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 途中、 夏の宿営地 ( ジョスラン )の水場を通りかかった。
 夕方も夕方、もう程なく夜の帳に包まようとしている。帰ってきた羊に女たちが水を飲ませていた。珍しくもない、いつも通りの光景だ。
 トゥーリは投げやりな気持ちで、彼女たちを馬上から眺めた。
(ああいう中から、可愛らしいのを適当に選べ……か。)
 その時、一人の娘に目が留まった。
 彼は驚愕し、一瞬目を逸らした。そして、気を落ち着け、彼女を観察した。
 小柄ななりで一生懸命働いている。鼻の頭が日に焼けて赤くなっていた。元気そうで可愛らしい。淡い金髪が、夕陽の最後の放射に透けた。
 彼女はふっと顔を上げて彼の方を見ると、ちょこんと頭を下げた。
 その矢車菊のような青い瞳が、彼の心を捕えた。 胸がじくんと疼いた。
(あの子……人妻でなければ、よほど嫌でない限り来るんだろうな……)
 そう考えると、途端に気持ちが萎えた。
(どう思って来るのかな? 命令だから? ……トゥーリの前にシークだもんな。もっと、こう……ないのかねえ……)
 どこか寂しかった。だが、その娘を呼ぼうと決めた。

 夕食が済むと、早速ヤールが娘たちを呼んだ。
 話は通っている。彼は、順位の高い血筋の妙齢の美女を選抜していた。
 だが、どの娘も先刻の娘ではない。
「違うのだよ。」
「はあ……お気に召さん?」
「美しい子ばかりだったよ。でも、そういう感じではないんだ。」
「顔より、体つきの女らしいのが良いのですか?」
 ヤールの言葉は、いつもながら即物的だった。
 トゥーリはうんざりしたが、それは草原の男らしいことで、非難することではない。
 ヤールは娘たちに去るように言った。そして、奥方に向かって、淡々と
「奥方。もっと出るところが出て、引っ込むところが引っ込んだ……」
と言い出した。
 トゥーリは慌てて止めた。
「そうではない。そうではない。そういう娘ではないのだ。」
「顔でも、体つきでもない。どういうのがお好み?」
 ヤールは戸惑い、考え込んだ。
「シークの見合いというから、気合を入れていたのに。」
「気合? そんなものは必要ないぞ。」
「で、どうなさる? 結構、好みがうるさいんですなあ。いつもはそうでもないのに。」
「俺が欲しいのは、今日羊の番をしていた中にいるのだ。」
「ああ、先に仰ったらよかったのに。」
 ヤールは羊の番をしていた娘たちを呼んだ。
「シークのお気に召した娘は、この中にいるのですか?」
「あら? おらんな。これだけではないだろう? 人数が少なすぎる。」
「これ以外は、貴族ではないですが……?」
「自由民でも構わん。皆、呼んで。」
「かしこまりました。」

 新たな娘が五・六人入って来た。最後の方に例の娘が入って来た。おどおどしている。彼女は娘たちの後ろに立った。この辺りの大柄な娘たちの陰に、小柄な彼女は隠れてしまった。
 金髪に青い瞳、小柄というのは先に見た通り。より近くで見ると、初見で衝撃を受けたほどアデレードに似ていなかった。
 一回り小柄にして、日焼けをさせ、二・三年町家に預けた感じに思えた。
 彼は微笑ましく思い、やはりこの娘がいいと思った。
「ヤール、あの後ろの方にいる娘だよ。」
 彼が指さすと、ヤールは頭を傾げて探した。
「どれどれ……あの頭だけ見えている娘?」
 トゥーリが頷くと、ヤールの表情が揺れた。
「あれは私の娘ですわ。困ったな。」
「何故? あんたの娘なら好都合ではないの? 人妻か?」
「いいえ。娘といっても、そうではないかもしれん娘ですわ。」
「誰の子?」
「母親が婢なんですよ。美しかったから、旅人をもてなすのに使っていました。私も、一人寝の寂しさを紛らわすのに呼んだ。」
 都などでは絶対に言い出せないようなことだが、この草原の男はあっさりと言う。
「なるほどね。」
「私の娘だとは思うのですが、母親もそう申したし。劣り腹なので、認知しておりません。」
 婢の産んだ子は、父親が認知しなければ、奴婢の身分である。
「なら、あの子は婢か?」
「そうです。ですから、シークのお側に差し上げるのはちょっと……」
「あの娘が気に入ったのだ。」
 ヤールは難色を示した。
「身分卑しき者に寵をお与えになるのは……せめて、自由民の娘になさったら?」
「あの娘以外はいらん。」
 ヤールは渋々承知した。

