黒衣の女
9
祭司長は、妻の変化に気づき始めていた。
「そなたは最近様子が変わったね。」
フレイヤはぎくりとしたが、平静を装って尋ねた。
「そう? どのように?」
祭司長はにこにこしながら
「どうと言われても……美しくなったような気がする。いや、前からそうだったが、この頃頓に。それに優しくなった。それも前からだが……。まさかとは思うが……子供でもできたか?」
と言った。
彼女は息が止まりそうだった。そうならば、父親は夫ではないかもしれない。彼女は素早く自分の身体の周期について考えた。直ぐに、杞憂に過ぎないと結論が出た。
「いいえ。ごめんなさい……」
彼女が目を伏せると、彼は自分の不用意な発言を慌てて取り消した。
「いいのだ。いいのだ。傷つけてしまったね。すまん。私はそなたが側にいてくれれば、それで幸せなのだから。」
そう言って、彼女の肩を抱き寄せた。
大切にされ、気を使われていることは、彼女にもよく解っている。しかし、鬱陶しくて仕方がなかった。彼を好きなのだとは思うのだが、どうしても彼にすべてを投げ出し、尽くす気持ちになれないのだ。
彼女は白けた気分だったが、夫の方は気まずかったのだろう
「今日妙なことがあってね。」
と、違った話を始めた。
「恋の願かけに、献花や供物をするのはよくあることだが……」
「ええ。」
「素晴らしい銀細工の供物があったのだよ。」
神殿に、女神の喜びそうな装飾品が捧げられることは茶飯事だった。祭司長である夫がわざわざ話すほどの素晴らしさが何か、彼女も興味を惹かれた。
「どんな品物なのですか?」
彼は先程の拙い話から上手く替えられたと安堵した。
「銀を貼った皮で作った花でね。実に精巧なのだ。ちょうど今の時期の、季節外れの花の上に雪が載ったようで……凍った花のようにきらきらとして美しい。相当金のかかったものだろうよ。惜しげもなくねえ……。しばらく祭壇に飾っておこうと思うのだが、盗難が心配だね。」
彼女はなるほどと思っただけで興味を失い、それらしい解決策を述べるだけに留めた。
「女神さまの御前で盗みを働く者など……。何処か高い所、神像の頭にでも飾ったらどうでしょう?」
すると、彼は困った顔をした。
「それがいいとは思うのだが、うちの女神さまには、ちょっとどうかと思う花なのだ。何の花だと思う?」
彼女の頬が引き攣った。奔放な愛の神にそぐわないと言われてまず思い出すのは、あの花だ。
彼女は椅子の肘かけに頬杖をついて、考え込む風を装った。
彼は妻を眺め、苦笑した。
「わからないか? ……百合の花なんだよ! 貞潔の象徴の花をいただいたのだよ。」
予想をつけていたのに、はっきり言われて彼女の鼓動は大きく跳ねた。震えそうな唇を舐め
「……どなたが……?」
と尋ねた。
「それがね、ラザックシュタールさまなんだよ! 神頼みなど、必要ないだろうにね。」
夫は愉快そうにしている。
今度は、衝撃よりも安堵さえ彼女は感じ、平気でごく普通の相槌を返せた。
「ええ。まことに。」
だが、心の中では、呼ばれているのだと居ても立ってもおられなかった。
彼はそんなこととも露知らず、暢気に話を続けた。
「まさかと思ったが、紙片が括りつけてあった。間違いないのだろうなあ。ご署名もあった。書いてある内容も何だか……」
またもや、彼女の胸は騒いだ。
「何か書いてあったのですか?」
「おかしなことが書いてあるんだよ。“愛しい女神よ。今日も私は、あなたの為に、私の犬に鞭を入れなくてはならない”とか……」
彼女は眉間を抑え、こっそり嘆息した。奥底から襲ってきた甘い苦しみに、既に囚われていた。
「考えたところで、解らないだろうよ。我々も少し話し合ったがさっぱり……。あの若い殿さまは、何を思ってお書きになったのかな? 草原では、馬のみならず、犬にも鞭を入れるのかねえ……」
夫こそが何も解っていないのだと、彼女は内心で嘲り、苛立ちも感じた。
「不思議なことですね……」
彼女は夫に微笑みかけた。
文言の意図ははっきり解った。確かに彼が呼んでいる。
“
俺の犬
。何をしている? 早く来い。”
行かなくてはならない、行きたいと思った。どう体裁を整えて出かけようかと、素早く考えていた。夫を前にしているというのに、罪悪を感じる余地もなかった。
