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 数日後、最後の夜営をすることになった。適当な場所を探していると、ニャールが風の匂いを嗅ぎながら
「シーク。風の中に……慕わしい香りがします。」
と言い出した。
 トゥーリは、何の気なしに尋ねた。
「そうか? 何の香り?」
「女の体香。甘い匂い。」
 大真面目な顔でニャールが答えた。
 遠くの水の匂いを嗅ぎ分けることができる者の言うことである。間違いないと思った。
「ええっ! そりゃ一大事! 騎乗、騎乗! 風上の方向へ急ぐのだ。 」
 年長の二人は、夜営の支度などそっちのけで駆け出した。ヴィーリは独りにされては敵わないと、仕方なく後を追った。

 程なく、女が三人ばかり、水汲みをしているのを発見した。少し離れたところに三つの天幕がある。
 トゥーリは鞍から伸び上がって眺め
「こんな小さな水場で、あの女たちは何をしているのかな? 家畜も連れないで……」
と訊いた。
「見たところ、ラザックの氏族ですな。何でこんなところで宿営しているのかな? ……今はもっと北東に移動しているはず。」
 ニャールは首を捻った。
「冬場じゃあるまいし。こんなにラザックシュタールの側まで南下しないよね?」
「訳ありって感じですな。見たところ、武装した戦士の姿もほぼない。」
 二人は顔を見合わせた。トゥーリは、ひとつ思い当たった。
「……産屋か?」
「ああ! そうかも。なら、女ばかりでも解る。」
 ニャールが納得したとばかりに大声になった。
「しっ! 女に気づかれる。」
「大丈夫。ほら、何も気づかないで帰って行く。……なかなかよろしいな。ちょっと年増だけど……」
「あんたもそう思う?  でも……」
 トゥーリは、まさか本当に口説くとは思っていなかった。だが、ニャールは本気だった。
「頭数も合っている。……ひとつ夜這いを……」
と言い出した。
 女が三人だというのに頭数が合うとは、ヴィーリも含めて考えているということだ。トゥーリは慌てた。
「ちょっと……ヴィーリの分も入っているのか?」
「当然。」
 ニャールは、当たり前だろうという顔だ。
「ヴィーはまだ小さいしなあ。」
「もう一人前。」
 ニャールの言う通り、草原では大人扱いされる年齢ではあるが、トゥーリはあっさりうんとは言えなかった。考え込んでいると、ヴィーリが口を挟んだ。
「兄さま! さっきから、何なんだよ! ここからラザックシュタールは近いんでしょ? 泊まらないで夜駆けして、早く屋敷に帰ろうよ。美味しいものが食べたいよ。」
 色気より食い気かと、トゥーリは安心した。
「お前、また飯か。牧でもたらふく食っておいて。腹の中に何か飼っているんじゃないか?」
 トゥーリはヴィーリにはそう言い、ニャールには弟を除外するように言った。
「兄弟。ヴィーはならん。我々の乱行を見て、衝撃を受けると可哀想だ。」
「あんた、どんな乱行するつもり? でも、お独りで夜営させるのも……」
 ニャールはもう行くと決めている。
 トゥーリは、この初めての行いに興味あった。少し考えて、好奇心を満足させようと決めた。
「……ヴィー。ラザックシュタールの方角は判るだろ? あっちの南の一つ星を目指して駆ければ、やがて見えてくる。先に帰れ。」
「はあい。でも、兄さまは帰らないで、何をするの?」
 弟にありのままを言うのは気が引けた。
「重要な要件があるのだ。」
「そう。母さまに訊かれたら、そう申し上げればいいんだね?」
(ばばあか……。こいつ、そのまま言うつもりか? 女ばかりの天幕へ重要な用事をしに行った俺……それはいかん!)
 母親には、相変わらず弱いところが残っている。母親に面倒な説教をされるくらいなら、弟を共犯者にする方がいいと彼は考えた。
「ヴィー。帰るな。一緒に来い。」
「何故? 何するの?」
「何でも来るの。俺はニャールと今からあっちの天幕に行って、女と仲良くするのだよ。お前も同行するように。」
 ヴィーリは眉をひそめた。
「俺は女の人と友達になりたいと思わん。」
「友達でなくてさ……。白々しいな! お前、意味解っているくせに惚けるな。いい思いさせてもらうんだよ。」
「どうでもいいよ。俺は腹が減ったんだって。」
「お前ってやつは! 情けなくなるわ。ヴィー、よく聞け。女のところへ行けば、旨いものも食えるんだよ。わからんのか? 屋敷に帰って、母上のつまらん面を見ながら飯食っても、何も面白くないだろ? おまけに、ああだこうだ文句言われてさ。」
 ヴィーリが考え込んでいる。全く興味がないわけではないのだろうと、トゥーリは言い重ねた。
「綺麗な女のところで飯を食わせてもらおうよ。その後、別腹も満足させてもらえるかもしれん。そうだろ、ヴィー?」
 すると、ヴィーリは呆れ顔になり
「兄さまの言うのは解ったよ。でもね、俺は女なんかいらん。大体、あんな年増は嫌。」
と言った。
「馬鹿か、お前。小娘より年増だよ。飯も食えるんだ。同じ夜泊まりなら、女と一緒にフレイヤの夢を見る方がいい。」
 兄は切々と大真面目に説得した。その無茶な説に負けたか、気迫に負けたのか、弟は兄に従った。

