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 アデレードはサーディフを気に入り、朝の乗馬を毎日の日課とすることを望んだ。
 大公と公妃は少し難色を示したが、彼女が決められた路程を守ると確約すると、必ずヴィクトアールを連れることを条件に許した。
 ヴィクトアールは父のテュールセンの公爵と相談し、閉ざされた街である屋敷街の内ならばという条件で、大公の依頼を受けた。
 城の東の橋から出て、屋敷街を抜ける。その先の開けた林道、これは貴族たちが散歩する定番の場所であったが、それを巡って、城に帰ることと決まった。
 トゥーリの話通り、サーディフはよく訓練された大人しい馬だった。だが、ひと度走り始めると軽やかな素晴らしい脚で、瞬く間にヴィクトアールの馬を離してしまう。
 競争してみたが、サーディフは全く負けなかった。ヴィクトアールは悔しがり再戦を願ったが、何度も負けた。もう比べ馬をしようとは言わなくなった。
 穏やかに歩かせるだけだった。
 その日は、林道の馬の水飲み場に先客がいた。
 ヴィクトアールが先に、誰かいるのに気づいた。
「あれは……ラザックシュタールさまですね。彼はもっと早い時間じゃないのかしら?」
 彼女の言う通り、この時間にゆっくりしているようでは、朝議に遅れてしまうだろう。
「あら本当。お勤めは大丈夫なのかしら?」
 そう言いつつも、アデレードは嬉しそうだった。

