宿命
6
数日経つと、母との突然の別れの傷も癒えたのか、トゥーリは笑顔を見せるようになった。しかし時折、特に夜など、寂しげにしていることがあり、傍の者は心配した。
ラザックの老ヤールとの日課の稽古を終えて、食事をしていると、大公から呼び出しがかかった。トゥーリは老ヤールに連れられて、ほぼ隣である大公の私翼に出かけた。
大公がにこやかに迎えてくれた。この穏やかな主君は、父親のように接してくれる。トゥーリは大好きだった。
「小さな従弟どの、いい子にしているかい?」
「はい。」
それ以上、話題がない。
そこへ、美しい婦人と、面差しの似た女の子が入って来た。
「私の妻と娘だよ。挨拶して。」
「ごきげんよう。」
老ヤールが窘めた。
「トゥーリさま、初めてお会いした方には、お名前を名乗らないと。」
「 私の妻 は初めてだけれど、姫さまとは会ったよ。」
老ヤールは渋い顔で、また窘めた。
「私の妻ではなくて、大公さまのお妃さまと。」
「ああ、お妃さまは初めて。姫さまには会った。」
大公は老ヤールと目を合わせた。会わせた覚えはないばかりか、城内に住み始めたのはついこの間だ。不思議だった。
「……まあ、よい。奥さん、この子が先日話したラザックシュタールの小さい侯爵……」
「シークだよ。」
老ヤールは
「都では皆さん、そう呼ぶのです。」
と耳打ちした。
「変なの。」
トゥーリは訝しげな顔をした。受爵式のことなどすっかり忘れている様子だった。
公妃は微笑み
「あら、可愛い侯爵さま。ごきげんよう。お名前は?」
と問いかけた。
「アナトゥール・ローラントセン。」
「綺麗なお名前。でも、どうしてそう呼ばれていらっしゃらないの?」
外国から嫁いできた公妃は、草原の事情には疎かった。きょとんとしていた。
トゥーリも、説明できない。
「あなたは知らないのだね。草原の者には、何と言ったらいいのかな……、因縁深い名前なのだよ。」
大公が代わりに答えた。
「そうですか。私も、アナトゥールさまとお呼びしてはいけないのかしら?」
「トゥーリはトゥーリ。」
「トゥーリさまと、お呼びしたらよろしいの?」
「トゥーリはただのトゥーリ。友達はみんなそう呼ぶの。」
「お友達?」
「草原にいるの。ラザックのところの、乳兄弟のニャールとか、ニャールのお兄ちゃんたちとか、ニャールのところの子たちとか……」
子供らしい言い様に、公妃は微笑んだ。
「いっぱいお友達がおいでなのね。」
そして、公妃は娘に目を移した。公妃の裳裾に隠れて、もじもじとしている。
「……あら公女さま、どうしてお母さまのスカートに隠れるの? あなたもご挨拶して。」
公女は、すっかり公妃の後ろに隠れてしまった。
「恥ずかしいのではないか? 侯爵よ、今日から暇をみて、私の娘の相手をしてやってくれまいか。」
「うん。姫さま、あっちへ行って、トゥーリと遊ぼう。」
「姫さまって……。幼いのに上下関係わきまえた方……」
公妃が苦笑すると、トゥーリは不思議そうに
「そういうお名前なのでしょ?」
と言った。
「アデレード・コンスタンシアというの。」
「アーデアイト・コンスタンツィア?」
「おお、ひどい訛りようだな。アデレードだよ。」
「……アデアート。」
「アーデレイト……私までおかしくなってきた。アデ、レード。」
「アデ……ああ、もう! アデルおいで。遊ぼう。」
やり取りを見ていたアデレードがけらけら笑った。トゥーリは失笑し、彼女に手を出した。
小さな手が彼の手のひらに載せられた。
子供たちは、手をつないで庭に出て行った。
遊ぶ様子を眺めながら、大公が少し言いにくそうに
「ヤールよ、この前から思っていたが、そなたの主、ラザックの訛りが強いな。話し方の先生をつけてはどうか?」
と言った。
「はあ、乳母から遊び相手から、ラザックのものばかりだったので……。おいおいと考えておりました。早急に人を捜します。」
老ヤールは、うっそりと頭を垂れた。
