3

 宮宰の策略は実現できなかった。草原の事情は周知のことだ。手を加えて、わざわざ難題を作り出すことなど、誰も望まない。
 トゥーリを転封する話など、失笑と顰蹙をかっただけに終わった。
 早く和解するようにと、宮宰の方が窘められた。
 ただ、ウェンリルは例の一件がある。娘が
「ラザックシュタールさまが……」
と必死になって頼むのを見て、また関係が再開されるのではないかと案じた。考えた末、ひとつの方法を思いついた。
 彼は宮宰を呼び出した。
 宮宰は微かな希望を抱いていたが、即座に砕かれた。
「弟のガラードともヘルヴィーグとも話したが、そなたのこの間の策は、あれはならん。現実味に欠けすぎるぞ。」
「そうですか?」
「ヘルヴィーグなどは、冗談もほどほどにせよと笑い転げておった。ガラードは、そなたが侯爵を敵視しすぎるようだと眉を顰めていた。私も弟たちと同じ気持ちだ。」
「ですが……」
「草原の軍勢をという話の前に、そなたと侯爵の間のわだかまりを無くすことの方が重要と思うぞ。臣下同士が争うなど、国を危うくする最も大きな問題だ。」
 宮宰は唇を噛んだ。彼はウェンリルとの話し合いに見切りをつけ、退出しようと立ち上がった。
 ウェンリルは宮宰を制した。
「それでだが……。和解の証に、そなたの娘を侯爵に嫁がせよ。」
 宮宰は驚愕し、慌てて反論した。
「私の娘は、大公さまのお世継ぎに嫁ぐことが決まっています。」
「それは下の娘だろう? 上の娘はまだ決まっておらんのだろう? 上の娘はいくつになったか? 太子さまより年上であったな?」
 質問の形ではあるが、ウェンリルが答えを知っているのは明らかだ。正直に答えるしかない。
「……やがて十五歳。」
「年回りも釣り合いがとれている。良いではないか?」
 ウェンリルの言葉も表情も柔らかであったが、目は冷たかった。
「少し……若すぎるのでは?」
「誰が?」
「二人ともですよ。」
「そうでもない。ないことではないぞ。こういう事情ならば断わらないだろう。」
 宮宰はトゥーリ自身のことも嫌いだったが、見下しているラザックと縁戚になるなど有り得ない。また、ソラヤを除いて、草原と婚姻を結んだロングホーンの貴族はいない。皆に影で嗤われるだろうと思った。
「断る? 私の方こそお断りしたいのに……」
「愚か者! 草原が欲しければ、こうした方がいいのだ。侯爵を手の内に入れていたら、草原も手の内と同じことだろうに。そなたの先日の策は、現実味がなさすぎると申しただろう!」
 ウェンリルに一喝され、宮宰は怯んだ。大公家の長老に疎まれるのは避けたい気持ちもあった。
「はい……大公さまは?」
「そなたの策など、大公さまのお耳に入れられぬ。私がそうお勧めすると、そなたと侯爵がこうして結びつけば、両家の間も治まるだろうと、大公さまは仰った。それはいいことだとお慶びでいらした。」
「はあ……大公さまもご承知の話ですか……」
「むろんだ。それにしても、侯爵が妻帯しておらんでよかったな。若い婿は扱いが楽だぞ? 歳くった陰謀家の婿だったらどうする?」
「ご経験に基づくお考えですか?」
 宮宰は悔し紛れに皮肉を言ってみた。
 当然ながら、ウェンリルには通用せず、逆に推薦する言葉が返ってきた。
「私の娘婿は歳はいっていたが穏やかな男だったよ。歳だったから、娘は早々に後家になってしまったけれど……。侯爵は若いから、そういう心配もいらん。」
「でも、武門。」
「腕はたつと聞いているぞ。第一、シークが簡単に戦死するような戦がどこである? いらぬ心配だ。早く縁談を持って行け。」
「ソラヤさまのところへ?」
「本人のところへ直に持って行くか? 妹に持って行くなら、私から書状を遣わしてやろう。」
「……ソラヤさまには、ご納得いただけましょうか?」
 宮宰は、ソラヤが自分を嫌っていることを知っている。短気な彼女が怒って拒否することに、一縷の望みを賭けた。
 ウェンリルは少し考えて
「妹ももういい歳ゆえ、少しは丸くなっておるだろう。怒って突き返すなどと……ないと思うぞ?」
と言った。
 もう拒むことはできないのだと、宮宰は悟った。
「では……お願いいたします。」
 おぞましいことになったと、彼は自らの行いを後悔した。