 トゥーリは馬の脇に座って、ぼんやり川面を見つめていた。
 視界の隅に、二人の娘の姿を認めたが、すぐ側に来るまで気づかぬふりをした。
 彼は毎日、時間を替え場所を替え、アデレードの来るのを待っていたのだ。欣喜雀躍する思いだったがヴィクトアールの手前を考え、言葉を選んだ。
「公女さま、ヴィクトアール殿、おはようございます。偶然ですね。」
 ヴィクトアールは彼の意図を既に察していた。
「ごきげんよう、侯爵さま。随分遅いですよ? 朝参しませんの?」
「ヴィクトアール殿はいつも元気で羨ましいですね。私は体調が優れないので、今日は屋敷で過ごすつもりです。」
 彼女は見え透いたことを言うと思ったが、問いただして困らせるのは控えた。
 一方のアデレードは、途端に心配そうな顔をした。
「それはいけないわ。お風邪?」
「まあ……ちょっとね。」
 彼は言葉を濁し、ヴィクトアールに早く消えろという目を向けた。
 しかし、彼女にとって、公女の側に居続けるのは任務なのだ、消えるに相応しい場所もない。それ以上に興味があるのだ。知らぬふりを決め込んだ。
 アデレードはますます心配になり
「戻って、お休みになったら?」
などと言った。
「はあ……」
「お医者さまを遣わしましょうか?」
「いえ……」
 段々、おかしな方向に話が進んでいく。
 ヴィクトアールは、二人のぎこちない会話が可笑しくて堪らず、くすくす笑い出した。
 彼がじろりと睨んだが、彼女は肩を竦めただけだった。
「姫さま。彼はね、今日はお勤めをお休みするって決めているんです。今日がその日だと、前から決めていたわけではないけれど。」
 アデレードは言わんとするところがよく解らず、きょとんとしていた。
「決めていたんじゃない。今朝は天気が素晴らしいから、城に行くのが惜しくなっただけ。」
 ヴィクトアールは彼の言葉を鼻で笑っただけだが、アデレードは訝しそうにしたままだ。
「体調が悪いと仰ったけれど?」
 彼は小さく舌打ちした。
(察しが悪すぎる!)
 ヴィクトアールは彼を一瞥し、アデレードの耳に囁いた。
「侯爵さまは、サボリなんです。朝参をサボリなの。」
 わざとなのだろう、囁き声は大きめで、彼にもよく聞こえた。彼は眉根を寄せて目を閉じ、溜息をついた。
「もう少し耳障りのいい言葉で言いたまえよ……」
 そして、ヴィクトアールを睨んだ。
 しかし、彼女はやはり毛ほども堪えない。耳障りの良くない言葉を繰り返した。
「結局サボるんでしょ?」
 彼は言葉を暈すのは諦め、素直に認めた。
「有態に言えばそうだよ。サボリサボリって、人聞きが悪い。事実はそうだけれど。」
 ヴィクトアールが大笑いした。アデレードもくすりと笑ったが、まだ心配そうに
「いいの?」
と訊いた。
「特に重要課題もないから。でも、勤めをサボったと知らせないで。あくまでも風邪。」
 そう言うと、やっとアデレードも笑い声を挙げた。
「解ったわ。……そうだ! ヴィクトアールの馬と沢山比べ馬をしたの。でも、いつも勝つから……」
 彼は伝えていなかったサーディフの経歴を披露した。
「そうだろうな。サーディフの父は、草原の競馬の覇者。追いすがるラザックの馬から逃げ切って、何度もラザックのヤールを悔しがらせた。血筋だね。」
 馬の話は、トゥーリもアデレードも大好きだった。
「お母さんは?」
「母親も申し分のない駿馬だよ。“星の馬”だ。」
「息子は風の精霊なのに、お母さんは“星”なのね。」
 彼は、サーディフの父と母の名前を組み込んだ話を聞かせた。
「ああ。明けの“明星”の輝く頃、“朝嵐”が吹き荒れた。風の精霊はその中から走ってきた。」
「草原の駿馬の名前は、そういう物語も作れるのね!」
 アデレードの表情は晴れやかで、いかにも楽しそうだ。トゥーリも嬉しそうで、生き生きとしている。
 ヴィクトアールにとっては、直ぐにこうなれないのかと、世話の焼ける二人だと、苦笑しきりでもあり、憐れでもあった。
 二人はしばらく、馬の話を楽しんだ。やがて、アデレードが
「トゥーリの馬と競争がしたいわ。この先の林道が切れるところまで。」
と言った。
 煌めく青い瞳が見つめている。彼の鼓動は高鳴った。二人きりになれる絶好の機会が訪れるのだ。そこで伝える言葉は既に決まっていた。
「サーディフに慣れたのか?」
 彼の声は掠れたが、彼女は気づかない。
「ええ。ヴィクトアール待っていて。」
「ごゆっくりどうぞ。」
 ヴィクトアールが自分の馬から鞍を下ろした。随分とゆっくりしてくればいいという合図だった。
 彼女は駆けていく二騎を見送った。彼がやっと素直になれたのだと思った。寂しくもあったが、嬉しくもあった。

 アデレードの乗馬の腕は、姫君の手慰みにしては上手だった。
 しかし、トゥーリは草原でも、馬の名手だと名指しされるようになっている。途中まで加減したが抜き去り、終着点で下馬して彼女を待った。
 息を切らして、彼女が馬から下りた。
「途中まで加減したでしょう?」
 彼女は負けて少し悔しくはあったが、口調は晴れ晴れとしていた。
「アデルの腕前を観察していた。お姫芸にしては上手い。」
 彼はいつものように、一言多い称賛をした。
「意地悪ね! トゥーリの馬の方が上なんじゃないの?」
「そんなことはないよ。俺の馬は気性が荒い。先に行くものを追い越さずにはいられないんだ。」
 彼女は彼の乗馬を眺めた。艶々とした黒い馬。額に白い星がある。力強い筋肉が載った胸、すらりとした脚。惚れ惚れするような馬体である。彼女は微笑んだ。
 引き締まった腹、盛り上がった尻。そこに彼女の視線が止まった。笑顔が消え、言葉に詰まった。
 弟のコンラートが幼い頃に、酷い仕打ちをした馬が、これだったのだ。
「この馬……」
「冬星。いつも一緒だった。初陣もこいつに乗った。でも、もうじいさんだ。」
「コンラートが……」
「ああ、そうだね……。尻にまだ痕が残っている。」
「ごめんなさい。」
「お前が謝ることじゃない。お前はあの時、泣きながらコンラートを止めた。」
「ええ……」
 彼は思い出を探った。
「その時だけではないな。お前はよく泣いて……。その度に俺は切なくなった。早く大人になって、アデルを守らなくてはと思った。泣かないように。」
 そう言って、照れくさそうに笑った。それは彼にとって、甘美な思い出でもあり、人生の意味の核心だった。
「小さな頃から、お前が好きだった。大人になったらもっと。……お前の前には、いつも屈伏してしまう。それが嬉しいのだから、おかしいよな。お前の為なら、何でも出来る。……あの約束を叶えたいんだ。大公さまに……」
 約束と聞いて、彼女は小さく身震いした。そして、彼の言葉を遮った。
「私は、そんなことはもう言わない。」
 強い調子だった。

