4

 大公の夜会に、トゥーリとニコールが二人そろって現れた。耳の早い若い公達は、二人の縁談をもう知っていた。
「カラシュのお嬢さま、ごきげんよう。アナトゥールも、ご機嫌がよろしいようで。」
「仲がいいね! 羨ましいよ!」
などと、にやにや笑いながら囃し立てた。
 ニコールは何も気づかず喜んでいるが、トゥーリは無口である。嫌味な悪友とは距離を取りたい気持ちだった。彼は彼女の手を取り、言葉少なに彼らから遠ざかった。
 皆はどっと笑った。
「アナトゥール、苦虫を噛み潰したような顔だった。」
「断れない縁談ゆえ。」
「まあ一番丸く治まる方法だけど、本人は納得しているのかなあ。」
「納得も何も、お袋さまも納得しているんだから。」
「可哀想に。“わがままニコール”となんて……アナトゥールは平気なのかな?」
「仲良さそうにはしているな……。あの派手な衣装はタイースか? 贅沢見栄っ張りの婚約者を持つと、結婚前から大出費だなあ。」
 こそこそ話しているところに、テュールセンの陽気な若君が現れた。彼は、今年の軍役から帰ったばかりであった。
「都を離れているうちに、ケッサクな話になっておるようだな。アナトゥールはねんね姫のお守か。積年の悪行のつけが回って来たな。悪魔みたいな行いの罰だ。女の借りは女で返す。道理だよな。実にケッサク。」
 リュイスは笑い転げた。
 他の者も大して変わらないことを思ってはいたが、彼の遠慮ない物言いに眉をひそめた。
「可哀想だよ。ついこの間、その……恋人を亡くしたそうじゃないか。今度は宮宰さまの婿だなんて!」
 リュイスは、彼らの中途半端な同情を鼻で笑った。
「女々しいこと言うなよ。忍の一文字でねんねのご機嫌取りに励んでいれば、死んだ女のことなど忘れていられるだろうよ。ちょうどよろしい。お前らも友達ならば、アナトゥールの頑張りを励まさんか。あいつがどこまで頑張れるかわからんが……尻割るかどうか賭けるか?」
「尻割るって……」
「奴は、あんな女は我慢がならんに決まっておる。大体、大好きな誰かさんがありながら、結婚など……笑えるわ。」
 こういう話は、暇を持て余している若君は大好きである。すぐさま喰いついた。
「大好きな誰かさん? 誰?」
 リュイスはにやりと笑った。
「教えてやらん。本命のところには行かぬ男よなあ。今更、何を恥ずかしがっておるのか知らんがね。」
 皆、目の色を変えて、推量を始めた。
「近寄れない人? 人妻か?」
「まさかニコールと結婚して、合間にその女?」
 皆はリュイスの答えを固唾を飲んで待ったが、彼は愉快そうに
「そうできたらねえ……できんわ。どれ、あいつの泣きでも聞いてやるかな。」
と言って、足取り軽く去って行った。
 皆は一頻り当て推量を続けたが、やがて興味を失って散っていった。

