5

 トゥーリとリースルは三日に一度会っては、日がな一日引っ付いている。
 あるのは馬と、だだっ広い平原と家畜の群れ。珍しいことは起きないが、育ちがずいぶん違う二人は、お互いの日常を語り合っていれば、時間はあっという間に過ぎた。
 リースルは外仕事を外され、日に日に日焼けも治まった。鼻の皮剥けも治った。
 改めて見ると、美しい顔立ちだ。
 彼が褒めると、彼女ははにかんだ笑顔を見せた。
「化粧をして綺麗なものを着たら、きっと美しいだろうな。」
 彼の希望は
「他の人の手前があるから。」
と笑って拒否された。
 しかし、美しく着飾った恋人を見てみたいと思うのは、いつの時代でも男の常。彼は、彼女に着せようと衣装を作らせた。

 豪華な衣装を、まさか野原に持って来られない。他人の手前を気にするリースルのこともある。トゥーリは、彼女を屋敷に連れて帰った。
 母を気にすることはないのだが、彼はこっそり自分の翼に連れて行った。
「これ、リースルにあげるよ。」
 箱を開けた彼女が驚き喜ぶのを見て、彼は喜びを感じた。
 彼女は滑らかな手触りを確かめて、感嘆した。
「きれい……こんな布は初めて見た。」
「セリカだよ。」
「セリカ……?」
「東の果てにある国の織物。虫の吐く糸から作る。」
 彼も、虫が吐く糸から作られているところなど見たことはない。真偽の程はわからなかったがそう言うと、彼女は不思議そうに布を改め
「虫が?」
と言った。
「うん。都の貴婦人は、これで綺麗な衣装を作るんだ。」
「へえ! ぴかぴかして、つるつるで、軽いの。山羊の胸の毛の織物より柔らかい!」
「広げてみて。」
「うわあ……」
 彼女はますます驚いた。
「本当は、都のタイースという仕立師に頼みたかったが、いつ時になるかわからないしな。ラザックシュタールの仕立師に作らせた。腕前はいい。母上もその職人を使っているんだ。」
 彼女は抱きしめていた衣装を離して畳むと、困った顔を向けた。
「……こんな立派なもの……もらえません……」
「返されたって困るよ。うちは女っ気がないから。」
「お母さまは?」
「こんな若向きな可愛らしいものは着られん。母上は大柄だしね。」
 彼女はそれ以上の拒否はせず、逡巡した。美しいものは、普通の娘と同じく好きなのだ。
「いいから。着たところが見たいのだ。早く着替えてみて。」
「でも……」
 身分が無いから遠慮深いのか、気が小さいからか、彼女は嬉しそうにするものの袖を通そうとしない。
 彼は急かした。
「早く、早く。」
「着方がわからん……」
「ああ、そうか。俺もよくわからん……。けど、こうなっているから、ここへ入って上げて、手を通して……」
「そっか、そっか……」
 二人できゃっきゃ言いながら、着せ付けた。
 着終わると、リースルがぐるりと回ってみせた。
 しかし、ふと
「あれ? 何だか変です。」
と言った。どうも胸元がわさわさと浮いて、裾も長いのだ。
「あら、ちょっと大きかったか。寸法がはっきりしなかったからなあ。さほど大きすぎではないが……裾が長すぎたな。」
 彼女は
「はあ……裾を踏んで転びそうです。」
と笑った。
「都では、身分の重い女の人ほど、裾を長く取った衣装を着る。それなら……ずいぶん高貴な姫君だな。」
 彼はまた公女のこと思い出した。やましい気分だった。
 彼女は何も気づかず、うっとりと衣装を眺め下している。
「高貴な方と比べたら、罰が当たりそう。宮廷のお姫さまは、こんな上等な衣装を着て、きらきらした宝石で身を飾って……夢のようでしょうね。」
 彼は途端顔を顰めた。
「外見はともかく、中身はひどい。」
「そんな失礼なことを言ってはいけません。」
「お前の方がよほどいい。……ああ、歩くときは前を少し摘んで、踏まないようにちょこちょこ歩くんだ。」
「こう?」
「そうそう、そうやっていると、すごく高貴な姫君と……逢引しているみたい。勝手が違うなあ。」
 彼は、どんどん自分を追い込んでいると焦ったが、何も知らない彼女は嬉しさ一色だ。
「そう? 中身は変わりません。いつものリースル。」
「いつも通り話しかけるのも憚られるような……お前、行儀がいいね。」
「お屋敷に来て、緊張していますもの。」
 彼女が歩き回るのを目で追っているうちに、彼は錯覚してきた。
「あの……お側、お許し願えますか?」
「シーク、どうしたの?」
「うん……今夜は月が美しいですね。」
「ええ……」
 アデレードにも、二人の時はこうまで丁寧な話し方はしないのだが、可笑しなことにいつも通りに話しかけられない。
「あの……最近、お暮しはいかがですか?」
「ずいぶん楽をさせてもらっています。」
「それは重畳。」
「何か、ご様子が変。」
「そうでしょうか?」
「ええ。」
「緊張しているのです。」
「何で、そんなに丁寧な話し方なさるの?」
 彼女は当惑している。
「お姫さまだからです。」
「いつものリースルですけど?」
 一気にいつもの“俺”“お前”に戻れない。
「それはそうなのですが、もう止められなくて。」
「なら、もう脱ぎます。」
 彼女はどんどん脱ぎ始めた。
「ええっ! もう脱いでしまうの?」
「だって……シーク、変なんだもん。」
「変ですか?」
「ほら、また。高貴の方にはそれでいいんでしょうけど、私にはいつものシークでいいのに。」
「はあ……ああ、本当に脱いでしまうの?」
「ええ。」
「気に入らなかった?」
「ううん。これは素敵だけれど、シークがおかしい。」
「ごめんね。」
 彼はもっと見たかったが、見てはいけない気もした。黙って、彼女の脱いでいるのを見守った。
「これ……持って帰れない……」
「置いていけばいいよ。また今度、着て見せて。それまでには慣れておくよ。」
「はあい。」
 彼は畳まれた衣装を苦しげに一瞥した。側には、いつもの毛織の草原の衣装を着た恋人がいる。微笑みかけると、笑顔が返ってきた。

