8

 その日の快楽は強すぎた。別れた後、二人共に恐ろしくなった。
 連絡をすることもなく、数日が過ぎた。
(フレイヤのことは、忘れた方がいい……)
(シークとのことは、なかったこと……)
 そう思い込もうとした。

 ある朝、いつもの散歩道。トゥーリは、林道の道端にひっそりと立つフレイヤを見た。通り過ぎてしまうことは、叶わなかった。
 下馬して彼女の前に立った。話しかけることもなくお互いを見つめ、しばらく立ち尽くした。
 やがて、彼女は俯き、彼の袖を引いた。茂みの陰に連れられると、彼女が抱き付いてきた。
 彼女は愛おしそうに胸にすり寄り
「お会いしたくて、我慢できなかったの。」
と囁いた。
(応えてはいけない。“お前など忘れた”と言え……!)
 理性はそう忠告したが、受け入れることが出来なかった。
「……俺もだよ。」
 口づけし抱き締めると、情欲が湧き上がった。決心は容易く消え去った。
「もう我慢が出来ない。」
 彼女は彼の胸を押しのけて
「それはだめ……」
と言った。辛そうだった。
「どうして? 俺の来るのを待っていたんだろう? だったら……」
「そんなことはだめ……」
「俺のことが嫌になったの? そうじゃないだろう?」
 彼女は益々苦しそうだ。
「この前のこと……」
 彼女は“この前のこと”という言葉に震えた。だが、強く拒否した。
「今日は、本当にだめなの。」
「今日は? 別な日ならいいのか?」
 彼女は黙りこみ、切なく熱い目を向けた。
 そして、何も言わずに駆け去った。
 彼女も、これ以上続けるのはいけないと解っているのだ。
 しかし、一度触れあってしまった後では、それも高ぶる気持ちを煽るものでしかなかった。

 数日後。夜会の供をした姫君がトゥーリを詰った。
「侯爵さま、全然楽しそうじゃないわ。私が度々誘うから、我慢して出てこられたの?」
「我慢? そんなことはないよ。」
 口先だけの言葉に、姫君は不満そうに呟いた。
「やっとご一緒できたのに……フレイヤさまとお祈りしたのに……」
 彼はフレイヤの名前を聞いて、異様な興奮を感じた。
「ここが楽しくないだけ。二人だけになりたい。」
 心にもないことを、舌が勝手に言葉にした。
 彼が立ち上がると、姫君が後をついてきた。
「フレイヤさまのお祈りのおかげなら……私からもお礼を言わなければね……」
 嘘を言うのは心苦しいのに、また舌が嘘を言った。