 ニコールは、女友達にタイースの衣装を見せびらかしていた。トゥーリは離れたところからその様子を眺めている。リュイスに突然話しかけられるまで、彼は放心していた。突然の声掛けにぎょっとした。
「お前、驚きすぎ。」
 楽しそうなリュイスを、トゥーリは無言で睨んだ。
「トゥーリよ。表情が冴えんようだが? どえらいお荷物を背負い込んだようで。まあ、そのうち重みにも慣れる。今までの勢いはどうした? あのお子さまには、俺は手出しを遠慮してやるゆえ、思う存分やりたまえよ?」
 それだけ言う間にも、堪えられない笑い声が入った。トゥーリは眉間に皺を寄せた。
「……お前、生きていたとはな! しょうもない田舎で下手打って、くたばったかと思っていたのに。しぶといな! こんなところへ湧いて出るな。」
と言ったものの、リュイスと会えて嬉しかった。
「聞き捨てならんわ。せっかく気を紛らわせてやろうと思って来たのに。お前、あの姫と結婚するらしいな。悪さの限りを尽くしていたお前も、年貢の納め時というわけだ。ちっと早すぎるきらいもあるが、せいぜい末永く仲睦まじくな。」
「悪さ? お前の足許にも及ばんぞ。結婚するのはまだ先……結婚と言うな!」
「結婚するのだろう? させられるか。まあ逃げられんらしいな。結婚。すごいな! お前が俺に先んじて結婚! 結婚だってさ! 結婚かあ……。結婚してしまうか、お前が……!」
 リュイスは、言うなと言った単語を実に嬉しそうに繰り返しては笑った。トゥーリは不愉快だったが、彼の性質は知っている。また、数少ない心安い友達だ。長い溜息をつくと、愚痴を言い始めた。
「気が重いよ。宮宰を舅と呼ばねばならんのも辛いが、あのねんねの専属のお守りになるのはもっと嫌だ。」
「おお! 泣きが入ったな。実に愉快だ。もっと哀れっぽく嘆いてくれ!」
 リュイスはいかにも愉快そうだ。トゥーリは、陽気な彼と笑い飛ばせば、一時だけでも気楽になれそうな気がした。
「哀れっぽくって……まあ、その通りの気分だよ。」
「聞いてやる。」
「……呼びつけられては、毎回流行りもののおねだりに、妹も入れて三人でお人形遊びだぞ?」
「それはそれは……可愛らしい交際ではないか? お前に足りなかった要素だ。勉強させてもらえ。」
 リュイスは腹を抱えて笑った。トゥーリも苦笑した。
「足りんでもいい要素だよ。」
「そうだな。ま、あの姫はおかしい。あの歳なら、普通もっと……まあ、一人前の娘だっている。俺の妹もそうだった。何故こうも違うのか、不思議ではあるな。」
「ニコールはどう言ったらいいのかな……男女のことに、興味がないというわけではないが……興味がないのかな……?」
「愛欲の機微というのが解らんのだな!」
「年相応になってくれないと……」
「お前の気持ちは解らんでもない。むしろよく解る。愚痴るな。これからの教育次第だよ。何なら連れ込んでしまえ。」
 トゥーリは呆れ、嫌そうに
「どこへ?」
と言ったが、リュイスは構わずに
「そりゃお前! 解るだろうに。お前の寝台でも、ねんねの寝台でも、好きな方にしたらいい。……ああ、ねんねの寝台は人形で狭いか。」
と言っては、また高笑いした。そして
「“三回会って何もない女とは、一生何もない。それでもいいのか? ”だろ?」
と言って、にやりと笑った。
 それは、多少強引に口説いた相手に発した言葉だった。トゥーリはげんなりし
「……何それ?」
と恍けた。
「この台詞に覚えがないとは言わせないぞ。被害者の証言に基づいている。最近、俺はお前の後塵を拝しているきらいがあるな。」
 トゥーリは、“一目見て心奪われたのです”と言い返してやろうかと思ったが、止めておいた。
「どこから出てきたことやら……。しかし、連れ込むのはまずい。逃げられなくなる。」
「この期に及んで逃げるつもりか?」
 リュイスは、トゥーリの襟をつかみ、引き寄せて
「だったら、俺がぶち壊してやろうか? お前に恩を売るのも悪くない。なに、お前の悪行のごく些細な部分をだな、例えば、俺の妹のところで大立ち回りしただろう? あれを大袈裟に話を盛って、ニコールにばらしたら? 恐れをなして、親父に泣きつく。」
と耳に囁いた。
 トゥーリは驚愕した。
「何故そんなことを知っている!」
 大声に皆が振り向いた。リュイスは満足そうに笑っている。彼は慌てて取り繕い、小声で
「……ヴィクトアールに言っておけ。恋人との約束は慎重にってさ。」
と言って、リュイスを睨んだ。
「ヴィクトアールは嘆いていた。お前が惜しいらしい。」
「ヴィクトアールが? 惜しがるほどの仲ではないぞ。」
「冗談だよ。まあ、当面はあのねんねだな。いいではないか? 何も知らない幼な妻に、じっくりゆっくりいろいろ教えてやれ。それはそれで男の夢よ。俺は割りとそういうのに興奮する。ばばあ好みのお前には解らんかな?」
「解らんではないが……ニコールではなあ。こっちの身がもたん。」
「そうだなあ。同じ生娘でも、もっとお前の心に適ったのなら……勢い込んで、余計なことまで教えたくなるようなのだったら、よかったのにな。」
 下りすぎた話題に、トゥーリは失笑した。
「そんなのいるかよ。“余計なこと”ってどんなんだよ?」
 リュイスも笑ったが、目に気の毒そうな色が浮かんでいた。

