7


 朝議が終わっているはず時間になっても、トゥーリは帰ってこなかった。
 正午の鐘が聞こえた。彼は一向に戻って来ない。フレイヤは焦り出した。
 すると、扉を叩く音がした。彼なのかと思ったが、そうではなかった。誰かが、がちゃがちゃ扉を揺らしている。彼女は戦慄した。
「鍵がかかっているよ!」
 下女の大きな声がした。
 誰かが聞きつけて、言いつけを知らず鍵を開けるかもしれない。そもそも、鍵を開けるなと命じていかなかったのではないかとも思った。
 この姿を見られたら、身の破滅だと生きた心地もしないのに、胸の底にどうとも説明しがたい気持ちもあった。見つかって、恥をかいてみたいという想いだった。

「何をしている?」
 トゥーリは、鉢合わせた下女を厳しく見下ろした。
「お掃除ですよ!」
「いつもより時間が遅いではないか。もう今日は良い。」
 下女は抗弁した。
「包布だけでも替えないといけませんよ!」
「自分でする。」
「ええっ? 殿さまに、そんなことはさせられないよ。」
「できるわ。そんなことくらい。午睡をしたい。お前は下がれ。」
「はあ……」
 下女がなかなか去らない。
 そのやり取りはフレイヤにも聞こえた。まさか下女を入れないだろうとは思ったが、出がけの彼の様子では、やりかねない気もする。
 トゥーリは苛立ち
「去れと申しておる。」
と低く凄んだ。
「はあ……」
「解ったのか? 他の者にも伝えておけよ。」
 厳しい言いつけに、やっと下女が下がった。

 フレイヤは安堵し、溜息をついた。
 トゥーリは、恨めしい目で見ている彼女を満足そうに見下ろし、弓の弦を切った。
 彼女は手首を撫でながら詰った。
「酷い。随分長く待ったわ。」
 彼は気にするでもない。
「無理して帰って来た。早かっただろう?」
と揶揄った。
「あなたは酷い! 手首が痛いわ。」
 彼女は腹を立てて寝台から飛び降りた。しかし、困ったことがあった。
 彼は寝台に腰を下ろし、妙に上機嫌で彼女を眺めている。彼女はおずおず声をかけた。
「あの……」
「何かな?」
 彼は楽しそうな顔をしている。
 何を言い出すのか想像がついているのかもしれないと、彼女は顔を赤らめた。
「……したいのです。」
 彼は苦笑した。
「いきなり? 帰ったばかりなのに? 少しぐらい待てないのか?」
 だが、そうではないのを、彼は判っていた。
「……そうではなくて……」
「いくら何でも、そりゃあないよな。何だ? 飯か? 寝転んでいただけなのに腹が減るのか。お前は下だけならず、腹も欲求が強いな。」
 彼はそれも違うのは知っていた。
 彼女は視線を彷徨わせた。困ったことに、どうしても言わねばならないのだ。俯き小さな声で訴えた。
「お手水を……」
 彼はさも想像もしなかったという様子で、驚いてみせた。
「そっちか! それは失念していた。こんな麗人は、食事はともかく、行かないのかと思っていたよ。どうしよう。廊下にすら出せない。……仕方ない。庭先許す。」
 彼女は耳を疑った。
「ええっ!」
「その格好でここから出るか? 家人に遭わないとは、保障できないぞ? 随分堪えていたご様子。早くしないか。寝床を汚すのは許さん。」
「そんな……」
「加えて言えば……この部屋の絨毯は、二百年前の伝説的な織り手のものだ。汚したら、祭司長の女房ごときには贖えないぞ?」
 彼は楽しんでいるようにさえ見えた。彼女は悔しくて仕方がなかったが、それどころではない。
「お手水まで、一緒に来て。」
「お前、一人で用足しできないの? きっちり服を着る余裕はないのだろう? そんな格好の女を、どう言って皆に紹介する? ……構わん。庭先でしたらいい。連れて行ってやれん代わりに、見ていてやる。」
 彼女は意を決して、庭へ出た。せめてもと、植込の陰に隠れようとした。
「待て。そこは、向こうの廊下から見えるよ。」
 部屋のすぐ側しかない。彼女はそこで背中を向けた。
 開け放たれた扉の側、彼は涼しい顔をして座っている。彼女は背中に彼の視線を感じた。雪の積もった寒い中だというのに、身体が熱を帯びてくる。異様な興奮を感じた。
 しかし、彼が眺めたのは彼女がしゃがみこむまでだった。僅かに視線を上げて、彼女のいる先の植え込みを眺めていた。
 フレイヤの姿が、アデレードの為に、何でもできると言った彼自身に重なっていた。
 アデレードを喜ばせたいと思っていたが、全てはむしろ彼自身の喜びの為にしていたのだと思えた。自分が浅ましく思えた。
 その浅ましい彼自身に従うフレイヤが疎ましかった。
(俺なんかに、何故そうまでできる?)
 そして、もう無理な要求をされることもない彼とは違い、望みを叶えているフレイヤに嫉妬していた。