「え?」
 尋ね返すトゥーリに、アデレードはきっぱり言った。
「約束など……もう無いことにしよう?」
「どうして? 俺のことが嫌いになったの?」
「そうじゃない……」
 彼女は彼のことが好きだった。だが、それがどういう種類のものなのか判らなかった。男女の愛情だと言い切るには未熟なのだ。その上、彼女の心の中に、公妃の“同情”という言葉が、楔となって刺さっていた。
 そして何より、結婚という言葉には、生々しさがあった。
 二人の間に幾つもの障壁のあることは、知っているつもりだった。だが、指環の一件で母に諭されたこと、大公に知られてはいけないと言われた意味を考えた時、迷いが生じた。彼女の考えている壁の高さよりも、遙かに高いのではないかと思ったのだ。
 全てを乗り越えて彼と生きるとは、簡単に決断できなかった。
 約束に縛られて、彼女も彼も錯覚しているのではないかとも思える。無いことにして、もう一度お互いの存在の意味を考えてみたかった。

 トゥーリは著しく動揺していた。彼の人生を支配し律していた約束が否定されたのだ。
 つい今しがたまで、彼女は彼といることを楽しみ、嬉しそうにしていた。幾つもの壁はあるが、彼はもう二人で乗り越える決心をつけている。彼女も当然そうだと思っていた。
 半年の間に何があったのだろうと考えたが、全く解らない。
「だったら何故? 春の時だって……指環を渡した時……それに、庭で指環を返す時……。俺のことが好きだろう?」
 彼の問いはたどたどしい。アデレードの言葉の意味を推し量る余裕を失っていた。
 彼女は、これほど彼が動揺するとは想像もしていなかった。どうすれば上手く説明できるのか言葉を探した。
 彼女が考え込んでいるのもまた、彼には信じられないことだった。
 男の感情はいつも真っ直ぐで、女の気持ちの揺れなど理解できないのだ。
「あの時は……お前はどんな気持ちだったんだ……?」
 彼はひどく辛そうだ。早く本当のことを聞かせてくれと、目が必死に語り掛けている。
 彼女はひとつひとつ説明しようと思い、まず指環を渡された時のことを口に出した。
「あの時は……同情したのよ。」
「同情?」
「トゥーリだって、動揺してあんなことをしたんじゃない?」
「動揺などしない! 愛しているなどと、動揺して言うもんか。二言はない。」
 彼は大声で否定した。
 彼女は彼の昂り様を恐れた。自分はこうまで激しくなれない。決断することができないのは、彼をそうまで愛していないのだと思えた。ならば、彼を解放しなければいけない。
「私は動揺していたわ。大好きだったトゥーリが、望まない結婚をしなければいけないと聞いて、動揺していたわ。トゥーリも普通じゃなかった。」
 不用意すぎる言葉だった。
 彼は絶句した。そして、探るような目で見て、小さな声で訊いた。
「大好きだった?」
「ええ。」
「今は違うような言い方だね。」
「子供のころとは違うわ。」
 彼はどう言ったものか、食い入るように彼女の表情を見、やがて彼女が随分落ち着いて言っているのに気づいた。嘘を言っているのではないと思えた。
 彼は背を向けた。
「……同情か。とんだ一人相撲だったよ。酷いことをするね。そうならそうと言ってくれよ!」
 彼の声は震えていた。
 だが、今の彼女には一歩踏み出す勇気がなかった。どうしても自分の発言を翻せなかった。
「同情したのよ。」

