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 公妃には飽きないと言い放ったものの、トゥーリは内心飽き飽きしていた。だが、言った手前、直ぐには止められない。相変わらずの行状を重ねた。
 冬至の祭りの日がきた。城の大きな夜会に、また誘われて行くことになった。
 当然のように、広間にアデレードがいた。彼女が若い公達に囲まれているのを、彼は見たくなかった。背中を向けたが、余計に気配を探ることになっただけだった。
 何とか気を逸らそうと努めていると、別な、何かねつい視線を背中に感じた。
 振り返って見ると、隅の方に彼を見つめている女がいた。彼が気づいたのを察したようだが、慌てるでもなくゆっくりと視線を逸らした。
 見覚えのない女だった。異国的な容貌の麗人だ。慎ましやかな印象の貴婦人である。
 彼女と先程の視線は全くそぐわない。彼は気のせいだったのだろうかと思った。
 トゥーリは、連れの姫君に尋ねた。
「あの壁際に立っている麗人、ご存じですか?」
 姫君はちらりとそちらを見て、即座に答えた。
「ええ。あの方はフレイヤの祭司長の奥さま。初めてご覧になったのね。お目に留まりました?」
 彼は曖昧な笑みを返した。彼女は拗ねた様子で
「……悔しいわ。あの方と比べたら、どうしても私などは霞んでしまう。でも、いろいろとお世話になっているから、皮肉のひとつも言えやしないわ。」
と言って、ほっと息をついた。
「お世話?」
「相談に載ってくれるの。恋の相談。あの方も尼僧めいたお暮しぶりで……いえ、尼僧ではないのよ。こっそり恋の聴解などをね。かくいう私も、あなたのことなど。」
 そんなことを言って、彼女はきゅっと彼を見つめた。
「私はあなたの忠実なる崇拝者ではありませんか。」
 彼が微笑みかけると、彼女は嬉しそうにしたが
「どうだか……?」
と疑ってみせた。
「信じないの? だったら、それでもいいけれど……。尼僧めいた方が、今晩はどうしてこんなところにおいでなのかな?」
「旦那さまが、お籠りでもしているのかしら? 退屈されたのかもしれないわね。私なら耐えられないわ。歳だって離れすぎているし……。大事にはしてくれるのでしょうけれど。遊び歩きもしないで、神さまのお世話に明け暮れているだなんてね。そう思いません?」
 彼女は信じられないといった風に肩を竦め、同意を求めた。
 彼には同意も反論もなかったが、この場では、彼女の喜ぶようなことを言わねばならない。
「あなたがそんな身の上になられたら、私は寂しいです。以前、そういう目にあっているのに、また辛い思いをさせるつもり?」
「あら、ニコールさまをそんなに想っていらしたの? 今では、清らかな尼僧生活を送っていらっしゃるというのに。そんな風に慕われるなら、私も尼僧になってしまおうかしら……」
 彼女は満足そうに笑った。
 彼は心中で嘲笑った。
(寝言は寝てから言えよ。お前に尼さんなんぞ、死んでも勤まらんわ! 遊び人のくせに。)
 彼は件の婦人に目を向けた。また視線を感じたのだ。
 今度は、彼女は慌てて目を逸らした。そして、腕を上げ、片方の耳飾りにそっと触れた。
 黒い繻子の衣装の袖が翻り、重ねの金糸の刺繍の薄物がひらりと覗いた。色とりどりの人々の中で、黒一色はかえって目立った。指に金の指環が光っていた。
 彼は目を奪われていたが、姫君が彼の言葉を待っているのを思い出し
「あなたは優しいから、そんなことは出来ませんね。そうでしょう? 私が苦しんでもいいの?」
と心にもないことを言った。
 それは少し言い過ぎだった。
 姫君は驚いて、嬉しそうに
「ええ。どうなさったの、今日は? いつも素っ気ないのに……嬉しいわ。フレイヤさまと一緒にお祈りしたのが、通じたのかしら……」
と言った。
 後半は小さな呟きだったが彼は聞きとめ、すかさず尋ねた。
「フレイヤさまって?」
「耳ざといのね。……祭司長のお仕えしているのがフレイヤなら、その祭司長にお仕えしているのもフレイヤなのよ。畏れ多いわよね。今申したのは、フレイヤの祭司長の奥さまのこと。」
「フレイヤ……? なるほど、女神ですね。……私の女神はあなたですが。」
 彼は、姫君が気を悪くしないように寒いお世辞をしっかり付け加えた。これくらいの言葉が、宮廷的には礼儀に適っているのだ。
 彼女とて社交辞令であることは解っているが、そうまで彼に気遣いさせたことが重要なのだ。嬉しそうな笑い声を立てた。
「気になるの? まあ……あの方ならいいわ。紹介して差し上げる。滅多にお出ましにならない方だから、挨拶しましょう。」