「あら、聞き苦しい訛りとは思いませんでしたよ? 可愛らしかったわ。」
公妃はそう言ったが、あくまでも老ヤールは真面目だった。
「公女さまにうつるとなりませぬゆえ。」
大公も
「ご大家の公達が訛っていてはおかしい。」
と言った。
小さな二人は毎日遊ぶものの、アデレードが幼すぎて会話が成立しない。
都で大人ばかりに囲まれてきたトゥーリは、初めてできた同年輩の遊び相手が嬉しくて、一生懸命に相手をした。
彼女は、同じ年配の子供を知らず、我慢も利かない。気に入らないことがあると、すぐに彼を叩き、泣いた。それでも、彼は不思議と許せた。
彼女は彼に懐いて、することなすこと真似をする。
ちょうど同じ年頃のヴィーリと思い出させ、新しいきょうだいが出来たようだと思った。弟としていたような乱暴な遊び方も、それに付随していた喧嘩もすることもなく、少々の物足りなさはあったが、かえって新鮮に感じられた。
また、彼女のふわふわの綿菓子のような薄い金色の髪も、弟と比べると華奢なつくりのぽちゃぽちゃした白い手足も、保護欲をかき立てた。
単調で、子供には面白味のない日常に、アデレードと遊ぶことが加わり、彼の心の状態が明らかに落ち着いてきた。
その生活を続けていると、気の早いソラヤから、新たな指令が届いた。
そろそろ宮廷に出入りさせよ、と。
老ヤールは、朝議に連れて出ることにした。
出ても、トゥーリには、“おじさんたち”が勿体ぶって話し合っているだけにしか見えない。きょろきょろしながら、老ヤールの側に立っているしかできなかった。
ひどく退屈だった。
大事な話をしているようにも見えない。大抵の人が発言もしないのに並んでいる。
集まっている意味が、理解できなかった。
だが、老ヤールがさも大事そうに時間励行で毎日出席し、真剣に話を聞いているので、大人しくはしていた。
皆が居眠りしたり、退屈そうに髭を抜いたりしている様子を観察して、時間を潰すことを覚えた。
ある日、朝議が長引き、昼食時にまで時間がもつれ込んだ。このような時、宮廷では昼食の振る舞いがある。
身分の高い順に、五人ずつで案内された。宮宰、テュールセンの公爵、トゥーリ、他に二人が同じに案内された。
卓の上座に宮宰、斜め向かい側にトゥーリの席があった。隣はテュールセンの公爵の席になっていた。
座るなり、テュールセンの公爵はトゥーリに話しかけた。
「小さいシーク、初めてだね。テュールセンの公爵、お見知りおきあれ。」
親しげに話しかける彼に少し戸惑いを感じたが、嫌いなタイプではない。話し方の教師の教えてくれた通りに、ゆっくりと発音を確かめながら、覚えたばかりの丁寧な言葉で返事をした。
「こちらでは、ラザックシュタールの侯爵なの……です。」
「知っているよ。私はずっとシークはシークと呼んできたから、その方が言いやすいのだよ。」
少し草原の訛りを知っているようで、わざとそうして話してくれるのに嬉しくなり、親しげに問うてみた。
「父さまの友達なの?」
「そうだな……戦友ってところかな。」
「戦友って何?」
「トゥーリさま、この方は、お父上と共に戦ったことがあるのですよ。」
付き従っている老ヤールが、説明してくれた。
トゥーリはそこまで聞いて、教師が質問ばかりを返してはいけないと言っていたことを思い出し、口を噤んだ。
テュールセンの公爵は、老ヤールに話しかけた。
「老ヤール、久しいな。ローラント殿のことは残念だった。お悔やみ申す。」
「いたみいります。」
「……ローラント殿の息子か。四歳だって? 手足の大きな子だな。年下なのに、うちのリュイスと変わらん。大きくなるだろう。」
「はあ。」
「楽しみだね。」
テュールセンの公爵はトゥーリを眺めて、目を細めていた。
やがて、料理が運ばれてきた。五人分の料理だった。子供のいるのは考慮されていないようだった。
腹が減っていたトゥーリは、すぐに銀器を取った。それを見て、今まで黙っていた宮宰が
「おい、小さい侯爵よ。そなた、銀器を持つ手が逆だぞ。左利きかね?」