 長い間があった。アデレードは、トゥーリが諦めをつける間だと思った。
 彼は向き直り、静かに告げた。
「そうか。……でも、俺はそうそう変われない。お前を愛し続けるだろう。」
「止めた方がいいわ。辛くなるだけ。」
 それはヴィクトアールに言われたことだったが、彼女も正しいと思っていた。
「私たちの子供時代は、もう終わったの。トゥーリも約束から解放されたの。」
 彼は目を伏せた。“約束”という単語を聞くのが辛かった。
「さようなら、トゥーリ。いえ、ラザックシュタールさま。」
「何だ、それ?」
「もう、公女とその父の臣下なのよ。」
 彼は辛そうに黙っているばかりだ。
「誰か……違う人を探したらいいわ。」
「お前は、俺がそうしても平気なのか?」
「あなたには、幸せになってほしいから。」
「じゃあ、お前は?」
「私は……お父さまの決めた相手と結婚するのかもしれない。」
「……俺は平気でいられるか自信がない。お前はできるのか。同情……同情であんな態度を取れるなら……。どんな男でも、宮廷の決めた相手のもとでも、幸せに暮らせるんだろう。」
 そんなことができるのかと彼女が自問するようならば、まだ希望もあったのだろうが、すぐさま答えが返ってきた。
「ええ。」
 言っては本当におしまいだと思うのに、彼の舌は
「周りの納得するところへ嫁ぐといい。祝福されるだろう。」
と動いた。自分でも意外なほど明るい声だった。
「ええ。」
「……さようなら、アデレードさま。」
 彼も同じように別れの言葉を口にした。そう言うしか、矜持を保てなかった。
 彼女は同じように言われて初めて、彼の哀しみを理解した。
(いつかの廊下の時のように……私はあの時から何も成長していない……)
「ヴィクトアールが……待っています。早くお戻りにならないと。」
 彼女は振り返ることもなく、駆け去った。姿が見えなくなるまで、彼は見つめ続けた。
 終わったのだと知らされた。
 胸の底に大きな洞が空き、どんどん何かが流れ出て行くようだった。流れ出た大切なものが、足許をするりと逃げ去っていく。
(何をすればいいのか……?」
 何度も同じことを自問して、ようやく得られたのは日課を熟すことだけだった。
「朝議に行かなくては……」
 ぽつりと呟いて、彼は鞍に上がった。
 秋の朝の日差しが、草木の緑を照らしている。小鳥が啼いている。心は重く沈むのに、いつもと同じ何の変哲もない一日の始まりだった。

 アデレードが駆け戻るのを、ヴィクトアールは驚いて迎えた。
「早かったですね。」
「ええ。やはり草原の方には勝てません。すっかり負けてしまったわ。」
 微笑んでそう言える自分に、アデレードは驚いた。
 ヴィクトアールは表情を探った。そして、特別なことは何も起こらなかったのだと判断した。
「でしょうね。ラザックシュタールさま、草原の戦士にも、馬は名手だと言われるようになりました。馬はね。」
 彼女は“馬だけ”と強調したが、アデレードは聞き流した。
「そうなの。知らなかったわ。」
 ヴィクトアールは苦笑した。馬を扱うくらいに、アデレードを口説けないのかともどかしかったが、彼らしくもあると思ったのだ。




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