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 時は、左利きのアナトゥールの頃から、数百年の後世に下る。

 ラザックとラディーンのシークは、若いローラントであった。
 草原の民が他を征服するたびに複雑に混血していった結果、草原の者は容姿に恵まれていたが、更にその血が凝った集大成がこれだというように、彼は飛びぬけた美貌の持ち主であった。
 瞳の色はこの地の民にある碧眼であったが、東の血と思わせる漆黒の髪をしており、そのせいか不思議で異国的な雰囲気があった。
 彼は年老いた父から家督を継いで宮廷に伺候したときから、都の貴族たちの注目を得た。
 豊かなラザックシュタールの主であり、無口ではあったが、請われれば草原の情熱的な恋の歌を美しい声で歌った。しかし、大人しげな印象にも関わらず、軍役に就くと恐ろしく念入りな戦をしてくる。
 貴族たちは、彼のともすれば残忍にも見える戦場での行いを畏れた。多くの姫君は神秘的だと言って彼に恋をしたが、彼が選んだのは、先の大公の妹であるソラヤ公女であった。
 ソラヤ公女は麗しい外見とは全く違い、勇ましく男勝りの気性で、言い寄る求婚者たちを馬場に連れ出しては打ち落とすような激しさがあった。誰もが美しいが気性が荒すぎて敬遠するようになり、当時としての適齢期を過ぎても、彼女は独身であった。

 その二人がいつの間にか愛し合うようになり、遅めの結婚をした時、都の人々は皆驚いた。二人に特に接点があったとは見えなかったからでもあるが、ロングホーンの者は草原の者を異質だと当たり前に考えるようになっており、大公家の娘が草原の者に嫁ぐのが一番の好奇の目を誘ったのだった。
 様々な噂話のされる宮廷を離れて草原に帰ると、すぐにソラヤは懐妊した。
 ローラントが彼女のことを心配しながら上京した後、冬の明け方に男の子が呵々の声を挙げた。
 すぐさまラザックが一騎、吉報を持って都に旅立った。

 ソラヤは産屋で、初めて女子に生まれたことを神に感謝した。しかし、都のローラントが二か月後にしか帰ってこないことを思うと、寂しさを感じた。
 数日後、ソラヤが赤ん坊の傍らでうとうと眠っていると、遠慮なく産屋の扉を開けてローラントが現れた。彼は驚く彼女を一瞥して、黙って赤子の産着を脱がせ始めた。長衣の下にぐるぐる巻かれた産着に手間取っている。ソラヤは
「殿さま、お帰りになられたのですね。でも……何をしているの?」
と尋ねた。
「脱がしている。」
 見ればわかることを短く答える。
「……何故?」
 いつもローラントはこちらが促さねば答えない。
「証拠物件確認。」
 真面目な顔をして答えるので、彼女は笑い出し
「ついていますよ。そんなこと嘘ついてどうするの? ね、ついていたでしょ。納得いきましたか?」
と言った。彼は不満そうに
「寝ている。」
と言う。起きているところが見たいのかと推測したが、赤ん坊をまた寝かしつけることを思うと、起こす気にもならない。
「よく寝る子なの。でも起こさないで。大変だから。」
 彼はそっと赤ん坊をゆりかごに戻すと、赤ん坊を見つめたまま、また短く言う。
「顔、見たい。」
「帽子をはずしたら?」
 彼は彼女の言う通りに、起こさないように注意しながら、深く被せてある帽子を外した。が、今度は困った顔をして眺めている。いつものように彼女が促した。
「何です? 相変わらず口の重い人ね。単語しか話せないのですか? 歌の文句は流麗に出てくるのに。何です? 坊やの顔が気に入らないのですか? 産婆が男前になる顔立ちだって、感心していましたけど?」
「顔つきと違う。」
 どうも言いたいことがわからない。言葉使いも少しおかしい。感情をあまり表さない男だが、動揺しているようだった。
「顔つきって……言葉使いがおかしいわ。顔立ちです。何が違うの? ラザックの老ヤールが、殿の赤ん坊のころによく似ていると申しておりました。瞳の色が殿と同じ。きれいな緑色。満足かしら? ……何です? 単語ではなく、文章でお話あれ。」
 彼女は笑いながら促したが、また短い応えが返ってきた。
「頭がない。」
「なんという恐ろしいことをおっしゃるの! あなた、盲ですか? 首はついていますよ?」
 彼女がからかい大笑いすると、彼はやっと文章で話した。
「……ソラヤよ! 髪の毛が生えていないではないか! これ、ずっとこのままなのか?」
 彼がかすかに当惑しているのを見取って、冗談交じりに
「頭って、頭髪のことかいな。なら、そうおっしゃいな。まったくまどろっこしいんだから……。毛が薄いのでしょうに。髪の毛の生えていない人がいますか?」
と言うと、今度は問いかけるような目で言う。
「禿げている人、いるよ。」
「ああ、あれは年寄って禿げたのよ。からかっているの? 今に坊やに毛が生えます。」
「そう。」
「何か他に言うことないの?」
「……ソラヤよ、息子を与えてくれてありがとう。お前も口の減らぬことで……いや、元気そうでなにより。」
 いちいち促さねば気持ちを語らない夫は、気が短く口数の多いソラヤにはもどかしいが、時折見せる不釣り合いに幼い素顔が愛しくもある。

