都忘れ
3
一生懸命に駆けたが、屋敷に着いたのは午後の遅い時間だった。トゥーリは息を切らしながら、母親の居間に入った。
母は寛いだ様子で長椅子に座り、彼を見ると微笑んだ。
「おや、アナトゥール。早かったね。どうしたの? そんなに息を切らせて。突っ立っていないで座ったら?」
覚悟していた怒鳴り声がない。むしろ優しげだ。
「はあ……」
「ご飯は?」
「……まだ……」
「碌なもの、食べていないでしょう? 昨日、ヴィーリが愚痴っていました。豪勢な食事を用意させますから、たんと召し上がれ。」
「お心遣いはありがたいのですが……あまり食欲がなくて。」
「空腹が過ぎてわからないのでしょう。料理を見たら、食欲も出ます。」
母は優しいばかりか、ひどく嬉しそうだ。言葉使いすら、いつもの男言葉ではない。丁寧だ。異様な不安感が湧き上がってきた。
「母上、何かご様子が……」
「そうですか? 母はいつも通りですよ?」
そんなわけがない。女を側に寄せただけで叱りつける母である。夜這いをするなど、怒っていないはずがない。
彼は黙って出方を窺った。
「ああ、そうではないかも。この喜ばしき日に、隠しても隠し切れない。この幸せ。」
母は身を抱きしめ、喜びを堪え切れない様子だった。
「喜ばしいって?」
「まあ、よろしい。」
わけがわからず、彼は黙り込んだ。
母はちらりと彼を見て
「そのだらしない髪をまず何とかしなさい。」
と言った。それすら優しげで、窘めるような口調である。
「はい……」
「きっちり下まで編みなさい。面倒がらないで。お父さまは、いつも寸分の乱れもなくいらしたわよ。」
「はい……」
トゥーリは、母親の様子をちらちらと盗み見ながら、髪を編み直した。母は微笑んだまま彼の様子を眺めている。
背中を冷たい汗が伝った。
(あまりの放蕩ぶりに、とうとう頭にきてしまったの?)
そうしているうちに食事が運ばれてきた。手の込んだものだった。
(やはり……ばばあ、変だ!)
彼は確信し、食欲が激しく減退した。だが、食べないわけにはいかない。身構えたまま手を付け始めた。
嬉しそうに母が見つめている。彼は気分が悪くなり、半分以上残した。
「もうよろしいのですか? 食の細い子ねえ。」
「いえ……気分が落ち着かないので。」
「そうですか。牧ではご苦労なさったようですね。」
同情し、労わるような口調だ。
「はい……」
「でも、しっかり結果が出たようで重畳です。」
「はい。」
母はじろりと彼を見た。
「時に……アナトゥールよ。」
とうとう怒り出すかと、彼は身構えた。
「はい……」
「そんな顔をしなくてもよろしい。責めているのではない。お前ももう大人だし……」
母から信じられない言葉が出た。彼は思わず
「えっ! お許しいただけるのですか?」
と聞き返した。
「許すも何も。まあ、少し早すぎるきらいもあるが、ヤールの娘ならば、差し支えないではありませんか?」
母は優しげに言うが、どうも言っていることがおかしい。あの天幕にいたヤールの娘、つまりニャールの異腹の姉は、出産していたのだ。今回の件には関係がない。
「……話が解りませんが?」
「隠さなくても良いではありませんか。それほど気に入ったのなら、母は言うこともない。」
「気に入ったって?」
「気に入ったのでしょう? ヤールの娘。」
「ヤールの娘!」
出産していたヤールの娘に言い寄ったと思っているのかと、彼は驚愕した。
「幕屋の主の妹。今までの女人とはタイプが違うのね。お前は年上が好みなのだと思っていたけれど……。まあ、若い方が仕込み甲斐があると言おうか、馴染むのも早いだろうし、姑としては好ましいわ。」
彼は更に驚いた。
「姑!」
「息子が嫁をもらったら、私は姑ではありませんか? おかしな子ね。」
「嫁!」
「何です? 単語ばかり。在りし日のお父さまと話しているよう……。それは置いて……」
「何で!」
「また……。だから、気に入ったのでしょう? 昨日、お前は切ない歌をうたって、その十三歳の娘を口説こうとしたとか。」
いつもなら叩きまわす母が、ひどく優しかったばかりか、見たこともない娘の話をし出すのに、彼は心底動転した。
「ええっ?」
「母はもう年老いたゆえ、お前の息子でも見ながら余生を過ごしたいのだ。」
(ばばあ、何を誤解してやがる!)
