6
その晩は荒れはしなかったが、雪のちらちら降る底冷えのする晩になった。
フレイヤは言われた通り、一人でトゥーリの屋敷の裏門に来た。
衛士がいる。見つかるかもしれないと案じたが、帰りたくなかった。そればかりか、気づけば、見つかった場合の言い逃れを考えている。
彼女は自分が恐ろしくなり、踵を返した。
五・六歩歩き、振り返った。彼の屋敷の篝火が見える。その先に彼がいる、今も待っていると思うと、足が止まった。
ほっと息をつき、目を閉じてどうすべきか考えた。考えるまでもなく、帰ればいいと思った。
(不道徳な行いをしてはいけない。これ以上は……)
だが、身の奥の熱い何かがその思考に覆い被さり、消していく。
彼女は今一度、自問した。正しい言い訳をして、正しい行いに戻ったとして、何が残るのかと問うた。
枯れた女が枯れた生涯を送るだけだと、直ぐに己が答えた。思い出はどんなものであれ、人生の彩だとも語った。
もう一人の自分は、この関係は何の実りももたらさない。枯れてはいても正しくあった自分を誇れと勧める。
彼女はどちらの言い訳を採るのか考えるのを止めた。熱はもう、そんなもので抑え込めるほど小さくはないのだ。
ゆっくりと静かに彼の屋敷まで戻った。物陰で窺い、何としようと考えた。彼は待っていると言ったが、裏門から招き入れてやるとは言わなかった。
夜中の鐘が鳴り始めた。彼女は身を抱いて、ひとつ震えた。寒いわけではない。
約束を守らなかったら、もう終わりなのだろうと安堵する気持ちがある反面、終わらずにいたら、どんな酷い罵りを受けるのだろうと思った。それは期待であった。
フレイヤの窺う先では、衛士たちが篝火の周りで暖を取っていた。三・四人いる。
身体の前面を火に温め、背を向けて温めしては、また仕事に戻っていく。入れ違いに戻ってきた衛士が暖を取る。何人が護衛についているのか判らなかった。
彼女は、シークが都の中に置ける草原の戦士の数は驚くほど少なく、三十騎ほどと決まっているのを思い出した。
実際に護衛に立っている人数は少ないのかもしれないと思い、辺りを見回した。だが、都で雇い入れて大勢を立たせているのかもしれない。
忍び込む勇気が出なかった。
雪が静かに落ちてくる。凍えそうだ。彼女は身を揺らし足踏みをして屋敷を窺い、時機の来るのを待ち続けた。
どれくらい立っていたのだろうか、彼女には随分長く感じられたが、さほどの時は経っていなかった。
屋敷の方から、草原訛りの会話が聞こえた。彼女には聞き取り辛かったが、言っていることは何となく判った。
「こんな晩には誰も来ないゆえ番は要らんとシークが仰せだ。戻って休めと仰った。火酒をくださったぞ。」
「それはありがたい。」
「さっき出た奴、呼んで来いよ。」
新雪を踏むきゅっきゅっという音が聞こえた。仕事に出ている者を呼びに行った足音だろう。
踏みしめられた雪を踏む、さくさくした音も聞こえた。既に道のある屋敷の方へ去っていく音だろう。
やがて、談笑しながら新雪を踏む音が聞こえ、屋敷の方へ去る音になって消えた。
辺りがひっそりと静まり返った。
彼女は陰から顔を出して、中を窺った。
篝火の周りは明るい。忍んで歩くなら暗く沈んだ植え込みの辺りだが、どんな状態なのかは判らない。一人で行くのは恐ろしかった。見つかるかもしれない。
「神さま……フレイヤさま、どうか……」
彼女は胸を押さえ、信仰する女神に願いを掛けた。
すると、さくさくと雪を踏む足音が聞こえた。彼女はさっと身を隠した。
足音はすぐ側で止まった。彼女は息を顰め、気配を消そうと努めた。