 二人の前に、取り巻きを連れてニコールが現れた。
「皆さま、この方が私の侯爵。」
 取り巻きが何か言う前に、リュイスが反応した。
「“私の”!」
 彼はトゥーリを見やって、笑いを噛み殺した。
「あら、テュールセンのおじさまの……」
「二番目の息子です。初めてお会いしたわけではありませんが、久方ぶりにお見受けしましたね。」
「そうね。あなたは私の侯爵とお友達でしたの?」
「はい。“あなたの”侯爵とは懇意にしています。」
 リュイスはトゥーリを窺って、にやりと笑った。
「そうでしたか。今後ともよろしく……。でね! みなさま、お会いする前は、とても怖い方だと思って。草原などに暮らすのも嫌だったし、死にたいなどと思いつめたのだけど。お会いしたら、とても優しくて。私の言うことは何でも聞いてくれるの。今日の衣装も、わざわざタイースに無理を言って作ってくださったわ。そして、こんな正式な夜会へ連れてきてくださったのよ。」
「あらあ……タイースの衣装? やっぱり素敵!」
「私もお願いしたけど、注文がいっぱいで断れたわ。羨ましいこと。」
「こんな麗しい方と同伴とはねえ!」
 薄っぺらい褒め言葉が次々と並んだ。取り巻きのやっかみが、ニコールには心地よいようである。リュイスは付き合いきれず、トゥーリに
「お前、よう辛抱利くな。」
と囁いて立ち去った。
 自慢するニコールと、取り巻きの追従の会話が延々と続いた。
(俺はこいつの玩具か!)
 トゥーリの心には、怒りともつかず、嘆きともつかない感情が渦巻いていたが
(我慢、我慢。この人はまだ子供なのだ。私は人形の王子のようなもの。)
と自らに言い聞かせた。
 女たちの会話は留まるところを知らない。彼は苛立ったが、心の中で悪態をつくしかない。
(いい加減にさらせよ。この腐った会話、止めさせたい!)
 その時、ニコールが
「あら? どうなさったの? 厳しいお顔をなさって。」
と言った。察したのか、そうではないのか、逆撫でする時機だけは絶妙だった。
(お前の話を聞いていると、頭がおかしくなりそうなんだよ! ちっとは控えんか!)
 そう思っても、言うわけにはいかない。彼は
「そんなことありませんよ。」
と短く答えて微笑んだ。
 彼女には彼の答えより、取り巻きに自慢することの方が重要だった。自慢話が再開した。
「そうそう! 私の侯爵は、とてもいい声でしょ? 上手に歌も歌うの。ねえねえ、この前みたいに歌って!」
 手に入れた玩具に、意外な機能もついていたとでも言うような物言いだった。彼はまた怒りを抑え込んだ。
「はあ……今ですか?」
「今、ここでよ。誰かリュートを!」
 詩人(バード)の真似事などしたくはなかった。だが、話さなくて済むなら、歌う方がずっといい。
 彼は、借りたリュートの弦をきりきり巻きながら、彼女らに相応しい歌を意地悪く選択し始めた。
 まさか童謡を歌うわけにはいかない。知っている中で、一番可愛らしいのを歌った。
「とてもお上手!」
「でしょう? でしょう? もっと歌って。」
 女たちが盛んに催促した。