 トゥーリは姫君に連れられて、フレイヤの前に立った。
「初めまして。私は……」
 フレイヤは指を一本立て、彼の言葉を遮った。
「ラザックシュタールの侯爵さま。アナトゥール・ローラントセンさま。伺っていた通りの方。初めてお目にかかった気がしません。最近いろいろな姫君から、あなたのご様子をお聞きしていますもの。黒い髪、碧い瞳、気高き草原の太守。」
 彼は、赤い唇が優雅に動くのに引き込まれた。
 だが、訝しく思われないように
「どんな悪評をお聞きになっておられるやら。」
と応えて、苦笑してみせた。
「姫君たちの恋の告白ですわ。皆さま、激しい情熱に駆られていらっしゃる。抱きしめられて美しい声で囁かれたい、ベリルの瞳で私だけを見つめて欲しいなどと。頬染められて可愛らしいの。……おお、そうだ。お声を聞いたのは初めて。なるほど魅力的なお声。」
 彼女は姫君を見て、さも可愛らしいと言うように微笑んでいる。
 姫君が慌てて抗議した。
「嫌だわ! ご本人にお話しになってはだめです。フレイヤさまだけにお話したのに。」
 フレイヤは慌てるでもなく、子供に言い聞かせるように言った。
「良いではありませんか。皆、同じことを仰るのよ。……今日は、憧れの君とご一緒でよかったですわ。羨ましいこと。」
 そうして、慎ましやかに微笑んでいる。
 トゥーリは苛立ちを覚えた。フレイヤの作りごとに気づいたのだ。
 姫君はフレイヤにそれ以上抗議はせず、彼に矛先を向けた。
「でも……沢山の競争相手がいるのですもの。安心できませんわ。この際だから、はっきり伺うわ。アナトゥールさまは、どなたか心に決めた方がいらっしゃるの?」
 姫君のことなど、彼の頭からもう抜けていた。うるさい女だとしか思えない。舌先だけの答えを返した。
「今日は、あなたしか見ていない。……ご不満なの? 困ったな。誰と言って決められない。」
「嫌な人ね。私たちが密かな駆け引きをしているのを見て、楽しんでいらっしゃるのでしょう? 悪趣味。」
「悪趣味かな? なかなか居心地が良くて……。ごめん。ついつい本音が。」
 姫君はむくれた顔をしているが、そう見せているだけだ。何か気の利いた言葉を待っているのだ。
 だが、彼はこれ以上、宮廷的な言葉遊びを続ける気にはならなかった。
「そんな顔をすると……唇の形が悪くなる。せっかく可愛い口許なのに。」
 そう言って見つめ、彼女の唇に指を当てた。
 姫君は顔を赤らめ、黙った。
(やっと黙ったか。うるせえったらありゃしない。)

 すると、背後でざわめきが起こった。アデレードが、カーロイ王子を相手に、複雑な足形の踊りを披露している。
 それは、かつてトゥーリが教えてやったものだった。それだけではない。彼女の知っている足形のほとんどは、彼が見覚えてきては教えたものだった。彼は、足許を見ながら踊る彼女の姿を思い出した。
(でも、もうあれは古い。といっても、俺が教えてやる機会はもうない。)
 彼はこっそり溜息をついた。
(……青い裾がくるくる回って……まるで炎のようだ。)
 見つめれば見つめるほど辛く切ない。彼は目を伏せ、彼女の姿を視界から消した。
 すると途端に、隣にいるフレイヤが見つめているのに気づいた。初めに気づいたのと同じ、ねつい視線だった。二人の視線が絡んだ。
 彼は、得体の知れない苛々の理由をもうひとつ解った。彼女の視線はよく知っている。彼自身がアデレードに向けている視線だ。
 姫君がまた何か言った。彼は適当な相槌を打って、聞いているふりをした。

 夜が更けた頃、天候が急変した。空に稲妻が走り、大きな音を立てて霰が降ってきた。
 客たちは慌てて帰り支度をし、広間から去り始めた。
「姫君、あなたのお屋敷は少し遠い。荒れないうちにお帰りになった方がいい。私の馬車を使って。私は母の部屋に泊まるから。」
 姫君は不安そうだ。
「何だか怖い。こんな雷の中を帰るのは……」
 しかし、トゥーリには同じ部屋に泊めるつもりなど更々無い。
「大丈夫。私の馬車馬は勇敢だから。雪が積もると馬車が動けなくなる。早く出た方がいいですね。行こう。」
 有無を言わせず、姫君を連れ出した。

 姫君を送り、トゥーリはソラヤの翼に足を向けたが止め、広間に戻った。
 既に客は出た後で、使用人や料理人が片付けを始めていた。
 だが、思った通り、壁際にフレイヤがぽつんと立っていた。
 彼女は彼を認めると、微笑みかけた。
 彼はゆっくりと歩み寄り、真ん前に立った。
「お帰りにならないのですか? 旦那さまが心配なさいます。」
「主人はしばらく留守なのです。それに、私はお城に一室取っておりますから。」
「そう……」
 高い窓の板戸が、強風に煽られて大きな音を立てて開いた。板戸が揺れる度に、夜空が垣間見えた。時々青い稲光が走るのが見えた。
 彼は黙って窓を見上げていた。
「雷、お嫌いですか? 心細そうにしていらっしゃる。」
 優しげな声がかかった。
「まさか! 雷は好きです。草原では夏によく、遠くの空に稲妻が走る。それを眺めるのが好きです。綺麗ですよ。」
「夏の稲妻は綺麗ですね。冬の雷は嫌いですわ。神さまが怒鳴っているよう。」
 フレイヤの声はひっそりとしていた。
 少しの間があった。トゥーリが口を開いた。
「神の怒りをかうなら……私でしょう。」
「……何かあるのですか?」
 彼女は極小さく囁いた。彼も小声で答えた。
「いろいろと。複雑なことがね。」
「辛そうな目をしていらっしゃる。苦しい恋をしているでしょう? 目を見れば判るわ。」
「目? 占いもなさるの? セリカの商人が申していた。セリカの国では顔の相を見るとか。」
 茶化すように聞こえたかと彼は思ったが、彼女は真顔で彼を見つめたまま
「いいえ。懺悔だけ。」
と答えた。
「……私の懺悔、お聞き届けいただけますか?」
「私でよろしかったら。お力になれるかどうか、分かりませんけれど……」
「聞いていただくだけで結構です。」



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