「戦車を引く山猫は、猫だけに凍えたか……?」
護衛たちとは違う都訛りだった。そして、トゥーリの声だった。
彼女はほっと溜息をつき、姿を現した。彼は彼女を招き入れると掛け金をかけた。一瞥して鼻を鳴らしただけで何も言わず、どんどん先を歩いて行く。
彼女は立ち尽くしたまま、彼の後ろ姿を見つめた。
ついてくる気配もない彼女に、彼は苛立った。立ち止まり、振り返りざまに
「早く来い。こんなところ、寒くてならんわ。」
と言った。彼が意図したよりも憎々し気な口調になっていた。
彼女はびくりと身震いし、慌てて従った。
速い足だった。彼女は雪に足を取られ転んだ。
彼は慌てて駆け寄り、彼女の手を取って立たせた。
叱責されるのかと彼女は竦んだが、返ってきたのは
「冷たい手をしている。」
という優しい声だった。
そればかりか、彼は羽織っている黒っぽい毛皮の片脇を開き
「一緒に入って。」
と言って、彼女を中へ入れ、毛皮で包んだ。
先程とは別人のように彼女は感じた。
毛皮は彼の温みで温かく、触れている彼の身体はもっと温かい。ふわりと青い香りがした。
彼はそのまま彼女を抱き締めた。彼女の褐色の髪は雪に濡れている。身体も氷のようだった。
「どうして来たの? こんな寒い晩なのに。一人で怖かっただろう……?」
戸惑う彼女に、彼は重て問うた。
「応えて。」
じっと見つめている碧い瞳に、困ったような、縋るような色があった。
「恋しかったから……」
彼はその答えに少し驚いた。いつも胸の底にある切なさが疼いた。
彼女から目を逸らし
「俺も恋しかったよ。」
と言って微笑んだ。
彼女には、寂しかったと言ったように感じられた。身体の奥も心の奥も熱くなった。
二人は庭園側からこっそり寝室に入り、火の前に寄り添った。
「何と言い訳をつけてきたの?」
トゥーリがぽつりと尋ねた。
そんな心配をしていたのが、フレイヤには意外だった。
「私……昨日の朝から、屋敷に戻っていないのです。」
「家の者は、おかしいと思わないのか?」
「街外れのお堂に、よく一人で籠るから……皆そう思っています。ここへは、お堂から来たの。」
彼は苦笑した。
「それは……この不道徳な行いを、女神さまは許してくれた?」
「色恋に不道徳も何も……。女神さまご自身も、不道徳な行いをなさいました。責めないのではないかと……」
「首飾りの為に、小人に身を任せたフレイヤ。でも、それだけでは済まなかった。俺のフレイヤは、何の為に羊飼いに身を任せるの?」
彼女は、必要以上に卑下した悪い冗談なのだと捉え、小さく笑って否定した。
「羊飼いだなんて……軍神テュールがお喜びになる、ラザックとラディーンのシークでしょう?」
「羊飼いさ。戦場に出るのは嫌いだ。手が血の匂いに染まって……。ペルシャの香を入れた湯でさんざん洗うのに、取れない。」
固い口調だった。
それは、戦とは言え、人を殺めなくてはならないことを、恥じているのだという暴露に他ならない。戦場に出ることを誉れとはすれ、恥じる戦士など見たことはない。
しかし、彼女には諭す気持ちは湧かなかった。臆病者と嗤われても仕方のない告白をした彼が愛しかった。
「私の欲しいのは……生きている二粒の緑柱石。血とペルシャの香の匂いがするこの手。」
彼女はそう言って、彼の手を自分の胸に抱き締めた。
翌朝も悦楽の余韻が冷めやらず、二人は寝床でじゃれついた。
いつもの時間になっても、主が起き出してこないのに困った小姓が、控えから声をかけた。
トゥーリは寝床から
