都忘れ
1
草原は平穏、ラザックシュタールの街もうまく治まっている。命じられるとおりに義務を果たし、行儀もよい。トゥーリは、大公の覚えめでたき貴公子だった。
しかし、大っぴらに浮名を流すことが無かっただけで、他の若い貴族たちと同じような行いをしていた。
親密であっても、真剣な交際を考える相手はいない。女に対する点が辛く、女をどうしても信用できなかったのだ。
草原に帰れば、ラザックもラディーンも、彼に伽を遣った。依然として好きではない風習であったが、時々同衾した。
彼の母はそれが気に入らない。二百四十三氏族全部に女ができるのではないかと思うと、怖気に震えた。絶対に阻止したいと思った。
また、大きな図体の息子が、目の前をうろうろするのも嵩高かった。
「アナトゥール。お前、あっちこっちで悪さをしておるが、ちっとは働かんか。」
ソラヤの言葉には、いつも棘がある。トゥーリはムッとしたが、挑戦的な言い方をすると、いらぬ騒ぎになるのは、もうよく知っている。
「しっかり経営に携わっております。ご覧あれ。街も草原も滞りない。」
そんなことは、彼女も百も承知である。彼女は、呆れた表情を作り
「そんなことを申しておるのと違うわ。厩舎を見たか?」
と言った。
「毎日見ています。」
「見ているだけではならん。お前、頭を働かさんか。飾りか、その頭は。」
「失礼な。」
彼は、また母親の小言が始まったとうんざりした。
「亡き父上の持ち馬をみすみす潰す気か?」
「血統は残しています。」
「気高きラディーンの駿馬。あれも老いたゆえ、せめてもう一頭血統を残したいのだ。」
「あれの息子も娘もいっぱいいますが?」
「つべこべ申すな。あれは名馬ゆえ、子供を何頭残しても惜しいのだ。お前が連れて行って繁殖させよ。」
「はあ。」
「気の抜けた返事をするな。早く発て。上手く行くまで帰ってくるな。」
(面倒くせえ……)
彼は心の中で舌打ちしたが、うるさい母親の顔を見ているより、牧にいる方がずっといいと思いついた。
「かしこまりました。」
彼はさっさと荷物まとめた。
出がけに、上の弟のヴィーリが顔を出した。
「兄さま、どこへお出かけになるのです?」
「父さまの馬の種付け。牧へ行くんだよ。」
「俺は牧に行ったことがない。一緒に行きたいなあ。」
トゥーリは連れて行くのは構わないと思ったが、ヴィーリの身体が丈夫ではないのが気掛りだった。
「体調はいいのか?」
「万全!」
トゥーリは弟の様子を観察した。血色もいいし、声の張りもあった。元気そうだと判断した。
「なら、用意して来い。」
二人はラザックの宿営地に寄り、歳の近い乳兄弟のニャールを誘って三人になった。
ヴィーリも、実のところ厳しい母親から逃げたかっただけらしく、三人とも自由の喜びを満喫した。
数日後、牧へ到着した。
牧には牝馬が沢山いる。若い三人は楽な仕事だと思った。すぐに解放されるだろう。
遊ぶ前に仕事だ。
牧人と相談の末、血統正しい牝馬を選んだ。
早速、連れてきた牡馬を寄せてみたが、牝馬はひどく警戒した。
少し落胆したが
「この娘、まだフケがきていないんだな。」
と簡単に考えて、その日は諦めた。
三人は自炊生活を始めた。うるさい年寄りはおらず、楽しくてしかたがない。
やがて、牝馬に発情の兆しが見えた。
連れ出した父の馬は鼻をひくつかせ、いきなり後ろ脚で立ち上がった。興奮しているようだ。トゥーリとニャールは、やる気満々だと期待した。
ところが、牡馬は遁走した。
二人は慌てて追いかけて、やっとのことで捕まえた。
「じじいのくせに、くそ速え! さすがと言おうか……。気をつけないと。また逃げられたら、難儀する。」
二人はしっかりと引き綱をつかんで、牝馬の許へ引き出した。
しかし、微動だにしない。
二人とも痺れを切らした。
「早く……遠慮しなくてもいいんだよ。」
「そうそう……どうしたの?」
ニャールが牡馬の腹を覗きこんだ。
「あれっ! この大将……だめみたい。」
トゥーリも覗きこんだ。
「……本当だ。今日は、その気になれないのかな? さっき逃げたし。動揺しているのかな?」
「仕方ないですね。雌もちょっと早いみたいだし。」
「まあ……今日は諦めるか。」
ニャールも苦笑して、頷いた。
「お前、気持ちを落ち着けて、今度はしっかり、一発決めてね。」
そう声掛けしたものの、二人ともがっかりしていた。
翌日も試みたが、牡馬はそっぽを向いたまま、言うことを聞かない。
「逃げないだけマシだけど……他の嫁さんにしますか?」
「一応、牧人推薦の雌だからなあ。今日も諦めるか。」
「仕方ないなあ。」
「お前、辛抱して。明日は頼むよ。」
更に翌日。
父の馬は引き出されると、いきなり大暴れした。皆を振り切り、さっと柵を飛び越えると、草を食んでいたトゥーリの乗馬に走り寄った。そして、あれよあれよという間に交尾を始めた。
トゥーリとニャールは、静かな怒りを感じながら、一部始終を見届けた。
特にトゥーリは怒り心頭だ。
(親父の馬だと思って、下手に出りゃあ……。誰があいつとやれと言った!)