 やがて、リースルが帰り支度を始めた。
「あれ、帰っちゃうの?」
「一緒にいたいけど……」
「なら、今晩はここに泊まったらいい。あっちで一緒に寝よう。」
 トゥーリが寝室を指すと、彼女はとんでもないという顔をした。
「あそこの寝台は……奥さましか上がってはならんでしょう。」
 彼は、またかと寂しくなった。寝台に上がったら、そんな遠慮がひとつ無くなると思いたかった。
「まだ奥方はいない。構わない。誰も文句を言わない。」
「それにしても、私みたいな者は上がれません。」
「上がってよろしい。」
「でも……」
「もう遅いし。ラザックシュタールの城門が閉じる刻限だよ。」
「ちょっとだけ、お勝手門を開けてもらって……」
 実に頑固な娘である。
「ラザックのところまで帰るのは危ないな。」
「はあ……」
 彼は彼女を胸元に抱き寄せた。
「それにしても……お前は本当に小さいね。俺の胸までしかない。それに細いし。腕の中に納まって余りある。しっかり食べているのか?」
「ちゃんと食べています。」
「そういう性質なのかな? ラザックの女は割と大柄なのに、南から来た母親の血なのか? ……小さくて可愛いな。」
 彼は、金茶の髪と鉄色の瞳をした堂々たる体躯のヤールを思い浮かべて、自分の目の前の小さな女と比べた。
(……本当に、ヤールが父親なのか……? 母親のもてなした、何れかのまろうどの種ではないのだろうか?)
 そのまろうどは、アデレードの母親の故国の人間だろうかと思いついた。その思いに、また罪悪感が湧いた。
 しかし、誰が父親であっても別段意味はないと、おかしな詮索の気持ちを振り切った。

