8

 いなくなった子羊は、夜半に自分で戻ってきた。人々は伝え伝えに聞き、順次それぞれの床へ帰った。リースルが戻っていないことに気づいた者はいなかった。
 翌朝に食事の支度をしている時、ヤールの奥方がリースルのいないことに気づいた。
「リースルは? まだ起きてこないの?」
 他の女たちが周りを見回した。見当たらなかったが、彼女の朝方の体調は皆知っている。
「また吐いているのかしら? 見てきて。」
 娘たちは気楽な調子で、婢たちの幕屋に入った。
 婢たちの寝具が簡単にしまわれている中に、不自然に片付いている一角があった。いつもリースルが寝ていた場所だった。
 一人が、リースルの寝具の間にそっと手を入れた。
「冷たい……」
 娘たちは顔を見合わせた。誰もが不安な顔だった。
 全員が黙り込み、気味が悪そうに布団を眺めた。
「きっちり畳んで起き出した、ってわけではなさそうね……」
「寝ていた跡もないわ……」
 彼女たちは、幕屋を飛び出し
「奥さま、リースルがいない!」
と叫んだ。
「何ですって! 他の幕屋も探しなさい。」
 奥方は女たちに命じ、自らも探した。
 皆はほどなく戻って
「どこにもおりません……」
と報告した。
「そんなはずは……」
 皆は戸惑い、昨日の様子を思い浮かべた。
「昨日……ええっと、羊を探してと言った時はいたんだけど……」
 そこまでは覚えのある者がいた。それからが、誰も語れない。
「……じゃあ、それから帰っていないの?」
 帰ってきたところを見たと言い出す者はいなかった。
「大変! 男にも声を掛けて。皆で手分けして探すのよ!」
 この奥方の幕屋の男女が、そこいらを隈なく探したが、見つからない。
「あの小さな若い娘が、徒歩で遠くまで行けません。」
「……まさか、かどわかされたのでは?」
「宗族の宿営地の側で?」
 皆は顔を見合わせた。
 この一画だけでも何張りもある。目を移せばすぐ隣に、ヤールの二室のいる一画がある。一帯の何処を眺めても、氏族の誰かの住居が目に入る。
 羊飼い・馬追いにしか見えない男たちの中には、非常時には出陣する戦士階級の者が少なからずいる。そうでなくても、戦いを辞さない気性の持ち主が多い。よく知られたことだ。
 悪行を働くには躊躇うだろうと思いたいが、そうではないことも皆知っていた。
「ないとは言えない。ヤールに知らせて! 戦士に探させましょう。」
 知らせを聞いたヤールも大変だと、十騎ほどを武装させて草原に出した。

 一騎がリースルを発見した。あまりに酷い有様に、彼は言葉を失った。

 皆は立ち尽くしたまま、戦士の帰りを待っていた。彼らの姿が見えた。
 手を振っても、戦士たちは軽く手を挙げるだけで、駆け寄ってくるわけではない。速度もそのままに、ゆっくりと静かな様子だった。
 皆はあまりいい予感がせず、黙ったまま彼らを迎えた。
 一団の真ん中に守られて、毛布に包まれた人の形の物が、馬の背に載せられている。
 一人の戦士がそれを相手に、奇妙な動きをしていた。手を伸ばしたり、引っ込めたり、覗きこんで何か話している。下ろすのに苦労している様子だった。
「よかった! 見つかったのね。何処か遠くに連れ去られた後かと……」
 奥方が近づこうとしたが、一人の戦士が歩み出て止めた。
 彼は眉をひそめ
「それが……」
と言葉を濁した。
 皆は、後ろで苦労している戦士に目を向けた。
 ようやく小さな身体が下ろされて、戦士の腕に抱えられた。
「生きているのでしょう? まさか……死んだの? あんたの抱いているのは、骸だって言うんじゃないでしょうね!」
 抱えていた戦士は、口ごもった。
「いや……生きていますが……。死んだ方が余程マシだと、本人は思っているかも……。」