数日後の雪の止んだ午後。フレイヤは、やっと出かけることができた。
別邸の入り口に、黒いラザックの馬が結んであった。怖れと喜びが同時に湧き上がった。
室内は既に温かかった。トゥーリは寝そべっていた長椅子から身を起こし、入ってきた彼女をねめつけた。
「やっと来た。毎日毎日……何日待たせるんだよ。遅い。」
待っていたと言われて嬉しかった。しかも、彼女を見る目は、期待していた通り、冷たく刺すようだ。ぞくりとした。
「申し訳ありません……。都にお戻りになっているとは……」
言うや否や、厳しい叱責が飛んだ。
「偽りを申すな! フレイヤの社に供物をした。お前も知っているはずだ。」
「は、はい……」
彼女は声を震わせ、彼が手首に下げている馬の鞭を眺めた。
彼はじっと彼女の様子を見つめた。そして、彼女の視線の先に気づくと、長い溜息をついた。
「主人の気分が読めん犬では、使い物にならぬ。しつけが足りんな。」
その言い草に、彼女の瞳がきらりと光った。
「はい……」
「また……お仕置きか?」
彼女は切なそうに眉を寄せ、ゆっくりと這いつくばった。
「鞭を……どうぞ。」
最初の一閃で打ち震えた。二度目、腰が砕けて尻が落ちた。三度目で、蹲った。もう動けないくらいに興奮していた。
彼がひどく辛そうに見下ろしていることなど、彼女は気づきもしなかった。
寝台の上の天井に蜘蛛の巣が揺れている。小さな夏虫が囚われたまま干からびて揺られていた。主の蜘蛛の姿はない。主はもう見向きもしないで、新しい獲物を待っているのか、既に巣を去ったのかもしれない。
トゥーリはそれを眺めていた。死んでも囚われの身から逃れられない夏虫が、己のように感じられた。
「こんなことをいつまで続ける?」
「もう止めたいと? そんなことできませんわ。」
彼はぼんやりと尋ねた。
「お前は今後、俺とどうしたいのだ?」
現実的な問いに、フレイヤは言葉に詰まった。だが、彼は必ずしも、答えを期待してはいなかった。
「亭主のことは? 大事なんだろう?」
この問いには、辛うじて答えられた。
「わかりません。」
「では、俺のことは?」
「……こんな関係はよくないと思うけれど……。離れられない。苦しみから逃れたいのに……」
彼は側に横たわる彼女を、横目で見た。彼女も天井を向いていたが、眉を寄せ苦しそうにしていた。
「秘密だからって、酔っているだけではないのか?」
「いいえ。」
彼は寝台脇に脱ぎ捨てた服に手を伸ばし、牛刀を取り上げた。
「じゃあ、お前を殺そう。苦しみから逃れたいのだろう?」
「えっ?」
彼女は驚き、上体を起こして彼を見下ろした。
彼は刃を抜き、鞘を放り投げた。そして、刃の裏を返し表を返して眺めながら呟いた。
「……白い肌、吹きだす赤い血潮……。死んでいくお前は美しいだろうな。お前がこときれるまで、ずっと見ていてあげるよ。」
「……あなたがそれで酔いしれるのなら、私もそうしたい……。鮮明に思い浮かぶわ。私の血飛沫に濡れて、黙って見下ろしているんでしょうね。その冷たい碧い瞳で……。とてつもない歓びを感じながら死ぬでしょう……」
二人共、その想像にぞくりとした。しかし、フレイヤの震えとトゥーリのそれは違っていた。
「冗談じゃない。お前はいいが、俺はその後、お前の骸を抱えてどうしろと? ここの庭に墓穴を掘れとでも?」
そう言って彼は苦笑したが、彼女の最大の望みを叶えて、自分が何を感じるのか知りたいと思った。自分の投影が死んだならば、何が残るのだろうとも考えた。
(……そんな変な動機の人殺しがあるか。)
甘い腐臭のする妄想を振り払ったが、彼女の側にはいればまた引き摺り込まれそうだと感じた。
「帰ろう。」
彼が服を着こみ髪を編むのを、彼女は寝台から眺めた。
彼はぼんやりした彼女を訝しみ、身支度を促した。
「服を着ろよ。帰らないのか?」
ところが、彼女は寝台から下りない。俯いて何か考え込んでいる。
彼は黙って、彼女の応えを待った。
彼女は途方に暮れた様子で彼を見つめ、やがて顔を歪めた。
「帰らないで。帰ったら、あなたは、私には手の届かない高貴なラザックシュタールの侯爵さま。ここにいて。私だけの主でいて。あなたに愛されたい。」
彼はぎくりとして、彼女を見つめた。