 頑固なリースルが、やっと寝台に上がった。
「小柄だと困ることもあるの。周りが皆さん大柄で、見上げながら話しするから。始終上を向いて、首が疲れちゃう。」
「小さいと小さいなりに大変なんだな。……あら、もう眠いのか?」
 彼女は目元を擦り、眠気眼を向けた。
「だって……ふかふかして気持ちいいんだもの。眠くなっちゃう。」
「ええ? もう少し起きていようよ。まだそんな時間でもないのに。」
「はあ……そういうわけで、小さいと手の届かないことも多いし、本当に不便です。大きいひとはいいなあ。何も不便がないでしょう?」
「そうでもないな。お前の言うように、人を見上げながら話すこともないし、高いところにも手が届く。」
「でしょう?」
「でも、悩むこともある。」
「例えばどんな?」
「例えば……こうすると、お前のことを押し潰しそうで。」
 彼はふざけて彼女の上に跨った。彼女は彼の胸を押し
「いやん。そんなこと今日はだめです。眠るだけ。」
と笑った。
「いいじゃない。」
「このお褥でそういうことしていいのは、奥さまだけ。」
 彼女はそう言ったが、目が潤んでいた。
「今日はお前が奥方だよ。」
「もう!」
 二人でけらけら笑っては戯れた。

 若いだけあって、心身共に馴染むのも早い。初めはぎこちなかった二人も、しっくりいくようになった。
 トゥーリは一抹のやましさを感じていたが、リースル自身に愛おしさ感じ始めた。
 二人は、ヤールとの取り決め通り、週二回をきっちり守って交際した。
 ソラヤは、息子の予想外の貞潔さに感心した。いつまで続くことやらと否定してみても、相変わらず他所見をしない。訝しく思えた。
 彼女は、息子の恋人を見たいと思い始めた。もともと行動派である。思い立ったら即行動。ラザックの宿営地に出かけた。

「ヤール、久しいの。つまらん挨拶はいらん。シークの外室が見たいのだ。連れて参れ。」
「お会いになるのですか?」
 ヤールがうっそりと訊く。気位の高いソラヤにリースルを会わせるのには、一抹の不安があるのだ。
「耳が遠くなったか? そうだよ。最近のアナトゥールは、すっかり落ち着いている。それほど入れ込んだ女子は、どんな娘か気になるのだ。さぞかし麗人であろう。あれが手をつけたのは、麗人揃いであったからな。」
「そういう女とは違いますな。」
「見苦しいのか? まあ、よろしい。つべこべ申さずに、早く見せろ。」
 それらしいことを言って誤魔化すことなど出来ない。ヤールはありていに話した。
「卑しい身分なので、ご後室さまの前に出すのは憚られます。」
「卑しいって、どれくらい?」
「婢です。」
「何だと!」
 予想通り、ソラヤの表情が厳しくなった。ヤールは淡々と事実を述べた。
「ご後室さまはお気に召さんでしょうが、シークがお選びになりました。我々としては申し上げることがありません。」
「息子には好きな女を選べと申したゆえ、私が気に入っても気に入らんでも、文句を言う筋合いにはない。連れてこい。」
 実に憮然とした言い様だった。
「承知いたしました。」