 フレイヤは俯きながら部屋に戻った。
 トゥーリは指環を弄りながら、彼女のいた辺りを黙って眺めた。苛立っていた。彼女が彼の為に、彼女自身をどこまで投げ出せるのかを試してみたかった。
 愚か過ぎることを考えたと、笑い声が出た。
 だが、口に出たのはその愚かな思いを叶えようとする言葉だった。
「お前、まるで犬だな。」
 彼女はぶるっと震え、膝から崩れ落ちた。座っている彼の膝にしなだれかかり
「私は……あなたの犬です。」
と言って、すすり泣いた。
 彼女の目は切なく、また物欲しげであった。図らずも彼が例えた飼い犬のように、従ったご褒美が欲しいと言っているようだった。
 彼は嫌悪と愛着の半ばする気持ちで
「犬か……舐めろよ。犬みたいに。」
と言った。口調には嫌悪だけが現れ、憎々しいものになっていた。
 彼女はもう何もかも諦めて、言われた通りのことをした。

 快楽も何もないはずだと思っていたが、くらくらするような悦楽があった。トゥーリは
「もういい。」
と息を弾ませながら、立ち上がった。
 脚の間で跪いているフレイヤが、うっとりと顔を上げた。彼は突き上げるような怒りを感じた。
 乱暴にしても、彼女はますます喜ぶ。苛立たしかった。
 彼女の望み通りに振舞って、留めないでいる自分にも、苛立っていた。
「お前のそれ、亭主の仕込み? それとも他の男? 真っ昼間から、庭先で小便はするわ。舐めるわ。」
 彼女は顔を赤らめ、必死に言い連ねた。
「あの人とは、こんなことしません。あなただけ。他に誰も知りません。」
「信じられんな。高雅な貴婦人然と広間に立っていたお前が、下賤な売春婦のような振る舞いを嬉々としてするなんて。根っからの淫乱だよ。お前、そんなに好きならば、色町で身を売ったらいい。趣味と実益を兼ねて。」
「そんなこと……」
「放蕩者の公達が行くような怪しい店がいいかな? お前がいるとわかったら、面白いことになる。」
「どうか勘弁して。」
 彼女は落涙した。彼は目を逸らし、吐き捨てるように
「嘘に決まっているだろ! 何でもすぐ信じるな。」
と言った。
 彼女は拗ねたように
「だって……あなた、とんでもないことをするから……」
と呟いた。
「何だ、その物言いは? とんでもないことって何だよ?」
 彼は彼女に馬乗りになり凄んだ。
「物言いに気を付けるんだな! お前は俺の犬なんだろう?」
 彼女は後から後から流れる涙を拭い、許しを請うた。
「お許しください。伏してお願いします。シーク、お許しください。」
「泣くな。泣くと余計に高ぶるんだ。」
 彼は立ち上がって彼女から離れたが、異様な興奮が治まらなかった。


 その時、控えから小姓の声がかかった。下女に厳しく当たったのを聞いたのか、細い声で呼んでいる。
「何の用だ? 今寝付いたところだったのに。急用か?」
 トゥーリが扉に向かって怒鳴ると、小姓は益々消え入るような声になった。
「弟君がお見えになりました。」
「追い返せ。」
 フレイヤが心配そうに囁いた。
「よろしいのですか?」
「お前は黙っておけ。どうせ、修行に根を挙げたに決まっている。一回は来るとは思ったが、早すぎるわ。」
 後半は、誰に言うようでもなかった。
 彼は扉越しに命じた。
「不例ゆえ会えんと申せ。」
「それが……何やら母君さまのこととかで。ひどくご心痛のようです。」
 彼は天井を見上げ、諦めたように溜息をついた。
「おふくろか。弟を通せ。居間でなくていいよ。そこで十分。」
 彼は慌てて身繕いをして、控えに出て行った。