「どうなったのよ!」
「ご自身でご覧あれ。」
 ヤールと奥方が、毛布をはいで、恐る恐る覗きこんだ。
 二人とも言葉を失った。ヤールは苦しげに顔を背け呟いた。
「これは、酷いわ……」
 奥方は気色ばみ
「もっとマシなことを言えないの!」
と叫んで、ヤールを突き飛ばした。
「こんな小さな娘に非道なことを! 呪われるがいい!」
 激昂する奥方をヤールが留めた。
「中へ運んで。医者に診せないと。」
 奥方は腕を揉み絞り、身震いしながらリースルの後に続いた。しかし、駆け戻ると、ヤールの腕を掴んだ。
「大変よ! お屋敷のご後室さまにお知らせせねば!」
「そうだな。あれは婢とはいえ、シークの縁だからな。」
「それと、都のシークの許へ。一番早い馬を出して。」
 奥方はひどく慌てている。
「お前、それは大袈裟ではないか? いや、知らせねばならんが、ご後室さまのご意向を伺ってからでもよかろう。」
「あなたは何もわかっていない!」
 奥方は足を踏み鳴らして焦れた。ヤールは意味がわからなかった。
「何を申しておるのだ。シークは大公のところでお勤めなさっているのだから、慌てて知らせたところでどうなるものでもあるまい。ご心痛をかけるだけだよ。リースルの様子がはっきりしてから知らせた方がいい。」
 奥方は舌打ちした。シークの事情は百も承知だが、リースルの生死だけの話ではないのだ。といっても、確かな話でもない。だが、女たちは皆確信している。明かしていいものか迷った。
 ヤールも皆も不思議そうに見つめている。
 奥方は、大騒ぎになるのが前後するだけの違いだと考え、小声で告げ始めた。
「だって……あの、これは内密の話なのですけれどね……」
「何?」
「リースルは、シークのお子さまを宿しているのかも知れないのよ。」
 ヤールの顔色が変わった。低く鋭い叱責が飛んだ。
「何だって! 何故黙っておった!」
 怒声と厳しい視線に奥方は怖れをなした。皆の目が集中している。彼女は皆に威嚇するような目を向け、ヤールには
「大声は出さないで。内密だと申し上げたでしょう……」
と声を低めた。そして、言い訳めいているとは思ったが、事の顛末を耳に囁いた。
「本人がまだわからないからと、はっきりしなかったからよ。ぺらぺらしゃべりまわるようなこと、できなかったのよ! だから、早く。お知らせせねば。」
 ヤールは渋い顔で
「まったく……とはいえ、シークとて、身動きができんだろう。」
と言った。
 それは尤もなことだ。奥方は悔しそうにした。
 ヤールは眉間に皺を寄せ、再び考え込んだ。奥方ははらはらしながら、それを見つめた。
 彼は奥方に困った顔を向け、囁いた。
「そうも言っておられんか。」
 そして、戦士たちに向かって大声で命じた。
「おい! 一騎、都へ発て!」
 奥方はもうヤールには用がないとばかりに横を過ぎて、リースルの運ばれた天幕に消えた。
「嗚呼、可哀想なリースル。どうか命だけは取り留めておくれ。」
 彼女の嘆く声が聞こえた。

 ヤールは、奥方の去った先をじっと見つめた。彼の顔には、悲痛な色があった。だが、彼はそれを押し込めて、戦士たちに向き合った。
「それで、こんなことをしでかしたならず者は、どこのどいつだね?」
 戦士たちは口々に答えた。
「三騎ほど蹄の跡がありましたな。」
「リースルの申すには、ロンバルディア帰りの若い傭兵のようだとか。余所者ですわ。南の方へ去ったようです。」
「後を追わせていますが、今日は朝から風が強い。途中に砂地が入ると、蹄跡を消されるおそれがあります。」
 ヤールは苦々しげに呟いた。
「できる限り追うのだ。」
「は。」
 戦士たちはたちまち騎乗した。
