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 ローラントの葬儀がしめやかに執り行われた直後、トゥーリに都の大公から、お召しが掛かった。新たな臣従契約を結んで、授爵式をするのである。
 上京には、母のソラヤも同行することになった。
 今まで、たまに訪れる母は、弟を抱いて現れ
「元気か? わがままを言って、アーマを困らせるな。」
くらいのことを言って去ってしまう存在だった。
 乳母は優しくて不足のない人だが、弟のように母と過ごせないのは寂しかった。
 それが、母と一緒にいられるばかりか、旅行までできるのだ。トゥーリは嬉しくて仕方がなかった。
 都に到着した後も、母を独り占めにできるのが嬉しい。
「母さま、ずっといてね。」
 そう言って抱きつくと、母は微笑み
「では、母の言うことを良くお聞き。」
と言った。もちろんそのつもりだ。
「うん。なんでもするよ。」
「お勉強だからね。覚えてね。」
「はぁい。」
 ソラヤは、懐くトゥーリの扱いに少々戸惑いながら、来るべき宮廷での儀式の次第について教え込んだ。それすら、母に構ってもらえるというので、彼は喜んだ。
(大丈夫か?)
と母を心配させるほどだった。

 期日が巡り、宮廷に伺候する日になった。
 小さな草原の礼装を着つけられたトゥーリは、人形のように可愛かった。
 出かける前から、興奮して走り回っては、アーマに窘められた。
 初めてみる大公の大きな城に驚愕し、荘厳な内部を物珍しそうにきょろきょろしがら広間に入ると、たくさんの廷臣や貴族たちが綺羅として居並んでいた。わくわくした。
 母に手を引かれて大公の御前に進むと、興奮が最頂に至り、急に困った感覚が湧きあがった。
 彼はそのままを口にした。
「母さま、おしっこ!」
 静まり返った広間に、子供の声はよく響いた。皆が失笑している。ソラヤは赤面したが、冷静さを取り繕って
「ああ、だから、早めに言いなさいと言ったでしょう? おうちで聞いたでしょう?」
と窘めた。我慢するだろうと思った。
 しかし
「おうちではしたくなかったの。早めに言ったよ。まだ出てないもん。」
と、子供が抗弁した。余計に皆の笑いをかった。
(これ以上しゃべらせてはならん……)
 彼女は慌てて、乳母に連れて行かせた。
「大公さま、お許しあれ。不調法でして……」
と言ったものの、気弱なことを言ったような気になった。
「大事ないよ、叔母上。シークはまだ四つときいている。無理もない。」
 大人しい性格の大公が優しく言うのが、癇に障った。
「……四つだろうが、六十だろうが、シークはシーク。……皆! 何をいつまでも笑っている? 子供が小用するのが、可笑しいか? お前らの子供は、手水へ行かんのか!」
 宮廷にいたころの調子で貴族たちを叱責すると、皆が黙り込んだ。
 大公はため息をついた。
「相変わらず勇ましいことで。お鎮まりあれ。……しかし、綺麗なご子息。女の子みたいに可愛らしい。」
 大公は、子供を褒められれば、母親は喜び、機嫌を直すものだろうと声を掛けたが、ソラヤには逆効果だった。彼女は眉間に皺を寄せた。
「下手くそな愛想を……。女の子みたいな顔で悪かったな。しっかり下げておるわ! ……まあ、とにかく、今日から臣下になりますので、よろしく頼む。」