 トゥーリが現れるなり、ミアイルが駆け寄った。トゥーリには、それが可愛くもあり、鬱陶しくもあった。
「用向きは? 手短にね。」
 すると、ミアイルはしょんぼりとして
「兄さま、お休みのところ申し訳ありません……」
と言った。
「うん。何の用? ヘルヴィーグさまのところで、何か失敗したのか?」
「違うよ。」
「郎党に意地悪されたか?」
「皆、よくしてくれる。」
「それなら問題ないのでは? 母上のことって何だ? 何かご託を言って来たか?」
 ミアイルは言い淀んでいる。
「どうした?」
 促すと、ミアイルはすすり泣き始めた。トゥーリは甘えん坊な末弟に舌打ちしながらも、可愛いと思った。
「どうしよう、兄さま。母さまにばれちゃったんだよ。」
「何がばれた? お前、何か悪さをしていたのか?」
「していない。ラザックの娘のことだよ! あの娘とぼくのことがばれたんだ。」
 そう聞いて、やっと思い出した。秦皮の丘の娘のことだ。
 ミアイルは上京するにあたって、自分の恋を兄に告白し、離れている間に心変わりされるのではないか案じていると相談した。弟を憐れみ、彼は娘を母の側に上げていたのだ。
「それか。俺は母上に何も言っておらんよ? 側仕えに上がる娘としか言っていない。母上も怪しまなかった。何故ばれた?」
「手紙が違ったんだよ……」
「は? お前の話はよく解らん。ちゃんと説明しろ。」
 ミアイルはじれったそうに舌打ちし、話し始めた。
「母さまに書いたのと娘に書いたのと、封をした後、上書きを間違えて……」
 そこまで聞いてトゥーリは驚き、大声が出た。
「何という愚かな失態を!」
「だって……」
「中身はその……差し迫ったというか、熱いことを書いたのか? 早く戻って結婚したいとか……」
 まさかとは思ったが、ミアイルは
「そう。」
とあっさり肯定した。
 トゥーリは気が抜けた。
「お前は……おませだな。そんな恥ずかしい手紙、俺ですらまだ書いたことがない。聞いているだけでも恥ずかしいわ。愚か者。……で、母上は何と?」
「伯父さんのところで真面目にやっていると思っていたのに、何をしているのかって、大きい字でお返事が来て……。すごく大きい字で……怒っているみたい。」
 トゥーリには何でもないことだったが、ミアイルはそういう扱いを受けるのが初めてなのだ。
「怒っていなくても、大きい字を書く人だよ。あの人は。」
「でも……小さい兄さまも、ましてやシークも妻帯していないのに、末弟が早々に妻帯するなど許さんって。」
「ばばあは……。今すぐ結婚するわけでもないのに、何をとち狂っているのやら……」
「あの子にも詰問なさったらしくて……」
「どうもこうも……ままごとですって言っておけばいい。」
 ばれたところで、大したことのない程度であろうことは、トゥーリは経験上判っている。苦笑しながら言ったが、ミアイルは真剣だ。
「ままごとじゃないよ! 結婚するんだ。」
「そういうのと違ってだね……何と言ったらいいのかな? 寝床を……いや、もっと柔らかい表現の方がいいか……愛し合ったの? そうじゃないだろ? ……愛し合ったというのは、ええっと……大人な感じだよ?」
 言葉を選び選び尋ねたが、ミアイルは何でもないという顔をして、驚くようなことを答えた。
「気を遣わなくてもわかるよ。ラザックのところに泊まると、そういうのは見られる。」
「見られる? そんなものをじっくり見てはいかん。見られるって……俺は見たことがないが?」
「兄さまは、ご飯の後、早々に寝てしまうんだね。しばらく待っていたら、男は恋人や嫁さんのところへ行くんだよ。」
「待つって……待っているのか?」
「うん。だって、何するのか知りたいじゃないか。」
 トゥーリは、しれっと答える弟に失笑したが、一応叱らねばならない。
「待つなよ。子供はさっさと寝ろ! 全く……何の話だったかな?」
「あの子とそういうことは、していないってことだよ! ……口づけはしたけど。」
 またもや失笑である。
「そうか。そりゃよかったな。お前は幾つになったのかな? 言っておくけれど、最初は処女じゃない方がいい。兄さまの助言はそれだけだ。もう伯父さんのところへ戻れ。」
 話を終了させられては適わないと、ミアイルは慌てて訴えかけた。
「そんな助言をもらいに来たんじゃない! 母さまだよ! ……あの子と別れさせられちゃう。」
 ミアイルが必死になればなるほど、トゥーリは可笑しくて仕方がない。心配するほどの大事ではないのだ。また軽い調子で助言した。
「隠れて付き合え。母上はお前に甘いし、ばれないよ。」
 とうとうミアイルは怒り出した。
「ぼくは兄さまみたいに隠し事が上手じゃない!」
「聞き捨てならんな。俺はいつも堂々としておる。」
「嘘だ。遠くのラディーンのところでは手をつけるけれど、ラザックのところではしないじゃないか。隠したいからでしょ?」
 トゥーリは図星を突かれて、咄嗟に言い返した。
「ラザックのところにもいたわ! ……いや、俺は堂々としている。皆知っておる。」
 ミアイルは疑わし気な目を向けている。
「都では? 母さまに隠しているのでは?」
「どこでどうであろうと、大っぴらに自慢することじゃないだろ? お前、何が言いたいの? はっきり単刀直入に申せ。俺は今、忙しいのだ。」
「寝ていたんでしょ? 慌てて着替えたみたいだよ?」
 観察だけは一人前の弟を彼は睨んだ。
「早く申せ。」
「母さまを兄さまから説得して。」
「解ったよ。後で母上に手紙を書くよ。“ミアイルは娘とまじめに交際していますから、見守ってやりましょう”って。」
「だめだよ。ちゃんとしたのでなくっちゃ。」
「面倒な……。本当にその娘と結婚する気か?」
「誓って本当!」
「何度もこんなことがあるのは嫌だぞ? すごくちゃんとしたのを書くから、やっぱり止めたは無しだよ?」
 ミアイルは何度も頷いた。
 トゥーリは祐筆を呼んだ。
 祐筆が正式な書状を作り上げ、ミアイルにその固い書状を見せた。
「これでいい? 念押しするけれど、これを出したら決定だからね? 後で覆そうとしたら、シークに二言させることになる。意味は解るね?」
「十八歳になったら結婚させる……。母さまもこれを受け取ったら、文句を言えないんだね?」
「そう。命令書だからね。ほら、署名もした。娘の方が心変わりをしないように、しっかり努めろ。」
「ありがとう、兄さま! 兄さまは優しいな。大好きだ。きっと手紙を送ってね。」
「解った。もう伯父さんのところへお帰り。」
 ミアイルが小躍りしながら帰って行った。それを見送ると、彼は祐筆に
「書状の終わりに、“一年ごとに再考する”と付け加えておけ。」
と命じた。
「よろしいのですか? このまま握りつぶすのかと……」
「娘の身が心配だろうに。そのままでは、母上が辛く当たるかもしれん。ミアイルの気が変わるかもしれない。」
 祐筆は苦笑し、さらさらと一文付け加えた。
 祐筆を下がらせると、彼は小姓に厳しく言いつけた。
「もう誰が来ても知らせるな。追い返していい。俺は今日はもう寝間から出ない。例え、大公さまでも起こすな。」
「お食事は?」
「ここまで持て。」