 ウェンリルから妹のソラヤに書状が遣わされた。
 ソラヤは即座に
(宮宰の婿か。嫌であるなあ。)
と思った。
 しかし、感情的になるのを抑え、冷静に考えた。
(宮廷の手前、無碍に断るのもまずい。積年の両家の不和を解消するには、それがいいのかもしれん。)
 彼女といえど、思考の根に宮廷があるのだ。ただ、母親としての息子への想いは最低限ある。リースルの死後間もないことを思えば、哀れだった。
 しかし、妻帯し穏やかな家庭を持てば、辛い思い出に苛まれることは少なくなるかもしれない。そう考えた。だが、相手が悩ましい。
(宮宰の娘では……。譲歩して、二室を認めてやるか……)
 彼女は息子に短い書状を送った。 “宮宰の娘と結婚するように。これは大公さまも内々にご承知した話である。”
 受け取ったトゥーリは、書状をそっと閉じ、文箱に放り入れた。
(そう……。俺を蚊帳の外にして、そんな話になっていたか……)
と、淡々とした思いしかなかった。

 宮宰にもソラヤから承諾の書状が届いた。彼は早速に、長女に縁談の話をした。
「ニコール 。父が、妹の相手に劣らん婿を用意してやったぞ。喜べ。」
「大公さまのお世継ぎに劣らない人っているの? 外国の王子さま? 私、知らない国へ嫁ぐのは嫌だと申し上げたでしょう?」
 できるだけ晴れ晴れしく言ったのに、娘は厭わしげに文句を言う。
「国内の旧家の当主だ。」
「そんな当たり前のところは嫌。」
 娘は鼻にもかけない。宮宰は我慢して、心にもないことを言った。
「不貞腐れるな。素晴らしい相手だぞ。」
「素晴らしい? どなた?」
「ラザックシュタールの侯爵。」
「え? ラザック? ……私は大公家のどなたかがよかったのに。」
 彼女の言葉からは、ラザックであることを厭う響きはさほどなかった。気にしているのは、家柄なのだとわかる言い方だった。
 父は少しだけ安堵した。言いくるめる方法はあると思ったのだ。
「それではお前、話がおかしいぞ。大公家の公子さまはどなたも、太子さまと比べれば身分は下だ。妹の下座を毎日味わうのは嫌だと申していたのではないか?」
「ラザックシュタールの殿さまは、大公さまの臣下ではありませんか。妹の下座には変わりないです。嫌です。絶対に嫌!」
 娘はいかにも不快そうに、鼻に皺を寄せている。宮宰は、一番嫌がっているのは自分だ、親の気も知らないでと思うと堪えきれず、娘を叱りつけた。
「愚か者! あの男が草原でどんな立場か知らんのか? 草原では、大公よりシークなのだ。だから、あいつはくそ生意気で偉そう……いやいや、シークの奥方になれば、お前は堂々としていられるのだよ。」
 思わず愚痴になりかけたが、彼は何とか立ち直せた。だが、娘は父の言葉など、頭の端から聞き流していた。
「私はお血筋正しい方がよいの。」
「ニコールよ、お前は何も知らないのだね。侯爵の家はとても古い家柄で、大公家よりも古いのだよ。ロングホーンの貴族の誰よりも古い血筋だ。それに実母は大公家の公女だ。血筋は問題ない。正しい。」
「でも、よく知らないし。お父さまは、この間仰っていたわ。何だかすさまじく怖いことをしたとか。お父さまに食ってかかったって、悪態をついていらしたじゃないの。」
「すさまじいのは戦だからだよ。武勇なのだと思え。お前に怖いことはせぬ。」
 何か言うたびに苦々しい気持ちが増したが、彼は我慢して娘を説得した。
「本当に?」
 娘は相変わらず気乗りしない様子だ。宮宰は、別な方向から説得しようと考え、娘が喜びそうな薄っぺらな美点を挙げた。
「それに、姿かたちが美しいぞ。また、いい声でお前に歌を歌ってくれる。」
「でも、都を離れて草原へ行くのは嫌。贅沢したいもの。」
「ラザックシュタールは大きな街だよ。お前は侯爵の屋敷で暮らすのだ。ここと何も変わらない。おまけにマラガに近いぞ。流行りものの類は、いち早く手に入る。」
 マラガとは、南隣の国で海に面していた。その港には、海外から様々な新しく珍しい文物が入ってくる。マラガの高価で珍奇なものを持っている者は、皆の羨望を浴びることができた。案の定、娘は食いついた。
「では、マラガから仕立師を呼んで、最先端の衣装を作ってくれるかしら?」
 宮宰は、軽薄な娘を情けなく思ったが、説教したところで聞き分けるものではないと知っていた。今は、娘が納得してくれれば、それでいいと思った。
「勿論。大丈夫だぞ。大金持ちだから、お前の言う通りにしてくれる。」
 娘は目を輝かせたが、一瞬だけだった。
「でも、やっぱり田舎は嫌。」
「お前の好きな感じではないか。とにかく儂の娘ならそこへ嫁ぐように。」
「今すぐ? 心の準備がまだ。」
 言葉を尽くして説得するのに、娘はどうも頑是ない。宮宰は、娘の納得を取り付けることを諦めた。
「結婚するのは、お前が十六になってからだ。それまでに心の準備をしておけ。マラガの最先端に、妹に劣らん嫁ぎ先だからな!」
「本当に素晴らしい相手なんでしょうね? ちびで貧乏な相手は嫌。」
「誠だよ! 偽りなどない。街の産む富が半端ではない。マラガから大食から、遠くセリカからも商人が来る。我が家より金持ちかもしれん。それから何だ……? ほれ、お前の好きな騎士物語に出てくるような、きれいな顔をした王子さまだよ!」
「でも……やっぱり都にいたいわ。」
 宮宰は舌打ちした。何を言おうか考えたが、敵視している相手をこれ以上褒めるのも腹立たしい。
「……結婚するのはその男だからな。今度会わせる。」
 娘は欠伸をし
「はあい。」
と、ふわふわした応えを返した。
 宮宰は、疲労感を感じて、話を打ち切った。
 