しかし、抑えて
「あらら、あの大将、年増好みなんだな。本人も年寄りだから仕方ないのかな?」
と苦笑した。
ニャールも怒りを感じていたが、苦笑いした。
「そりゃあ、若い方がいいでしょうに。」
「そうかなあ。でも、俺の馬が孕んだらどうしよう。」
「神さまの思し召し。ここに置いて、別なのに乗って帰るしかないですな。」
馬は駆け戻り、トゥーリの肩を鼻先でつついた。言うことを聞かないくせに、終わったら懐いてくるのが、また腹立たしい。
「……いいんだよ。お前のような駿馬の種が宿ったなら、こんな喜びはないよ。でも、今度は若い嫁さんを喜ばせてやって。」
そう言うしかなかった。
毎日、肩を落として戻る二人とは対照的に、弟のヴィーリは伸び伸びとしている。遠乗りの何のと自由を満喫して、気分爽快な様子だ。
最初のうちはよかったが、二人は段々と苛立たしく思えてきた。
乳兄弟のニャールにとっては、主君の弟君だ。堪えて、何も言わない。
しかし、トゥーリはそうはいかない。兄の立場であるからと、何とか気持ちを抑えていた。
「ヴィー。楽しそうだね。今日は何をしていた?」
兄は、訊かなくてもいいことを訊いた。
弟は正直に、何処其処に出かけて、景色が美しかっただの、何だのと楽しそうに答えた。
それを聞いた兄は、己の有様が殊更に惨めに思われた。
弟だけが楽しんでいることに、我慢できない怒りがこみ上げた。思わず兄は、弟の頭を一発殴った。
突然殴られた弟は、わけが解らない。眉根を寄せて兄を睨んだ。
兄はその顔を見せられて、ますます頭に来た。もう一発殴りつけた。
「何で殴るんだよ!」
当然の抗議をする弟を
「お前一人が遊び歩いているのが気に入らん。この只飯喰らい!」
と兄は怒鳴りつけた。
「来ていいって言ったの、兄さまじゃないか! 俺は何もすることがないし。」
兄は激昂した。
「だったら、ちょっとは遠慮せんか! 俺より大飯食って!」
「腹が減るんだもん。兄さまが小食なんじゃないの? 俺が普通。ふ・つ・う!」
「何だと!」
掴みかかろうとするところに、ニャールが割って入った。
「まあまあ……お怒りもごもっとも。また、弟君の困惑も無理からんこと。二人とも抑えて……」
ニャールは、弟に立ち去るように合図した。
弟は不満そうに幕屋の外へ出て行った。
トゥーリは、弟の後ろ姿を憎々しげに睨んだ。
「兄弟。あの言い様、頭に来んのか? 遠慮せずに締めあげろ! 俺が許す。」
ニャールは、渋い顔で溜息をついた。
「頭に来ますよ……」
彼も同じように思ってはいるのだ。だが
「兄弟喧嘩をしたところでどうにもならん。」
と言った。
「どうにもならんが、あいつには辛抱ならん。」
「苛々していますなあ。抑えて……」
「親父の馬の所為だよ。弟といい、親父由来の者は全員苛々する。」
「あんただって、お父上由来の最たる者ではないの?」
ニャールは笑うが、トゥーリには笑えないばかりか、色々な意味で嫌な言い草だった。
「早くこの仕事を終えて、自由になりたい。」
「自由ね。そうですな。俺もいい加減帰りたい。」
「だろ? それもこれもあの大将が……。な。」
「あの大将のこと考えると、苛々しますなあ。」
「そうだよ! 若くて綺麗な娘が待っているというのに。あの大将は……」
「……まあ、男としては、そりゃ何とかせねばならんと思う。俺ならすぐ行く。」
「俺だってそうだよ。なのに、肝心のあの大将は、よりにもよって俺の馬を……」
ニャールは黙って笑っていたが、急に真顔になり
「そういえば……我々……女を目にしなくなって、どれくらい経つのだろう?」
とぼそりと言った。
「さあ……しばらく見ておらんな。」
「毎日毎日、他人の種付けの手伝いばかりして……。自分が種付けしたいわ。」
あからさまな言い様に、二人とも笑った。
「ここに女はおらん。雌はいっぱいいるがな。」
「雌は雌でも、人間の雌が見たい。」
「そうだね。そういえば……ひと月以上、女を見ておらんな。」
数えてしまうと、もういけない。
「やっぱり……男は女のいないところに、長くいてはならんのですなあ。殺伐としてくる。」