 思った娘を選べたのはいいが、トゥーリは気掛かりになった。
 彼女はどう思っているのか。好きな男がいたのではないか。誰かと泣く泣く引き裂かれて来るのではないか。
 もしそうならば、可哀想だと思った。
 彼は同衾する段になって、娘に尋ねた。
「あの……お前ほど美しかったら、言い寄る男もいたろう? 誰か言い交した相手はいないのか?」
「私はちっとも美しくない。陽に焼けて真っ黒でしょう? 格好もみすぼらしいし。」
 そう言って、娘はスカートの皺を撫でつけた。
 色白は美女の第一条件だった。
 そうではない娘の為に、主は精一杯飾りたてたのだろう。糊の利いたブラウスと、美しい刺繍を施したスカートを身に着けていたが、もじもじと服の裾ばかりを弄っている。
 痩せた手ががさがさに荒れているのに気づいて、彼は目を逸らした。
「それに、私は奥さまのところで下働きをしているから。」
「下働き?」
「はい。奥さまやお嬢さまのお世話は、もっと気の利いた人がするの。私は家畜を見たり、おさんどんを手伝ったり、そういうことをするようにって、ヤールに決められています。」
 彼女は、とてもきっちりと答える。彼は、どうにもやりにくかった。
「そう。小さいなりして、辛くないの?」
「いいえ。私はヤールの持ち物だから、ご決定には従わねば。」
「決定ね……。ここに来る前、何と言われた?」
「ヤールは……まずこう仰ったの。“お前にシークのお召しがかかった”って。次に渋い顔をして“お前は身分がないゆえ、シークのお側には相応しくない。が、シークがたいそうお前をお気に召したから仕方がない”っておっしゃった。そうして、こうおっしゃった。“寵を得ても、お前は俺の持ち物であるこ とには変わりがない。シークの夫人だと、正式に遇されることはないのだと心得よ。決して驕らず、俺の言ったことを弁えて、今日よりお仕えするように”って。“わかったな”って、念押しなさった。」
 予想はしていたことだが、彼は訊いたことを後悔した。
「……よく全部憶えているね……」
 そう言うと、彼女はこっくり頷いた。
「……婢を一人買ったのかと思うよ。別の話をして。」
「何を申し上げればいいのか……」
 彼女はひどく緊張している様子で、相変わらずもじもじとしている。
「歳はいくつ? 父親はヤールなんだろう? 母親はどうしておる?」
「歳はシークと同じです。母は南の方から売られてきた女で。ヤールの目に留まって私を生んだ。でも、私が四つの時に、突然死んでしまいました。」
「そうか。何だか境遇が似ているな。」
 彼女はどう返していいのかわからずに黙った。
「俺のことを話そうか。歳はお前と同じで、父は東方から流れてきた羊飼いの末裔の男だ。公女の目に留まって、俺が生まれた。でも、俺が四つの時に、突然死んでしまったよ。」
 嘲るつもりではなかった。身分にがちがちになっているのが、不愉快だったのだ。
 彼女は驚き、少し声を荒げた。
「婢の私に擬えてはいけません!」
「何故? よく似ているではないか。お前がヤールの決定に従順なように、俺は大公の決定に従う。お前がヤールの奴婢ならば、俺は大公の奴隷だ。」
「いいえ。草原でただ一人の大族長でいらっしゃる。」
 彼は苦笑した。彼女は好んで来たのではないのだと、思い知らされた気がした。
「そうだな。でも、大公の手足。」
 彼が事実だろうと問いかける目を向けると、彼女は哀しそうな顔をした。
「どうしてそんな風に仰るの? 夕方にお見かけしたときは、そんな風ではなかった。……青毛の駿馬に背をすっと伸ばして跨って、私たちの働くのをご覧になっていた。汗だくの私たちと違って、涼しげなご様子で。あなたのところだけ、別な風が吹いているようだった……」
「暑かったけど? 悪かったね。一生懸命働いているのに、暇そうに眺めて。」
「ご機嫌を損ねてしまいましたか。お許しください。」
「別にいいよ。」
 うまい具合に話が進まない。二人とも黙り込んだ。
 トゥーリは、この娘とは相性が悪いのではないかと思い始めた。
 すると、彼女が
「でも……黄昏時に、夜の神さまが下りてきたようで……黒い馬に乗って、黒い髪で……」
と言った。うっとりしている。
 大げさなことを言うと、彼は失笑した。
「お前は詩人だね! 俺のことを言っているのなら、それは褒めすぎだな。」
「そう思ったの。そしたら、誰かが“シークよ”って言って。私はとても残念に思って頭を下げた。」
「何故、残念だと思った?」
「私の幻影の中の夜の神さまなら、私だけのものになると思ったから。私の思った時に天から駆け下りて、私の側で語ってくれると思ったから……」
 何か考えがあって、そう言ったのではなさそうだった。彼は、彼女の素朴な想像が切なかった。
「……側へおいで。」
 囁くと、素直に側へ来た。
「お前、固い手をしているね。」
「重たい物を持つし、水仕事もあるから……」
「そんなことはもうしなくていい。」
「でも、仕事をしないと。」
「俺の恋人だもの。ね、名前は何ていうの?」
「リースル。」
「白い手のリースル。ご覧よ。今晩は月が隠れている。」
「ええ。」
「駆け下りてきたよ。お前の側に。」
 見つめ返す青い瞳は、彼にまたアデレードを思い起こさせた。異様な昂りを感じた。