 宮宰はその日のうちに、見合いの算段をつける為にトゥーリの許を訪れた。
(あいつの屋敷など……いきなり斬りつけはしないだろうが……くわばらくわばら。)
 そう思ったが、顔には出さず、いつもの尊大な態度を装った。
「そなた、大人しく謹慎しておったようだな。頭は冷えたのか?」
「あんたこそ、頭は冷えましたのかねえ。謹慎中の身で出歩いていたそうだな。」
 目上に対する言葉遣いではない上に、強い草原訛りだった。取り繕って、大人しそうにするのは止めたらしいと宮宰は理解した。
「ウェンリルさまの勧めで、そなたに長女をくれてやることにした。喜べ。」
 胸を反らす宮宰の様子に、トゥーリはいきり立った。
(強がりを言いやがって!)
 しかし、怒りに任せて罵ることは控え、事実を嘲笑混じりに指摘した。
「ありがたいことですなあ……。つまらん追い込みに失敗したゆえ、女で懐柔することにしたと、はっきり言っても構わんぞ?」
 宮宰は上気し、彼を睨んだ。
「まだ頭が冷えておらんようだな! そなたのお袋さまも納得した話だからな。大公さまもご承知だ。いわば、大公さまのご命令と同じことだぞ。黙って従え!」
「外堀から埋めやがって!」
 喧嘩をしていても始まらない。二人は事務的に結婚の条件について話し合うことにした。支度金や持参金、領地の話である。