 ヴィーリは勿論、トゥーリもさすがに夜這いの経験はない。
 彼らのような遊牧民は誇り高い。こっそり忍び込んで、いきなり押さえつけるというわけにはいかない。どうするのかと問うと、女の天幕の側まで行って歌をうたうのだと、ニャールは答えた。
 夜闇に包まれるのを待って、三人は天幕に忍び寄った。
 天幕に近づくにつれ、ニャールは疑念にかられた。嫌な疑念である。そして確信した。
「シーク。これは、俺の異腹の姉の幕屋です。そういや、子供が生まれるって聞いていた。」
「そう。思い出すのが遅いよ。ここまで来て、諦めるのは無しだ。勝手知ったる自分の家のようなものだ。好都合とも言える。口説くのは、あんたの姉妹ではなく、そのお付きだろ?」
 ニャールもあまり深く考えていない。
「……そりゃ、そうですな。なら、どうぞ。」
と言った。
「ほら、お前の背負っているリュートを貸せ。……その為に持っているのか?」
「何時、何があるかわからないからね。」

 トゥーリはリュートを抱えて天幕の側に寄り、幕屋の張り縄を軽く引っ張った。そして、幕屋の皮布に背中を付けて座り込み、一世一代の大勝負の気概で、内部を窺いながら歌い始めた。
 中の女たちは何か話をしている様子だったが、誰かがすぐ外にいると気づいたらしく、黙り込んだ。やがて、推量する様子がありありと伝わってきた。
「あれ、男が来たわ。」
「本当。嫌あねぇ。歌っているわ。」
「まだ若そう。」
「何処で見られたのかしら?」
という具合だ。
 トゥーリは、期待で胸がいっぱいだった。
(こんなにわくわくするのは初めて。早く招き入れて。)
 突然、女たちがぱったり静かになった。
 歌い終わると、ニャールが駆け寄って、実に嬉しそうに囁いた。
「あんた、上出来よ。入り口どころか、すぐ脚まで開いてくれる。」
 悪童二人とヴィーリは、女たちが招き入れてくれるものと信じ切って待った。
 ところが、出てきたのは、恐ろしい剣幕のヤールの奥方だった。
 驚いた三人は、慌てて駆け去った。

