宿命
8
口ばかり達者で、一向に乳離れしないトゥーリに、老ヤールはさすがに焦れ、乳母を咎めた。
「アーマ、トゥーリさまはもう六つだぞ。お前はまだ乳を含ませているようだが……やめんかね。」
アーマが、乳離れしないと悩んだのは、もうずいぶん前のこと。そうするのが当たり前になっており、彼女は逆に惜しんだ。寝るときにだけ、赤ん坊のような言い回しになり、甘える様子が可愛くて仕方がなかった。
「草原の母親はそれぐらいまで、子供に乳を含ませるものもいます。愛情深い子に育つとか。」
と抗弁した。
「もう十分だよ。お前は実の母親ではないのだ。少し距離を置いて、主の行く末を考えないか? 甘えさせてばかりではいかん。」
今までは、彼女がまだすると言うと、老ヤールは渋い顔はしたものの引き下がった。その彼が言葉を連ねるのに、もう本当に止めねばならないのだと知らされた。
「それに毎朝、御髪を結うて差し上げるようだが、それも止めよ。そろそろご自分で。」
彼女もそれはわかっていたが、髪をいじる時間も至福の一時だった。
「下手くそなんですもの。他人に笑われます。」
彼女は止めたくない一心で、理屈をひねり出した。
「自分でやらねば、いつまで経っても出来ぬ。」
老ヤールは厳しい表情で一蹴した。
「はい……」
「お前にべったり預けすぎたのかもしれん。お父上を亡くして、お母上とも別れて、ご心情を察して見過ごしていたが、これ以上は為にはならん。お前や儂と、まあ……公女さまのところの方々もあるが、そう限られた中に置くのも考え物だな。儂はこのところ、思案していたのだ。」
まだ何か引き離すことがあるのかと、彼女は胸が痛んだ。
「何を……?」
「トゥーリさまを宮城の学堂にお入れする。」
「学堂ですって! 学問をしますのか? まだ六つですよ?」
「こういうのは、早い方がいいという話もあるようだ。トゥーリさまの話しぶりを聞いていると、同年配の子供より、言葉が達者でないか。話し方の教師が来ていた時も、大層熱心に習っておったし、学ぶことがお好きなのだよ。」
彼女もそう思っていたが、賛成するのが辛かった。
「新しいものが好きでいらっしゃるから、物珍しかったのよ。」
「お前は反対なのか? 主が学のない者でもいいと?」
そういうことではないのだ。彼女は、自分の気持ちは男にはわからないのだろうと思った。
「早すぎないかと申し上げているまでで……」
「……まあ、草原では、力こそ正義というような道義がまかり通っているし、ある意味そうであることは、儂も否定しないよ。特に剽悍な草原ではそうだろう。でも、都ではそんな道義は通用しない。トゥーリさまがお付き合いいただくのは、そういう場所の人間どもが半分なのだよ。詩文のひとつもわからん、学の
ない、やはりラザックの羊飼いよ、と見下されるのでは、お前も嫌だろう?」
ひとつひとつが道理であるが、彼女には納得はできない。
「詩文など……私は大食の四行詩すら諳んじています。私がお教えできます。“幾山川を越えて来たこの旅路で”……」
彼女は、大食の四行詩を諳んじようとした。
大昔に放浪していたころとは違い、家事を奴婢に任せるようになったラザックやラディーンの貴族階級の女は、それとは知れぬほどに教養のあるものが多かった。アーマもそういう女だった。
彼は渋い顔で遮った。
「愚かなことを申すな。先ほど申したであろう? お付き合いいただくのは、都の方々だと。詩文を知っているのが重要なのではない。」
「……武勇なるシークならば、誰も見下すところか、畏れるでしょう。」
「表向きはな。そんなことを話していても埒が明かん。儂はトゥーリさまに新しい世界をお見せしたいのだ。お前もごちゃごちゃ言うが、わかってくれるだろう?」
「はい……」
彼は胸を撫で下ろした。彼女に感情的になられたら、説得が難しい。
「結構なことに、城の学堂には、若い気鋭の学者も、碩学の大家もおられるそうだ。遠く、ロンバルディアの学僧も招聘したらしい。学究肌の大公さまならではだな。彼らに研究させる傍ら、お家柄の子弟を集めて講義をさせている。この“子弟”のところが重要なのだぞ?」
「どのようなお勉強を?」