 しばらくして、ヤールの奥方に連れられたリースルが入って来た。
 彼女は、ソラヤは気位高く厳しいと聞かされており、縮こまっていた。
 その小柄ななりを余計に小さくしているリースルを見て、ソラヤは驚いた。
(ありゃ、アナトゥールは趣味を変えたのか?)
 そう思いながら、上から下までじろじろ見た。手をつけた伽の女とは、明らかに違って見えた。
 小さい。ソラヤには一人前の女に見えなかった。
「奥方。まだ子供ではないか?」
 ソラヤは眉をひそめた。すると、奥方が、更に驚くべきことを答えた。
「小さいなりですけど、シークと同い歳です。」
「え……? 娘よ。お前、しっかり食べているの?」
「はい。」
「婢と聞いたが、お前は何をしているのか?」
「奥さまの幕屋のお世話をしています。」
 ソラヤの強い眼差しと口調に、リースルは消え入りそうな声になった。
「幕屋の世話とは?」
 気の短いソラヤの矢継ぎ早の質問に、奥方が見かねて口を挟んだ。
「私の側で、裁縫など教えています。シークのお目に留まった時は、下働きをさせていたのですが、辛そうだから止めさせろと仰るので。」
「下働き? そりゃそうだわ。シークの外室が下働きなど……それでなくとも、こんな小さいなりして無理だわ。」
 さすがにソラヤも呆れていた。
「小さいなりですけれど、よく働くのです。まあ、あまり気の付く方ではありませんが、言ったことはきっちり怠けず。重宝していましたの。」
「真面目なのはわかった。しかし、婢の身でシークの寵を得るとは……ああ言うた手前、仕方ないが。娘よ。お前、畏れ多いとは思わんのか?」
 つけつけと言われて、リースルはますます縮こまった。
「申し訳ございません……」
「婢とは……。ラザックの貴族とは言わんまでも、せめて自由民であったらと思う。」
「あの……多くは望んでおりません。お側を許されても、私がヤールの持ち物であることは変わりませんので。」
「そう思ったがよろしい。いずれ、しかるべき妻を迎えるまでのことと心得よ。」
「はい……しばらくだけでも、お側に侍ることができれば幸せです。」
 それは、リースルの本心だった。
 ソラヤがどう思ったのか、奥方は冷や冷やしながら次の言葉を待った。
「よろしい。しかし、この娘のどこが気に入ったのかねえ。今までの手つきは皆、男好きする美形揃いだったのに。」
 リースルに大満足ではないが、認める気にはなったらしいと、奥方は一先ず安堵した。
「さあ……どこかで見かけなさったようで、決めていらしたようでしたよ。」
「ますますもってわからん。ところで、お前ら、どういう交際をしているのか?」
 また厳しい目がリースルに向かった。
「どうといって……」
「三日に一度、朝も早くから嬉しそうに出ていくようだが、お前のところへ行っているのであろう?」
「はい。」
「何している?」
「はい……ラザックシュタールの囲い地のこっち側の、秦皮の丘でお会いして、日がな一日のんびりとお話などします。この前は、ラディーンのところで聞いた歌をうたってくださった。とても上手でいらした。で、お弁当を食べて、お昼からはお馬に乗せていただいて草原に出ました。それから、日が暮れたら宿営地に帰って……」
 おどおどしながらも意外にもはっきり答えるのに、ソラヤは驚いた。しかし、はっきりと答える者はソラヤの好みであった。少し矛先が緩んだ。
「後は想像がつくゆえよろしい。話すことがようあるな。しょちゅう会っているのに。私の殿など……いやいや、仲が良くて結構。そういえば、シークはやがて上京する。お前は寂しくなるな。」
「ええ。でも、お裁縫覚えるのが大変だから、寂しがってもいられません。私、不器用なので。」
「裁縫か。いらいらするな。私も苦手なのだ。」
「ご後室さまもお裁縫なさいますの?」
「冬場の暇つぶしに刺繍などするが、完成した例がない。私はああいう細々したことは好まぬのだ。一人でちくちくと……気が沈む。」
「はあ……」
「何ならお前、シークが上京したら屋敷に上がるか? 私の刺繍の相手くらいにはなるだろう。」
 ソラヤは、好ましい相手には敷居が低くなる。婢であることは、すっかり許していた。
「でも……卑しい身分で、気が引けます。」
「ご後室さまのお相手が務まるような娘ではありませんので……。お許しあれ。」
 ソラヤは少し残念そうにしたが、無理強いする性質ではない。
「そうか。もう下がってよいぞ。」
「リースル、ご挨拶しなさい。」
「ご後室さま、失礼いたします。」
 リースルが出て行った。

