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 赤ん坊には、ヤール達の畏れる因縁深い名前が付けられた。ラザックとラディーンは言霊を畏れた。その名前を口に出すのさえ憚られる。
 彼らは苦慮し、名前を切り接辞をつなげた“トゥーリ” という愛称で呼ぶことに落ち着いた。
 シークの息子を愛称で呼ぶのに反対する者もあったが、それ以上に名前の因縁が恐ろしかったのだ。
 ソラヤは、乳母をつけることを一旦は受け入れたが、やはり嫌なものは嫌で、さんざん口説いた。しかし、聞き届けられることはなかった。
 乳母には、ラザックの老ヤールの息子の第一室が立った。乳の出る名流の女は何人もいたが、トゥーリの乳兄弟となる息子たちの様子、乳の質、気性など、全てにおいて、彼女が相応しいとされた。
 ソラヤは、難癖のひとつも思い浮かばない相手に、複雑な感情を抱いた。
 やがて、赤ん坊にローラントと同じ黒い髪が生えた。皆が父親に似ていると言うようになると、彼女はトゥーリを避けるようになった。そして、次の子を望んだ。
 ほどなく願いは叶い、第二子の男の子が生まれた。
 今度の子は、ソラヤの手許に置くことが許された。彼女は、ヴィーリと名付けられた弟息子を愛することで、気持ちを落ち着けた。

 相変わらず無口なローラントと口の減らないソラヤも仲睦まじく、第三子を懐妊した頃。
 ローラントが草原で難に遭った。
 馬に乗ったまま崖下へ落ち、運悪く身体が馬体の下敷きになったのだ。
 屋敷に運び込まれた時には、虫の息だった。ひどい状態に医者もなす術がなかった。
 やがて下血が始まった。ローラントは
(なるほど……これが死か……)
と悟り、息子を呼ばせた。
 トゥーリは父親の危難など知らず、弟と遊んでいた。父が自分だけを呼んでいると聞いて、喜んで父の寝室に行った。

 中にはヤール達が揃っていた。トゥーリが入って来たことにも気づかず、沈痛な面持ちで寝床を覗っている。
(何……?)
 不審な気持ちのまま立ち尽くしている彼を、気づいた皆が寝台の方へ押しやった。父の寝台の傍らには、母が跪いて泣いていた。
「母さま……父さま、おねむなの?」
「そう、静かにね。殿、アナトゥールですよ。」
 ソラヤが声をかけたが、ローラントは荒い息を吐くだけである。
「父さま、起きないよ。トゥーリと遊んでくれるんじゃなかったの? お膝に乗っけて、お歌をうたってよ。」
 子供の高い声だけが寝室に響いた。
「静かにって……」
「つまらん。歌って。」
 大きな声でわがままを言う息子に、ソラヤは苛立ち
「……黙れというのがわからんのか! 父さまはご不例なのだ。」
と叱りつけた。子供はきょとんとしている。
「ゴフレイって何? ……父さま、苦しそう。病気なの?」
 ソラヤはそれ以上子供に構っておられず、瀕死のローラントを食い入るように見つめた。ラザックのヤールが静かに諭した。
「トゥーリさま、お父上はお怪我をされたのですよ。」
「イタイイタイかあ。トゥーリはおとつい転んで、膝をイタイイタイして泣いたの。父さまは泣いたらいかんって言ったよ。……父さまはイタイイタイしても泣かないんだね。」
 子供の口調は不釣り合いに明るかった。
 ソラヤが哀願するのに、ローラントがうっすらと目を開いた。何か言いたげにしている。
「お願い! アナトゥール、黙って。ああ、殿。何です? 単語でいいから仰って。」
「耳……。」
「え? ……耳って何?」
 最低限のことしか言わないが、いつもの無口ゆえではない。応えられないのだ。
 ラザックのヤールが代わりにその意味を教えた。
「奥方さま。シークは、耳飾りをトゥーリさまにお譲りになる覚悟をなさったのですよ。」
 父親が息子に当主の証である耳飾りを譲るという意味は、ソラヤにもわかる。死ぬということだ。夫の容体はわかっているが、とても受け入れることはできない。
 彼女はヤールを怒鳴りあげた。
「口を慎め! 殿は死んだりせぬわ! 腹の子が生まれるのを楽しみにしていたのだ。今度は、娘がいいとおっしゃって……」
「何事も運命かと……」
 ヤールの顔が哀しそうなのに、ソラヤは言葉を失った。

