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 ギネウィスだった。
 酷い愛想尽かしをした女だ。彼は見るなり、混乱と嫌悪を感じた。
(何故? 今更、何の用で来た!)
 その一方では、真逆の感嘆もあった。
(あの頃と変わりなく美しい。)
 ギネウィスは、トゥーリの表情を探った。
 彼は複雑な感情を抱えたまま真っ直ぐ彼女を見つめた。彼女は苦しげに眉を寄せ、視線を逸らした。
 彼女は小姓に
「内密の話をするから、下がって。」
と命じた。
「でも……」
 小姓は当惑し、トゥーリを窺った。
「この方の仰る通りにせよ。」
 小姓がしぶしぶ下がった。
 トゥーリは編みかけの髪を束ねながら
「見苦しい姿を晒して、お許しあれ。」
と呟いた。
「いえ……。わたくしこそ突然に、このような所まで……あの……やりにくくありませんの?」
「何が? 髪? 別に。慣れていますから。」
「鏡も見ずに……器用ですのね。」
「鏡は大嫌いですから。」
「何故?」
 彼は彼女の表情を一瞥した。何の含みもない白い面だった。
「別に理由は……」
 そう答えたものの、理由は一番彼女が知っているだろうにと思うと、憎かった。
「己の顔が大嫌いなんです!」
 彼は櫛を放り投げ、彼女の側に歩み寄った。
 彼女を見下ろす緑色の瞳が、怒りに燃えている。彼女は一歩後ずさりし
「失礼を……」
と目を伏せた。
 彼女の態度は相変わらず貴婦人然としている。吼えつけば、卑俚に堕ちると思わせた。
「こちらこそ。そちらへお掛けなさい。……で、用向きは何です? それほど急を争うことが、あなたにあるのですか? 単刀直入にどうぞ。手短にね。」
 彼女が勧められた長椅子にゆっくり腰を下ろした。鷹揚な仕草が、彼をまた苛立たせた。
 彼女は、彼の立ち姿を眺めた。ゆっくりと向こうへ歩いて行く。胸が締め付けられ、涙が零れそうになるほど懐かしい仕草だった。
 彼は対面の壁際に立った。彼女の話し出すのを待っている。
 彼女がほっと息をついた。話すのを躊躇っている。ようやく
「ええ。宮宰さまのこと……」
と言って、困った顔をした。
「宮宰?」
「ここ数日の宮宰さまのこと、ご存じですか?」
「知りませんね。屋敷から出ていません。ご存じでしょう? 謹慎中だと。宮宰さまが何か? 私のことを、またどうにかしようとなさっているのですか?」
「ええ……」
「そうですか。お知らせくださって、ありがとうございます。でも、そうだろうと思っていました。そんなに慌てて、あなたのような方がお出ましになることではありません。」
 彼の口調は嘲るようだった。彼女は上気した。
「でも! いつもの嫌がらせではないようなのです! あなたを草原から遠ざけるとか……」
 彼女は真剣そのものだが、彼は薄く笑っている。
「馬鹿馬鹿しい。宮宰さまにそんなことはできません。」
 彼女はますます苦しそうにした。
「だから……宮宰さまが、わたくしの父や他の叔父さま方に度々会っているの。ご存じないでしょう?」
 そう聞かされても、今の彼にはどうする気もない。
「宮宰さまは、謹慎中の身で外出しているのですか。ご自分に甘い方ですね。」
「あなたを都の側に封じようと……そうすれば、今のように草原の軍勢を簡単に動かせなくなると。それとなく監視すればよいと。そんなことを父や叔父さま方にしきりに訴えているのです。」
 彼はくだらない計略だと思った。
「都の側? 都の側かつ宮宰さまのご領地の側ですかね? 都の北側かな? ……大公さまのご領がありますね。リンドヴァラとか言う。寒そうなところだ。」
 適当な地名を口に出してみただけだったが、彼女は真っ正直に受け止めた。
「そこなのかしら……? 都の北は、深い黒い森の痩せた土地です。そんなところにあなたを……」
 彼の出まかせを信じて、勝手に想像を膨らませている彼女が滑稽だった。
「貧乏になってしまいますね。」
「そんなこと……」
「どうあっても、私のことを逆心ありと思いたいようですね。まあ……そこならば、都に近い。楽に登城できる。」
「よろしいんですの? “金髪のアナトゥール”さま以来のご領地。部の民とも離されて。」
「“金髪のアナトゥール”よりも前から、草原は草原のもの。誰にも手出しはできません。」
 ギネウィスは、どうしてトゥーリが平然としているのか、理解に苦しんだ。彼女の案じる事実を彼にも理解させたいと、言葉を探した。
 彼は、そんな彼女の様子を見つめているうちに、意地の悪いことを口にしていた。
