。ご無事なのですね。」
 ニコールは、また頭がぼんやりしていた。
「ああ……ここは?」
「お城ですわ。宴席で、お倒れになったのです。」
「そう……」
「お疲れになったのですね。お屋敷へ戻って、ゆっくりとお休みしましょう。」
 彼女は、何の宴席だったのか、記憶を探りながら呟いた。
「でも、宴席は……?」
 すると、思い起こす間もなく
「宴席などお気になさらず。」
と声がした。
 部屋の片隅に、トゥーリが立っていた。彼女は、瞬時に全てを思い出し、震え出した。
「侯爵さまも、ああ仰っています。帰りましょう。」
「侯爵さま……」
「ええ。とても心配なさって、御自ら抱き上げてここに連れてくださったのです。お礼なさって。」
 侍女たちは、感心した様子で、頷きあっている。
「あの……」
「よいのです。当然のことを成したまでのこと。それより姫君の御身が心配です。お女中の申す通り、お屋敷に戻りましょう。」
 彼女は、彼の表情を必死で探った。いつも通りの美しい顔だ。微笑んでいる。先程見た険しさは、微塵もなかった。
「はい……」
「お屋敷までお送りします。」
「……はい……」
 彼女は蒼白で答えた。

 屋敷に到着すると、トゥーリは宮宰夫妻に丁寧に状況を説明して
「心配です。」
と神妙な顔をしてみせた。
「連日、夜会にお連れしたのが悪かったのでしょうか? 申し訳ありません。」
「いや……」
 宮宰は、彼の様子に戸惑った。
 トゥーリはニコールの前に屈みこんで、顔を覗き込み
「ゆっくり休んでね。早く元気なニコールに戻って。」
と言葉をかけた。
「ええ……」
「会えないのはとても寂しいけれど、我慢するよ。おやすみ。」
 彼女は、侍女に肩を抱きかかえられ、屋敷の奥へ去った。
 宮宰は、トゥーリを不思議そうに見つめた。
「侯爵。先日は悪態をついていたように覚えているが、仲良くしておるのだな。」
「そう……仲良くしていますよ。姫君は、無邪気で可愛らしいですからね。」
「その調子で仲睦まじく夫婦でいてくれよ。そうしてくれれば、儂も安心というもの。」
「宮宰さまのお心に適うように励みます。」
 トゥーリは真面目な顔で答え、宮宰の目を見つめた。
 宮宰はじっと見つめ返していたが、視線を逸らした。
「……素直だな。よろしい。一時はどうなることかと思ったが……。酷かったからな。そうしていれば、申し分がない。一抹の不信感は残るが……まさか! 裏で、また悪さをしておらんだろうな?  」
 トゥーリには、宮宰が俄かに自分を信じるものではないことは承知の上だ。思った通りに疑いを向けられたことに、むしろ満足していた。
「心を入れ替えたのです。品行方正ですよ。宮宰さまの娘婿として、舅の名を穢さぬように日々精進しております。」
 そう言って、彼は深々とお辞儀をした。嘘を言うたびに、自分の中で何かが壊れていくのを覚えた。だが、それが快くもあった。
 手本のような態度と物言いを、宮宰は訝しんだ。
「ニコールのことを気に入ったか……?」
「ええ! 恥ずかしながら、あんな可愛らしい方、私は知りませんでしたよ。早く妻と呼びたいのです。一日千秋の思いで、姫君が十六歳になるのを、そして私の妻になる日を心待ちにしております。ニコールの花嫁姿は、どんなに可愛だろう? 楽しみだなあ!」
 彼がさも嬉しそうに言うので、宮宰はおかしな気分になった。嘘だろうという気持ちが、本当だろうかという気持ちに、微かに変化した。
「この短い間に、ようもそれだけの気持ちになったものだな。」
「恋とは、突然舞い降りるものです。」
 トゥーリは微笑んでみせた。宮宰は非常に怪しいと思い、彼を試した。
「は? 情熱家のラザック。そういえばお前、妾を亡くしたばかりではなかったか?」
 トゥーリが予想をつけたいくつかの中で、一番順当な質問だった。
「死んだ女のことを想ってみたところで、どうなるのです? ニコールのような申し分のない妻を得たら、早晩別れることになったでしょう。よかったのかもしれません。女がおったのでは、ニコールが哀しむ。」
 予め嘘八百を言うと思ったら、すらすら出た。彼は自分で自分に驚いた。
「そうそう。身辺はきれいにな。」
「私の身辺はいたって清浄ですよ。嫌だなあ。宮宰さまは誤解なさっています。」
「草原は風紀が乱れておるゆえ……」
 トゥーリは宮宰を刺激するようなことを、わざわざ言った。
「肝に銘じます。二室・三室・四室、そういうのは要らない。」
 案の定、宮宰は顔色を変えた。
「……全く草原は乱倫の坩堝! まだ多妻かね。」
「私の父は一人でしたが、ヤールたちはね……。ラザックのヤールは三人、ラディーンは四人ですね。末端になるとちょっとわからないなあ……」
「恐ろしいわ! 今に神々の呪いを受けるに違いない。そんなところへ儂の娘をやるとは……」
(やれんとでも? 大公の命令なんだろ? 宮廷も総員大賛成。反故にする勇気なんかないよな。自業自得だよ!)
 トゥーリは内心の嘲笑などおくびにも出さず、慌ててみせた。
「まさか……この縁談を流すつもりではないでしょうね?」
「そうまでは言わないが……ニコールはやはり都の屋敷に……」
「嫌です! 片時も離れたくないのに……。ラザックシュタールの屋敷にはしっかり手を入れて、都と同じように暮らしていただけるようにします。どうか!」
「住居はともかく、周りの人間がまずい。」
「嗜みを心得ぬ草原の者が厭わしいなら、奥方の側には決して近づけぬようにします。どうか、ニコールと引き離すなどと仰らないでください。」
 宮宰は、草原の者と聞いて、厭わし気に溜息をついた。だが、どんなに嫌でも、やはり断れないのだ。
「……わかった、わかった。」
「ありがとうございます。……宮宰さまの貴重なお時間を、お玄関先で、私のように取るに足らん者のためにさいていただいて。私の我侭までお聞き届けいただいて、恐縮の極みです。これ以上長居する無礼は、犯すわけにはいきません。そろそろ失礼いたします。」
 彼は笑い出しそうになるのを必死で堪えて、丁寧にお辞儀をして去った。
 宮宰は、狐につままれたような気分だった。