 その時、広間にアデレードが入って来た。
 トゥーリは彼女にすぐに気づいた。彼女も人だかりの中の彼を見ていた。
 監獄での出来事を思い出した二人は、胸を高鳴らせた。
 彼女が、彼を取り巻く人だかりを避けて通り過ぎようとした。彼は視線を伏せた。
(アデル……お前の為なら、いくらでも歌うのに……)
 彼の目の前では、ニコールが強請っている。
「ね、私のお友達がもう一曲歌ってとおっしゃるの。歌って。」
 彼女の表情は、断れないだろうと言っていた。
「では……草原の歌でも……?」
 草原の歌の多くは、恋人や想う相手に歌う恋の歌である。卑近で煽情的だと宮宰は嫌い禁止したが、その娘は気にもしないらしく、歌うことを許した。
 彼が歌い始めると、アデレードが振り向いた。視線が合った。彼はリュートに目を落とした。
 歌い終わりリュートを立て掛けている間にも、彼女の視線を感じた。振り向くと、ニコールのすぐ後ろに彼女が立っていた。だが、じっと見るわけにはいかない。
 皆は、聞きなれぬ歌をどう評するべきか戸惑っていた。己の正直な意見がニコールと異なることを恐れているのだ。
 黙り込む中、ニコールが拍手した。皆もほっとして、拍手した。
「今のが草原の歌? 切なくて素敵な詩でしたわ。どういう歌? 草原訛りで、解らないところがあったわ。」
「……ラザックの戦士が戦に出るときに、恋人に心を告げる歌です。“妻問いの歌”と言う。」
「まあ、素敵! 物語のよう。恐ろしいラザックの戦士が、恋人にそんな美しい歌を歌うの?」
「ラザックの戦士は恋人を大切にします。手柄を立てて……恋人に相応しい男になるからと。戻ったら、妻になってほしいと告げる歌です。」
 それは、トゥーリとアデレードにはお馴染みの歌だった。この歌を歌っては約束していたのだ。
“大きくなったら、大公さまの為に戦に出て、手柄を立てて、アデルを奥方にもらうね。”
 二人は密かな思い出に浸った。そうして、こっそり見つめ合った。

「いいわねえ、ニコールは! こんな素敵な方と縁づいて!」
 出し抜けの大声に、二人とも現実に引き戻された。アデレードは出来る限り声が震えないように努め
「ラザックシュタールさまは、カラシュの姫君と……ご結婚を? ……」
と尋ねた。
「それは……」
 彼の言葉に、ニコールの答えが重なった。
「ええ、公女さま! ついこの前、突然決まったのですわ。私が十六歳になったら結婚します。」
「そう。存じ上げませんでした。それで、さっきの歌を……」
 トゥーリはアデレードの言葉を遮った。
「あなたの為に歌ったのです。」
 彼女は彼の意図を図りかね、どう答えようか惑った。彼女の代わりにニコールが答えた。
「私の?」
 取り巻きが、すかさず囃し立てた。
「まあ! 羨ましいわ!」
「愛されているのね!」
 口々に薄ら寒い褒め言葉を言う姫君たちと満足そうにしているニコールに、アデレードとトゥーリは冷めた目を向けた。
 皆が静まるのを待って、アデレードは
「でも、戦に出る戦士はともかく、待っている恋人は可哀想。戦士が死んでしまうか、怪我をするか、恋人のところに戻ってこないことがあるかもしれない。私なら心配で胸が張り裂けそう。」
と言った。
 トゥーリは詰られていると感じて、苦しくなった。
「それは、戦士の方も同じことでしょう。それでも戦に出る戦士の気持ちが、私にはよく解るのです。……試練が絆を強くすることもある。」
 皆は、二人を交互に眺めて聞き入り、双方の意見について考え始めた。
 すると、ニコールが笑い出した。
「私と侯爵には、そのような試練は必要ありませんわ!」
 彼は苛立った。
 更に、彼女は尊大な様子で言い放った。
「私の為に侯爵が戦に出るなど、要らぬこと。」
 取り巻きの姫君でさえ、何がしかを考えているのに、全てを無しにする発言だ。案の定、場が白けた。
(頓珍漢な……。何を考えるかわからんわ。)
 彼は呆れたが
「そうですね。」
と答えておいた。