と言った。
「そう。いつもこちらの手で……」
「一同、聞いたかね? こりゃあ、“左利きのアナトゥール”だわ。」
宮宰が嘲笑った。追従した笑いが起こった。テュールセンの公爵は笑わずに、穏やかに老ヤールに尋ねた。
「老ヤール、直さないのか?」
「頑固でしてな。直らなかったのです。亡きお父上もよいと仰せで……」
宮宰が更に嘲った。
「そなたの乳母は、何をやっておったのかね? 早いうちに直せば直るのに。まあ……草原の無学な女ならば仕方がないな。」
宮宰の表情や言い方から、アーマを悪く言われているのは、トゥーリにも理解できた。カッとして反論した。
「トゥーリの乳母は優しいよ。歌って揺すってねんねさせてくれるもの。」
宮宰は、トゥーリの普段使いの言葉に、蔑むような目を向けた。そして
「甘やかしているな。舐めるようにってやつだよ。獣の母親と同じ。卑しいな。」
と嗤った。
トゥーリは唇を噛んだ。悔しかったが
「トゥーリのアーマは、アーマは……!」
と言ったきり、言い返せなくなった。
「トゥーリさま、黙って。」
「この人、アーマのこと、嫌なこと言ったよ。」
老ヤールは、彼の肩をぽんぽんと叩いて、ここは自分に任せよという顔をした。老ヤールは、四人の貴族たちを見やって
「宮宰さま。主のお世話したるは、ラザックの誉れ高き戦士の娘にて、その父はテュールセンさまもようご存知。北の街道の野武士の頭目を討ち取った勇者にございます。」
と堂々と言った。
いち早く、テュールセンの公爵が反応した。
「おお、あの男か! ローラント殿は、勲に後れて悔しがっておられた。また、自慢にもしておられた戦士だな。勇敢で非道なことはせず、気性のよい男であった。あれの娘ならば、しっかりした女人であろうよ。」
トゥーリは、誇らしく、胸を張って宮宰を見つめた。
「そうだよ。宮宰さま。」
「躾がなっておらん。公達の身でヒダリギッチョなんぞ。」
宮宰は矛を納めない。はらはらしていた貴族の一人が助け舟を出した。
「まあまあ。左利きなんて珍しいものでもなかろうに。それがしの愚息も左利きですし……いや、直しましたがね。……普通に食べたり書いたりできれば、いいのではないかな。」
宮宰はにやりと笑い
「ここらでは珍しくなくとも、草原では、事情が違うのではないのかな? なにせ“左利きのアナトゥール”だからな。名前も同じアナトゥール。長じれば、左手に剣を握って、我らのためにしっかり働けよ。ご先祖にならって、命と引き換えに大手柄たてて。のう?」
と言った。
トゥーリは意味がわからず、眉根を寄せた。
「おじい、この人、何言っているの? アナトゥール、アナトゥールって。トゥーリのこと言っているの?」
「何でもないのです。トゥーリさま、早く召し上がれ。」
「早く大人になって、戦……ってわかるか? 戦に行って、しっかり人殺しに励めと申したのだ。」
「嫌だよ。怖いもん。」
「おお! 肝の据わらぬことで。あのローラント殿の息子とは思えん。また、あのソラヤさまの息子とも思えん。橋の下から拾われてきたのと違うか?」
宮宰がさも可笑しそうに嘲り高笑いするのに、いよいよ我慢ができなかったのだろう、テュールセンの公爵が怒鳴った。
「カラシュ! さっきから黙って聞いていれば、調子がよろしいな! 挙句の果てには、剣を握ったこともない身で、うざうざと……。私とて戦に行く時は怖いわ!」
宮宰は意に介さないで、テュールセンの公爵まで嘲った。
「そうかね。我が家は文化的な家系なんでね。わからんわ。武門は辛いですな。」
「おぬし、我が家業を見下しているのか!」
怒声と共に立ち上がるテュールセンの公爵を、同席の貴族二人が止めた。
「まあまあ、飯がまずくなります。ほれ、肉が出てきましたよ。うまそうですなあ。」
テュールセンの公爵は苦い顔で、席に座った。
卓の上には、大きな肉があった。
「ああ、本当だ。おいしそうだね。おじい、小さく切って。」