 ヤールは拳を握りしめ、周りをずらりと睨むと
「そして、お前ら。ここ二・三年のうちに、ロンバルディアに傭兵稼ぎに出ていた男を探せ。」
と怒鳴った。

 狼藉三昧した傭兵三人は、ちょうど金もなくなったところだった。リースルから奪った指環を金に換えようと、ラザックシュタールの街へ向かっていた。
 ひとりが指環をしげしげと眺めて、他のひとりに尋ねた。
「これ、本当に青い金剛石かな? どれくらいの値打ちがあるんだろう?」
「間違いない。ほら、陽に透かせて見ると……中で青い炎が揺れるように輝く。大金になる。」
 三人は指環を陽にかざして覗きこんだ。彼の言う通り、石は陽を受け、内側から煌めいた。
 彼らは歓声を挙げ、期待感に笑い声を漏らした。しかし、ひとりがふと疑問を口にした。
「しかし、あんな娘っこがそんなもの……何故持っていたのかな? お貴族さましか持っていないようなものだぞ。」
「大方、恋人がどこかから分捕って来て、与えたのだろう。」
 疑問を呈した男は、その軽い答えには納得がいかなかった。指環をしげしげと眺めた。
「……裏に……何か彫りつけてある。」
 他のひとりが奪い取り、細かい彫りものに目を凝らした。
「どれ……字だな。エイリーク兄者、見てみろや。」
「何と書いてある?」
 文字を読めない二人は、エイリークと呼んだ男に指環を手渡した。
「どれ……“愛しいリースルへ”娘っこの名前か? “アナトゥール・ローラントセン”。」
 三人から薄ら笑いが消えた。互いに顔を見合わせたまま、俄かには言葉が出なかった。
「えっ! ……同名かな?」
「そんなわけないだろう! その名前を持っているラザックの男なんか、一人しかおらん……」
 三人ともが慌て出した。
「確かか? よく綴りを見ろよ。」
「間違いない。ローラントの息子、アナトゥールって。シークの指環だわ……」
「ということは、あの娘の自慢の恋人は、シークってことか?」
 二人の傭兵は、エイリークに視線を向け、答えを待った。兄貴分が否定してくれればと期待していた。
 彼は指環を凝視したまま、黙り込んだ。彼とても肝が冷え、上手く言葉を発せられなかったのだ。
「その可能性は大きい。」
 エイリークは辛うじて、それだけを低く告げた。
 二人は途端に青くなった。
「って! 落ち着いている場合か! 娘の言う通り酷い目に遭わされるよ。畜生! 殺せばよかった。」
「……まずは……お膝元へのこのこ寄ってはならん。それに、ラザックが今ごろ、俺たちの跡を追っているはず。」
「まずいな。何とか逃げねば。」
「ラザックの執念深さ知らんのか? シークの絡みなら余計にだ。虱潰しに探しているぞ。どこまでも追ってくる。逃げられん。」
 二人がエイリークを見つめた。彼は思案顔だったが
「仕方ない。俺の伯父に泣きつこう。」
と言って、二人を交互に見た。
「しみったれた部族の長の言うことなど、シークが聞くか?」
「街道筋の部族の長だからな。問答無用に斬り捨てはしないだろうよ。それに……シークはもう都へお発ちになったはずだ。春のお帰りまでは随分ある。その間に、お心を鎮めていただけるように工夫しよう。」
「そんなものかなあ……」
 二人は疑わしい表情だ。
 シークは草原の絶対的権威だ。強大な軍勢と圧倒的な権力を持っている。縁もゆかりもない他部族の長が言うことなど聞く義理もない。
 だが、それしか方策はない。
「急げ! ラザックに追いつかれると面倒なことになる。」

 三人の傭兵はラザックシュタールの街を迂回して、更に南のエイリークの故郷に入った。キリルという小さな街だ。
 エイリークは早速に、伯父である族長と父親に事情を説明した。
 族長は驚愕し、頭を抱えた。