「寒い。布団から出る気がせぬ。寝間で食事をするゆえ、用意して戸口まで持て。」
と命じた。
やがて運ばれてきた食事を、フレイヤに分け与えて
「ねえ。今日はずっとここにいて。」
と甘えた様子で言った。
「お勤めは?」
彼女が尋ねると、彼は胸元をまさぐりながら
「すぐ終わるよ。終わったらすぐ帰るから。ね。待っていて。」
と言った。
少年が年上の恋人に甘えるかのようだった。彼女はますます愛しく感じて、承諾した。
再び小姓の声があった。トゥーリは舌打ちし寝間から出て行った。
控えで何やら押し問答をしている様子があった。フレイヤは、露見したのだろうかと心配になり、耳を澄ませた。
草原の訛りが強くて、小姓の言うのはよく聞き取れない。しかし、何かを疑われていたり、部屋に入ってくるというような話ではなさそうだ。
彼女は好奇心から、そのまま聞き耳を立てた。
やがて、彼の怒鳴り声が聞こえた。
「だから! 何度も同じことを言わせるな!」
彼女は身を竦めた。
続けて聞こえたのは小姓の弁解ではなく、彼のつけつけと言いつける声だった。
「寝ていろと申せ! ゆっくり休めと伝えろ。医者を呼んで、診せるように。」
すると、どたどたと大きな音がした。
老ヤールは小姓を叱りつけた。
「この小姓め! シークに何を申し上げた! 儂は起きられるぞ。お供仕る!」
トゥーリは溜息をつき、渋い顔で命じた。
「腰が曲がっておるぞ! いいから、休め!」
指摘された老ヤールは背を伸ばそうとした。途端に腰に激痛が走った。
唸り声を挙げて、腰を擦る老人に
「ほら、見たことか……」
と言って、トゥーリはしゃがみこみ、一緒に腰を擦ってやった。
彼は、感慨深いものを感じた。
「四つの時から、お前はよう仕えてくれた。そんな歳になっているとは失念していたよ。無理しないで、医者にかかって養生してくれ。……春になったら、草原で……孫の相手でもして、余生を過ごせ。ん? ひ孫か?」
老ヤールは慌てた。
「何ですと!」
「耳まで遠くなったか? 今日は休めと申した。」
「その後ですよ!」
「春になったら、家族のもとへ帰れと申したのだ。以後は、父として祖父として、曽祖父か? まあ、それで生きろ。不満なのか?」
老ヤールは目を見張り、絶句した。唇を噛みしめて苦しそうにしていたが
「トゥーリさま……。儂はお仕えするにあたって、家族とも氏族とも、今生の別れを交わして来たのです。死んだものと思えと。そうして、幼いあなたの御為に、微力ながら尽くしてまいりました。この程度のことを理由に暇を出すとは……あまりにも酷なことです。」
と口説いた。身体の痛みよりも、心の痛みの方が辛かったのだろうと思わせた。
トゥーリはどうしたものかと思ったが
「シークの命令に従わんのか?」
と言った。
老ヤールは一旦はがっくりと首を垂れたが、顔を上げて言い縋った。
「いいえ。しかし……今更、氏族の許へは帰れません。どうかお考え直しあれ。」
「ならん。春になったら、引きずってでも家族のところへ連れて行く。」
「ラザックシュタールのお屋敷で、お側にお仕えします。」
老ヤールは涙声になっていた。
トゥーリは、先のことを言うのは止めた。
「くどいな。とにかく今日以降は、動き回らずに寝床に張り付いておれ。……お前、そうしているのもやっとではないか。城内で動けなくなったらどうするのだ? わかったね?」
「はい……」
老ヤールは、鼻を啜りながら平伏した。そのまま立てなくなり、小姓に介添えされて退出した。
(歳を取って……頑固ではあったが、年寄りになって益々扱い辛くなった……。可哀想だが、春になったら家族の許へ帰そう。)