と思ったものの、言葉が出ない。
ニャールの言っていた意味を、彼はやっと理解した。誤解どころか、話は予想外の方向にどんどん進んで、結婚ということになっている。
ラザックの宗族から奥方をもらうのは、何ら不思議ではない。皆が大賛成することだ。このままでは、その見知らぬ十三歳の娘と結婚するはめになる。彼は困り果てた。
まずは、結婚話を勘弁してもらわねばならない。彼は、ぼそぼそと己の悪たれぶりを告白して、泣きを入れた。
全ては明け方に、母がヤールの二室と考えたことだった。あまりに見苦しいことをするから、いつもの説教では済ませられないと思ったのだ。
ニャールは酷いと思ったが、悪さをした手前逆らえなかったのだった。
「そういうわけで……私は、その小さい妹の方が天幕におるのを知らなかったのです。決して彼女に懸想していたわけではないのです。ついつい出来心で、お付きの婦人にですなあ……」
トゥーリ自身も見苦しい言い訳だと思ったが、結婚などまだしたくない。冷や汗をかきながら言い連ねたが、母は涼しい顔で
「なら、そのお付きをもらうか?」
と言った。
「いくら何でも、歳が離れ過ぎです。」
「お姉さま好みだから、良いではないか?」
「そんな……」
彼が必死に抗弁しても、知らぬ顔のままだ。
彼は言葉を失くし、溜息をついた。すると、母がじろりと鋭い目を向けた。
「お前は……いろいろなところで悪さをしているね。」
いつもの調子で怒鳴るのだろうと思うと、今日ばかりは安心すら感じた。
「悪さって?」
「伽など呼ぶな。」
「草原の風習でそうなるだけで……」
「その風習だけは嫌。仕方ないけれど。まあ……お前は一定の好みがあるようで、似たようなのばかりに手を出すね。女なら誰でもいいよりはマシが、一人で寝られんのか?」
母の思うほど頻繁に、女と同衾していない。彼は慌てて否定した。
「そんな! 人を色欲の権化みたいに……。毎度、抱き合っているわけではありません。」
母の顔が不愉快そうに歪み、怒鳴り声が飛んだ。
「淫らなことを申すな! 毎度ではないだと? では、時々は抱き……いや、そうしているのではないか!」
彼は縮み上がった。ほんの少しの言葉のアヤにも反応する。下手な取り繕い方をすれば、ますます怒るだろう。
「たまに来るだけで、ほとんど一人寝ですよ。」
「お父さまは、もっと固かったのだ。」
父親のことは、今思えばそうではなかったのかという幼い頃の記憶があったが、言ってはいけないと思った。
黙っていると、母は変なことを言い出した。
「あちこちでばら蒔いている割には、お前の子供が生まれたとは聞いたことがないな。眺めているだけか? それとも、お前は身体の具合がどこか悪いの?」
「あの……」
「そうかも知れん……」
さすがに彼の我慢も限界である。
「俺は男として真っ当な成長とげておるわ!」
彼の怒声にも、豪胆な母はちらとも動じず
「どうだか。」
と、白々と返した。
「息子の秘め事まで管理しないでください。」
今度は、恥ずかしさと情けなさに消え入るように言ってみたが、これも母には通用しない。
「お前は、続けて通わないから結果が出ないのだ。しっかりせんか。」
「伽に来た女に子供ができたところで、母上は嫌がるだけでしょう。」
「お前が死んでも、血統は繋がる。」
「何てことを言うのだろう……」
「そうではないか。お前があっさり死なぬか、母は心配なのだ。」
「肝に銘じておきます。下手を打たんように。」
「下手してもいいが、息子を作ってからにしろ。母が養育してやる。」
彼は、母の養育法を鑑みた。安心して自分の子を預ける気には、全くなれない。勝手な想像をどんどんしていることにも、呆れ果てる。
「……私、まだ見ぬ己が息子に同情を感じます。……いやいや、そういうわけで嫁の話はなかったことに。」
「お前も素直に泣きを入れたし、今日のところは勘弁してやる。今後はならんぞ。再びこんな情けない話を耳に入れたら、その時は嫁という母よりも厳しい監視人をつけるゆえ。参ったか。」
「はい……」
