9

 七つの歳の春。トゥーリは初めて草原へ帰った。
 勿論、故郷に帰るのは嬉しい。その上に思っていることもあった。
 アデレードとの会話で、トゥーリは草原のことを訊かれても答えられず、悔しい思いをしていた。彼はこの帰省で、ようやく答えられるようになると、楽しみにしていた。

 母は素っ気なく迎えた。挨拶もそこそこに済ませると、弟と自分の翼に消えた。
 トゥーリはアーマと二人、父親の翼に置かれた。屋敷仕えの男女があれこれと世話を焼いてくれたが、もう自分の子供部屋へは行ってはならない空気があった。
 居心地が悪かった。
 進まない食事を終えて、夜更けになった。アーマは、子供部屋へトゥーリの手を引いて向かった。
「どこへ行く?」
 廊下の角から、ソラヤに呼び止められた。
「お休みにならないと……」
「アナトゥールの部屋はこちらにはない。ここからは子供の翼だ。シークはシークの翼を使え。」
 ソラヤの言葉は冷たかった。
「それは……」
「整えてある。不自由などないぞ。」
 それだけ言うと、ソラヤは子供の翼に立ち去った。
 父親の寝室を使わねばならないのだ。樫の大きな扉の奥に、父の死んだ寝台がある。トゥーリは、見るのも怖かった。アーマも青ざめたが、悟られぬように
「あちらは南側。きっと温かいわ。」
と、彼に微笑みかけた。
「ご居間で寝たい。」
 彼がぽつりと言った。無理もないと、彼女も頷いた。
 だが、居間は火の気もなく、もう冷え冷えとしていた。アーマが寝室を細く開けると、中は暑いくらいに暖めてある。
(ソラヤさまはいったい……)
 彼女は舌打ちした。トゥーリが不安そうに袖をつかんでいる。余計に不安感を与えてはいけないと思い、努めて何でもないように
「あら、お寝間は暖かいわ。入りましょう。」
と言って、彼を連れて入った。
 ソラヤの言う通り、中は整えられていた。三年は使われていないだろうに、部屋は清潔で、小さな卓の上には水差しと、林檎が載っていた。何故かアルヒの入った盃もあった。
 しかし、伝説的な織り手の物だという緞通も、調度品のどれもが父親の時のものだった。寝台ももちろんそうだ。
 トゥーリは、ぶるぶる震えている。この部屋に入った最も新しく鮮烈な記憶は、父親の臨終の時だったのだ。
 立ちつくしているわけにもいかない。その大きな寝台に彼を上げて、彼女も側に横たわった。
(大人の私ですら恐ろしい。ローラントさまはここで亡くなられた。……いけない! ローラントさまの寝ていらした真ん中には、トゥーリさまは……)
 彼女は、彼を自分の方へ抱き寄せて目を閉じた。
 すると、うとうとし始めたころ、控えから声がかかった。
「乳母殿をご後室さまがお呼びです。」
「何なの? こんな時間に?」
 尋ねても、近習は申し訳なさそうに
「さあ……私はそれだけを仰せつかったので。」
と答えるだけだった。

 アーマがソラヤの翼へ訪ねて行くと
「アナトゥールは? あの寝室で寝ておるか?」
と真っ先に尋ねられた。
「ええ……」
「それは重畳。思ったより肝が太いな。」
 ソラヤは笑っている。
 アーマが、もしやとは思っていた勘ぐりは当たっていた。
「ひどいことを……。あのご寝室は……」
 彼女は気色ばんだ。
 しかし、ソラヤは涼しい顔で
「そうだよ。私の殿さまの亡くなった部屋だよ。そして、あそこはずっとシークのご寝室。アナトゥールはシークなのだ。あそこで寝ねばならぬ。」
と答えた。
 アーマは怒り呆れた。
「お可哀想だと思いませんの?」
「いや。申したであろう? アナトゥールはシークなのだと。で、だね……」
「まだ七つですよ!」
「それがどうした? それでだ。明日から馬場に出せ。老ヤールと、都の師匠とやらが、馬と武芸を教えていると聞いたが、腕前はどうなのか? さぞかし甘っちょろいことをしているんだろう? 私が見分いたす。」
 アーマには、返す言葉がなかった。ちゃんとさせているが、ソラヤの満足する腕なのかはわからない。いや、どんな腕でもソラヤは納得しないのだろう。
「それから、もう添い寝は必要なかろう? 私が言ったのに、アーマは六つまで乳を含ませていたそうだね。責めているのではない。もう済んだことを言っても仕方ない。」
「ええ……」
「アーマの部屋は別に用意したのだ。アナトゥールの翼の側だ。」
 アーマは安堵した。あの寝室に、トゥーリをいきなり一人で置くのはあまりにも酷い。別な部屋でも自分が側近くにいれば、すぐに駆けつけられると思った。
「少し取り散らかっていたゆえ、慌てて片付けをした感はあるが……」
「いえいえ、どこでも結構です。」
「そうか。よかった。アーマの部屋は私の寝室の隣に用意したからね。」
「え……」
 確かにシークの奥方であったソラヤの翼は、トゥーリのいるシークの翼のすぐ側である。だが、ソラヤが隣の部屋にいるなら、抜け出すことは難しい。
「ひどい人……」
 アーマは低く呟いた。ソラヤは
「何か申したか?」
と言って、薄く笑っていた。アーマは黙って部屋を飛び出して、トゥーリのいる寝室に向かった。

