6

(もういいわ、ばばあ。相手になるもんか!)
 そう思いながら、トゥーリはリースルのところに出かけた。
 三日に一度を厳格に守っていたから、宿営地の者は皆驚いた。
「急なお越しで……どうなさった?」
 彼はそれには応えず、リースルのいる幕屋の扉をいきなり開けた。
 女ばかりだった。皆が手を止め身構えて、彼を見つめている。何の触れもなく突然開けたから、咎める目だった。
 彼は少し怯み、リースルについて来るように合図して、外に出た。
 すると今度は、夕方の家畜の世話や乳搾り、乗馬の足を括ったりしていた者が二人に怪訝な目を向けているのに気づいた。
 彼は彼女を馬に乗せ、連れ出した。そして、すぐ近くの窪地で下ろした。

 陽が地平線の下へ隠れて、夕闇が下りてきた。星が東の空に輝き出した。乾いた夜風が草むらを揺らし始めていた。
 トゥーリは躊躇いがちに尋ねた。
「今日、母が来たろう?」
「ええ。」
「何を話した?」
「何って……私のことを見て、小さいって。」
「それから?」
「ええっと……どんな交際をしているのかって、お尋ねになった。」
 彼は顔を顰めた。
「また……根掘り葉掘り訊きやがって。他には? きついことを言っただろう?」
「いいえ。」
「隠さなくてもいい。俺のおふくろは気位が高くて、人を人とも思わんから。」
「そんな風でなかったよ。でも、聞いてどうなさるの?」
「……おふくろを締め上げるわけにはいかないな。お前と傷心を分かち合いたい。」
 リースルは小さく笑った。
「そんなお気遣い、なさらなくても。」
 彼女の口調は落ち着いている。無理にそうしているようでもない。しかし、あの母が尋問したのだから、心穏やかでいるはずがないと思った。
「あの……口に出すのも厭わしいけれど……」
「何でしょう?」
「その……婢の身で畏れ多いゆえ身を引け、とか言わなかったか?」
 意を決して尋ねたが、彼女の答えはあっさりしていた。
「仰いませんでした。」
「本当に? 誤魔化して、急にいなくなろうと思っていないか?」
「何でそんなことができましょうか。本当です。ご後室さまは優しかったよ。親しくお話ししてくださって、秋にシークが都へ行ったら、お屋敷で話し相手になれと仰った。私はいくら何でも畏れ多いので、お断りしたよ。」
「信じられん。本当なのか?」
「シークのお母さま、お言葉はきつかったけれど、お話は意地悪でなかった。シークが都に行ったら寂しかろうと、私を気遣ってくださった。」
 思いもよらない単語を聞かされて、彼は心底驚いた。
「何だ、それ? 気遣いなんて、あの人が持ち合わせていたとは!」
「それに、とても美しい方……」
「もういい。」
 彼はげんなりして、話を終わらせた。
「はあ……シークは何をしにいらしたの?」
 彼女は不思議そうな顔をしていた。彼は照れくさくなり、苦笑した。
「……心配だったんだ。おふくろがリースルに酷いことを言ったと思ったから。」
「そんなご心配はいらないのに……」
 二人は夜風に吹かれながら、座り込んだ。

