3


 子供を寝かしつけた乳母は、早速舅である老ヤールと話を始めた。
「舅殿、私、怖いですわ。」
「恐れても仕方なかろう。もう、運命は回り始めたのだから。何もお前一人でお育てするわけではない。皆でしっかり援けてだな……」
 アーマが不安なのは、そのことではなかった。
「ええ……でもそのこととは違う。……ほら、あの時のことが、どうしても頭から離れなくて……」
 彼女は身震いした。そのわけは、老ヤールもよく見当がついた。
「あの時って……トゥーリさまの産養いの祝いのときのことか?」
「ええ。」

 産養いの祝いとは、生まれた子が落ち着いたころにする行事だ。
 巫女を呼んで占いをし、男の子ならば、父親が左耳に耳飾りをつける穴を開ける。いずれ一族を継ぐようになれば、父親から耳飾りを譲られることになる。
 臨終のローラントの行いは、死を悟った者のそれだったのである。
 また、耳飾りは個体特定の手段でもあった。彼らは戦になれば、耳を切ってそれを奪う。名のある一族ならば、耳飾りで素性が知れた。彼らは、それで勲の多寡を競うのだ。

 乳母と老ヤールは渋い顔をして、産養いの時のことを思い出した。そして、言葉を交わすことも忘れて考え込んだ。

 トゥーリの産養いの祝いは、とても盛大に営まれた。草原の全ての氏族長が祝いに集まって、賑やかな大宴会が催された。
 巫女の宣託は、トゥーリの両親とラザックとラディーンの宗族のヤールで聞いた。耳触りのいいことを告げられるだけに終わるはずが、その時は奇妙だった。
 巫女は占いの道具を取り出すこともせず、“御前さま”と呼ばれる最高位の巫女の言葉を伝えた。
「御前さまは、一月の終わりの真夜中に、突然お目覚めになり“シーク、ローラントさまのお子がお生まれになろうとしている”と仰せになった。常のこと。我々が見守っていると、明け方に“次の我々の主がお生まれになった”と仰せになった。これもいつものこと。」
 巫女は言葉を切った。考え込んでいるようだった。皆の先を促す視線を受けて、彼女は続きを語った。
「その後“はっきりと見えた”と仰せになった。」
 話を聞かれるのを恐れているような響きがあった。
 一同は、訝しげに顔を合わせた。ラザックのヤールが
「……何が見えた?」
と低く尋ねた。
 巫女は、予言の文言を小声で囁いた。
「なんだ、それ?」
 一同が声を揃えた。
「御前さまの予言である。」
 巫女は重々しくそう言ったきり、それが何を意味するのかは説明しようとしなかった。
「予言だって?」
「何やら……物騒な感じですな。やはり、名前が……」
「しぃ! ラディーンの。控えんか……。」
 二人のヤールの言葉を遮って、巫女が口を開いた。
「悪いお名前ではないと、御前さまは仰せだ。」
 ラザックのヤールは怯えを押し隠して、尋ねた。
「“左利きのアナトゥール”のご加護があるか?」
「その方はもう、地上のたいていの事には、ご関心のないものにおなりになった。唯人が思うように、不吉ではないと。……その意味はもともとヘレネスのいう、昇り来る太陽のこと。気にせずともよい。日の出と共に生まれ落ちた若君には似つかわしい。」
「でも、御前さまのその仰せは……」
 やはり巫女は予言の説明はしない。巫女自身にもわかっていなかったのだ。
「指環をお持ちした。裏に……文言の一部が彫りつけられている。ゆめゆめ忘れるな、予言を心に留めよとの、御前さまのご意思である。」

 謎めいた言葉に、皆が推量を始めた。
「老ヤール、どう思う?」
 ローラントが尋ねるのにも、ラザックのヤールは考え込むしかできなかった。
「はて……長生きしましたが、このようなことは、とんと……」
「御前さまは、人の齢を超えて生きるお方。人の子に推し量られるものではない。」
 巫女が厳しく咎めた。皆は黙り込んだ。
 すると、黙って窺っていたソラヤが不満を口にした。
「さっきから、黙っていれば……私の坊やにあれこれ申すな。」
「こちらの古い習慣ですよ、奥方さま。」
「なら、もっと晴れやかな予言をしてみせぬか。」
「まあまあ……」
 ヤール達が慌てて、ソラヤを留めた。
 巫女は、懐から袋を出し、逆さにした。ことりと指環が転がり出た。
「指環をどうぞ。身から離さぬように。」
 不機嫌そうだったソラヤだったが、巫女の差し出した指環を見て息を飲んだ。見事な美しい青色のサファイアが付いていたからだ。
「……素晴らしい石だわ。」
「東方の、秘められたる山国より来った、矢車菊の蒼玉と呼ばれる石。」
 ラディーンのヤールが感嘆した。
「矢車菊の蒼玉とは! 草原中の騎兵を賄えそうな値打ちものですな。」
 ソラヤは指環を改めて、現実的なことを口にした。
「殿の指環と同じ。殿の石は柘榴石だが……巫女や、意匠を考える手間を省いたのではないか?」
「いえ……」
 巫女は呆れていた。神秘を畏れる気持ちも途端に吹き飛んだ。
「ソラヤ。黙れ。」
とローラントがため息をついた。