 年若い大公の優しい口ぶりに負けてしまいそうになるのが悔しくて、ついた殊更の悪態だった。夫に死なれた哀しさや幼い家長を持つことの不安は、皆には決して悟られたくないのだ。
 大公は困った表情になった。そこを宮宰が引き取った。
「大公さま、私からも一言よろしいですかな?」
「ん。」
「ソラヤさま、お久しぶりです。宮宰、カラシュの公爵です。お元気そうでなにより。この度のご不幸、衷心より……」
「宮宰! 早く言え。」
 ソラヤは、慇懃でいて、男勝りの自分を女らしくないと、いつも批判するような目で見てきたこの宮宰が大嫌いだった。草原のシークに嫁いでからは、あからさまな優越感を表すのにも我慢がならなかった。
 宮宰の言葉を急かすのに、わざと宮宰は自分の言葉をつないだ。
「衷心より悼みます。……臣下とはいえ、あの幼さで、勤めはどうなさるのですか? おむつをして、朝議に出られるのかな? ……襁褓のシークという方もおられましたなあ、そういえば。また、事あれば、木馬にでも乗って、二百四十旗の軍勢の指揮を執られますのか?」
 薄笑いを浮かべている。こんな嫌味に負けてはいられない。
「聞き捨てならんな。おむつ、とうに取れておるわ! おまけに襁褓のシークではなく、その父親のお名前をもらったのだ。」
「さようですか。それはいい。金髪のアナトゥールならぬ、黒髪のアナトゥールですな。そりゃあ、しっかり働いてくれるでしょう。……で、質問のお答え、差し支えなければ、お聞かせあれ。」
 あざ笑うような言い様だった。彼女は唇を噛んだ。
「朝議は、ラザックの老ヤールをもって代理となす。草原は私とヤール共が采配いたす。」
「なら、シークのおいでになる必要はありませんな。都とラザックシュタールを行ったり来たりするのが、唯一のお仕事というわけで。お子様のこと、体調崩されぬか心配ですなあ。」
 宮宰は高笑いした。
 ソラヤが目にもわかるほど怒り出すのに、慌てて大公が割って入った。
「控えぬか、宮宰。……叔母上、大事な幼きシークのこと、草原に戻って養育なさっては? 無理に参勤を強いるのは忍びなく……」
「いや。」
「ご成長を待って、その後、働いていただいても不都合ないが?」
「いいや。」
 宮宰が口を挟んだ。
「ソラヤさま、大公さまの有難い申し出ですよ? 無碍にお断りなさるのですか?」
 彼女は宮宰を睨みつけた。
「参勤免じるのなら、このまま都へ置きたい。宮廷の在りよう、身を持って覚えたらよい。例えば、宮宰の率直なる物言いなど。城内の私の翼に住まわせて、大公さまの小姓と同じく、お役目与えていただきたい。」
「住むのは構わないが、シークに私の身の回りの世話はさせられぬ。」
 とんでもないことを言うとばかりに、大公が拒否した。柔らかな物言いだった。頭ごなしに命令を下すことができない性質なのだ。
「身の回りの世話といっても、出来ることは限られている。食事の世話も衣装の世話も無理だよ。まあ、早起きだから、あなたをお起こしする役目にでもしてやって。シークだからといって気を使わなくてもよろしい。まだ、何の役にもたたぬゆえ、それくらいのことをせねば、格好がつかぬ。」
「気が進まない。」
「承知できないのか?」
「……叔母上には敵わんわ。言い出したら聞かんのだから。」