 寝台の真ん中に、トゥーリの小さな身体の形に盛り上がった布団が見えた。側へ寄ると、すうすう寝息を立てている。“刀身のジークルーン”を抱きしめていた。寝台の足許に、アルヒの入っていた盃が落ちていた。
 恐ろしくて、それを飲んで寝たのだろう。そのために強い酒が置いてあったのだと悟った。
 アーマは唇を噛んで、すすり泣いた。

 アーマは翌朝早く起きて、様子を見に向かった。さぞかし恐ろしかっただろうと、すぐ側へ行ってやらねばならない気持ちだった。
 寝室を開けると、トゥーリは寝台に座って髪を編んでいた。けろりとして
「おはよう、アーマ。」
と言う。彼女は気が抜けて、ため息をついた。
「昨日は……?」
「ああ、最初は怖かったけれど、一晩寝たらすっかり怖くなくなったよ。」
 彼は笑っていた。表情をうかがっても、嘘だとは思えなかった。
 だが、安心している間はない。馬場へ出せと言われたのだ。
「今日は馬場ですよ。お母さまが、武芸の上達を見たいとおっしゃったの。」
「母さまが?」
 彼は目を輝かせた。
 母親が馬場の隅で、老ヤールか近習相手に剣を取るのを見てくれるのだと思っているのだろう。
「そうではないの……」
「母さまが来るんでしょう?」
 あまりに嬉しそうにしているのに、彼女は掛ける言葉がなくなった。
 
 老ヤールが現れて、アーマに目配せをした。彼も知っているのだ。ソラヤに何か言ったようだが、聞き届けてもらえなかったようだった。
 馬場に出る為に、厩舎で老ヤールが馬を選ばせた。
 トゥーリは、ずらりと並んだいずれも劣らぬ駿馬を、一頭一頭観察した。そして、一頭の立派な馬体の馬を選んだ。
「この栗毛のがいいな。」
「これは牝です。今日は……牡の方がいいですな。」
「そう?」
「あっちの鹿毛のがいいでしょう。」
「ああ、あれか。額の星が可愛いね。名前は何だろう?」
 トゥーリは、老ヤールの勧める馬に駆け寄った。
 近習に名前を尋ねている。
「名前ですか? 薫風と書いてありますね。五月のお天気のいい日に吹く優しい風のことですね。」
「そうか。素敵な名前だね。これに乗るよ。」
 老ヤールは、比較的小柄で、取り回しのよさそうなラディーンの馬を勧めたのだ。子供がすばしっこく動けるように。
 また、気性がしっかりして、戦闘に怖気づかない牡を選んだ。
 彼はソラヤの腕を知っていた。

 馬場には、既にソラヤが待っていた。
「アナトゥール、待ちかねたよ。早く騎乗せよ。」
 トゥーリは、母が武装するなど想像もしていない。驚いて言葉に詰まった。
「母さまが……?」
「そう。今日からしばらく、母がお前に稽古をつける。草原の者もな。」
「じいは?」
「じいはもう年寄りゆえ、物足りないだろう。早く。騎乗だよ。」
 彼は黙って鞍に上がった。
 途端に彼女が突進して、打ち付けた。彼は受け太刀しかできなかった。
 馬は素早く返したが、打たれるたびに受け太刀も甘くなり、とうとう馬から落ちた。
「無様な! それでも武名高きローラント殿の嫡男か! 早く騎乗せよ。戦場ならば死んでいるぞ!」
 彼女は下馬し、蹲るトゥーリを見下ろした。
 その後は、老ヤールは目を背け、アーマは蹲ってすすり泣いた。激しい折檻だった。
「お稽古を……ありがとうございました。」
 よろよろ立ち上がった彼の無表情な目が、どれだけ心に傷を負わせたのかを語っていた。

 アーマが駆け寄るとトゥーリは
「手水に行きたいんだ。」
と言って、彼女の手を払った。
 彼は手水からすぐに出てきて、驚愕した目でアーマを見た。そして、素早く老ヤールの手を取ると、手水の中に連れて入った。
 中から老ヤールの唸り声がした。アーマが焦れて声をかけたが、聞こえたはずなのに答えが返ってこない。
 ようやく二人が出てきた。トゥーリの表情は先ほどとは格段に優れず、黙って馬を引いて立ち去った。
「何? 舅殿、何が?」
 彼女は慌てて尋ねた。
「お小水が……真っ赤だった。」
 腎が傷ついたのだ。
 老ヤールにも衝撃だったのだろう、蒼白だった。
 アーマはソラヤのもとへ駆け戻り、激しく詰った。
「トゥーリさまのお小水、真っ赤でしたのよ!」
「そうか。たまにある。治まるから大事ない。」
 ソラヤは平然と言う。アーマは怒りに上気した。
「ソラヤさまは鬼ですか!」
「鬼? そんな上等なものではない。」
「お可哀想だと思いませんの? 昨日はアルヒを飲ませて、お父さまのご寝室で寝かせて、翌朝はこれ。ソラヤさまは、トゥーリさまをいったいどうしたいのです!」
「強いシークが早く欲しいのだ。」
 ソラヤの目は真剣で、恐ろしい気迫に満ちていた。



註   アルヒ:馬乳酒を蒸留して作る酒。アルコール度数30〜40度。

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