「文学、詩法、数学、歴史、遠い異国の言葉までいろいろ。お望みになることを。」
彼女は再び、それならば自分がと言おうとして、諦めた。俯いて黙り込んだ。
「どうした?」
「いえ……。私の胸でほぎゃほぎゃ泣いていた坊やが、そんな難しいことをと思うと……不思議なのです。」
図らずも涙が落ちた。
老ヤールもしんみりと
「感慨深いな……」
と言った。
城の学堂に入れられること、同年配の子供がおり、一緒に勉強するのだと言うと、トゥーリは目を輝かせて喜んだ。
「今度のところでできるお友達は、遊びのお友達ではないのです。一緒に学ぶお友達です。くれぐれも、喧嘩などしてはなりませんぞ。」
老ヤールは何度も言い含めた。
トゥーリは嬉しいばかりである。うんうん頷いた。
「気に入らんことがあっても、殴りつけてはならん。乳兄弟のニャールやらとは違うのですからな。腹立たしいことがあっても、きっと我慢なされませ。」
「どうして?」
トゥーリは我慢と聞いて、嫌そうな顔をした。老ヤールは、ありていに言っていいものかと悩んだが、そのままを伝えることにした。
「お仲間は宮廷のお歴々のご子弟ゆえ、怪我でもさせたら大変です。……腰が引けていると思し召されるな。子供同士の喧嘩が、引っ込みのつかんようになるのです。」
「引っ込みがつかんと、どうなるの?」
「殴った方が悪くなって、監獄へ入れられる。トゥーリさまは監獄ってわかりなさるか?」
「わからん。」
「ラザックシュタールで、お母上に塔に閉じ込められたでしょう? あれのもっと酷い場所が、シャルートのお城の地下にある。昼なお暗く、湿っぽくて、変な生き物がいっぱいおる。夜は幽霊が出る。」
トゥーリは、想像したのか身震いをした。
老ヤールは可笑しかったが、怖い顔を作って見つめた。トゥーリは睨み返して
「ぼくは大人しいもの! 大丈夫。」
と言い返した。
「草原では、ニャールとよく取っ組み合いになりましたな。」
「都にニャールはいないよ。」
「くれぐれも手出しはなさらんように。願いますぞ。」
念押しするのに、トゥーリはこっくりと頷いた。
数日後、トゥーリは朝議ではなく学堂へやられた。朝議などつまらないだけだったから、嬉しくて仕方がない。
髪も自分でやれたと思ったが、二つに均等に分けられなくて、近習にこっそり直してもらった。
学堂には、近習が供をした。学舎はまだ新しかった。
中には、若者が多かったが、同じように供を連れた子供もいた。
最初に行くように言われた部屋へ入ると、もう講義が始まっていた。教授が彼を招き入れた。身なりの良い子供ばかりがいた。
彼を見ると、子供たちがざわついた。
「長い髪。」
「ラザックの羊飼い。」
「何で、あんなのが?」
口々に言うのが聞こえた。歓迎されていないとわかった。
教授は年を取った穏やかな男で、皆の嘲るのを見て、心配そうにトゥーリの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですかな?」
「はい。」
負けてはならんとはっきり答えるのに、教授は安心したようだった。
「私は史書をお教えしている者です。」
と優しい眼差しを向けた。
そして皆に、彼を紹介した。
「静かになさいませ。今日からこの方がお越しになります。ラザックシュタールの侯爵、アナトゥール・ローラントセンさま。」
また、教室がざわめいた。
「あんなちびが侯爵!」
「女の子みたいだ。」
嘲る者の中で、ひとりが名前に気づいた。
「アナトゥール! この間のあれだよ。」
「船の上で死んだあれか!」
「でも、そいつは金髪だろう? あいつは黒い髪。」
「黒い髪!」
「変だ、変だ!」
ここいらにも黒っぽい髪の者はいたが、彼のように漆黒の髪の者は少ない。この中にはいなかった。
教授が鎮めようとする前に、彼が怒鳴った。
「うるさい! 黒い髪は、父さまからもらった。何が悪い!」
気圧された子供たちは黙った。
しかし、彼が自分に与えられた席に座ると、後ろの席の子供が髪を引っ張った。彼は、老ヤールの言いつけを思い出し、相手にせず振り払って、じっと前を見た。