「そりゃあ……何ということをしでかしたのだろうね。」
「まあまあ、ロンバルディアでは酷い目にあったからさ、疫病に絶え間のない戦。ほとほと嫌気がさして、こっちに帰ってきたんだ。せいせいしたら、久しぶりにその……新鮮な食事をしたかったものだから……」
「わからんでもないが……勇敢に戦ってきたのだろうし。」
 族長は溜息をついた。
 エイリークはにやにや笑い
「そこへ可愛い子兎がさ……」
と言った。
 あまりの言い様に、族長は怒鳴りつけた。
「儂は我が甥を誇りに思っていたのだぞ!」
 エイリークは肩を竦めた。
「誇らしい甥も生身なのだよ。」
 父親は、恐ろしい戦地から無事に帰ってきた息子が、誇らしくも愛しくて仕方がなかった。
「そうだ、そうだ、その通りだ。勇敢なエイリークは、それくらいのことをしても責められん。」
「それくらい? シークの手つきだぞ?」
「間違いは誰にでもある。」
 父親は胸を張った。エイリークは申し訳なさそうな顔をして頷いている。
 族長は、そうまで軽く考えられる気持ちが理解できなかった。
「間違い? 間違いで済めばいいがな!」
 怒鳴りつけたが、そうしたところで何も解決しない。
「……やってしまったことは消せないな。」
 エイリークはここぞとばかりに、伯父の憐れに訴えかけた。 「伯父さん、シークに取りなししておくれよ。」
 族長は溜息ばかりついて、思案顔で黙り込んでいる。父子が言い立てた。
「兄貴、どうか儂からも頼む。」
「伯父さんの為に働く甥が帰ってきたんだよ? みすみす失う気なの?」
 族長は何度目かの長い溜息をついて、やっと口を開いた。
「取りなしできるか判らんぞ。娘は、死んだのではないだろうね?」
「置いてきた時は生きていたよ。シークの女なら、ラザックが見つけ出して、死なせはしないだろう?」
「そうか。……どんな娘だった?」
「小さくて痩っぽちの、子供みたいな女だったよ。」
「男なら誰もが惜しむような美女か?」
「全然。言っただろ? ……顔は可愛らしかったけど、ラザックによくいる大柄で豊満な、堂々たる美女という感じではないよ。」
 族長は、まだ苦虫を噛み潰したような顔だ。美女ではなくとも、高い血筋の娘ならば、簡単にはいかない。
「それに、あんなところを暮れ時に一人で歩いているのだもの。大した血筋でもなさそうだよ。」
 族長はその言葉に反応した。
「歩いて? 一人で? 馬は無しか?」
「馬があったら逃げているだろ? 誰かいたら騒ぎになっているだろうし?」
「それもそうか。」
「身なりも冴えなかったし……身分が低そうだった。」
 族長は、少しでもいい目があると思いたかった。
(馬もなく歩き、付き添いもなく、身なりも質素。ヤール共や戦士の娘ではないのか……? 一時の戯れに召した女かもしれない……)
「そんな女なら、お許しいただけるかもしれん。多めにお詫びの品を送り届けよう。」
 エイリークと父親はほっと息をついた。
 しかしすぐに、エイリークが表情を曇らせた。
「でも……」
「まだ何かあるのか?」
「この指環を見て。」
 彼が懐から出した指環を見て、族長は息を飲んだ。
「なんとまあ! 立派なものだな!」
「だろう? シークが娘に与えたものらしい。」
 父親が横から指環を取りあげて、しげしげ見た。
「青い金剛石か。お名前が入っている。間違いないようだな。兄貴、大丈夫かな?」
 父親が不安そうに族長に尋ねた。
 族長は面倒なことになりそうだと思ったが、できる限りのことをするだけだと諦めた。
「まあ……シークは大金持ちだからな。その程度のものは、ほいほい女にやるのかもしれん。」
「そうかな?」
