7

 その年の晩春。ソラヤが第三子を出産した。
 ラザックが一騎、遊んでいるトゥーリを訪ねてきた。逞しい戦士が彼に平伏するのを、アデレードが不思議そうに見ていた。
 彼は嬉しそうに、ソラヤの出産を伝えた。
「ご後室さまから、ご書状をお預かりしました。」
 トゥーリは開けて見たが、多少の文字は読めても、意味がわからない。
“忠実なるラザックと勇敢なるラディーンのシーク、アナトゥール・ローラントセン殿に申し上げる。”
 それは、五歳の子供に、しかも息子にやるとは思えない固い文面で始まっていた。
 手紙を手にしたまま見つめている彼の側に、公妃が近寄った。文字がまだ読めないのだろうと思ったのだ。
 彼女は目でさらって、どう言っていいものやらと悩んだ。固いだけではなく、彼に対する母親らしい気遣いなど何もなかった。“元気か? ”とすら書いてなかった。
「公妃さま、よくわからない……。弟が生まれたってこと?」
 彼は戸惑っている。
 公妃は髪を撫で、微笑みかけた。
「ええ。トゥーリは賢いわね。弟が生まれたって書いてあるの。名前はミアイル・ローラントセンと付けたって。」
「妹の方がよかったのに。弟ばっかり!」
 しゅんとしている。慰めてやろうと、公妃が優しく
「そうだったの。どうして?」
と訊くと
「きれいな服を着せて、お花で飾って、連れて歩きたいから……。でも、アデルがいるからいいや。」
と笑った。すぐに機嫌を治してくれたようだと、公妃は安堵した。
 トゥーリはラザックの戦士に
「どんな赤ちゃんだったの?」
と訊いた。
「そうですねぇ……金髪の青い目の、可愛らしい赤さまでしたな。弟君、ヴィーリさまに似ておられる。」
 戦士は、ただただ無事の誕生を喜んでいる。
 トゥーリは、またしょんぼりして
「そう。もういいよ。行って。休んで。」
と小さな声で言った。
 アデレードが、公妃の衣装の裾に目をこすりつけ始めた。
「姫さま、もうおねむなの? 寝床へ行きましょうね。」
 公妃は、愛おしそうにアデレードの髪を撫でた。
「姫さまはお昼寝なの? ぼくは帰るね。」
「あら、今日は一緒にお昼寝しないの?」
「眠くないんだ。」
 言うなり、彼はぱっと出て行った。
(小さい肩を落として……)
 公妃は、彼の後姿を目で追った。

 公妃が眺めていると、トゥーリは自分の翼へ帰らずに、庭に出てきた。
 彼は庭の池の側に這いつくばり、お下げにした髪をほどいた。髪ばかり弄っている。
 そして、立ち上がると、池の水面を蹴り出した。大きな水しぶきが飛んだ。何か叫んでいる声も聞こえた。
 公妃は異様だと思い、駆け出して、彼を抱きかかえた。
「トゥーリ、何をするの! 水びたしじゃないの!」
 叱ると、彼は泣きながら
「ぼくの髪は黒い。何故? 母さまと弟と赤ちゃんは金髪なんだ。アデルも、公妃さまもそうでしょ。大公さまはそうじゃないけど……宮廷の皆だって、こんな真っ黒な髪の人はいない。ぼくの髪だけ真っ黒。何故?」
と言った。
「気に入らないの? だからって……」
「それに……ぼくは母さまにちっとも似ていない。」
 彼女が言い淀むと、彼はハッとして、妙に明るい声で
「いいよ。毎日鏡を見ては思っているんだから。慣れた。」
と言って、微笑んだ。
 こんな小さな子供なのに気遣いをしていると思うと、彼女は切なくなった。
 しかし、気遣いもそこまでが限界だったようで、またぽろぽろ泣きながら
「毎日朝晩髪を洗って。そうしたら、髪の色が少しは……茶色くらいにはなるのかと……。なのに、ちっとも落ちない。」
と言った。
 公妃も泣けてきた。トゥーリをぎゅっと抱きしめた。
「そんなことしても落ちないのよ。やめなさいな。……見て。水面に映ったあなたの姿。あなたはお父さまにそっくりよ。」
「父さま?」
「そう。あなたのお父さま。それはそれは美しい人だったの。黒い髪でしたよ? 緑色の瞳で。本当に立ち姿の麗しい方だったわ。」
「そうだった。黒い髪だった。」
「ええ。あなたを見ていると思い出すわ。突然亡くなられて、私もとても残念だった。でも、あなたを見ると、あの方はあなたの中に生きていらっしゃるのねと思うの。」
「父さまは、ぼくに似ているの?」
 きょとんとして言うのに、彼女は苦笑した。
ぼくが ( ・・・ )父さまに似ているですよ。そうね。お小さいときは、間違いなく今のトゥーリと同じ顔をしていたと思うわ。……トゥーリは大きくなったら、きっと姫君たちの憧れの君になられるのね。お父さまのように。」
「憧れの君って何?」
 彼女は小さく笑った。
「それは……お姫さまがちやほやしてくれるってこと。」
「それって楽しいの?」
 彼は、疑うような目をしていた。
(この子、時として鋭すぎるわ。)
 彼女は笑いを堪え、真面目な顔で
「楽しくもあり、苦しくもありってところよ。」
と答えた。彼は興味を失ったようで、また水面を見つめた。
 ややあって、彼は
「……ぼくの顔、泣いているみたいだよ。」
とぽつりと言った。
「泣いていますよ。いらっしゃいな。髪を乾かして、着替えをしましょう。」
「ぼくは自分の家には帰りたくない。公妃さまのお家にいてはダメ?」
 さっきは帰ると言ったのに、いたいと言う。可愛かった。公妃は軽く笑った。
 彼女は彼の手を引いて、自分の翼まで連れて戻った。その間、彼はぎゅっと握って離さなかった。指の関節が白く浮くほど強い握り方だった。
 彼女は、自分たちが思うより、彼は寂しがっているのだと知った。
(ソラヤさまも……。こんなに面影を映した子を愛しいと思わないのかしら?)
 冷淡だと思ったが、だからこそ、見るのが辛いのかもしれないとも思った。

 公妃は手ずから彼の身体を拭き、髪を梳いた。男の子の着るものがないのに気づいて、毛布に包んだ。トゥーリは眠そうにしていた。
 彼女が微笑みかけると、すり寄ってきた。その様子が可愛らしく、公妃は膝に抱き上げた。
 彼は半分居眠りをして、彼女に頭をもたげていたが、もぞもぞ胸元を探り出した。
「なあに?」
と訊くと
「トゥーリは、おっぱいがないと眠れないの。さわさわさせて。」
と赤ん坊のような言葉で言う。
 まだ乳離れをしないのかと驚いたが、切なそうな表情が憐れに思えた。
「いいわよ。」
 彼はうっとりと彼女を見上げて、乳房に顔を埋めて預けて眠った。
 公妃は、彼の頬に零れた長い髪をかき上げ、寝顔を見つめた。長い睫毛を伏せた、女の子のような寝顔だった。
(男の子はもっと乱暴なのかと思ったわ。私の息子も、こんなに可愛らしかったらいいのに。)
 彼女はそのまま、彼が起きるまで抱いた。



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