 トゥーリは、足許に紫色の花が咲いているのに気づいた。
「……都忘れが咲いているよ。まだ暑いのに、確実に秋が近づいている。」
「ええ。」
「秋になったら、都へ行かねばならん。」
「はい……」
「連れていけたらいいのに。」
「それはならんでしょう。」
「面倒だな。草原にずっといられたらいいのに。」
「お勤めでしょう?」
「都へ行っても、たいしてすることもないよ。ほとんど遊び暮らしているだけだ。」
「大公さまのお側でお仕えするのもお勤めでしょう?」
 リースルは都のことなど知らないから、言葉が明るい。話してもよくわからないようだったから、もう話すこともしていなかった。
「そうだけど……シークではなく、唯のラザックの戦士ででもあったらと思うよ。」
「そんなことはお考えにならないで。」
「何故?」
「いえ……」
「俺が唯のラザックの男で、お前に言い寄ったら、お前は応じたか?」
 そう訊くのには心が震えた。
 彼女はしばらく考えていたが
「わかりません……でも、多分そう。今のシークみたいな人だったら、同じように。」
と言って、言葉を切った。
「同じように?」
 彼が急かすと、彼女は俯いたが、嬉しい言葉が返ってきた。
「あの、慕わしく……そんなことをお思いでしたの?」
 夕闇の所為か、彼は正直な気持ちを口にできた。
「想像もつかなかった? いつも思うよ。誰に対しても。ラザックにもラディーンにも。俺がシークだから皆は従う。」
 彼女の表情を窺うのは怖かった。彼は、遠くまで続く起伏をぼんやり眺めながら
「今度のこと、草原に外室を持つこと、本当は嫌だったんだ。お前がどうこうではない。草原の女は、俺が望めば伽に立つだろう。俺が好きだから来るわけではない。シークだから来るんだろう? 外室だろうが何だろうが、変わらないじゃないか。」
と一気に言った。
「そうとは……」
「そうさ。おふくろは、俺がそういうもてなしを断らないことを嫌って、今度のことを思いついたんだろうが……その点は都の女の方が……」
 彼は余計なことまで口走ったと、焦った。
 彼女はしっかり聞き留めていた。
「都の女の人?」
 もう隠すことはできなかった。また、彼女には正直に話したい気持ちもあった。
「誤解するな。都に恋人がいるのではない。遊び相手がいた。」
「遊ぶ?」
「恋愛ごっことでも言おうか。」
「ごっこ?」
「そう。いつか、姫君など内輪はひどいと言って、お前に窘められた。でも、雅やかなのは素振りだけで、心根は雅の欠片もない。やりたい放題。毎度、相手を変える。」
「何故、都の方々はそんなことを?」
「暇つぶしだ。」
「暇つぶしで愛し合うの?」
「信じられないだろう? 俺も最初はそう思った。都は平和すぎるんだよ。草原は平穏といってもいろいろあるから、そんな暇つぶしは思いつきもしない。」
 それは、彼女の理解を超えていた。言うべき言葉が見つからず、曖昧な答えしか返せなかった。
「ええ……」
「お前は俺の何を見て、一緒にいるのかな?」
 それを訊くのにも、彼は心が震えた。
「何と言っても……」
「顔や身体の見た目? それとも、シークだからか?」
 彼は予防線を張るように、自分の嫌だと思う選択肢をわざと挙げた。
「強いて言えば、目が……」
「目? どうして?」
「うまく言えない。最初の晩、お側に行ったとき思ったの。シークは私のこと抱きながら、羊みたいな目をしていたよ。」
「羊?」
「……怯えたような。やっぱりうまく言えないけど、寂しそうな遠い目をしていらした。」
「そうか?」
「ええ。寂しそうっていうのが、一番合っているのかも。何故そんな目をなさるのか、不思議に思った。でも、今わかった。そんな風に考えているから。今も羊みたいな目をしていた。灰色にくすんで寂しそう。」
 彼は遠くの景色から彼女に視線を戻した。彼女が瞳の奥を覗き込んでいた。
「寂しくないよ。お前と一緒だし。」
「ええ……」
 彼女が身震いした。
「寒いのか?」
「いいえ。暗くなったし、誰もいないし……」
 彼は、そういう理由ではない気がしたが、それ以上尋ねることはしなかった。
「そうだね。もうみんな戻ったみたいだな。」
「もう戻りましょうか?」
「いや、もうしばらく二人でいたい。まるで……満天の星の下、お前と俺しかいないようで、心地よいのだ。」
「みんな、心配してないかしら?」
「戻って、接待を受けるのも面倒だ。」
「なら……ラザックシュタールへ……」
 屋敷にも帰りたくなかった。
「ねえ、ここに、膝へおいで。」
 彼女は素直に膝の間に座った。彼は思わず笑った。
「……何でお笑いになるの?」
「お前は本当に小さいな。脚の間に納まってしまう。」
「また、それ?」
 彼女も軽く笑った。
 ぎゅっと背中から抱きしめると、彼女はくすぐったそうに声を漏らした。
「可愛いんだ。小さくて、柔らかくて、優しくて。……もう、言ったかな? 小さなリースル、好きだって。」
「ええっ?」
 彼女が肩越しに振り向き、目を丸くして彼を見た。
「どうして驚く? 好きだよ。」
「シークが婢にそんなことおっしゃるとは!」
「変か?」
「お戯れかと……」
「戯れ? まさか。愛しているよ。」
「シーク!」
「そんな風に呼ぶ者は、ここにはいない。風と草だけ。ただのリースルとアナトゥールではないか。」
 彼女は困った顔をした。
「顰め面しないで。」
 彼女は表情を見られるのが困るかのように、俯いた。
「シークではなく、アナトゥールと。いや、それは草原ではまずいな。トゥーリとお呼び。」
「そんな親しげに。」
「親しいではないか。これ以上親しくなれるか?」
 彼女が自分を好きだというのは感じていた。それだけでなく、言葉が欲しいと思った。
「唸っていないで。勇気を出して告白したのに、お前は何も言ってくれないのか?」
「好き……」
「誰を?」
 彼女は
「トゥーリのことが好き。」
と呟いて、彼の腕に手を載せた。
「……こんな喜び、他にない。もうしばらくここにいようよ。」
「ええ。」
 腕に載ったリースルの手も、脚の間におさまった小さな身体も温かかった。彼女も同じように思ったのか、背中をトゥーリの胸に預けていた。
 夜風に都忘れの花が揺れていたが、もう花弁の紫色は闇に紛れていた。