「……アナトゥールさまは、とても大人しいお人らしい。父親はとんでもなかったがな。大公さまのお言いつけ通りなさるそうだ。あの意地悪な宮宰さまにも歯向かわないとか。大公さまの手前、こんなことで騒ぎは起こさないだろう。何せ、ご治世になってこの方、襲撃命令はほとんどお出しにならん。」
 それは、弟と甥だけではなく、自身を納得させる為に言ったことだった。
 エイリーク父子は鼻を鳴らした。
「腰抜けか?」
 族長は苦笑した。
「めったなことを言ってはならん。……草原も穏やかで、ラザックもラディーンも食いっぱぐれておらんゆえ、襲撃の必要はないんだろう。」

 族長は、甥たちの為に金品を用意して、ラザックシュタールの屋敷に届けさせた。
 それが届いた時には既に、知らせを受けたソラヤがリースルを屋敷に引き取り、医者に診せていた。
 届けられた贖いの品を前に、ソラヤとヤールは出方の相談をした。
「ヤールよ。お前はこの贖いをもって、ならず者共の仕業を許すか?」
 ヤールは感情を交えず、控えめに意見を述べた。
「婢一人には、十分すぎる贖いではあります。」
「婢とはいえ、シークの外室でもある。」
 ソラヤの物言いは静かだった。怒りが激しすぎて、かえって冷静になっていたのだ。
「はい。……しかし、贖いが届いたからには……。リースルの命が失われたわけでもなく、また自らの罪を名乗り出た心を酌んでやらねばなりません。これ以上の追及は、こちらの器量を疑われることになるでしょう。」
「治まらんな。」
「彼らはみな戦士です。うち一人は、高い血筋に連なる者とか。」
「草原の考え方がそうならば。しかし、私は納得がいかん。」
 すると、ヤールが大声を出した。
「私とて……私とて劣り腹ながら、我が娘でございます! ……しかし! ことさら騒ぎ立てるのは、シークのご名誉に傷をつけることにもなります。また、このことで乱れることあらば、大公さまに申し訳がたちません。外室とは言え、婢なのですから。」
 後半分は呟くようだった。 このヤールの感情が激したのをソラヤは初めて見た。彼も情と実の間で押し潰されそうなのだと知った。
「……リースルの様子だけが心配だな。」
「はい……」
 ヤールは激昂を恥じたように、静かになった。
 ソラヤは嘆息した。リースルの状態は、気の強い彼女ですら目を背けたくなる過酷さだ。
「ずいぶんと酷い目にあった。白い顔をして弱っておる。失った血が多すぎると医師が申した。もともと小さい身体だし、余計にだね。ゆっくり養生させねばならん。」
「こちらで?」
「もちろん。こんなことが再び起こってはならん。」
 ヤールはリースルの秘密を明かさねばならないと思った。
「実は……」
 そう言いかけたところに、表で蹄音と馬の嘶き、人々の驚き騒ぐ声が聞こえた。
「おや、何やら騒がしいな。」
「何事か?」
 小姓が慌てて入ってきた。
「ご後室さま、ヤール。シークがお戻りになりました。」
 ソラヤは驚いた。つい先日、都に書状を送ったばかりなのだ。
「ええっ? お勤めは? それにしても、こんなに早く?」
 対照的に、ヤールは落ち着き払った様子だった。ひっそりと
「お迎えせねばなりませんな。」
と言っただけだった。
「そうだな。」
 二人は出迎えに出た。

 二人は、屋敷の扉口でトゥーリと出くわした。
 トゥーリは慌てて、馬から下り、脚を縺れさせていた。彼も乗馬も汗びっしょりで、荒い息を吐いている。長い間、乗り通しでいた様子だった。
 門の側には、長い長い綱を引きずった馬がもう一頭、ぽつねんと立っていた。
 ヤールが進み出て、足許に蹲った。
「お帰りなさいませ。」
「つまらん挨拶はいらぬ! 女はどこか?」
 トゥーリは、ヤールを飛び越えて屋敷の中へ入って行った。