老ヤールは、肉を切りかけて、手を止めた。
「……これ、何の肉ですか?」
「豚だよ。」
宮宰がにやにやしながら答えた。
「何ですと!」
老ヤールは大声を挙げ、厭わしそうに肉を見た。
ラザックもラディーンも、豚は食べないという掟があるのだ。豚は不浄だと考えられていた。
「……猪でないか?」
貴族の一人が言った。目配せをされたもう一人も合わせた。
「ああ、猪だよ。心配しないで食べたらいい。」
「豚だって、豚!」
宮宰がだめ押しをする。
「豚を食べるとおなかこわすって。メンヨウさんのにして。」
「そなた、大公さまの下された食事を食べられないのか? 無礼な。」
「だって……豚は卑しいから食べられんって。」
老ヤールは、幼い主が物怖じもせずに言い返すのに危うさを感じた。
「トゥーリさま。これは猪といって、森にいる獣ですよ。豚に似ているけれど違います。森の獣は気高いから、召しあがっても腹を傷めんのです。」
「そう。」
老ヤールは涙を呑んで、幼君に豚肉を切り分けた。彼の言葉を信じたトゥーリは
「おいしいね。初めて食べた味。」
と言って、無邪気に食べ始めた。
テュールセンの公爵と、誤魔化しをした貴族たちは、その様子を見ていたたまれなくなり、黙って食事をした。
宮宰だけは
「皆、陰気くさい。通夜の会食とは違うぞ!」
と怒鳴り
「ラザックシュタール! そなた、その草原訛り、しっかり治せ。何を申しておるかわからんわ!」
と文句を言い、さっさと済ませて出ていった。
トゥーリに同情する者だけになった。貴族たちは口々に老ヤールを慰めた。先ほど追従した貴族も、憐れに思っていたのだろう。
「宮宰さまのこと……まあ、わかっているとは思うけれど、代々領地問題でシークともめ続けたから……。こらえてくれ。」
「はあ、これくらいのこと、こらえるほどでもありません。」
「あんたぐらい老成していると、同席の我らも楽ですわ。言っては悪いけど、ローラント殿の時は険悪だった。」
「喧嘩ですか?」
「そうではなくて。……あの調子で宮宰さまが嫌味を言うのだ。ローラント殿は黙って聞いている。彼は口が重かったからね、一言も口をきかない。そりゃあ、重苦しい中で食事するので、料理の味なんかわからん。」
「おお、そうだ。今日の比ではないよ。私ら、とばっちりが怖いので……ああ、腰引けてすまんね……黙っていると、宮宰さまは更に調子付いて……。そうすると、ローラント殿が暗い怖い目で宮宰さまを睨みつけるのだ。なまじ端正なご容貌ゆえ、凄味があった。すごい重圧感を感じつつ、食事をしたものだよ。」
「はあ……申し訳ないことです。」
老ヤールは、少しも申し訳ないとは思わなかったが、謝った。幼い主のことを思うのもあったが、何よりもここでは外様であることを重じなくてはならない。逆らったり、陰口に同調するのは得策ではない。
「ああ、何も責めているのと違うよ。そういえば、ローラント殿も突然のことで。小さい子を残して、無念だったろうね。それも、こんなに可愛らしい子ならば余計にね……」
「やめんかね。湿っぽい。」
「これは無様なところを……。」
テュールセンの公爵が窘めると、貴族たちは口を噤んだ。
「ところで、今日の献立、やはり豚ですか?」
「シークの前で言いにくいが……。宮宰のさしがねだろうね。」
聞いていたトゥーリは青くなった。
「豚、食べたの?」
「違うよ。あれはの、百姓の飼っている猪だよ。」
一人が優しく誤魔化した。
「まあ、そういうことだね。まさか、腹は壊さんから、あまり考えないようにね。」
老ヤールは、宮宰だけではなく、ロングホーンの貴族たちが、想像以上に草原の者を軽んじていると知った。こうして同情するのは一時で、後は何を言っているか知れたものではないと、暗澹たる気持ちになった。
よくよく警戒せねばならないと思った。
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