 やがて、都へ発つ日が巡ってきた。トゥーリはリースルを置いて行くのが心配で仕方がなかった。
「一緒に過ごすのは、ひとまず今日で最後になるが、春に帰るのを待っていて。」
「ええ。」
 彼女の言葉には覇気がなかった。
「本当は屋敷で待っていてくれた方が安心なのだが、それはならんか?」
「だって……」
「母上は、お前のことを気に入っている。話し相手においでと言っていたよ。」
 極力何でもないことだというように勧めたが、気の小さい娘は頷かなかった。
「気後れします。」
「そうか……草原は物騒だから、小さいお前を置いていくのは心配なんだ。」
「氏族と一緒だから、大丈夫です。」
「くれぐれも気を付けてね。都から手紙を送るよ。」
「手紙……私は字が解らない……」
 彼は少し驚いた。ラザックやラディーンの貴族階級の女は、文字どころか高い教養のある者もいる。文字くらいは、奥方が教えているものと思っていたのだ。
 悪いことを言ったと思うところだが、もうそんな遠慮は二人の間にはなかった。
「そうなのか。知らなかった。春に戻ったら教えてあげよう。」
「はい。」
「なら……どうしようか? まあいい。手を出して。」
 彼は、彼女の手の上に指環を載せた。
「何? ……指環!」
 彼女は目を輝かせた。
「お前のものだよ。裏に名前が入っているんだ。字を知らんでも……ほら、ここのところはお前の名前だよ。」
「これ?」
「そうそう。L,I,E,S,L。Lieslこう綴るんだ、お前の名前。」
「へえ……」
 彼が示す指先を、彼女は珍しそうに見ていた。文字くらいでと微笑ましかった。
「“愛しいリースルへ”と書いてある。」
「こっちは何て?」
「これは俺の名前。“愛しいリースルへ アナトゥール・ローラントセン”と書いてある。」
「嬉しい! 大切にします。」
 輝く笑顔を見ると、心の底から喜びが湧いた。
「三日間、左の小指にしていた。 お前なら人差し指だ。」
 彼は彼女の手を取り、人差し指に挿した。しかし、大きい。
 彼女の人差し指は、彼の小指と同じような太さのはずだった。
「あれ? 大きいな。では、中指に。あまり指環をする指ではないが……」
 よくよく眺めると、痩せたように感じる。
「痩せたんじゃないか?」
「少し。」
「食べているのか?」
「あまり食べられないの。」
「どうして? 具合が悪いのか?」
 彼はますます心配そうに顔を覗き込んだ。
「あの……」
「うん?」
「トゥーリさまのお子が宿ったようで……」
 予想だにしていなかった言葉だった。
「ええっ! 確かなの?」
「まだ、よくわからない。……障りが無いし、朝方気分がよくないの。赤ちゃんができると、皆そうなるのを見たから、多分。私もよく似た調子だし。」
 彼女はよくわからないと言うが、身体の変化は感じている。
(だったら間違いないじゃないか!)
 彼は慌てた。
「そりゃ大変だ! 奥方には話したのか?」
「まだ。だって、話したら騒ぎになって……もし違ったら、恥ずかしい。」
「そんなこと言っても……なら、いつになったら間違いないって判るの?」
「私も初めてだから、わからない……」
「どうしよう……」
「お腹が大きくなったらわかるのでは?」
「それまで黙っているのか?」
「はい……」
 彼女の言うことはどうにも曖昧で、彼は納得がいかなかった。
「それも何やら……やはり産婆さんのところへ行って……」
「嫌。」
「何で? それが一番確かなんだろう?」
「恥ずかしいの。」
 産婆などとんでもないという調子だ。彼女が強硬に拒む気持ちが、彼には解らない。
「何が恥ずかしいの? 産むときだって世話にならねばならん。子供ができると、皆行くんだろう?」
「もうちょっと待って……自分で確信できたら行きます。」
 彼女の断固たる言い様に、彼は折れた。
「そうまで言うなら……わかったよ。」
「ありがとう。」
 彼女はやっと安心し、彼に微笑みかけた。
 彼はどこか釈然としなかったが、これでいいのだと自分に言い聞かせた。
「……それ、本当だったら、春に戻ってきて、しばらくしたら生まれるのだね。どっちだろう? 男か? 女か? 楽しみだなあ。」
「嬉しいの?」
 心配そうなリースルとは対照的に、トゥーリは嬉しくてしかたがない。
「当たり前じゃないか。来年の今頃は、俺は父さまか。感慨無量。」
「……きっと女の子。」
「何で?」
「何となく。」
「どっちでもいいけど、とても楽しみ。くすぐったい感じだなあ。ああ……まだ、そうとはわからないんだな。」
「ええ。」
「でも、大事にして。無理しないで。」