「しかし、そんなところに封じられたら、ラザックシュタールなどと名乗れない。リンドヴィル? リンドヴァラか。そんな名前を名乗るのかな。言いにくいなあ……。草原の者には発音しにくいですね。あなたは、私にラザックシュタールと名乗ってほしいのでしょうね。……父と同じように!」
 彼女は胸を痛めた。まだ気にしている。それだけ酷いことをしたのだと、今更ながらに思った。だが、昔のことを謝罪に来たわけではない。彼女は
「アナトゥールさま! 真面目にお話になって!」
と詰った。
「真面目に話していますよ。」
 彼は肩を竦めてみせた。彼女は焦れた。
「なら……!」
「私はどこに封ぜられても、名前が変わろうと、ラザックとラディーンのシークであり続ける。それが宿命なのです。ラザックもラディーンも私から離れない。それも変わらない。私も、私の今後生まれるであろう息子も。何のために、そのような無意味な転封をなさろうと考えたのかわかりませんね。私はもともと、在所あってなきが如き漂泊の民の出自です。ラザックシュタールの街を取り上げられようが、特に何も思いません。」
「では、その話があっても納得なさるの?」
「大公さまの仰せなら従います。」
 少しも彼の表情は変わらなかった。
「……忠実ですのね。」
「“忠実なるラザックと呼ばれることに誇りを持て”……金髪のアナトゥールのご遺言です。」
「それは、草原の民も皆そうですの? 大族長を人質に取られても、大公さまの仰せだからと納得するの?」
「ラザックもラディーンも忠実です。」
 彼女はとうとう怒声を挙げた。
「それはシークに対して忠実なのです! 大公さまに対して、忠誠を誓っているわけではありません!」
 トゥーリは涼しい顔で
「詳しいですね。あなた、草原のお育ち?」
と応えた。
「つまらぬ戯れを……」
「……どうかな? 新しいラザックシュタールの主を受け入れるのかな? 不運な誰かを殺し、蜂起して、堰を切ったように都に押し寄せるかもしれない。それとも……禁軍がラザックシュタールに駐屯するのかもしれませんね。だったら、草原でまず交戦に至る。」
 彼は、つまらないと言うギネウィスの、つまらない心配に合わせて話を続ける。
「そうして、草原で禁軍を打ち破って……都を幾重にも囲んで、やがて侵入して、ロングホーンの重臣たちの耳を次々に落とす……」
「恐ろしいことを……」
「困りましたね。何一つ命じなくても、私は叛逆、内乱の大罪人になってしまう。」
 彼は、こんな話を信じているのだろうかと思ったが、彼女は真面目な顔をして聞いている。
「不本意ながら、宮宰さまのお望み通り、私は叛逆者として、首を刎ねられるのですね。シークの代わりは、弟が二人いる。その後は、比べ物にならぬほどひどい戦いが……どうしたのです? 身震いをなさっている。」
 彼女は青い顔で、身を抱いていた。応えはなかった。
「都をめぐって、ロングホーンと死闘を繰り広げるのです。そうなる前に、ラザックシュタールを弟に返してくれるといいですね。」
 彼は微笑みかけた。彼女は眉根を寄せ、彼を睨んだ。
「朗らかに……恐ろしいことを仰らないで!」
「そんなことにはなりませんよ。ご安心なさい。ラザックシュタールを出るときに、新しい主を受け入れるように命じればいいだけです。私は何でしたか、リンドヴァラか。ああ、言い辛い。シークなど返上して、そこの領主として遊び暮らす。」
「いい加減なことを! シークはシーク。どこにいてもそうだと、宿命なのだと、たった今仰った。」
「では、我が血筋を根絶やしにして、いつまでも戦って草原を手に入れたらいいんじゃない? どちらにしても、私は死なねばならぬらしい。」
「宮宰さまは何もお解かりではないのです。草原のことも、あなたのお立場のことも。甘く見ているのですわ。あなたを草原から引き離せば、おいおい草原は大公家の支配下に入れられるだろうと高を括っているの。父のところへ来て、そのようなことを申しておりましたわ。」
 彼女が慌てれば慌てるほど、彼はどんどん笑えてきた。愚かしい計略を実現させようとしている宮宰も可笑しい。何より可笑しいのが、そうなってもいいと思っている自分だった。
「お父君は何と?」
「笑っていらした。でも、他の方のところにも出入りしているのよ……? 心配なのです!」
 彼は笑い声を挙げた。
「心配なさらんでも……。荷物をまとめて、田舎へでもいらしたらいいのです。」
「また、そんな風に……。わたくし、父にお願いして、宮宰さまを諌めてもらおうと……」
「それで? お父君に願いでてやるゆえ、感謝せよとでも仰るのですか? それとも……見返りにまた男妾になれと?」
 卑しい嫌味だった。忘れたつもりでいたのに、やっと許せた思っていたのに、彼の舌はすらすらと動いていた。