 予言の内容は、他の皆には伏せられた。
 知っているのは、トゥーリの両親、二人のヤールとトゥーリを抱いていたアーマだけである。
 ソラヤは草原の者ではなく、占いなど信じない性質。まったく信じていない様子で、すっかり忘れているかのように口に出さない。
 ローラントも何がしか思ったようではあったが、口に出すことは一切なかった。
 しかし、他の三人は違う。一切の説明もない謎めいた言葉が、気がかりで仕方なかった。
 
 それぞれの物思いに沈んでいた二人は、目を合わせたのを機に話し始めた。
「私、アレのことを思うと……首の後ろがちくちくしてくるのです。怯えた獣みたいにね。」
「ああ。」
「“シーク、ローラントの息子アナトゥール、幼くして全てを得……”……トゥーリさまは今、 すべて ( ・・・ ) を得ましたわ。予言の最初の部分はこのことだったのね。当たったのよ。」
 ヤールは、自分の畏れを振り払うように言った。
「……偶然ではないのか? ……迷信だよ。予言なんぞ。」
「巫女を、それも御前さまを軽んじなさるのか?」
「そうではないが……。ほら、後の大部分は意味不明だ。」
「その時になったら、それと知れるのですわ。」
「なら、ないのと同じだよ。」
「本当にそう思いなさるのか?」
「……人の運命は変化するものだ。その時々の行いによってな。予言がそのまま成ることは稀だ。」
「御前さまの予言だし……」
 ヤールも実のところ、アーマと同じように、予言が当たったのではないかと感じていた。だが、自分の感覚を否定したかった。
「そんなことより、しっかり幼君を支えることだけ考えよ。なにせ、襁褓のシーク以来の幼いシークを持ったのだから。奥方さま……いや、後室さまとお呼びせねばならんのだな、あの方も身重でいらっしゃる。」
「ええ……」
 アーマは、予言のことをまだ不安がっているようだった。しかし、ヤールは現実の不安の方に立ち向かわなくてはならない気持ちだった。
「さすが、勇ましきソラヤさま。気丈であられるけれども。いずれ、都から授爵のお沙汰がある。その折はお前と儂とでお供するのだ。……しっかりせんか。ロングホーンに侮られぬように。な。」
 そう言って話を終わらせた。

 その時、寝間からトゥーリの声がした。
「アーマ! おなかすいたよ。」
「お目覚めだ。お前、しっかりお食事させたのかね?」
 やっとアーマが物思いから覚めた。
「ご夕食を召し上がらなかったのです。あんなことがあったから、仕方ありませんでしょう?」
「そうだな。」
 アーマは
「只今差し上げますよ。」
と応え、厨房に軽いものを用意させた。
 ヤールは膝を折って子供の目線になり、努めて優しく尋ねた。
「トゥーリさまは、ラザックのヤールをどう思いなさる?」
「おじい。」
 すぐさまの応えに微笑みが出た。
「“おじい”か。そのおじいがずっと一緒なのは、ならぬかの?」
「おじいが一緒はいいね。そうしてくれるの? いつも、すぐラザックのところに帰っちゃうのに?」
「ずっと一緒にいますよ。」
 ヤールが頭を撫でると、トゥーリはくすぐったそうに笑った。
 食事の配膳をしていた乳母が、聞きとめて尋ねた。
「氏族のことはよろしいのですか?」
「ご後室さまからお話があったのだよ。そば近くあって、幼いシークを守り育ててくれと。儂は息子に氏族の采配を譲るのだ。」
 ヤールは、トゥーリの手許をちらりと眺め、眉をひそめた。
「トゥーリさま、お匙を持つ手が逆ですぞ。」
 幼い子供が、好き勝手に匙を握ることはよくある。単にそれだけのことだと思った。しかし、トゥーリは
「トゥーリは、こっちのお手手でないと、ご飯が食べられないの。」
と困った顔で答えた。
(左利き……)
 不吉なことに思えた。“左利きのアナトゥール”を思わせ、非業の死と部族の変転を暗示しているように思ったのだ。
「乳母! 直せ!」
 アーマはバツが悪そうに、言い訳をした。
「ローラントさまが……いいと仰せで……武芸は右でないと困るだろうけど、食事や書きものは不都合ないとおっしゃるから。」
 ヤールはため息をついた。
「ローラントさまも、まったく……これでは“左利きのアナトゥール”ではないかね。」
「ええ……」
「ご後室さまは何もおっしゃらんのか?」
「ロングホーンの方ですから、あまり……」
「……ローラントさまは、左利きのアナトゥールのお怒りかったのかも知れんなあ。左利きの息子に禁じ名つけたから。」
「不吉なことをおっしゃる。」
 託っていても仕方がない。老ヤールは気を取り直して、利き手を矯正することを考えた。
「……トゥーリさま、反対の手でお匙を使ってみなされ。匙はこっち!」
 トゥーリは素直に右手に匙を持ち替えた。しかし、掬おうとしても、ぼろぼろこぼれてしまい、一向に食べられない。癇癪を起して匙を放り投げた。
 ヤールが匙を拾い、もう一度試せと渡したが、受け取りもしなかった。
「ほら。癇癪を起こして、召し上がらなくなってしまうのです。トゥーリさま、よろしいから、いつものお手手で召し上がれ。」
 アーマが左手に匙を向けたが、トゥーリは払いのけた。彼はヤールをぎっと睨んだ。
「もういい! ねんねするから、おじいはあっちに行って。アーマ、おっぱい。」
 アーマは、ヤールに目配せした。頑固な子供なのだと、彼女の目は語っていた。




  Copyright(C)  2015 緒方しょうこ. All rights reserved.