 それが終わると、再び雲行きの怪しい話が始まった。
「ところで、娘が草原へ下るのは嫌じゃと申しておる。そなたの都の屋敷へ置くのはどうか?」
「構わないね。だが、息子が生まれるまでは、同一行動をしてもらおう。」
「都と草原を行ったり来たりかね? それが嫌だと申しておる。」
「できるだけ早く嫌な義務を終える方が、お互いの為だろうに。好きでもない女と寝食を共にするのは気が滅入る。」
 嫌だとはっきり言われ、宮宰は腹が立ったが、負けるつもりはないと言い返した。
「儂とて、そなたが婿かと思うと気が滅入るが、死ぬまで夫婦でいてもらわねば、この縁談の意味がない。」
「離縁するつもりはないが、後継ぎが生まれたら、後はどうでもよろしい。奥方はそうしたければ、都で暮らしたらいい。俺は息子と草原で暮らす。奥方が都で何をしようが知ったことじゃない。破産しない程度なら贅沢をすればいいし、愛人が出来ようが構わん。俺も好きにする。」
 トゥーリは涼しい顔でそう言った。宮宰は呆れた。
「……今から結婚する人間の言うことか!」
「いいではないか。まあ、最初の子が、女子でないことを祈ろうではないか。大公家と違い、シークは男でなくてはならないからな。……あんたのところ、女腹?」
「いや……」
「あんたの奥方のところは?」
「違う。」
 宮宰は怒りに震え始めた。
「よかった。うまいこといきそうだね。」
「気分が悪い……」
 トゥーリは宮宰を愉快そうに眺め
「何か悪いものでも召し上がった?」
と言って笑った。
「違うわ!」
「ご機嫌なおして。あんたのその馬鹿娘にいつ会いに行ったらよい? 場所と時間を決めてくれ。」
「馬鹿娘だと! 聞き捨てならん! その態度で娘に会うのは許さん。娘が怖がるだろうが! ……もっとそれらしく接するように!」
「宮宰さま、あんたも父親らしいことは思うのか? 政略の道具としか思わないのかと。」
 宮宰は視線を彷徨わせた。
「うん……えっと……その態度は改めろよ。」
 トゥーリは図星を突いたのだと知り、笑いを噛み殺した。
「大丈夫。いつもしているように、めかしこんでおべんちゃら言っておけば、事足りるんだろう? 長年やってきたから、ばれやせん。心配するな。それはともかく、顔は二目と見られなくても我慢するが、身体は丈夫か?」
 トゥーリの取り繕う“技術”は、宮宰も悔しいながら認めるところだ。今まで騙されてきたのだから。だが、いちいち苛立たせるような言い方が癪に障る。
「儂の娘は不細工ではない。」
「醜女でもいいが、問題は身体だよ。丈夫な息子を産んでもらわねば、気の進まぬ夫婦生活を延々と続けなくてはならん。それは避けたい。」
「馬の種付けとは違うのだぞ!」
「だからどうなの? 言わんところをみると病弱なのだな?」
「違うわ! 儂の娘はすこぶる健康だよ!」
 トゥーリは疑わしそうに宮宰を眺めた。
「そう? 当日は首から下はしっかり観察しなければ……」
 宮宰は、不愉快な呟きを怒鳴り声でかき消した。
「だから! 不細工ではない!」
「そんなことは申しておらん。俺の乳兄弟が教えてくれたよ。嫁は顔より丈夫な身体って。」
「牝馬扱いするな!」
「聞き捨てならんな。牝馬はそれはそれは大切にされるのに。それ以上の扱いを期待されても困る。」
「なら、お前は種馬だとでも?」
「似たようなもんかな。」
 ああ言えばこう言う。怒鳴り上げても、しらっとした態度で言い返す。宮宰は返す言葉も思いつかず歯噛みした。
 トゥーリは、宮宰が言い返さないから勝ったと思ったが、くだらん勝負だと思った。

 やっと決められたお日柄のよい日。トゥーリは宮宰の屋敷を訪れた。約束通り、盛装して出かけた。
 彼は申し分のない態度で、宮宰に丁寧に挨拶した。唖然とする宮宰を、彼は心の中で嘲笑した。
 娘が現れるまでは、宮宰と話さねばならない。トゥーリは不愉快であったが、宮宰も不愉快であった。
「そなた、先日とさっぱり様子が違うな。別人?」
 宮宰が疑わしい目を向けている。トゥーリは馬鹿馬鹿しい質問に苛立ち、眉間に皺を寄せて睨んだ。
「くそじじい! 何言ってやがる! 気合入れて盛装して来てやったのに! ご挨拶だな! はきだめに鶴だろうが!」
 先程までの都言葉ではなく、強烈な草原訛りの悪態だった。聞き取りにくいほどで、宮宰には何を言っているのか解り辛かったが、罵っているのだけは解った。先日に会った際のトゥーリと同じだ。
 宮宰は呆れと諦めの半ばした様子で溜息をつき、憎々しそうにねめつけた。
「やはり同じ人。くれぐれも大人しくだぞ!」
「それは得意とするところだよ。何度も同じこと言わすな。」
 トゥーリが吐き捨てるように言うと
「一言多いのだ!」
と宮宰が言い返した。
 