 母に厳しく叱責され、黙って大人たちの会話を聞いていたトゥーリだったが、死ぬの死なないの話を聞いて恐ろしくなり、そばにいたラディーンのヤールの袖を引いてこっそり尋ねた。
「ねえ、父さまは死んでおしまいになるの?」
「いずれはね。」
 歳の若い、いつも陽気なラディーンのヤールが沈痛な面持ちで答えるのに、トゥーリは不安になった。
「父さまは、トゥーリに仔馬をくれるって約束したよ。前は、リュートの弾き方を教えてくれるって言ったの。なのに、死んでしまうの? 約束したのに。」
 約束があるから死なないと、自分に言い聞かせているようだった。
「仔馬はラディーンが差し上げますよ。」
「父さまからもらうんだ。」
「お父さまはご不例なのですから。」
「……父さまは嘘つきだよ。シークなのに。」
 拗ねて、ラディーンのヤールを困らせていると、ラザックのヤールが彼を呼んだ。
「トゥーリさま、お父上のお側においでなさい。」
 彼は父の寝台に寄ったが、大きな寝台で、側に寄ってもよく父親の様子が覗えない。察したラザックのヤールが、彼を寝台の上に抱き上げた。
 父は青い顔をして、荒い息で横たわっている。子供心にも、これは大事だと悟った。彼は慌てて寝台から飛び降り、俯いた。
 その時、父はゆっくり目を開けた。そして、今まで死にかけていた人間とは思えないような大声を出した。
「アナトゥール! 顔を上げよ!」

 一同は驚愕した。トゥーリも、出かかった泣きべそをひっこめた。ソラヤが慌てて、ローラントの口許に耳を寄せた。
 ローラントはソラヤに何か囁き、再び苦しい眠りについた。彼女は目許を拭い
「もう良いと仰せだ。」
とだけ皆に告げた。

 トゥーリは子供部屋に帰された。父が息を引き取る瞬間を、まだ幼い彼に見せるのは忍びないという気遣いだった。
 さっきまで一緒に遊んでいた弟は、もう自分の部屋に連れていかれていた。余計に寂しくなった。彼は乳母に抱き付き、胸に顔を埋めた。
乳母 ( アーマ )、父さまは死んじゃうの?」
 アーマが否定してくれれば、という期待はあっさり裏切られた。
「悲しいけれどそうですわ。」
「……死ぬって、何?」
「もう会えなくなること。」
「嫌だ。」
「親は子供より先に死ぬものですよ。アーマの父も母も死にました。」
 口調は優しかったが、心を寒くさせる言葉だった。
「母さまも死ぬの?」
「お母さまはお元気でしたでしょう?」
「うん。……アーマも元気だよね?」
「ええ。……あらあら、泣かないで。」
 母やアーマもいつかは、父のように死の床に横たわるのだと想像すると、涙が止まらなかった。
「母さまもアーマもいるけれど、父さまもいないと嫌なの。トゥーリはご機嫌が悪くなっちゃうよ。」
「お父さまはお空から見ていてくださいますよ。」
 彼は一頻り泣いた。やがて、年齢には辛すぎる想像に疲れ
「……なんだか、おねむだよ。」
と言い出した。
「あら、ご飯は?」
「もういらない。アーマ、おっぱい。 」
 アーマは、乳房を出して彼を抱き寄せた。
 ひどく乳離れの遅い子供だった。もう乳も出ないのに。
 彼女は何度も止めようと試みたが、火のついたように泣いた。草原の氏族のところに残してきた息子達が、あっさりと乳離れしたのと比べては不安になったが、もう今では諦めて考えないでいた。