 ソラヤはトゥーリの腕を掴んだ。
「アナトゥール。お前、都のお勤めはどうした?」
「そんなもの! 今はどうだっていいでしょう! 母上、リースルは?」
 玄関で、泡を吹いていた馬が、とうとう倒れた。
 ヤールが大声を挙げた。
「嗚呼! あの強い雪足が倒れた!」
「不甲斐ない奴め! 放っておけ!」
「あたら駿馬をお潰しになるのですか?」
 トゥーリは、ヤールの似つかわしくない言葉に怒鳴った。
「だったら、連れて行けよ! 城壁の辺りでも、嘉風がよろよろしているぞ!」
 ヤールは驚愕した。
「え……」
 彼らは良馬に、気象や星に因んだ名前をつける。その中でも風の付く名前の馬は、星の付く馬と並ぶ駿馬中の駿馬なのだ。“風の馬”に対する扱いに耳を疑ったのだ。
「どうなんだ! 馬より女だろ!」
 食いつきそうな目で睨み詰め寄られ、彼は首を垂れ、静かに答えた。
「はい。奥におります。」
 惑わしい答え方に、トゥーリは苛立った。ソラヤが、怒鳴りつけようとする息子を制した。
「落ち着け。騒ぐな。弱っているが死んではおらん。」
 トゥーリは、ソラヤの顔をまじまじと見つめ
「死ぬって……そんなにひどいのか?」
と声を低めた。
 彼女は言い淀んだ。
「まあ……見てくれが派手なんだが……」
「はっきりおっしゃって!」
 緑色の瞳がぎらぎらと睨んでいる。彼女は目を逸らした。
「お前、今は会わないで、そっとしてやった方が……」
「何故?」
「……酷い目に遭ったのだよ。辱めを受けて……ここへ連れてきた時もたいそう怯えて。特に男は……側へ寄ると取り乱す。」
「何たることか!」
「だから……」
「だが、リースルは俺を恐れたりはしない。どこにいるの? 母さま、教えて!」
「あの……」
 彼女はまた口籠った。彼は足を踏み鳴らした。
「何? 母さまらしくもない。はっきり仰って! いつも、言いにくいことをつけつけ言うくせに。こんなときはダンマリか!」
 彼女は、息子の激しい怒鳴り声に怯んだが、長く息を吐いて睨み返すと
「先ほど申したことを肝に銘じて行け。南翼の奥の部屋だ。お前は、肝の据わらん男ゆえ……」
と言った。
 彼は母の言葉の途中でもう駆け出し、肩越しに
「一言多い!」
と怒鳴った。
 ヤールはほっと息をつき、側の男に
「嘉風を回収して参れ。」
と命じた。

 リースルの部屋には、ヤールの奥方もいた。
 血の匂いがした。
 奥方はトゥーリを見て驚いたが、黙って目頭を押さえた。
 奥の寝台では、白い顔をしたリースルが横たわっている。
 彼は、彼女のあまりに白い顔を見て、死んでいるのではないかと息を飲んだ。だが、布団の下で胸が上下しているのに気づいて、安堵した。
「眠っているようだね。」
「はい……」
「白い顔をしている。」
「あの……申し訳ございません。」
 奥方が涙を落とした。
「うん。」
「お預かりしておきながら……」
「いったい、何故?」
「羊を探しに出て……帰ってこなかったのです。ああいう子だから、他人より一生懸命探したのね。気づいてみんなで探したときにはもう……」
「そうか。」
 彼には、それしか言う言葉がなかった。
「どんな罰でも受けます。」
「奥方が悪いのでもないだろうに。」
 彼女は唇を噛んで黙り込んだ。
 彼は寝台に目を移し、奥方に尋ねた。
「それより、側へ寄っても大丈夫かな? 母から聞いたのだよ。酷い目に遭ったから男は……って。」
「今は眠っているし……シークなら……」
 彼はそっと寝台の側に寄って、立ち尽くした。咄嗟に出る言葉もなかった。
「惨いね……。顔形が変わっている。」
「酷く殴りつけられたのです。こんな娘によくもそんなことを……」
 彼女はすすり泣いた。