 アデレードは話を変えた。
「そういえば、今年のトーナメントは、いつもの時期に開けませんでした……」
 トゥーリは、草原の騒ぎの所為で、開催できなかったのだろうかと考えた。
「例の件ですか……?」
「いえ。テュールセンさまが、時期を変えたいとおっしゃったの。ご長男のレーヴェさまの奥さまが臨月だからと。無事にお生まれになったので、近く執り行われます。」
 それは、軍神を昂らせて、高貴な一族の出産に災いさせてはいけないという呪術的な配慮だ。元々の理由がそれなのか、敢えてそれを理由にしたのかは明らかではないが、彼は宮廷にもう一言謝罪をせねばならないと思った。晴れやかなトーナメントの場に立つことは、まだ控えるべきだろうとも思った。
「どちらにしても、私に関わりのない話ですね。トーナメントなど……」
 二コールがまたもや割り込んだ。
「お出にならないの?」
「今年は遠慮します。」
「お出になったらよろしいのに。昨年は、公女さまの袖を頂いて、馬場に出られたではありませんか。物語のように。私もああしたいわ。ねえ、お出になって。私の為に戦ってよ。」
 トゥーリとアデレードは、うっとりするニコールを呆れ顔で眺めた。
「去年は負けましたよ。レーヴェに。」
 彼は殊更冷めた口調で言ったが、もちろんニコールは気づかない。
「お願いしているのです。出て。」
 先日まで謹慎中だった彼の立場など、彼女は少しも考慮していない。
 彼は、苛立つ内心を押し込め、残念そうな表情を作ってみせた。
「困りましたね……。出てはいけないと思うのです。」
 アデレードは、ニコールに柔らかく言い聞かせるトゥーリを眺め、こっそり舌打ちした。

 突然、陽気な声がかかった。
「アナトゥール、出たらよいぞ!」
 テュールセンのリュイスだった。
「去年は、よう渡りあったではないか。あの兄だぞ? あの兄を追い込む腕は、なかなかのものだった! 親父殿が、今年のお前の勝負を楽しみにしている。」
 リュイスはそう言って、トゥーリの肩を小突いた。そして、アデレードに目配せした。
 アデレードはニコールをちらりと見て
「今年も、私が何かお貸しするわ。」
と微笑んだ。リュイスはにっと笑った。
「そうだよ、アナトゥール。公女さまも仰っている。お前、出ろ。」
 トゥーリは、アデレードの為にならば出られると思った。
「では……」
 彼が口を開きかけた時、二コールが笑い出した。
「公女さま! リュイスさま! おかしなことをおっしゃるのね。今年は私がお貸しするのです。だって、私が恋人ですもの。」
 呆れ返る人数が、三人に増えた。
 リュイスは吹き出しそうになり、慌てて咳払いして誤魔化した。
「姫君。意味を解って仰っていますか? 今、すごいことを仰った。」
「もちろん解っていますよ、リュイスさま。私は侯爵の奥方になるのですもの。」
 アデレードは目を見開いて、誇らしげなニコールを見つめた。
 取り巻きが悲鳴を挙げて囃し立てた。
「どんな袖? 手巾にするの?」
「セリカよね? 上等なセリカよね!」
「刺繍? 織模様?」
 彼女たちは笑いさざめきながら、相談を始めた。
 トゥーリとアデレードは、もう言葉を失っていた。彼女の血の気の引いた様子を不憫に思ったリュイスが、会話を引き取った。
「今年は、公女さまの持ち物を私がお預かりしましょう。」
 アデレードは声を震わせ
「ありがとう。“適当なところで負けて”くださいね。」
と言った。
「何です? それ。」
「去年、袖を貸した方が……そう仰っていたので……」
「なるほどね。恐ろしいわ……。私は勝負ごとにのめり込む性質ですから、無理かもしれません。」
「どなたも……お怪我をなさらないように。……私……失礼します。」