「お前、そんなこと思いつくから……」
「何か? ああ、女が恋しくなりましたか。俺なんか、先からそうだもの。この苦しさ分かち合いましょうや。同じ女の乳を吸った仲でしょ?」
「分かち合いたくないなあ。」
「また……女人の白くて柔らかい身体、甘い香り、可愛らしい声。ほら、堪らんでしょう?」
ニャールはにやにやした。トゥーリは苦笑した。
「やめてくれ。眠れなくなる。」
「なら、一晩語り合いましょうや。……女の話でも。」
「……別の話題にしないか? これ以上の刺激はお互いまずい。」
「そうですな。」
合わせたように切ない溜息が出た。二人とも、女が恋しい盛りなのだ。
違う話と言われ、ニャールはラザックの氏族の内輪の話を始めた。近所の噂話といえば、古今東西、決まっている。愚痴、ちょっとした事件と恋愛沙汰の話だ。
やがて、あのうちの娘はこんなで、あそこの嫁はあんなで、あっちの若年増がどうでなど、女の話になった。
「ニャール、止めろよ。女の話しかないのか?」
「だって、一番興味深そうな顔するんだもん。ついつい……」
「もうちょっと実のある話、ないのか?」
ニャールは考え込んだが、すぐに思いついた話があった。
「……ああ、ご近所の叔父さんの氏族にね、綺麗な娘がいて……」
「また……」
トゥーリは眉をひそめたが、ニャールは止めない。
「黙って。そりゃあそりゃあ、天女さまみたいよ。シフみたいな金の髪で、夢見るような瞳の……」
トゥーリはそう聞いて、興味を惹かれた。
「そんで、そんで?」
続きを促すと、ニャールは笑った。
「あんた、地位を利用して、何とかしようと企んでいますな? 残念。うちの上の兄貴の二番目の嫁になる予定。」
そこまでは思わなかったが、見てみたいとは思った。が、他人の女房になる女を見ても仕方ない。トゥーリは多少がっかりした。
「なら、話すな。」
「でも、すごい美形。義姉になったら俺は辛い。」
「会ったのか?」
「一回ね。息を飲むような美女よ。何でうちの兄貴なんかと……。品があるっていうのかなあ。お姫さまみたいって言うと言い過ぎかな? 気性も可愛らしかったよ。鈴みたいな声で笑ってさ……」
そう言うと、ニャールは深い溜息をついた。
「雄弁な溜息ついて……」
「女がいないかなあ。見るだけでもいいわ、この際……」
「おかずの匂いを嗅いで、ご飯三杯って感じ?」
「ご飯五杯はいける。……そういや碌なもの食べていないし、余計苛々するのかなあ。」
「そう毎日羊をしめられないよ。」
「正直言うと……この生活限界。」
翌日も試みたが、気位の高い父の馬は言うことを聞かない。これ以上は遅らせることができない。今日は絶対と決めて、二人して牡馬の腹を摩り、宥め、ありとあらゆる努力をした。
しかし、全ての努力が水泡に帰したと解るまで、そう時間はかからなかった。
ニャールが、今日もだめだと匙を投げた。トゥーリも、他の牝馬に替えた方がいいのかと迷った。
ふと牡馬の顔を見た時だ。歯を剥いていた。
“お前らの言う通りにはならん。小倅ども! ”
そう嘲笑しているように見えた。
トゥーリは頭に血が上った。
彼は牡馬の引き綱を結ぶと、鞭を手に戻り、力一杯に一度だけ打った。そして、鼻面を捻り上げて牝馬の許へ引くと、尻を蹴りつけて怒鳴った。
「ほら! 早く挑まんか! くそじじい!」
酷い罵倒に、牧人とニャールが驚いた。
「あたら名馬にそんな仕打ちをして……」
「甘やかすから、つけ上がるのだ! ほら、早くしろよ! できんとは言わせんぞ!」
彼は怒鳴り散らし、もう一発尻に蹴りを入れた。
馬はしばらく逡巡する様子を見せた後、望む通りの行動をした。
だが、溜飲の下がらないトゥーリは
「初めからそうせよと言っているんだよ。手間掛けやがって。明日もやれよ! 言うことを聞かねば、お前は肉だ! 肉!」
と馬相手に凄んだ。
約一か月後、馬の妊娠が確認できた。ようやく帰路につける。
トゥーリは最後に、父の馬の尻を一発蹴り上げてから帰った。
註 シフ:美しい金髪が有名な女神
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