 ようやく、母親に連れられた見合い相手が現れた。
「お話のところ失礼しますわ。ラザックシュタールさま、これが長女ですの。ニコールとお呼びください。」
 宮宰は笑顔を作り、トゥーリを招いた。
「ニコール、この方がラザックシュタールの侯爵。アナトゥール殿。」
「初めておめもじいたしますわ……。あら、黒い髪。お父さま、金髪じゃないわ。話が違うじゃない!」
 宮宰は戸惑った。金髪だとは言っていない。しばらく考えて、娘の好きな騎士物語の主人公が金髪だったと思い出した。彼の話した例えを、娘が勝手に思い込んでいたのだ。
(そこまで愚かだとは……)
 宮宰は言葉に詰まった。代わりに母親が慌てて娘を窘めた。
「何を言うの、ニコール。失礼でしょう? 侯爵さま、不調法を申し上げました。お許しください。」
「いえ。黒い髪お気に召しませんか?」
「……よろしいわ。綺麗な緑色の瞳をしているから。それに、私の持っている人形の王子みたいに綺麗な顔をしているのね。そこは、お父さまの仰った通り。」
 トゥーリは、どうもこの娘は様子がおかしいと思い始めた。
「人形?」
「いえね、マラガの商人が持ってきた人形ですわ。王子と姫と一組で。とても凝った美しい作りで、ニコールが大切にしていますの。この娘の精一杯の褒め言葉でしょう。」
「そう! 衣装を作ってあげて、髪の毛を梳いてあげるのが日課なの。」
 母親が体裁を取り繕おうとするのを、娘が全てぶち壊している。
「……可愛らしいご趣味ですね。」
 彼が苦しげな返答を返すと、ニコールは
「その王子の方が私とても好きですの。金髪で碧い目で、とても美しい顔立ちで……」
とうっとりと答えた。宮宰が慌てて止めた。
「ニコール! 人形の話はやめなさい!」
「だって……」
 トゥーリは、父娘のこの諍いだけは見てはいけないと思った。慌てて
「お父さまがああ仰るから、今度ね。あなたのお気に入りの人形を私にも見せて。」
と止めた。
 夫婦は、この場にはそぐわないばかりか拙い話がうまく終わらせられそうだと安堵した。しかし、一瞬で砕かれた。
「いいわ。侯爵さま……今日お召しになっているのは、タイースのご衣裳?」
 それは、都で評判になり始めたばかりの仕立師の名前だ。知っている者は知っているし、見ればわかる仕立てだが、これもまた今この場で出す話ではない。
 宮宰は苦虫を噛み潰し、奥方は貼り付いた笑顔で凍り付いた。
 トゥーリも内心呆れたが、周りを素早く見渡し、自らのすべきことを行った。
「ようご存じ。」
 そう言って彼が微笑むと、ニコールはしたり顔で
「でしょう! やはり素敵よね。」
と言った。
 そして、上目遣いに彼を見つめた。
「でも、タイースの衣装はなかなか手に入らないの。忙しいからと、注文も取ってくれないわ。侯爵さまの注文は取ってくれるのですね。」
 望んでいることが、手に取るようにわかる言い方だった。
「……どうでしょう? タイースとは懇意にしていますので、今度あなたのことをお話しましょう。」
「本当に?」
 彼女は実に嬉しそうに、目を輝かせた。
 さすがに、母親が柔らかく窘めた。
「ニコール、お控えなさい。初めてお会いした方に不躾ですよ。」
「あら、お母さま。この方が私の旦那さまになるのでしょう? よいではありませんか。」
「あからさまに……侯爵さまが困惑されます。」
「だってそうじゃない。侯爵さまもご存じなのでしょう?」
「だから! その物言いはいけません!」
 母親はおろおろしている。不憫に思われ、彼は苦し気な助けを出した。
「いいですよ。その通りなのですから。姫君は率直な方ですね。」
 宮宰が大きな溜息をついた。
 この娘の様子では、父親は慌てて隠したくなるというものである。
「侯爵……今日のところはこれくらいで。」
「あら、もうおしまい?」
 二コールは残念そうだった。トゥーリは、彼女が何を残念がっているのかを考えるのは、止めておいた。
「今度ね。日を改めて参ります。お目通り叶いますか?」
「もちろん! 今度はゆっくり遊んでね。」
(遊んでって……)
 彼は唖然とした。
「ええ……」
と応えるのが精一杯だった。