見つめている目、切なさ、苦しさ。屈伏させられる歓び、愛されたいと渇望する心。全て同じだ。違うのは主がいるか、いないかだけである。
羨望と嫉妬で苦しいのに、彼女の望みを叶えたい。止められない。どんどん離れられなくなる。
(傷を舐めあうような……。見苦しい……)
覚られぬように、彼は短く冷たい言葉を返した。
「あまり遅くなると、家人が訝しむぞ。」
そして、そのまま邸を出た。
彼女は寝台に大の字に転がった。狂っていると思うと可笑しくなり、高笑いした。高笑いはやがて慟哭に変わった。
フレイヤが帰宅する前に、祭司長は屋敷に戻っていた。
「遅かったね。どこへ行っていたのかな? 先に食事を済ませてしまったよ。」
彼女を責めるようでもなく、いつも通りの優しい口調だった。
「ある姫君のところで……話し込んでしまって。」
「そう。そなたはいつも、じっくり話を聞いて差し上げる。ご苦労だったね。夕食は?」
彼は少しも怪しんでいない。彼女は胸を撫で下ろしたが、食欲はなかった。
「向こうでいただいたの。」
微笑みを返せることが恐ろしかった。
夫婦水入らずで過ごしていても、彼女はさっぱり後ろめたさを感じなかった。欺いているのが、小気味よくすら感じた。
すると、急に夫が
「今日は何だか、艶めかしいな。」
と言い出した。
「寝所に行こう。」
彼女はぎょっとした。
「疲れていますから……」
しかし、夫はいつになく強引で、彼女を寝台に上がらせた。そして、拒むのにも構わず衣装を脱がせたが、急に手を止めた。
「これは……そなた、姫君のところに行っていたのではないだろう?」
そう言って、彼女の目前に下着を突き付けた。情交の跡が残っていたのだ。
彼女は慌てて下着を掴むと、寝台から飛び降りた。
彼は寝台の上に座り込み、静かに問いかけた。
「最近、様子が変わったのは、そういうことをしていたからか。誤魔化そうと思っても、そうはいかないよ。そうなのだね?」
怒るでもなく、むしろ優しい目で彼女を見つめていた。
「だから、だめだって……」
彼は深い溜息をついた。
「貞淑なお前が……誘惑されたのか? そうに違いない。無理に連れ込まれたのだろう? 望んだのではないだろう? 答えて、フレイヤ。」
詰問ではなかった。彼は彼女を信じようと、必死に努力していたのだ。
「……ごめんなさい。」
彼は驚き、それでも彼女を信じようとした。
「どうして謝るの? 自分から望んだのではないと言いなさい。それとも……そうなのか?」
「私が望んでいたのです。」
彼は眉根を寄せて彼女を見つめ、やがて顔を手で覆って嘆いた。
「……何ということだろう! うわついた婦人とは違うと、慎ましい妻だと信じていたのに、そんな振る舞いをするなんて……」
それさえも、彼女を責めるようではなく、自分に呟いているようだった。
立ちつくす彼女を見つめ、彼は続けた。
「何時から? 今日が初めてなのだろう? そうだね? そうに決まっている。」
(この人は、私ではなく、己の中の幻想の女を愛しているだけ……。シークだけが私を知っている。)
彼女にはそう思えた。より一層、トゥーリのことが恋しく思われた。
だが、現実が迫り覆った。
(もう……おしまいなのね……ならば……)
フレイヤは意を決して告白を始めた。
「私、あなたの思っているような女ではないでのす。身の内に魔物がいるの。」
祭司長は寝台に腰を下ろし、頭を抱えた。
「もう全て話して。聞くのも恐ろしいが、聞かずにいられない。」
「……冬の初め頃から、あなたを裏切っておりました。」
「私がお籠りしていた頃か。寂しかったのだね。そうだろう?」
彼はまだ、希望を持ちたがっているのだ。彼女は苛立った。
「そうかもしれません。不在がちなあなた。私は恋も知らずにあなたの妻になりました。それでもいいと思っていたけれど……。若い姫君たちのお話し相手になっているうちに、私も彼女たちのように……恋をしてみたいと思ったのです。」
「何故、思うだけで留められなかったの?」
「……私は娘盛りというわけではないのよ。後は年老いて、子供もなく、寂しい老婆になるだけ。今が最後の機会だと思ったの。」
「子供はできるかもしれないだろう?」
彼女は上気し、大声を出した。
「もういいですわ! 露見してしまったからには、今まで通りのことはできません。あなただって、何も無かったようにはできないでしょう。」