 三人はこれからどうするか相談をした。
 トゥーリは、今更夜行して屋敷へ帰るつもりなどさらさらない。
 ヴィーリは、帰りたい一心だ。
 ニャールは、困ったことになったと頭を抱えていた。
「シークよ。今の行いはあんただって、ばれております。」
「そうかもな。」
「産屋に夜這いをかけるなんて……。二室が黙っていないです。」
「誤魔化すか? 逃げるか……?」
「そうですなあ……」
 二人は、誤魔化すか逃げるかの二択で迷った。ヴィーリは、気の進まないままについて行っただけの身だ。気が軽い。
「兄さま、早く帰ろうよ。さっき言ったでしょ? 帰っていたらよかったんだよ。」
 弟の正論に、兄は憎まれ口しか出ない。
「お前は、屋敷ばかり恋しがるね。母上にまだ甘えているのか?」
「甘えるなんて……。ミアイル じゃあるまいし。ちゃんとした食事をして、お風呂に入って、お褥で眠りたいんだよ。」
「誇り高きラザックの一員とは思えん言い草だな。お前、ラザックのところで天幕暮らしできんのか?」
「ええっ? まだ野営するつもりなの? 別に嫌じゃないけど、もう兄さまたちのお供はごめんだよ。こんなみっともないことになるんだから。」
 また正論である。
「お前だって共犯だ。帰ったら……まあ、明日には今の行いが母上の耳に入る。こっぽり叱られるぞ。俺はともかく、お前まで年増に夜這いかけたと知ったら……。頭から湯気を立ててお怒りになる。知らんよ? 狼鞭で強かに打たれる。」
 兄が脅すと、弟は俯いて考え込んだ。
「痛いぞ? 女の子みたいな悲鳴を挙げてしまう。」
 弟は唸った。兄は
「それより、ほとぼりが冷めるまで、近くの別の氏族のところに居よう?」
と畳みかけた。
 しかし、弟は顔を上げてきっぱりと言った。
「嫌だ。ちゃんと説明したら母さまだって……解ってくれるもの。帰る。」
 兄は、いい子になろうとする弟に舌打ちした。自分もそうすればいいのだが、どうも母親にすり寄る気がしない。
「話の解らんお人だよ。知らんぞ。ぴしっぴしっと……」
「帰る。」
「逃げた方がいいって。」
「じゃあ、兄さま一人で逃げたら?」
 ヴィーリは誘惑に乗らないばかりか、非難がましい目を向けている。
 トゥーリは苛立たしい思いで説得を止めた。
「なら、お前帰れ。俺は逃げる。」

 すると、考え込んでいたニャールが、信じられないことを言い出した。
「俺は帰って説明する。」
「ニャール……ニャールよ。お前、今の二室の剣幕、見たろう?」
 ニャールは身震いした。
「うん……」
「雌狼、斬りつけそうだったぞ?」
「本当に……ああ、怖い。でも、一応の事情を話さんことには……」
「話すほどの事情はない。話したら余計に……火に油を注ぐ結果しか招かん。」
「そうですなあ。でも、知恵絞って、うまいこと誤魔化す手を考えて。シークだけでなく、俺の為にも。」
 ニャールは渋い顔で、トゥーリを見つめた。
 トゥーリは虚勢を張った。
「別に俺は構わんぞ。若い男なら誰にでもある。たかが女のことだ。」
「あんな年増のところにご案内したなどと責められるのは辛い。しかも姉の産屋……やはり、釈明に戻ります。」
 トゥーリは、自分だけ逃げるのは卑怯だと思ったが、ニャールと雁首並べて叱られるのもみっともない。
「お前は勇気があるね。そうまで言うのなら止めない。」
「勇気と言おうか……」
「俺は逃げるよ。」
 ニャールは悩ましい顔をしたが、何も言わず、溜息ばかりついた。

 三人はばらけて、別行動に移った。
 一人危うきから逃げたトゥーリは、夜中になってやっと小さな宿営地を見つけた。
 しばらく母親に見つからないで済むだろうと高をくくって、昼飯をご馳走になっていると、ニャールが訪ねてきた。
「おう、兄弟。俺の居場所、ようわかったものだな。」
「一応ヤールの息子。どの家族が何処で宿営しているか、ある程度はね。……朝から、小さいところを当たっていたんだ。」
「そう。早めに見つかってよかったな。で、何の用?」
「それが……」
「どうした?」
 言い淀んでいたニャールが突然、トゥーリの足許にひれ伏した。
「お許しあれ! 俺の説明が悪くて……。二室はたいへんな誤解をしてしまったのです。」
「何? あんた……。尻に焼き鏝でも?」
「その方がどれだけマシかわからん。夜も明けぬうちから、二室につかまれて、ご後室さまにお目通りさせられたのです。」
 “後室”という単語に、トゥーリは飛び上るほど驚いた。声が自然と低くなった。
「……おふくろ、何て?」
「ご書状をお預かりしました。ご覧あれ。」
「俺は帰らんぞ。」
 虚勢を張ってみたものの、動揺していた。
 トゥーリは渡された手紙を開け、すぐに閉じた。
 おそろしく大きな字で、短くも雄弁な文句が書かれていたのだ。
“アナトゥール、早く帰ってこんか! 母。”
 紙一杯に、筆圧も相当なものだった。殴り書きだ。
 直ちに帰らねば焼き鏝だと血の気が引いた。



註   フレイヤ:愛の神


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