 ソラヤは後ろ姿をじろじろ眺めていたが、奥方に向き直ると
「奥方。あの娘、悪くないではないか。大人しくて行儀がよい。」
と微笑んだ。
「緊張していたのです。気が小さい子だから。」
「なりも小さいが、気も小さいか。でも、受け答えはしっかりしておった。仕込み甲斐がありそう。アナトゥールが上京したら、屋敷へ召し出したい。」
「うちの婢が、お屋敷で奉公するのですか? 畏れ多いです。」
「いずれ子供でもできたらと考えると、今からそれなりに仕込んでおかねばならん。」
「ええ……」
 奥方のぼんやりした応えに、ソラヤは色めきたった。
「そういう兆しがあるのか?」
「ないです。」
 ソラヤは期待した分、がっかりした。
「つまらん。私は赤子が欲しいのだ。近頃は、息子どもも可愛げがなくていかん。アナトゥールは悪さばかりする。ヴィーリは私とあまり話をせぬようになった。ミアイルは、まあ……あれはまだ子供ゆえ……でも、黙ってぷいっと遊びに出てしまう。三人とも私を蔑ろにしておる。」
 言葉はきついが、何やら寂しそうな表情だった。
「あれあれ……ご後室さまも、割と当たり前のことにお悩みなのですね。男の子のそういう時期ですわ。うちの息子もそうです。」
「そうなのか? 全く……どなたさまのおかげで息をしていると思っているのかねえ。特にアナトゥールは、私の顔を見るとあからさまに嫌な顔をするのだ。そのくせ口調は慇懃なんだから、嫌味でしかない。この前の一件でやり込めたときは、愉快であった。必死になって泣きを入れた。」
 ソラヤがにやりと笑うと、奥方もふき出した。
「二室もそんなことを申しておりました。あの晩、慌てて逃げて行ったと。あんなに速く走るラザックは見たことがないと。」
 ソラヤは大口を開けて笑った後、ひどく真面目な顔をして奥方に尋ねた。
「それも見たかった。で、赤ん坊だよ。あの娘、小さいなりだが、血の道は大丈夫なの?」
「と思いますけれど……。いつも元気で、障りの時も普段通り働きます。」
「そう……うちの子、しっかりすることはしているのかね?」
「さあ、そこまではいくら何でも……あれでしょう? 聞き耳を立てるわけにもいかん。」
「そうだな。何かしら一抹の不安がある。ほれ、あの大きな図体のうちの子が、あんな小柄な娘とどうしているのかと……」
 ソラヤは慌てて口をつぐんだ。男女の色恋について話すのは非常に厭わしいのだが、気になって思わず訊いてしまったのだ。
「そのうちいいお知らせがあるかもしれません。仲がいいのは本当。」
「もっと仲良くしなければならん。やがて都行きだ。」
「そればかりは神さまの思し召し。」
「そうだね……。長居したね。もうそろそろ屋敷に戻らねば、アナトゥールにばれてしまう。」
「内緒のお越しですか?」
「そう。話すと、何かと阻もうとするからな。」
 ソラヤは来た時と同じように、慌ただしくラザックシュタールの方に駆け去った。
 突然現れては、すっと帰ってしまう。高貴な公女だったとは思えない振る舞いであった。
 後ろ姿を見送った奥方は
「まるで、草原の戦士のよう。」
と呟いた。
 草原の最深部のラザックシュタールにいたのが、数日後には都に近いラディーンの村にいる。そうした草原の戦士のことを思わせた。
 ソラヤは来るべくして草原へ来たのだと、奥方には思えた。
 
 ソラヤは屋敷に帰ると、早速トゥーリを探した。
 トゥーリは屋敷の表で、書きものをしていた。彼女を認めると、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「何です、母上? 男みたいななりをして。何処かへお出かけですか?」
「帰ってきたのだよ。お前は何をしておった?」
「今日は一日、朝から“ご領主”していましたよ。町方の者に会っていました。真面目にね。」
 彼は早く去れと言わんばかりの顔をして、彼女を見た。
「それはよかった。しっかり仕事してから女のところに行かねばな。馬車馬のように働き、王さまのように遊ぶってやつだ。」
 それを聞いて、彼は溜息をついた。
「しっかり仕事をしているし、決まったところへ行っている。安心でしょうに。で、母上は何処へ出かけていらしたのです?」
 刃向うのも疲れると思っている態度だった。
「ラザックのところへ行って、ほれ例の。」
「例の?」
「小さい婢を見た。」
 彼女は勝ち誇った表情で息子を眺めた。どういう反応を示すかが、楽しみで仕方がない。
「何!」
 息子の顔色が変わった。期待した通りの反応に笑みがこぼれた。
「親しく話などして来たぞ。」
「……高貴な公女さまが、婢とお話なさる?」
 彼の皮肉な言い方を聞いて、彼女は鼻に皺を寄せ
「何なの、その物言い。悪いか? お前だって、尊きシークの身で婢に寵を与えているくせに。」
と同じような皮肉を交えて言い返した。
「私のことはさておき、何のつもりでそんなことなさるのです?」
「お前の恋人を見たかったのだ。どうせお前のことだから、しばらくしたら、またあちこちほっつき歩くと思っていたら、意外にも落ち着いているし。それだけ入れあげているのは、どんな娘かと思った。」
「いらんことを考えないで、屋敷で大人しくしていられないのですか?」
 元気すぎる母親には溜息しか出ない。絶対にして欲しくないことをする。彼は知らず知らずのうちに睨みつけていた。
「私はいつも大人しいではないか。そんな物騒な目で睨むな。」
「リースルに不用意なことをおっしゃったのではないでしょうね? 場合によっては……」
「凄むね。何も意地悪なことは申しておらん。」
「母上とは違う人種なんですから、あなたが普通に話したつもりでも、傷ついたかもしれん。」
「違う人種って何かね? 目が二つ、鼻は一つ、口も一つだぞ?」
 彼女は楽しそうに笑った。彼には癇に障る冗談である。
 言い返しても更に言い返すと知っていたが、今日は黙るわけにはいかない。
「……どんなこと仰ったのです? きついこと仰ったんでしょう。」
「何度も同じことを言わすな。何も厳しいことは申しておらん。お前、母を何だと思っているの?」
「……で、何の用でここにいらしたのですか? 身分卑しき女とは別れろとか?」
「母を信用できんのか?」