 そこへトゥーリが戻ってきた。彼は、母の言いつけは何でも守って喜んでもらおうと、涙ぐましい決意をしていた。
「母さま、おしっこして、ちゃんと手も洗ってきたよ。」
 それは確かに言いつけたことだった。
 晴れ晴れとした表情で、褒めてもらえるのを待っている。
 皆は笑いを堪えている。
(ああ、この息子は……)
 叱りつけたいところだが、皆の手前堪えるしかない。
「ん。」
とだけ呟いた。
(早く済ませて、この場から立ち去りたいわ……)
 しかし、慌てた様子は見せたくない。ソラヤは、いかにも落ち着いた風を装った。
「あのね、今から大事なことするの。教えたでしょう? あの方があなたのご主君になる方。」
「大公さま。」
「そうそう。お側へ行って、母さまの教えた通りのことをしてきてね。」
「うん。トゥーリの手袋をあげるんでしょう?」
「その前にお話しして。」
「うん。」
「憶えているの?」
「憶えているよ。」
「本当に?」
「ばっちり!」
 彼は自信満々だ。断言するから、彼女はかえって怪しい気がしたが
「……じゃあ、お側に行ってお話ししてきて。まずはお手手を差し出すの。わかっているでしょ?」
と促した。
「うん。」
 何でもないように答えるが、何をしでかすか不安ばかりだ。何しろ、整然と貴族たちの並ぶ広間で、物怖じもせず、手水に行きたいと叫ぶ息子なのだ。
 トゥーリは、壇上の大公の側に歩み寄り跪いた。だが、座っている大公に手が届かない。
 予想外の状況に、彼は少し困った顔をしたが、母に問うこともなく
「母さまの言うとおりにすると、手が届かないよ。どうしたらよい?」
と、直に大公に尋ねた。それはとても礼儀に適ったやり方ではない。
 ソラヤは慌てた。
 背後から、小声で
「アナトゥール! お前、何という無礼な振舞いするのだ。控えんか。」
と制止した。
 彼は不思議そうな顔をした。“無礼”という言葉の意味がわからないのだ。
 彼女は更に言い聞かせようと言葉を探した。
 すると、やり取りを見ていた大公が
「ああ、叔母上。仕方ないです。まだ小さいのだから。立ったままでいい。」
と言った。
「そう? 母さまは膝をついてって言ったんだ。」
「立ったままでね。」
 トゥーリは母親をちらりと見て
「はい。母さま、怒っているみたい。」
と眉をひそめた。

 母がやきもきして見守る中、トゥーリは教えられたとおり、両手を大公の手の中に差し出した。
(覚えていたようだが……。誓詞……なかなか憶えなかった……)
 子供はマイペースに続ける。
「うぅんと……“もはや身を養う手立ても、身を装う手立てもつかぬことは、衆目の一致することであるがゆえに……”……」
 そこまで言うと、彼は振り返って
「母さま! 言えたよ。間違わなかったよ。賢いでしょう?」
と言った。誇らしそうだ。
「先を……」
 ソラヤは辛うじて、怒鳴るのを堪えた。
「うん。“我、アナトゥール・ローラントセンはお手手を……”」
 彼女は慌てて遮った。
「アナトゥール! お手手ではない。言い直せ。」
 彼は考え込み
「お手手でなくて……あんよ?」
と彼女に尋ねた。
「諸手!」
「もろてって何?」
「何でもいいから、早く申せ。」
 トゥーリは納得のいかない表情で、考え込んだ。ソラヤは息子の肩を握りしめた。
「母さま、痛い……」
 途端に泣き出しそうな顔になった。
 大公は憐れに思い、自ら子供に教えてやった。
「両方のお手手のことだよ。大人の言葉だ。」
「そう。お手手でもいいのではない? なんで もろて ( ・・・ )なんて言うの?」
 生来の気の短さと妊娠中の気分の悪さから、ソラヤはとうとう怒鳴ってしまった。
「そう言えと申しておる! 母の申す通りにせんか! 早く“我……”から言い直せ。」
「……“我、アナトゥール・ローラントセンは諸手を挙げて、諸手を挙げて……”なんだっけ? 母さま。」
「この、馬鹿息子! “大公殿下にわが身を托身する”だ。さんざん教えたのに!」
「“大公殿下にわが身を托身する。”」
 トゥーリはむっとした様子で手袋を脱ぎ、大公に渡した。代わりに大公から、飾り箱が渡された。
「よくできたね。これをあげるから、大切にね。」
 彼は遠慮なく箱を開けた。中には秦皮の枝が一本入っているだけだった。目に見えて、がっかりしている。
「うん。トゥーリの手袋も大事にしてね。……でも、どうして木の枝なの? 大公さまの手袋をちょうだい。」
 手袋を渡すということは、相手に従うという意味だ。彼の言葉は、大公に自分に従えと命じていることになる。
「アナトゥール、いい加減にせよ。どんな大変なこと口走ったか、わからんのか!」
 大公はソラヤに目配せした。そして、トゥーリに
「大公さまの手袋はあげられないんだよ。寒がりなんだ。トゥーリの手袋もらったから暖かくなったよ。木の枝はね、秦皮の枝なんだ。ラザックシュタールの秦皮を知っているかい?」
と微笑みかけた。
「丘の上の大きな木でしょう? 父さまの鞍に乗っけてもらって、丘に上がったよ。」
「秦皮の枝は、ラザックシュタールのことだよ。」
「そうなの?」
「トゥーリの手袋の代わりに、ラザックシュタールをあげるよ。ラザックシュタールの街は持ってこられないからね。秦皮の枝が代わりだ。」
「ラザックシュタールの街はシークのものだよ。草原も。」
「そうだね。今日からトゥーリはラザックシュタールの侯爵さまだよ。」
「こうしゃくって何?」
「領主のことだよ。」
「りょうしゅって何? トゥーリはシークだよ。父さまが死んだから。父さまはね、トゥーリだけを寝床に呼んで、耳飾りをくれたの。ヴィーリは可哀想だけど、何もないの。」
 優しい大公は話しやすく、もっと話していたくなったトゥーリは次々に質問を繰り返し、思うままのことを話し始めた。
 ソラヤは、もう耐えられなかった。
「もう辛抱ならん。……もう済んだのだよ!」
「だって、お話して来いって言ったじゃないの?」
 子供は不満そうだ。教え込んまれた式典の意味など、すっかり忘れているのだ。
 柔らかく窘めたいところだが、ソラヤは怒りだしたら容易に留められない気性だった。
「もう話は終わりと申しておるのだ。洒落にならん話をぺらぺらと……」
 大公はうんざりして
「もういいよ。今度、お話ししようね。」
と、トゥーリを止めた。