 トゥーリは寝室に戻り、内から鍵をかけた。かたんと大きな音で錠が下りた。
 フレイヤは微笑み
「可愛らしい弟君。きれいな金髪で。あまり似ていらっしゃらないみたい。」
と言った。何でもないごく普通の世辞に近い感想である。
 しかし、途端に彼の目尻に癇が走った。
「つまらんことを申すな! 聞き耳を立てていたな? 下賤な女だ。何だ? 弟にまで食指を伸ばす気か?」
「何ですって! 酷い! ……弟君には、あんなに優しいのに……」
「その半分でも、お前に優しくしろと? お前みたいな売女に、そんな必要はない。」
 彼は憎々しげに言い放つと、どっかりと椅子に座り、尊大に顎をそびやかした。
「酷い辱めを……」
「辱め? 事実じゃないか。聖女のつもりか? どうした? 言い返してみろ!」
「こんな扱い……」
「“こんな扱い”が好きなんだろう?」
 その通りだった。彼女は赤面し俯いた。何も言えなかった。
「邪魔が入った。最初からもう一度。早く何とかしないとね。……ひどくお辛そうですよ? フレイヤさま。」
「……はい。」

 フレイヤが口を開くたびに、トゥーリの心は荒んでいった。応える度にもっと荒んでいくのに、止められない。そして、荒めば荒むほど、彼女から離れられないと思った。




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