 ニコールと取り巻きの姫君は、立ち去る公女に軽く会釈をしただけで、預ける物の話ばかりしている。
 男二人は、彼女らに厳しい一瞥を投げた。
「トゥーリよ。お前、何故黙っているのだ? 断らぬからこんなことに。」
「断るって何を?」
「それは……諦めたのか?」
 リュイスは、アデレードを諦めたのかと訊いたつもりだった。しかし、トゥーリは、自分の恋が彼に悟られているなどとは、思ってもいなかった。トーナメントへの参加のことを尋ねられているのだと疑いもしなかった。
「……ねんねのお守りで疲れて、気を失っていたんだよ。気づいたら……気づいたら……お前と闘うことになるんだな!」
 リュイスは、トゥーリの表情を探った。無理をしているのが手に取るように判った。
「……ま、そうだ。そういうわけで、お前はねんね姫の為に、俺は麗しき公女の為に勝負するのだ。」
「麗しい? 可笑しなことを言うなあ。俺は一発目で負けるから、お前は公女の名誉の為に頑張れよ。」
 下手な強がりをリュイスは憐れんだが、おくびにも出さずに恍けてみせた。
「麗しくなったぞ、アデレードさまは。ここしばらくの間に、急に大人びたな。何かあったのかなあ? ……お前、わざと負けはばれるからな。俺と最後の場で勝負しろよ。」
「気が進まない。」
「何を言う。さっきは見たぞ。悩ましい歌を切々と歌っていたではないか。さては、誑しこみにかかったなと思った。そんな調子では引きずり込めんぞ。腹すえてかからねばな! 凛々しくも勇ましい姿を見せてだな、もうひと押し決めるのだよ。何なら俺が手加減してやるぞ?」
「逃げられなくなる。」
「お前、どうしたいのだ? 素直になれ。思うようにしないと……死ぬときに後悔するぞ。」
「……何もしたくない。お前と勝負するのも、ニコールの為に戦うのも。……ニコールと結婚するのも。」
 トゥーリは話しながら、アデレードを目で追っていた。切ない瞳だった。リュイスはそれに気づき、確信を強くした。そして、難しい時に、難しいところに情をかけたものだと同情した。
「何? 変な顔して、見つめないでくれ。」
 トゥーリはリュイスを睨んだ。リュイスは失笑した。
「いや、初々しいな。」
 トゥーリは眉根を寄せた。
「はあ?」
 リュイスは、不愉快そうなトゥーリを見て、一頻り笑った。
「お前、悪魔みたいなことをさらすくせに、不釣合いに純粋なところがあるな。何やら心動かされる。」
 トゥーリは、リュイスが一番忘れたい発言を持ち出した。
「一目見て心奪われた?」
 途端に、リュイスは上気し、慌てて言い連ねた。
「いらんこと思い出すな! 何かと言うとそれを持ち出すね。まさかお前、粋な性癖に目覚めたのか?」
「目覚めたのかなあ……? 印象深くてね。忘れられない。」
「俺も印象深くて、忘れられんわ。お前の下着姿に流し髪の艶姿。」
「もう一回見たい? 何ならお前の寝室で。」
「何するの?」
「お前が教えてくれないと。俺は処女なんだから。」
「冗談だろ!」
「本気にするなって。こんな大きななりの二人が暴れまわったら、寝台の脚が折れるよ。」
 リュイスは、トゥーリの胸をどんどん叩いて笑った。
「お互いにお互いの恥部をつつき合うのは止めようや。……ちょっと失礼。」
 アデレードが一人で広間をそっと出ていくのを見て、トゥーリはリュイスと別れた。
(そうそう。何かやらかせ。今でも遅くないぞ。)
 リュイスは、心の中でトゥーリを励ました。