 二人は身を寄せ合って、横になった。
 リースルがひっそりと
「明日になったら……トゥーリさまはもういないのね。」
と呟いた。
「うん。」
「ここにいていいの?」
「明ける少し前に帰るよ。支度といっても毎度のこと。慣れたものだ。馬車に乗るだけだよ。」
「そう。……明日になったら、トゥーリさまは馬車の中で、ラザックの騎兵に守られて……お姿すら見られないのね。その後は春まで……」
 みるみるうちに、彼女がすすり泣き始めた。
 彼は慌て、彼女を抱きしめ背を撫でた。
「泣かないで、リースル。半年なんてすぐ経つよ。ほら、裁縫を習っているんだろう? しっかり教わって上手になって。」
「はい……」
「裁縫ができるようになったら、俺の鞍敷に刺繍してよ。」
「鞍敷。」
「どうした?」
「鞍と言えば、右の腿に鞍擦れができていました。治りましたか?」
 彼は家畜を見ている間、鞍に左足を上げて休む癖があった。それで右の腿が鞍の皮に擦れて、薄皮が剥けるのだ。
「たいしたことないって。治ったよ。」
「じくじくすると治りが遅いから、心配だった。よかった。気をつけないと、またなる。」
「だらっと一日中乗るからなあ。片方に傾くんだろうねえ。」
 彼が苦笑すると、彼女も笑った。

 トゥーリは、リースルを案じながら上京した。
 大公に挨拶に行くと、衝立の内にアデレードが座っていた。
 彼女はついっと身を傾けて彼を見やった。顔を半分隠した扇から、矢車菊のような青い瞳が覗いていた。彼が気づくと、彼女はゆっくりと目を逸らして、姿勢を正した。
 気づかれて、慌てて隠れる子供のようなことはもうしない。彼が草原にいる間に、身分に相応しいゆったりした上品な振る舞いが身に着いていた。
 そういう年頃なのか、がらりと様子が変わって見えた。
(もう、鼻を赤くして泣かないみたいだなあ。)
 綺麗になった幼馴じみに感心すると共に、説明のつかない哀しさが湧き上がった。そして、罪悪感がちくりと胸に刺さった。

 しばらくして、トゥーリは懸念を問う手紙を書こうとした。
 しかし、彼女は読み書きができない。代読者が秘密に気づかないような文面でなくてはならない。
 彼は当たり障りのない文面を認めた。
“私に知らせたいことがありますか? ”
 眺めてみると、これは返事の書きようがないと思えた。
“あります”なら、皆がちゃんと伝えよと言うだろう。
“ありません”では、愛想がないと責めそうだ。
 腹が大きくなって、誰の目にも明らかになったら、ヤールが知らせてくるだろうが、上京したきり音信がないのでは、不実だと思われかねないと心配になった。
 彼女が隠したい理由が、どんなに考えても、彼にはさっぱり解らなかった。はっきりと書こうかと思ったが、本人の意向を尊重してやりたいとも思う。

 もう少し待つか、もう書くか、手紙ひとつに逡巡していると、草原から早馬が来た。



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