 ニコールが母親に連れられて出て行った。
 宮宰は、トゥーリに探るような視線を投げかけた。
(ありゃあ、ひどいお子さま……)
 予想外の様子に、彼もさすがに驚いて言葉がない。無表情に
「……おべんちゃらを言う間もなかった。」
と言った。
 宮宰は上機嫌で笑った。不自然だった。
「無垢で可愛かっただろう?」
 覗き込んで尋ねる宮宰の目の奥に、トゥーリは焦りを見取った。
(娘を気に入ってほしいと、幸せになってほしいと、一応は思うのだね。……親心? 鬼も笑うわ! 俺の幸せはどうでもいいのかよ?)
と思うも、宮宰は彼の幸せなどどうでもいい、むしろ不幸を祈っているのは知っている。
「物は言い様ですなあ。私、帰ります。」
 彼は皮肉を言うと、足早に戸口へ向かった。宮宰の
「近いうちに娘のところへ来るようにな。」
という言葉に、彼は
「わかっていますよ! 来ればいいんでしょう、来れば!」
と捨て鉢な口調で答えた。

 宮宰は一抹の不安を感じたままだったが、九割方決まっている話だ。帰る彼を見送って、今度は娘の話を聞いた。
「ニコール、どうだった?」
 娘はぼんやりした答えを返した。
「どうって? よくわからなかったわ。」
「あれがお前の夫になるというのに……」
 宮宰は情けなくなったが、娘は更に落胆させる応えを返した。
「お父さまの仰った通り、背が高くて綺麗な顔で、いい声だったわ。」
「気に入ったのか?」
「見栄えするからいい。」
 彼は天井を見上げた。だが、娘が納得したなら、どう納得したかは考えなくていいと自分に言い聞かせた。
「しっかり誼を通じるようにな。父さまが呼びつけてやるゆえ、しっかりな。」
「はあい。でも、本当にタイースに話をしてくださるかしら……?」
 気楽な娘であった。父は何度目かの溜息をついた。

 宮宰はトゥーリを屋敷に呼びつけた。だが、宮宰の思惑とは違い、ニコールが彼がさせたのは、言っていた通り人形遊びの相手ばかりだった。
 トゥーリの謹慎が解けて、宮廷に出入りが許されるようになると、今度は宵に呼び出され夜遊びのお供だ。
 ニコールは、大人に見劣りしない背格好だったが、中身は丸っきりの子供だ。どんなことをしても子守と変わらない。
(ヴィクトアールなどは、この娘の歳にはもっと女っぽくて、男と寝床で遊んでいたのに……。そこまで早熟でなくともいいが、こうまで奥手も敵わん。ニコールは異常と違うか?)
 自問してみるも、答えは浮かばない。答えが出たところで、何も変わらないのだと、彼は考えるのを止めた。
 訪問を重ねているうちに、妹娘までが彼に懐いた。訪れると顔を出しては
「侯爵、本を読んで。」
「侯爵、人形の髪を三つ編みして。」
などと無理やり相手をさせる。毎回、姉妹の喧嘩の種に成り下がった。
 いくら何でも夫婦になるのだから、もう少し大人びた雰囲気を演出したい彼は、せめて妹の方はどこかへ消えてくれないかと嘆いた。
 しかし、律儀な性格が災いして、約束を破ることができない。どんどん鬱憤が溜まった。
 人形遊びにも辟易するが、彼女には尋常ではない贅沢癖もあった。見合いの日に話した衣装の話を覚えていて催促する。結局、仕立師のタイースを呼び注文を取らせた。
 彼は、嬉々として注文をしている彼女を苦々しく眺めた。
(ねんねのくせに贅沢は一人前。)
 彼女は
「この衣装を着て、たくさんの人に見せたいわ。」
と言い出した。彼は既に、彼女の望みが何か見当がつくようになっていた。
「その服ができたら、大公さまの夜会へ行きましょう。」
「本当に? 嬉しい。では、宝石も要るわ。用意して。」
 図々しさに苛立ったが、彼女を怒鳴りつけるわけにも、殴るわけにもいかない。
 彼はこっそり舌打ちした。
「宝石商を呼びましょう。」
 我慢のし過ぎか、眦の引き攣れが止まらない。彼は隠すのに苦労したが、彼女は気づいてさえいなかった。



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