彼は苦しそうに考え込んだ。
彼女は、何を考え込むことがあるのかと、益々苛立った。
「そう思っていた時に……あの方に会ったの。同じ魔物を飼っていた。それが惹き合ったのかもしれない。」
「……どこで会ったのだ?」
「大公さまの冬至の夜会。」
「……下賤な者ではないのが、せめてもの救いだ。放蕩者の公達に遊ばれたのだよ。」
「いえ、そうではないのです。」
彼女はほっと息をつき、独り言のように呟いた。
「もう何もかもがこれ以上ない……」
夢見るような表情をしている。彼は妻を苦々しく見つめた。
「別れなさい。」
「別れますわ。このままではいけないと思っています。」
「相手の男も、切れてくれるのだろうね?」
「あの方も……そうね。お可哀想に、私の所為で……」
彼女の言葉が途切れた。
しばらくの沈黙の後、彼女は涙ぐみ
「でも、私……自分を抑える自信がないわ。どうしよう。あなた、私どうしたらいいの?」
と言って、後は子供のように泣きじゃくった。
彼は彼女を隣に座らせると、髪を撫でながら
「別れたらいいんだよ。無かったことにして、また静かに暮らそう。」
と優しく宥めた。
彼女は言葉の意味を確かめるように、彼の言葉を繰り返した。
「静かに暮らす……?」
「できるよ。今まで通りね。……どうした? 身震いをしているね。」
「あなたは私を許すの。」
彼は理解のある大人の夫だと言わんばかりに、微笑んだ。
「大丈夫。許すも何も、女神さまに悪戯をされただけだよ。誰の所為でもない。」
「あの方もそうなのかしら?」
「恋は、誰にも平等に訪れるのだよ。」
彼女は俯き、ぽたぽた涙を落とした。
「……ごめんなさい……」
祭司長は、彼女が彼の許しをようやく受け入れたのだと安堵し、黙って肩を抱き続けた。
しかし、祭司長にはどうしても訊きたいことがあった。聞いてはいけないと思ったが、抑えきれなかった。
「ところで……誰? 仮初めにも、そなたと語り合ったのは?」
「言えません。ご迷惑がかかるもの。」
「迷惑も何も……気づかないふりをしているよ。知りたいのだ。そなたのその……初恋の相手だろう?」
「初恋? そうなのかしら?」
フレイヤは驚いた様子で尋ね返したが、直ぐにうっとりとした表情に代わり
「そう言うには、あまりにも激しく……奪いつくされたわ。」
と言った。
彼の胸がちくりと痛んだ。
「誰?」
「言えません。」
「聞きたいのだ。秘密にすると約束する。教えてくれないか?」
彼女は彼を一瞥し、遠い目をして呟いた。
「……遠い草原の方……」
「大公さまの夜会で会ったと言っていたね。ラザックかラディーンの……ラザックシュタールさまのご近習か。」
彼は少しほっとしていた。放蕩者に遊ばれたのより余程いい。草原の生真面目な近習ならば、夫のある女との恋を悔やみ、揉め事にならずに治まるはずだと思えた。万が一居直られても、シークに話すと言えば治まる。
「……いいえ。」
彼女は困った顔で否定した。
彼は考え込んだ。だが、他に城の夜会に出入りできるような草原の者など思いつかなかった。
「確か、ヘルヴィーグさまのところに、ラザックシュタールさまの弟君がおられると聞いたが……まだ少年のはず。」
問いかける目を向けても、妻は黙っている。
「まさか?」
「ええ……」
彼は眉間を抑え黙り込んだ。顔を上げた時には、目に明らかな怒りがあった。虚空を睨み
「では……先日の花についていた紙切れ! おかしな文言! あれは、そなたとの符丁だったのだな。何たる不敬……神聖な祭壇を邪な欲望で穢すとは!」
と言い放った。
彼女の聞いたこともない怒声だった。
「あなた、あなた! お鎮まりになって! 恋は平等に訪れると仰ったではありませんか! 知らないふりをすると……」
「それとはまた別だ! 女神さまのご祭壇を穢したのは許せない。一言申し上げる。」
彼は立ち上がり、部屋を去ろうとする。彼女は腕を取り、訴えかけた。
「お止しになって! そういうことはなさらんと仰ったでしょう!」
「そなたのことを抗議するわけではない。もういいから、休みなさい。」
彼は腕を振り払い、彼女を寝室に残し出て行った。
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