 のらりくらりとはぐらかすソラヤに、トゥーリは大声になった。
「俺は別れんぞ!」
 彼女は少しも動じず、薄笑いを浮かべている。
「別れんでもよろしい。別れんでも。私はあの小さい婢が、気に入らんでもないのだ。」
 彼女はそこで言葉を切り、にっと笑った。彼は何を言い出すのかと構えて待った。
「思っていたのとは違うけれど。お前趣味を変えたのか? 大人しくて従順そうで、悪くない。小柄だけど元気そうだし、顔も可愛らしい。」
「昔からそういう趣味です。」
「そうなの? 派手派手しい色っぽいお姉さんが好きなのかと。いやいや、そういうわけで、お前の恋人なかなかよろしい。難を言えば、身分がないことだけだな。だが、女の腹は借り腹という言葉もある。早く息子を作れ。娘でもいいぞ。」
 “借り腹”という言葉に、彼はかちんと来た。行動を管理するような言い方も不愉快である。何より、傍若無人さに呆れ果てた。
「親子でも、心の内は推し量れないものですな。私、母上の思考についていけません。あなたと私、本当に親子ですか?」
 彼女は、息子が何を思っているかなど、一向に構わない様子だ。
「それは、まずもって間違いないよ。お前のこと、生んだ覚えあるもの。もとい、何がついていけないの?」
「もういいです。」
「おかしな子。はっきり申せ。」
「いいです。母上との間に、深い淵が横たわっているのが解っただけです。」
 空気を読めない、空気を読まない彼女には何を言っても無駄だと、彼は何度目かの諦めを決め込んだ。
「わけのわからんことを申すな。早く子供作れ。もうあまり時間がない。」
「時間?」
「お前、もうすぐ上京する。」
「そうですね。でも、半年すれば戻ってきますよ。」
「半年後の仕込みでは、生まれるのは再来年ではないか。待てんのだ。」
「待てんといっても……再来年でも、母上は間違いなくご存命でしょう。」
(殺しても死なんぞ!)
 彼はそう言いたかったが、さすがに黙っておいた。
「当たり前だよ。母は赤子が欲しいのだ。」
「ご自分でお産みになったら? ……冗談です。一人で赤子は作れませんな、そう言えば。」
 この皮肉は通じたらしく、母は眦を上げた。
「そうだよ! だから早く、あの娘と子供を作れ。」
「“作ろう! ”と意気込まねばなりませんか? 自然と出来るのを待ってはいけないのですか?」
「お前は成績が悪いゆえ、それくらいの気概で臨め。その点、お父さまは優秀であったな。」
 また父親と比べられたと、彼は逆上した。どんな些細なことでも、父親の名前を出されるのは我慢がならなかった。
「どうでもいいわ! いつも母上はそれだ!」
 彼女は怒鳴り返した。
「ぶつくさ申すな! わかったか?」
 彼は瞳をぎらりと光らせた。しかし、言い返そうとして止めた。
「やはり、その調子でリースルにも……」
 彼は心配になり、戸口に向かった。母は嬉しそうに
「ああ、娘のところに行くのか? そうそう。しっかりの。期待しているぞ。」
と言った。
 彼は舌打ちした。リースルには会いたいが、母の期待通りに動くのは癪に障る。
「様子を見て帰ります。」
「泊まってこい。毎日行くのだ。しばらく帰ってこなくてもよろしい。」
「すぐ帰ると申したでしょう? 今日は会う日ではない。」
「遠慮しなくてもいいぞ。」
 母は、息子の背中を押して、追い出した。



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