「そうだな……」
 彼は静かにリースルの顔についた痣を撫でた。
「少し熱っぽいね。」
「ええ。悪い風が入らなければいいのですけれど……」
「うん……。そうだね。」
 彼はそう言ったきり、ただ彼女を見下した。
 奥方は、耐えがたい怒りと不安に苛まれていた。同じ痛みを分かち合える相手と語り合いたかったが、離れた椅子に座って黙り込んだ。

 重苦しい空気が流れた。出し抜けに、トゥーリが奥方に尋ねた。
「子供は?」
「やっぱり……」
「どう?」
「私の見たところ、流れた様子はありませんから……ご存じだったのですか?」
「はっきりとは聞いていない。多分って言っていた。あんたも知っていたのか。」
「何となくそうではないかと……。はっきり言わないから、黙っていたけれど。」
 二人ともひどい後悔が湧き上がっていた。
 彼は拳を握り締め
「……何で! 何で、この女はそうなんだろう! そうならそうと言えば、屋敷で、いや、草原でも守られて、こんな目に遭わずに済んだだろうに!」
と言ったが、言ったところで仕方のないことはわかっている。
「ええ……」
「済んだことを言っても仕方がない。」
「ええ……」
「何もできなかった自分が……」
「そんなことは……」
 彼は、ぎりぎりと唇を噛んだ。
 すると、リースルの瞼がもぞりと動いた。
「おや、目を開けた。リースル!」
 二人は彼女を覗き込んだ。
 リースルは、ぼんやりトゥーリを見ている。彼は静かに話しかけた。
「わかるか? 帰ってきたよ。」
 彼女は何か言いたげにしているが、しゃべらない。
「リースル?」
 奥方は彼の腕を引き、おずおずと
「あの……よく聞こえていないのです。」
と言った。
 彼は意味がわからず、奥方の顔を見つめた。
「聞こえない?」
「ひどく殴られて、片方の耳がダメになったのです。少しゆっくり、大きな声で話してやって。」
「ああ……」
 彼は悲痛なため息をついて、顔を覆った。
 リースルはぼんやりしたまま
「トゥーリさま、都のお勤めは?」
と小さく尋ねた。
 彼より先に、奥方が答えた。
「戻って来てくださったの。わかる? も・ど・って・き・て・く・れ・た・の。」
「……ああ、戻って来てくださった……」
「うん。」
 リースルは眉をひそめた。
「私の為に、そんなことをなさったの?」
「いいんだよ。」
「私、酷い……でしょう?」
「すぐよくなる。」
 空々しいことも言わねばならない。彼自身の希望でもあった。
「ゆっくり休んだら、元気になるよ。」
「元気に……」
「そう。」
 彼女は考え込み、やがてぽろりと涙を流した。
「でも、もうお側にお仕えできない。」
「何故?」
「私は身を穢されたから。」
「何も気にすることはない。一度や二度、連れていかれたことがある女はたくさんいる。知っているだろう?」
「ああ……私によくしてくれたお姉さんも連れていかれた。」
「そうだろ? 気にしなくてもいい。」
「お姉さんは相手のラザックの戦士が気に入って、一緒になった。」
「そういうこともある。」
「連れていくときは無理やりだったけど、下された後は優しかったって。一生懸命、愛を乞うたと……。男は馬鹿なことをするって、お姉さんが……。旦那さんは照れくさそうに笑って……」
 その夫婦のことを思い出したのだろう、リースルは微笑んだ。
「そういうやり方もあるんだろう。」
「でも、私を連れていったのは、ラザックの男でもラディーンの男でもなかった。人でなし。乱暴をした。」
「そのことは思い出さないで。」
「あいつらは私をひどく殴りつけて……」
 彼は聞くに耐えず、首を振った。
「もういい。」
「言うことを聞かないからって、逃げるからって、足の筋を切ったの。」