 ギネウィスは頬を引き攣らせて絶句し、不愉快そうにトゥーリを睨んだ。
「……何ということを!」
 ありったけの感情を込めた一言だったが、彼は顔色ひとつ変えなかった。
「失礼。別に頼みもしません。お優しくておせっかいなギネウィスさま。どうもありがとうございます。満足でしょうか?」
「心にもないお言葉、いたみいりますわ! 意地悪におなりですのね。わたくしの愛したあなたは、もっと素直でいらしたのに。」
 空々しいことを言う女だと、彼は苛立った。
「あなたこそ、心にもないことをおっしゃる。あなたの愛したのは私の父です。決して私ではない。よく似ているからと、また混乱なさらないで。ここにいるのは、ローラントの方ではない。アナトゥールの方です。」
 彼女は目を逸らし、苦し気に何度も溜息をついた。
「そう……あなたは、本当にローラントさまにそっくり。髪の色、瞳の色、お顔立ち、声まで似ています。……お妃さまのお庭からその声が聞こえたとき、わたくしはとても驚いたの。亡くなったはずと思っても、心が騒いで。わたくしは、こっそり幼いあなたを見たのです。そして、ローラントさまの面影を宿したあなたを……一目見て欲しいと思った……。わたくしは、人でなしの恥知らずです。」
 それは、彼の最も聞きたくない独白だった。疼く弱い心が厭わしかった。
「その話は、別れる時にしたではありませんか。もういいのです。あの時は、あなたのことをたいそうお恨みしましたが、今は……もう何も思いません。」
 姑息な嘘が、ますます彼の心を疼かせた。何も思っていないわけではないと、はっきり自覚しただけだった。
「でも……」
「もう帰ってください。小姓を呼びます。」
「はい……」

 トゥーリが扉口に足を向けた。ギネウィスは
「初めは……初めはそう思いました。」
とぽつりと言った。
 彼は立ち止まった。
 彼女は彼の背中に語りかけた。
「けれど、何の疑いもなく、真剣に慕ってくれるあなたのことを、わたくしも……」
 彼は振り返り、大股に歩み寄った。そして、彼女の肩を押すと、半身で長椅子に押し付けた。
「それ以上仰ると、このままですよ? すぐに小姓が入ってくる。」
 彼女は、彼の身体を押しのけようとして、止めた。
「よろしいですわ。わたくしは今でも……」
 彼女は彼の瞳の奥を見つめた。
 彼には、彼女の意図も望みも解らなかった。
(この女……!)
 懐かしい香が薫った。
 彼は目を逸らし、彼女の肩に額を付けた。
「黙って! お願いだから! 美しいギネウィス。あなたといると、まだ心が騒ぐのに……また俺を苦しめるつもりなのか?」
 彼女はゆっくりと彼の背中を撫でた。肉体の記憶はまだ鮮明だった。
「わたくしも苦しみました。でも、あなたはあの頃の……背ばかり高い痩せた男の子ではないのね。大人の体格になられた。もう……ずいぶん経ったのです。当たり前のことですね。あなたは今から盛りを迎える。わたくしはもうおばあちゃん。あなたを失望させるでしょう。」
 彼女は彼の肩をそっと押しやって、座り直し
「帰って、父と話をします。でも、あなたの為にするのではありません。わたくしの償いです。」
と言った。
「お気のすむように。償うことなど何もないのに……」
「いいえ。……あなたに、愛する姫君を裏切らせました。」
「何のこと? 私には、貞操を守らねばならぬ相手などいない。昔も今も。」
 彼の問いかけに彼女は答えず、困ったような微笑みを返した。

 小姓が扉を叩いた。トゥーリは扉を少し開け
「ウェンリルの公女さまはお帰りになる。お供にそう申して来い。」
と命じた。
「さようなら。私の寝間に乗り込んでくるような勇ましい真似は、もうお控えなさい。」
「ええ。あなたとわたくしの間は、もう終わっていますもの。こんな振舞いは二度といたしません。宮廷でお会いしても、平然としていられます。ごきげんよう。」
 ギネウィスはしゃんと背を伸ばした。
 ところが、彼女は扉の前で踵を返して駆け戻ると、彼に抱き付いた。
「“さようなら”などとおっしゃらないで! あの頃のように“いずれ、また”と。」
 彼は戸惑い、彼女を押しのけた。
「それは……」
「嘘でもいいのです。仰って。」
「……美しいギネウィス。いずれ、また。……さあ! 気がすんだでしょう? 小姓が変に思う。早くお行きなさい。」
 彼女が出て行った。すすり泣いていた。
 彼は灯りを求めることも忘れて、暗い部屋に座り続けた。



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