彼はしんみりと、老ヤールの後ろ姿を見送った。
トゥーリは溜息をひとつついて部屋に戻ると、フレイヤにすり寄ってまた甘えた。
「ね。戻るまで、待っていてくれるだろう? 寝間に鍵をかけたら、誰も入ってこられないから。」
「でも……」
「大丈夫だよ。お前も都合つけて来たって言ったじゃないか。俺の言うこと、聞いてくれないの?」
「だって……」
「ねえ……広間で初めて会った時から、お前のことよく解っていたよ。お前だって俺のこと解っていたろう? こんな相手、二度と巡り合えない。離れたくないんだ。」
抱き締めては甘える彼に、彼女は笑顔を見せた。
彼は、彼女の嬉しそうな表情を見て、くらくらするような嫉妬を感じた。
「いいだろ? いてよ。」
口調は甘えた少年のようだったが、目は物騒な光を帯びていた。
彼女が答えを言う前に、彼はするりと身を離し寝台から下りた。
そして、弓の弦を取り、彼女の手首を掴むと、すばやく縛り上げた。
彼女は驚き、外そうと手首を動かした。
「動かすと、手首に食い込む。切れるかもしれん。」
彼は低く忠告し、彼女を寝台に突き転ばした。
先程とはがらりと口調も表情も違う。彼女は慄き、黙って彼を見上げた。
彼はしばらく眺め下ろしていたが、にっと笑った。
輪になった弓の弦を長く引き出し、寝台の天蓋の柱の間に結んだ。彼女の首の上、すれすれのところに、細い糸が渡った。
「動くな。美しい首を台無しにしてはいけない。」
彼女はごくりと唾を飲み下し、微かに頷こうとして止めた。首を動かすなと言われたのだ。彼の命令に従わねばならない。怖いようでいて、何か違う震えがあった。
「……はい……」
彼女自身が驚くような掠れた声が出た。
彼は、下着姿で仰向けに横たわる彼女を眺めながら、悠然と髪を結い
「その格好のまま、身動きをしないで、俺の戻るのを待て。」
と命じた。
命令され、否応なしに従わされることが、彼女にはどうしたわけか心地好かった。彼女は答えもせず、目を閉じた。
「その格好で待っているかと思うと、ぞくぞくするよ。ゆっくりしてくるから、お前もゆっくりと。寛いでいるといい。」
がちゃりと錠の下りる音がした。
トゥーリが去ると、フレイヤから奇妙な感覚は去った。一人取り残されて当たり前に感じること。即ち、心細さと誰かに見つかるのではないかという不安で、身じろぎもできなかった。
時々、人の足音があり、誰かの声がした。その度に、彼女は身を竦ませた。しかし、主が出かける際の騒ぎだったのか、やがて静かになった。
彼女は少し落ち着きを取り戻し、目だけを動かして部屋の中を見渡した。
飾り気の全くない部屋だった。長椅子と小さな卓とその上の燭台、彼女の横になっている寝台だけで、寒々しい空間とも見える。
寝台の足側に置かれた長櫃の上に、彼の使っていた櫛と弓の弦があった。彼女を縛り付け、彼の髪を結わえた弓の弦。特別な物に思えて、背がぞくりとした。
彼女は見渡しているうちに、部屋に飾り気がなく、その上薄暗いわけに気づいた。部屋に灯りを反射させる為に、どこの屋敷でも置いている大きな鏡がないのだ。それなのに、庭園に続く扉には、大きなガラスが入っていた。ガラスなど入れられる家は、そうそうない。
大金持ちだろうに、調度の少なさは異様だと思った。
しかし、それが彼の心を反映しているように思えた。その部屋に一人入っている自分が、まるで彼の心の内に入り込んだように思われた。
妖しい興奮を感じた。
註 戦車を引く山猫:フレイヤ女神の戦車は山猫が引くそうです。