「もう話さないで。」
「腐った玉ねぎみたいな臭いがして……」
 淡々となされる悲惨な話に、彼は耐えきれなかった。
「黙るんだ!」
と大声になった。
 彼女はびくりと身を竦めた。彼は慌てて慰めた。
「すまない。でも、言ったところで辛いだけだろう? 考えないで。養生して、元気になっておくれ。」
「……はい。」
「そうして、変わらず側にいてくれ。」
「できない……」
「どうして?」
「身が穢れた。」
 彼女の話し様は、気味が悪いほど無感情だった。
「そんなこと! 望まぬ交わりの一度や二度で、女の身体が穢れたなんてことがあるか! 生きて帰ってきたんだ。それだけでいいよ。」
 血を吐くような口調だった。奥方も、彼女を慰めた。
「そうよ、リースル。私の妹も連れていかれたことがあるの。それだけじゃない。夫の子ではない子を産んだわ。でも、誰も穢れた女だなんて言わない。氏族の者はもちろん、父親も彼女の夫も責めなかった。生まれた子は、男の子だったけど、ちゃんと夫の父称をもらったし、他の兄弟と同じように育っているわ。」
 リースルは聞いているようだったが、内容が解っているのか疑わしい様子だった。
「連れていかれるなんて、よくない哀しいことだけれど、それはよくあることなの。わかるでしょう?」
「はい……」
「草原の者は誰も、連れていかれた女を責めないわ。」
「お前のこと、誰にも言わせないよ。気にしないで。堂々としていたらいい。」
「そうですとも。」
 彼女はまた少し思案していたが、やはり苦しそうに言った。
「……できない。男の人の側にいるのは怖い。」
「俺も怖いの?」
「トゥーリさまは怖くない。けれど男の人だもの……怖い。」
「どっち?」
「あなたは……やはり同じ男の人だから……」
「あんな奴らとは違うよ。」
「ええ……」
「あんなことはしない。」
「ええ……」
「ただ、側にいて。姿を見ているだけでいい。また鈴みたいな声で笑って。」
「ええ……」
 トゥーリは寝台の側に跪き、布団の上からリースルの手を撫でようとした。そして、その左腕が異様に短いことに気づいた。
「リースル、手を怪我したのか?」
「ええ……あの指環を盗られたの。これだけはと思って、大事な指環だから……暴れたら、あいつらは私の腕を切って盗ったの……」
 彼は言葉を失った。対照的に、奥方は怒りを爆発させた。
「獣共! テュールのお裁きを受けるがいい!」
 彼は眉根を寄せ、目を閉じた。
「地獄の犬に引き裂かれてしまえ!」
 次々に女の金切声が発される。癇に障り、彼は堪らず奥方を制した。
「奥方。騒がしいよ。」
「こんな非道なことが許されるはずがない。」
「静かにして。リースルが。」
「だって……だって……、この娘は身寄りを失くしてから、私の側で大きくなったのです。そんな娘のような子がこんな目に……」
「あんた、少し疲れているようだからしばらく休んで。俺が看ている。」
「リースルが恐れます。」
「リースル、俺がこの部屋にいるのはいかんか?」
 リースルは
「いえ……」
と言ったが、震え出した。
 奥方はまたすすり泣いた。
「ほら、身震いしています。」
 彼は黙って頷き踵を返したが、心配が克ち退出することができなかった。
「あまり近くに寄らないから。ほら、隅っこに座っているよ。ゆっくりお休み。」
「はい……」
「奥方。休んでこい。眠っていないんだろう?」
 奥方は物言いたげに彼を見つめたが、諦めて出て行った。
 トゥーリは部屋の隅に椅子を置いて座りこんだ。そして、頭を抱え俯いた。その瞳は怒りに燃えていた。



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