 朝議の後、城の召使いがトゥーリを呼びに現れた。いつかの小部屋に案内された。
 フレイヤが待っていた。扉を閉めるなり、彼女は彼にしがみついた。
「お前……」
 絶句する彼を、彼女が詰り始めた。
「あの姫君が……あの姫君がお礼に来ました。あなたも私にお礼がしたいそうね。あなたは酷い! どうしてそんなことを言うの? どうしてそんなことをしたの?」
 火を噴くような口調だった。彼にくらくらとする嗜虐心が湧き起こった。
「そう。可愛かったよ。羞恥心の欠如したお前と違って。」
 微笑みさえ浮かんだ。
「では、私はどうなるのです!」
 彼女が苦しそうにすればするほど、彼は残忍な気持ちになった。
「知らんな。今日の朝議で、ご宣旨があった。軍務につかねばならん。どちらにしても、会えないということだ。お前もこれを機に、他に男を作ったらいいだろ。好色だから、俺だけでは足らんのでは? 声をかけたら、すぐついて来るぞ。ただし、弟はならん。」
 彼女は頬を引き攣らせ、挑むように胸を反らせた。
「弟君のことには、随分分別なさるのね。……本当に可愛らしい弟君。弟君ならよかった。あなたは……こんなに冷たくて残酷なのに!」
 彼は上気し
「弟には手を出すなと言ったはずだな!」
と言うなり、手首に下げていた鞭を、彼女の手の甲に打ち付けた。
 彼は咄嗟にした怒り任せの暴力をすぐさま悔やんだ。
「すまな……」
 彼の謝罪に、彼女の謝罪が重なった。
「はい……確かにそう仰せでした。申し訳ありません。どうかお許しください。」
 彼女は小さく呟き、切ない吐息を漏らした。顔が紅潮していた。
 彼は、彼女が何を感じているのか察した。悦んでいるのだ。応えなくてはならない気がした。応えてはいけないとも思った。
「弟のことを、お前は口にしてはいけない。……お前など、もう知らん。俺に関わるな。」
 それが本心なのか、駆け引きなのか、彼は解らなくなった。
 彼女は愛撫されているように、うっとりとした表情をしている。
「そんなことは仰らないで。私はあなたでなくてはだめなの。」
 彼は生唾を飲み下した。これ以上、誘い込まれてはいけない。何とか己を抑える術がないかと考えた。
「亭主は? そろそろ戻って来ただろう?」
「はい。」
 彼はほっとした。“亭主”と口にし、帰ってきたと知ると、気持ちがすっと治まったように感じた。
「亭主とせいぜい仲良くな。……ごきげんよう。」
 踵を返す彼に、彼女が追い縋った。
「お待ちになって! ねえ、また……」
「もう知らんと言っただろ? 亭主が帰ってきているんだろ? どうするんだよ。」
(シークは止めようとしている……? そうした方がいいのよ。)
 そう思ったのは一瞬だけだった。彼女は前に回り込み
「では! 私の、私の亡くなった父の別邸が郊外にあります。捨て置かれているので荒れていますが、誰も来ません。……そこで……」
と言って、じっと瞳を覗き込んだ。
 彼は彼女の肩をよけて、通り過ぎた。
(応じてはいけない……絶対に……)
 邪な想いを宥めようと試みた。
 しかし、扉を見つめたまま
「……いい子だね、フレイヤ。そこで待っていて。」
と言っていた。
(抗えない……。もうだめだ……)
 彼は、彼女に縛られていることを認めた。
 扉が音を立てて閉まった。
(この扉はいつも大きな音を立てる……)
 気味が悪かった。

 午後。
 トゥーリは、貴族や豪商の別邸のある郊外に出かけた。晩冬に滞在している者はなく、ひっそりとしていた。
 ゆっくり歩ませていると、フレイヤの黒い姿が目に入った。
 彼女は、ごく小さな百姓家を模した館の前に立っていた。彼に気付くと、黙って門をくぐった。
 荒れた前庭。往時は、そこに畑を作ったり、鳥を放したりして、百姓遊びをしたのだろう。その様子が残っていた。
 彼女が、大きな錠に苦労している。錆ついて鍵穴が回らないのだ。
 彼が代わって、牛刀で数度叩くと錠は割れた。
 内部までは百姓家の造りを真似ておらず、上等な材料を使ったしっかりとした造りだった。傷みはない。だが、人は長い間入ってもいないのだろう、射しこむ陽の中に埃がきらきら舞っていた。
 彼女は奥の一室に案内した。元は婦人室だったらしく、古い鏡台や衣装箱があった。調度はセリカ風だった。
 火を入れ、埃だらけの長椅子を引き寄せて、寄り添い座って身体を温めた。
 彼女が初めて口を開いた。
「ここ、母の部屋でした。」
「変わった部屋だね。黒檀の家具がある。浮彫は龍かな……龍は、セリカの皇帝の意匠だとか聞いた。」
「ええ。私の母は、セリカから来た女だから。」
 意外だった。彼はセリカの商人は何人も見たことがあったが、女を見たことはない。
「遠くから嫁いだんだな。」
 彼女は苦笑した。
「嫁いだわけではないわ。母は、父がセリカの皇帝から賜った宮女なの。ここに囲っていたのです。そして、生まれたのが私。」
「その黒っぽい髪と黒い瞳は、セリカの母のものか。」
「ええ。多分。私と母はここで暮らしていたの。」
「父の家には?」
「ご令室さまが厳しい人で……母だけならまだしも……。父が亡くなった後に、追い出されてしまいました。」
「母親はどうした?」
「亡くなりました。母は歌舞音曲には優れていても、生活の術など何も知りませんもの。……私をお社に預けて、ほどなく亡くなったそうです。」
「そうか。」
 彼はそれ以上答えようもなかった。何か尋ねるような話でもない。黙り込んだが、彼女は話を続けた。
「お社で私を保護して、フレイヤという名前をくれたのが、今の主人。」
「そんな奇特な亭主を放っておいて、良心が痛まないのか?」
 彼女は目を伏せ、寂しそうに笑った。
「そうね。いつも後で後悔するわ。私のことをとても大切にしてくれるのに……」
「もう、止めた方がいいんじゃないか?」
「そんなこと仰らないで。あなたが現れたからには無理。……逢わなければよかった。でも、逢ってよかった。私はいつも……屈伏させられるのを待っていたのかもしれない。」
 彼はぎくりとし、言葉を返せなかった。
 彼女は彼の応えなど望んではいないのか、独白のような話が続いた。
「屈伏させられて、苦しいのに辛いのに、それが嬉しいなんて……。華やかな広間で、あなたは刺すような目で睨んだ。その時から予感がしたの。」
 彼は己の心を代弁されているようで、苦しかった。やはり同じ種類の人間なのだと思った。
「予感?」
「苦しさに陶酔させてくれる残酷な私の主人は、この方だと。」
「主?」
「ええ……。辛くて苦しくてたまらない。なのに……もっと辛く苦しくなりたい。私は呆気なくあなたに屈伏して、あなたの言うことなら何でもしてしまう。どんな酷いことでも、どんな恥ずかしいことでも……どうしても断れないの。」
 全て彼にも思い当たるだけに、聞くのが苦しかった。
「不道徳な女だよ。」
「不道徳……そうね。いつか神の罰を受けるでしょう。その前に、あなたから罰せられたい。」
「期待には応えられないな。お前が満足するような罰は思いつかないよ。」
 彼は溜息をついた。彼女は彼の手元をじっと見た。
「その鞭……今朝、私の手をその鞭でお打ちになった。甘い痛みだったわ。もう一度それで打たれたい。」