 翌朝、トゥーリは早くに目が覚めた。
 射し込む朝陽にリースルの寝顔を見て、やはりアデレードに似ていると思った。それとは別なことも思い当たった。苦い思い出だった。
(勝手なことを……愚かしいことをしてしまった……)
 彼女がようやく目を覚まし、彼に微笑みかけた。青い瞳に、確かに好意が宿っていた。それは嬉しかった。
「おはよう。」
 彼女は、はにかんだ笑顔で
「おはようございます。」
と応えた。
 自己嫌悪と喜びが、彼の心の中を行ったり来たりしていた。ただただ、彼女を大切にしようと思った。自分がかつて思い味わった辛苦をこの娘に与えてはいけない。
 そんなことを考えていると、彼女が身支度して出て行こうとした。
「こんなに早くから、どこへ行くの?」
「奥さまのところです。おさんどんをするの。」
「そんなことはしなくてもいいって。言ったろう?」
「だって、ヤールが仰ったから。ヤールの婢には変わりがないって。」
 実に真面目なことだ。
「今日くらいはいいよ。俺が後で言っておく。」
「そんなわけにはいきません。言われたことは守らないと。失礼します。」
 彼女は彼の手を振り切り、さっさと出て行った。
 残された彼は、見かけによらず頑固な娘だと呆れた。ヤールの言うことは聞けても、シークの言うことを聞けないとは、ヤールは娘を脅かしすぎたようだと苦笑した。

 朝食の席。ヤールは渋い顔で
「うちの婢、どうなさるのです?」
とぼそりと尋ねた。
「どうもこうも、このまま側に置く。」
「お気に召したようで……」
「お気に召したよ。やはりあの娘だ。」
 ヤールはいいことだとは思っていなかったが、異論を唱えることは控えた。
「はあ……」
「あまりきつい仕事を命じるな。小さいなりをして憐れだ。」
 トゥーリがそう言うと、ヤールは控えめに拒んだ。
「はあ……ちょこちょこよく動くので。家畜も懐いているし、妻も当てにしていますから。」
 それならばと、彼はヤールの奥方を口説いた。
「奥方よ。もう少し、何とかならんのか? 陽に焼けて酷いぞ。鼻の頭が剥けていた。手だってがさがさだし。可哀想ではないか。」
「婢ですからねえ。命じたことはしっかりする子なので、ついつい。」
 奥方も困った顔をした。ヤールと同じ気持ちなのだ。
「下働きではなくて、あんたのそばで緞通でも織らせたら?」
「ああ、お気持ちは解りますが、リースルはだめですよ。そんな器用なことはできません。それに一度命じたことは、頑固でね、逆に嫌がります。」
 頑固なところは、昨日今日の仲でも解った。トゥーリが楽な仕事をさせろと命じたと知ったら、頑なになるだろう。
「そうか。……食事の用意とか言っていたな。それは無理にしても、羊の世話は手伝ってやろうかな?」
 奥方が慌てて拒否した。
「それはなりません。」
「何故? あの娘の見ている分が増えたところで困らないよ。俺の群れと一緒に見られる。」
「毎朝、ここまで羊を追って?」
「おかしいか?」
「他になさることもあるでしょうに。」
 ヤールも奥方もあくまで反対だ。だが、引き下がるつもりはない。
「今年は、小競り合いのひとつもないからなあ。のんびり羊を追っていられるよ。」
 ヤールは渋い顔で唸った。
「仕方ない。リースルには奥方の幕屋の内方をさせましょう。」
「その言い様を待っていたぞ。二言無いな?」
「はあ……」
 ヤールも奥方も困った顔をしたままだった。
「ついでに、三日に一度の休みをやれ。」
「婢に……?」
「そうだよ。その日は一日、俺が借り受ける。」
「はあ。」
「気の抜けた返事をするな。わかったのか?」
「かしこまりました。」
「ヤールもいいね?」
「承知いしました。たいそうお気に召されたようで……」
「そうだよ。お前の娘かもしれんのだろう? 喜べ。」
 ヤールは物言いたげにしていたが、もう何も言わなかった。



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