 宮宰は、奥方と相談することにした。
「ニコールの様子はどうかね?」
「眠りましたわ。」
 奥方は落ち着いていた。
「いつも元気なのに……血の道か?」
「そういうわけでは……。今日の試合を見て、動揺したのでしょう。テュールセンさまがね……ラザックシュタールさまに斬りつけたのでしょう? とても恐ろしかったと申しておりましたわ。」
「そうか。ところで、先程のこと、どう思う?」
「どうって? 侯爵さまのことですか? 情熱家なのね。あんなに瞳をきらきらさせて。ニコールと離れるのは嫌じゃと、必死にお願いしていらしたではないですか。ニコールも妹のことでずいぶんと不平を言っていたけれど、いい方と縁付いたこと。麗しくて、お金持ちで、お優しくて……何よりニコールのことをとても愛していらっしゃるようですわ。」
 彼女は満足そうに微笑んだ。感心すらしているようだった。しかし、宮宰は俄かに同意できなかった。
「そなたは、あいつのことをあまり知らぬゆえ……」
「今のご様子を知っていたら充分です。」
「以前とは、がらりと様子が違うからな。どうしたのかと思うよ。」
「簡単なこと。恋をなさったのです。ニコールに。」
 彼女の答えは素直過ぎて、説得力の欠片もない。ニコールの子供っぽい様子を思えば、彼にはとても信じられなかった。
「ニコールにか? ……どんな交際をしておる?」
「律儀に週三回おいでになって、ニコールの相手をしていらっしゃいます。どこかで夜会のある日は、夕方迎えにいらしゃいます。お越しにならない日は、付け届けが来ますよ。花やらお菓子やら。お誕生日にと、ダイヤモンドのピンを一揃え……」
「財布の紐が緩いな。まあいい。ニコールのところでは何を?」
「……お人形で……」
 聞くなり、彼の表情が険しくなった。彼女は手を挙げて、彼を留めた。
「お怒りにならないで! 私もちょっと……と思うけれど、侯爵さまは楽しそうですから。妹のマティルドも含めて、よくお相手してくださるの。そういうことが苦にならない方なのね。子供がお好きなのかもしれません。……妹君がいらっしゃるの?」
「あれは男兄弟ばかりだよ。……公女さまの遊び相手をしていたから、慣れておるのか……?」
「ですから、あの方はニコールにはぴったり。……気に入らないのですか?」
 彼女は嬉しそうだが、彼はそうまで気楽になれなかった。
「気に入らないのは気に入らないのだが……。ぴったりか?」
「ええ、そうですとも! ニコールは気に入っていますわ。何です? 人形遊びが気に入りませんの? 早晩卒業するでしょう。」
「するかな……?」
「眠る前も、侯爵さまのことを頻りと案じておりましたよ。侯爵さまはどんな様子か、何を仰ったかと、そればかり尋ねて……。ニコールも変わったものだと思いました。今に人形よりも侯爵さまのことが大事になりますよ。」
 そんな風に言われて、彼も半ば納得した。納得しようとした。
 だが、奥方も名家の出で世間知らず。恋物語の恋しか知らないのだ。