まだ読み書きのおぼつかない彼にとって、史書の講義などわからないことばかりだった。物語を聞くようで楽しくないことはなかったが、いかんせん難しい単語が多かった。
(あまり朝議と変わらないなあ……)
こっそり見渡すと、皆つまらなさそうに居眠りをしたり、ぼんやり外を眺めたりしていた。
何とかという大公がとか、外国の何とかという王がとか、長く聞きなれない名前の昔の人の業績を聞いているうちに、うとうとし出した。
しばらくして、教授が
「というわけで、そのシークは戦場で亡くなりました。」
と言った。
トゥーリはぎょっとして目を覚ました。周りの子供が笑っているのは、自分が居眠っていたからではないことが、すぐに知れた。
「おい、シーク。お前の ご先祖 、また死んだぞ。」
「あっさり殺られるもんだな!」
「お前はいつ死ぬんだ?」
また嗤われ、からかわれた。
教授が叱りつけたが、大家の子息は毛ほども感じていないようだった。
彼は唇を噛んで、堪えた。
教授が、帰りがけのトゥーリに小さな写本をくれた。あまり質のよくない羊皮紙に書かれたものだったが、絵が美しかった。
「差し上げるから、お名前を書いておくといいですよ。誰かが間違えて持ち去るかもしれないから。」
教授はガチョウのペンを差し出した。
トゥーリがペンを左手に握った時、教授は息を詰めた。
“左利きのアナトゥール”のことを思ったのはもちろん、こともあろうか与えた写本はその物語だったからである。
教授は、教室から出ていく子供の視線を遮るように、もたもたと名前を書くトゥーリの後ろに立ったが、子供が覗き込んで
「あ! こいつ左利きだ! “左利きのアナトゥール”!」
と叫んだ。
皆がぞろぞろと見に戻っては囃し立てた。
「左手に剣を握って死ぬんだな!」
トゥーリは、教授が叱責しようとするのを止めた。彼は名前を書き終わった写本を持って、皆を無視して去った。
史書の講義は好きになれないと思った。
待っていた近習に写本を見せると
「“金髪のアナトゥール”さまのお話ですね。」
と嬉しそうに目を落とした。
しかし、読み終えた彼は浮かない顔をした。草原では、誉れ高く語られる物語であったのに、都の写本には、淡々と事実のみが書かれていたからだ。
「私がもっと詳しく話して差し上げます。」
彼は、草原に伝わる生き生きとしたアナトゥールとその妻たち、ロングホーンのシーク、その従兄弟のテュールセンや王女の話を聞かせた。
トゥーリは気が載らなかったが、近習の話を聞くうちに機嫌が直った。
帰ると老ヤールが心配そうに
「いかがでしたか?」
と尋ねた。
「楽しかったよ。」
トゥーリは、初めて嘘をついた。
彼はそのまま寝間に入り、いつも枕上に置かれている大きな古い馬上刀を確かめた。鞘から苦労して抜くと、ぎらりとした白刃が現れた。
(本当に“金髪のアナトゥール”さまが帯びていらしたのかしら?)
彼はじっくり眺めた。血溝に、矢印を連ねた印が彫られている。
現れたアーマに尋ねると
「それは、軍神テュールのお印よ。戦場で誉れを与えるの。」
と教えてくれた。
撫でると冷たく、蠢くような気配が伝わってきた。彼は
(これは……! 本当に“金髪のアナトゥール”さまがお持ちだったに違いない。)
と確信した。
「いつもお側に置いていて。ジークルーン……必ずこの剣には敬意を払ってね。」
アーマが静かに言った。
学堂に通っているうちに、わかってきたことがあった。講義によって、周りの態度が違うのだ。
例えば、数学の講義がそうだった。数学といっても、まだ算数だが、少し姿格好のことを珍しく見られたが、史書のような嘲りは受けることがない。
指を折って数えなければならなかったが、教授は待ってくれた。そして、たった一桁の足し算が出来ただけで褒めてくれた。
どの教授も優しかった。特に外国人の学者はよかった。格好が違おうが、黒い髪だろうが、気を抜くと草原の訛りが出ることも、驚きもせず、好奇の目でも見なかった。
やがて皆の好奇の目も失せて、親しくなる子供もできた。
相変わらず史書は嫌だったが、学ぶのは楽しかった。
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