 ソラヤは、トゥーリの手をぎゅっとつかみ
「大公さま、もうこれ以上この場に留まる勇気はさすがにないゆえ、退出のお許しを請う。」
と、精いっぱい気を落ち着けて言った。
「さようですか。城下へお戻りですか?」
「さよう。」
「都にご滞在のうちに、久方ぶりにご兄弟やご旧友と一度……」
「要らぬ。私がさんざん打ち負かした兄どもも、気心の知れぬ旧友にも会いたくない。」
 彼女はそう言い放った後、一歩大公の方に歩み寄り、ごく小さく
「……ギネウィスは息災かね?」
と尋ねた。
「外国のことでよくわかりませんが、歳の離れた夫君に大切にされているようです。……気になるのですか?」
「別に。公女の身分に相応しからぬ夫と聞いたが、穏やかに暮らしているならば重畳。」
 すると、トゥーリが彼女の袖を引いた。
「母さま、おねむ。」
「屋敷に帰ってから、寝なさい。」
「すぐ、おねむ。」
 彼は目を擦り、欠伸をした。
 一日のリズムがはっきりした子供だった。きっちり時間通りに昼寝や食事をしたがる。こうなったら、どこであろうと本当に眠り出してしまう。
「お前というやつは……場所柄考えんかね。しっかり目を開けておれ。」
「叔母上。寝かしてやったらどうかね? 何もそうつけつけ叱りつけなくても……」
「母さまはトゥーリを塔に閉じ込めたりするの。父さまが出してくれたけど。母さまは怖いの。父さまは優しいのに。」
「アナトゥール、黙れ。アーマ、息子を連れて行って寝かせて。」

 トゥーリが、乳母に連れられて出ていった。
 諸侯の前で、さんざん恥をかかされたと思ったソラヤは、早く退散したい思い一色だった。
「今日の行事も済んだゆえ、もう用はないだろう? 退出する。」
 内心とは裏腹な挑戦的な口調で言って、踵返した。
 そこへ大公が声を掛けた。
「ご子息はお休みだし、ちょっと菓子でも。……旧交を温めたいのです。」
 彼女は舌打ちした。無下に断ることはできない。
「旧交? ……よかろう。」


 居並んだ諸侯は、今日の重要行事も無事終了したというので
「可愛らしいお式だったね。」
などと感想をもらしながら、散会した。




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