 トゥーリは乳母に添い寝され、いつもより早く就寝した。
 その夜遅く、ローラントは亡くなった。三十を少し過ぎたばかりの享年だった。

 まだ夜も明けきらぬのに、ローラントの最期を看取った者たちが、トゥーリの子供部屋を訪れた。
 深夜に起こされ、正気がつかない彼は、寝台の上に座ったものの
「眠い。」
と言って、またアーマの乳房を探った。
「皆さまは、トゥーリさまにご挨拶にいらしたの。起きて。」
「ヤール、おはよ。」
「そうではなくて……」
 アーマが促したが
「真っ暗……おやすみ、ヤール。」
と言って、横になろうとする。
「尊きシークにご挨拶申し上げる。ラザックのヤールにございます。」
「知っているよ。」
「お跨ぎあれ。」
「お布団からでるのは嫌。」
 ラザックのヤールは苦笑しながら、布団の中の彼の脚に頭を擦りつけた。
「暗きうちよりご無礼つかまつる。ラディーンのヤール。小さきシークにご挨拶申し上げる。」
 ラディーンのヤールも同じように頭を擦りつける。
 彼は、ヤール達の態度が変わったことに気づいて、不安そうにアーマに尋ねた。
「アーマ、これ、父さまにするご挨拶だよ。」
「今日からは、トゥーリさまにそうするの。トゥーリさまがシークだから。」
「シークは父さま。」
「お父さまは亡くなったの。」
「ええっ!」
 眠気が途端に消えた。
「嘘……ヤール?」
「先ほど、ローラントさまは亡くなられました。」
「死んだの?」
「はい。もうさほどお苦しみにはなられなんだ。」
 ラザックのヤールがはっきり宣言したが、それは辛すぎて子供の心には受け取れない。彼はしくしく泣き出した。
「今は泣かないで。皆さまが去ってから。ね。」
 アーマに窘められても、涙は止まらない。更に高らかに泣き出した。重ねて窘めようとするアーマを、ラザックのヤールが諭した。
「よいよい。草原の男は、三度だけ泣いても許されるそうだ。ひとつは戦に負けたとき。ひとつは母に死に別れたとき。そうして、最後はシークの亡くなったとき。我々も先ほど、ローラントさまのお寝間で、さんざん慟哭していたのだ。」
 そして、彼はトゥーリの方に向いて
「でもね、トゥーリさま。お父上のご葬儀の後、あなたが泣くのは、一回だけ。お母上の亡くなったときだけですぞ。」
と言った。目をじっと見つめていた。大事なことだと言わんばかりだった。
「なんで?」
「ラディーンもラザックも、戦に負けないからですよ。勝つまで引かんのだから。」
 その意味がわかったのかわからないのか、トゥーリはまた泣き叫んだ。
「嫌だ。嫌だ。トゥーリはシークにならない。父さまが死ぬのは嫌。」
「もう死んだ。言っても遅い。」
「巫女に頼んで、連れ戻して。」
「困ったな……」
 堅物と言われたラザックのヤールは、うまく子供を扱えなかった。ラディーンのヤールが見かねて、助け船を出した。
「まあ、まあ。ラザックのヤールよ、言ってもお解りにならんよ。まだ幼くていらっしゃるのだから。トゥーリさまはお父上によう懐いていらしたし。父親を亡くした子に、泣くなと言っても無理ですわ。」
 ラザックのヤールは、厳しい顔で決意を表明した。
「……我々でしっかり守り育てねば。」
 ラディーンのヤールも同じ気持ちながら、トゥーリのあどけない様子が可愛らしく思えて
「我々の小さき親父ですからな。」
と言った。

「……ラディーンの。ローラントさまのご葬儀の手はずは頼んだぞ。儂は乳母に少し話がある。」
「承知いたしました。小さきシークには、およいのところ失礼つかまつった。」
「シークじゃない!」
 ラディーンのヤールは、苦笑しながら退出した。
 トゥーリは手足をばたつかせて、泣き叫んでいる。アーマが抱き締めたが、背を反らせて号泣した。
 ラザックのヤールも、しばし退出するしかない。
「アーマ、お慰めしてさしあげんか。それまで儂は席をはずしている。」
 あやしても、宥めても、トゥーリはさめざめと泣いて、一向に機嫌が治らなかった。アーマはため息をついた。乳房を吸わせて寝かしつけるしか術がない。




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