 トゥーリは、堪えていた笑いが止まらなくなった。一頻り馬車の中で笑った。
(しかし、ようもあれだけ口から出まかせを言えたものだ。才能だな! 自分で感心する。ないこと、ないこと……)
 同乗している小姓が怪訝な顔をしているのに気づいて抑えようとしたが、我慢できず、また腹を抱えて笑った。
(“早く妻と呼びたいのです”って……名文句だよ。今日の嘘八百の中の白眉だよ! 腹の皮がよじれそう。)
 そう言った時の、宮宰の驚いたような困ったような表情を思い出すと、涙が出るほど可笑しかった。
(分別臭い顔して説教垂れやがって。草原に下ったらこっちのもの。屋敷どころか天幕暮らしだ。さんざんな目に合せてやるよ。)
 泣くほど笑ったが、心の底の虚はますます大きくなった。それを見るのが嫌だった。

 屋敷の玄関に、老ヤールが待っていた。
「お帰りなさいませ。今日はお疲れになったでしょう。」
 彼の顔を見た途端、トゥーリの興奮は急速に醒めた。
「別に。」
「ごゆっくりでしたな。」
「姫君が具合を悪くなさってね。送ったついでに、宮宰さまと話をしてきたよ。」
「姫君が? そりゃあ……ご病気ですか?」
 老ヤールは心配そうな顔で尋ねたが、トゥーリの応えは素っ気なかった。
「知らん。」
「知らんって……大事なことです。病弱な奥さまでは、お血筋の繁栄が望めません。」
「そこまで考えなくてよい。大したことはなさそうだよ。女特有のやつじゃないか?」
「さようですか……」
「疑っているのか?」
「いえ……」
 老ヤールは物言いたげだった。塞いだ様子でもあった。
「では、何か? どうしたのだ、その顔は?」
「はあ……よろしいのか? あの姫君を奥方になさるなど……」
「何を申す?」
 トゥーリは、老ヤールが縁談を拒否しろと言うのかと構えた。
「お許しを。しかし、草原の者は皆思うでしょう。宮宰さまの娘など……。トゥーリさまが想う娘を奥方に迎えて欲しいと、皆思っております。」
 トゥーリは胸を撫で下ろすと共に、杞憂していた自分に苦笑した。彼が幼い頃から、老ヤールはずっと、宮廷や大公に忠誠を尽くすことを厳しく言い聞かせてきたのだ。逆らえなどとは、絶対に言うはずがない。
「そんなことか。もっとすごいことかと思った。あまりそういうことを声高に申すな。皆にもそう申し付けておけ。ニコールの耳に入ったら哀しむ。」
「宮宰さまではなく、姫君のことをご心配になる?」
 老ヤールはトゥーリの表情を探った。トゥーリは老ヤールの視線を真っ向から受け、見つめ返した。
「当然だろう。あの人はね、まだ子供っぽいところがおありなのだ。無垢なのだよ。一族郎党全員がそんなことを思っているところに嫁ぐのは可哀想だろう?」
「子供っぽいって……来年には婚礼なさるのに。」
「来年には、それなりになっているよ。」
「……ままごとねんね姫だと聞いておりますぞ?」
 トゥーリは怒鳴りつけた。
「くどい! 黙らんか! それ以上、姫を誹るのは許さん!」
 老ヤールは少しの動揺も見せず、トゥーリの瞳の奥を覗きこんだ。トゥーリは目を逸らさないように努めた。
 トゥーリには長い間に思える数秒が過ぎた。老ヤールは視線を伏せた。
「……お気に召したようで……」
「別に。義務だよ、義務。嫌いな言葉第一号。……ああ、第一号は“伝統”であった。第二号だな。どうせ義務ならば、好きになる方がいいだろう?」
 老ヤールはまたトゥーリの顔を見つめた。やがて、溜息をつくと
「……やはりお疲れのよう……」
と、ぼそりと言った。
 トゥーリは何か勘づいたのだろうと思ったが、尋ねたところで何も変わらない。
「そうかな? そういや、少し腹が減った。軽いものを持て。」
「こんな夜更けに召し上がる? 明朝もたれます。」
「年寄りと一緒にするな。まあいい。」
「台所漁りですか?」
 トゥーリは眉を寄せ、老ヤールを睨んだ。老ヤールに揶揄っている節はなかった。
「……水でも飲んで誤魔化すんだよ!」
「お手水が……」
 トゥーリは髪を搔きむしった。
「もう! そっとしておいてくれ。子供と違うのだから、寝小便などせぬ。夜中に連れて行けと起こしもせぬわ!」
「ご無礼を……」
 トゥーリは、誰も彼も面倒だと、ますます苛立った。

 老ヤールは、奥へ去るトゥーリの後姿を見送り、こっそり嘆息した。いつまで経っても子供にしか思えないのだ。実際していることは、拗ねた子供と変わらないとわかっていた。



  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.