 廊下は人気がなく薄暗かった。
 トゥーリは、向こうの暗がりに、ほんのり浮び上がる白い衣装と金色の髪の後姿を見つけた。急ぎ足で、どんどん先へ行ってしまう。
 彼は振り返って、誰もいないのを確かめると
「アデル! 待て!」
と呼んだ。
 アデレードがびくりと立ち止まり、振り向いた。彼は駆け寄り、彼女の裳裾を踏んだ。
 彼女は目を伏せた。
「何です?」
 殊更冷たく響いた丁寧な口調を、彼女はすぐに後悔した。
 彼は彼女の言葉に距離を感じ、すぐには言葉を返せなかった。
 二人は、中途半端な姿で向き合った。
 彼は責められているように感じた。俯き、そして、息を長くついて跪くと、彼女の裳裾を握り締めた。
 二人ともに、自らのしていることに驚いていた。
 彼女は裳裾を取り戻そうと、引っ張った。彼は離すまいと掴み、裳裾に口づけして、見上げた。
 緑色の瞳が熱を帯びて、きらきらと光っていた。彼女は、鼓動が早くなるのを感じた。
「どうして……ついてくるの? ……何故ついていらしたのです?」
 彼女は、冷たい丁寧な言葉に敢えて言い直した。
「先日の非礼を詫びたいと存じます。」
 彼の返答は、彼女と同じように丁寧な言葉だった。今度は彼女が距離を感じていたが、そのように話すべきなのだと感じ
「何も非礼などありません。それに……これがあなたのお詫びなのですか?」
と言った。
 切なさを増した彼の瞳が、彼女の胸を疼かせた。
「厭わしいとお思いですか? 先日はあんなに……どうして……どうして今日は、そんなに他人行儀にするんだ!」
「後悔したのよ! 立ち入ったことをした。聞いてはならないことを聞いてしまった。謝るなら私の方よ。」
「謝るなんて……」
 彼は立ち上がり、彼女を抱き締めた。生身の迫力は強烈だった。二人とも、胸が張り裂けそうに高鳴った。
「お前が入って来たときから、ずっと見ていた。」
 彼はそう呟いた。彼女は嬉しかったが、彼の言葉を受け入れることはできなかった。
「トゥーリは……トゥーリは、歌を……あの歌を歌っていた。私に歌ったと言うけれど、それでもニコールと結婚すると言う……」
「ニコールなど……関係ない。」
「関係あるわよ……トゥーリの奥さんになるのでしょう? ニコールが……。あの約束はもう叶わないようね。」
「黙って……」
 彼女の背中に回された腕に、力が込められた。彼女の腕が、おずおずと彼の背中に回った。温もりを感じると、愛しさが増した。
 彼女は、彼の胸の音を聞いているうちに、妙な気持ちになった。
 彼も、とんでもないことをしでかしていると解っていたが、離す気になれなかった。
 遠くで、ことりと音がした。彼女は我に返り、身を捩った。
「トゥーリ、離して。誰かに見られたら……」
「嫌だ。あの歌は、お前の為に歌った。お前の為にしか歌わない。」
「そんなことを言っても……」
 すると、事もあろうか、ニコールがトゥーリを呼ぶ声が聞こえた。弾かれたように、二人は身を離した。
 彼が声をかけるのよりいち早く、彼女は小走りに去った。
 彼は彼女の後ろ姿を見送り、広間の方に戻った。

 トゥーリとニコールは廊下で鉢合わせた。
 彼女は、怒った顔をしていた。
「帰りたいの。もう十分楽しんだわ。探していたのに。どこへいらしていたの?」
 そう言うと、彼女は当たり前のように彼の腕に手を伸ばした。
 彼はするりと身をかわし
「帰りましょう。」
とだけ答えた。
 彼女は眉をひそめた。
「どうなさったの? きつい顔。」
(顔に出ていたか……。しかし、この娘はこういう時機だけは逃さんな。)
 彼は腹立たしくて仕方がなかったが、抑えて短く答えた。
「そう? 灯りの加減で、そう見えるだけですよ。」

 帰りの馬車の中で、トゥーリはアデレードの様子を思い出した。
 アデレードに憎からず思われているように感じたが、思い込みかもしれないとも考えた。どちらにしろ、今の状況ではどうしようもない。
 彼はこっそりと何度も溜息をついた。
 浮かれたままの二コールが話し続けている。彼は耳に入らぬまま、適当に相槌し続けた。

 アデレードは女官を下げ、一人になった。まだ胸が高鳴っている。
 吐息のかかるような近さで見た表情と、抱き締められた腕の強さ、体温、言葉。次々に思い浮かび、身震いが出た。
 しかし、ニコールのことを思い出すと、途端に別の気持ちが湧きあがった。
 彼の結婚を受け入れ、認めなければならないと思ったが、我慢がならなかった。

 ままならぬ気持ちを抱えて、二人はお互いのことを溜息と共に想った。



  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.