 トゥーリはさすがに怯んだ。
「そんなことは……」
 フレイヤは探るような目で
「できないのですか?」
と言った。
 最早、試す立場と試される立場は逆転していた。
 彼女の今朝の妖しい表情が思い浮かんだ。悦んでいた。悦ばせなくてはならないと思った。
「いや……。手を出せ。」
 ぴしりと鞭が音を立て、赤い痕をつけた。彼女はびくりと身震いをして、溜息をついた。
「もっと……」
 甘えるような囁きだった。
 彼は背中が粟立つのを感じた。
「……背中を出せ。お前のようなふしだらな女には、お仕置きをしなくてはいけない。」
 ひどく無感情な自分の声を、違う自分が驚きながら聞いていた。彼女が震える指でボタンを外すのを見ていると、目の前が真っ赤になった。
「早くしろ! お前は俺の犬なんだろう? さっさと命じた通りにしろよ!」
「は、はい……」
 ますます彼女の指は震えた。
 彼は彼女を突き飛ばし、黒い衣装の背中の上に、力一杯鞭を振り下ろした。細い悲鳴が次第に甘い声になった。
 息が切れていた。些細な運動の所為ではない。頭ではもう理解できない情欲の昂りに苛立ち、息が上がっていた。彼は鞭を取り落し、彼女の髪を引き掴んだ。
 そして、古い寝台に抑えつけた。
「お前はおかしい! そのお前を抱いている俺は、もっとおかしい!」
 彼は怒鳴り、掴んだ髪を揺らした。
「段々俺はおかしくなる! ……お前はいったい何なのだ?」
 泣き出しそうな声だった。
 彼女は掠れた声で、彼の耳に囁いた。
「私はバイフェア。」
 歌うような抑揚のついた単語だった。聞いたことのない単語だ。
 彼は不思議そうな顔をして、彼女を見つめた。
「……バイフェア?」
「百合のこと。セリカの言葉。母のつけたセリカの名前。」
 彼はきつく目を閉じた。
 貞淑さを象徴する花でありながら、強い匂いを放ち人を惹きつけ誘う花。彼女にこれ以上相応しい名前はないと思った。悪い冗談ではないかとさえ思える。
「……セリカの魔女!」
 低く罵り、握っていた髪を放すと、艶やかな髪がばらりと広がった。




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