やっと母の説教が終わったのと、結婚をするなどと早い話を免れたのに安心した。彼は俯いたまま
(俺は、大人しい従順な女を嫁にもらう。ばばあみたいな女、男子一生の不覚だよ。親父の女の趣味、全く解らん。失敗したか? ……親父の轍を踏まん為にも、しっかり女の気性は確かめねばならん。)
と性懲りもなく考えた。
トゥーリは、ちらっと目線を上げて母親の様子を窺った。間の悪いことに、目が合った。
「おい、アナトゥール。今、何を考えておった?」
「今までの己の行状を顧みて、慎まねばと……」
「偽りを申すな。目は口ほどにものを言うのだ。次の悪行の計画を練っていただろう?」
気が抜けた後だった彼は、間違った答えを返した。
「そこまでは、まだ考えていません。」
“そんなことは毛頭考えておりません”と言わねばならなかったのだ。
また母が怒り出した。
「お前は放っておくと、再度悪さをするな。やはり……」
「嗚呼、母上! 私の慈悲深いお母さま。嫁は何卒ご勘弁。」
彼は必死に頼み込んだが、母はじろりと睨み
「お前、割としぶといからなあ。やはりもう一人監視人が要る。」
と言った。
「先程、嫁は勘弁してやると仰った。二言なさる? シーク・ローラントの誇り高きご後室の身で?」
「二言などせぬ。まあ、その若さで妻帯強いるのはなあ……。母は優しいゆえ赦してやる。」
彼は、やっと確約が得られたかと安堵した。
「やはり私の母さま。話が分かる。」
「そう。話が分かるゆえ、決まった女を持て。」
彼はまた驚き
「それって、嫁と同じでは?」
と恐る恐る尋ねた。
母は長い溜息をついた。
「妻帯せよと申しておらん。草原には、外室という考え方があるではないか。それも、私には厭わしいが仕方ない。それを持てと申しておる。」
母にとっては最大の譲歩なのだろうが、管理されるのは沢山だ。
「……嫌だなあ。」
と呟くと、母は
「お前は、女人とまともな愛情関係を構築できんのか! 肉体関係は作れるくせに! それとも……都でつまらん女と仲良くなっているのではあるまいな?」
と大声を出した。
「とんでもない!」
「なら、問題ないではないか。言うことを聞け。」
彼は最後の抵抗に、無駄だと思ったが
「……シークに命令するのですか?」
と言ってみた。
途端に
「愚か者! 都合の悪い時だけ立場を持ち出すな。今は母と息子の会話だよ。この放蕩息子! まだし足りんのか! 本当、しぶといわ。身体に言うことを聞かせねば解らんのか? 頭の悪い息子め!」
と怒声が飛んだ。
彼は言い草にカッとして
「失礼な! わかったわ。」
と大声を返した。
このまま言い争いで終了するのかと彼は思っていたが、母は本気だった。
「二言ないな。……話は通してある。ラザックのところへ行って、好きな娘を選ぶがよい。」
彼は目を丸くした。
「もう? 話をつけてあるの?」
母は当然だと言わんばかりの表情だ。
「母の仕事は機敏なのだ。腰の重いお前と違ってな。早く行け。」
「はあ……選択方法は? 一発決定ですか? お試しはだめ?」
「一発決定で行け。まどろっこしいことならん。」
「でも……」
「お前、お試しを何回繰り返すつもり? ほとぼりが冷めるのを待って、以前の通りの極楽生活するつもりであろうが。」
そこまでは思っていないが、言い返して、話が最初に戻るのも困る。上京するまで、決まった女と寝食を共にしていれば満足するのだろうと、諦めた。
「……選んだ娘にケチをつけないでくださいよ?」
「お前が治まれば、誰でもいいわ。お前の趣味は概ね判っている。どんな娘にするか想像がつくぞ。」
「治まればって……。乱れていないと申したでしょう?」
母は鼻を鳴らし、立ち上がった。
彼は顔を顰め
「趣味が判っているとは……やりにくいわ。」
と小さく呟いた。
母は聞きとめ、もう一声怒鳴ろうとしたが止めた。
「早く行け。」
それだけ言うと、肩を怒らせて出て行った。
トゥーリは、言いつけ通り草原へ出た。
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