 シークの戻ったのを聞いたラザックのヤールとラディーンのヤールが、連れ立ってやって来た。口々に祝いの口上を述べた。
「子供の名前、考えてきた。」
 ローラントがうっそり言うと、ヤールたちは嬉しそうに頷いた。
「お父上のお名前をいただくのですか?」
「誉れ高くあられたからな。相応しきお名前かと。」
 ところが、彼は意外なことを言い出した。
「いや、アナトゥールと……」
 ヤールたちは途端に顔を曇らせて、黙り込んだ。年老いたラザックのヤールが静かに、しかし厳しく
「……それはなりませんぞ。」
と諌めた。ラディーンのヤールも反対した。
「そのお名前は不吉にございます。……左利きのアナトゥールよ、お許しあれ。」
「何故?」
 二人のヤールは、何を当たりまえのことをと言わんばかりの表情になり
「答えずとも……」
と言ったが、ローラントは関せずと言った風である。
「信義厚く、最も名誉高きシークではないか。」
と言った。
 ラザックのヤールが
「いかにも、左利きのアナトゥールのご生涯は、我々のかくありたしと思うものではございますが……。理想は理想でございます。名前の霊が若君の行く末に、同じような運命をもたらさないかと不安です。」
と言って、ラディーンのヤールを見た。ラディーンのヤールも
「また、左利きのアナトゥールから後の我々の顛末をお考えあれ。ロングホーンの臣下に甘んじて、何人のシークが辛酸をなめ、戦いのうちに斃れたか。」
と言葉を重ねて、ローラントに考え直すようにという顔をした。
「ラディーンよ、大公家を誹るのは許さん。その大公のおかげで、襁褓のシークは生きながらえたのではなかったのか?」
 口数の少ないローラントが長く話し出すときは、いつも苛立ち始めた時だ。しかし、ラザックのヤールは構わずに諌めた。
「ラディーンの申すのも故なきにあらず。左利きのアナトゥールの築かれた絆を守って、我々はロングホーンに尽くした。しかし、もともとは王家の臣下として、二者は対等であったはず。もちろん恩は受けたが、我々も多くを返した。なのに、今や我々は大公の臣下です。ロングホーンの眷族も決して相容れようとしない。」
 ローラントは黙って聞いている。考え直しているのだろうか、そうならばいいとヤールたちは言い連ねた。
「アナトゥールさまのお名前は尊い。しかし、羇備の運命の担い手として、その名は忌まわしいものなのです。」
「その証にその名を持つシークは代々どなたもおられません。」
「お考え直しあれ。」
 最後の言葉が終わらないうちに、ローラントはきっぱりと言った。
「だからだよ。ロングホーンと新しき絆と結び、新たな運命の担い手となることを期待してその名を与えるのだ。息子の名前はアナトゥール。 ローラントの息子・アナトゥール ( アナトゥール・ローラントセン ) だよ。 以上。」
「しかし……」
「黙れ、ラディーン。」
 睨みつけられたラディーンのヤールは平伏した。シークの命令に背くことなど、許されないのだ。

 奥からソラヤが、尋常でない様子に気づいて声をかけた。それに応えて、ローラントは二人のヤールを退出させた。
「ヤール達、何を大声を出していたのです?」
「子供の名前のことだよ。」
「あら、なんて?」
「アナトゥール。」
「古風な名前ね。左利きのアナトゥール?」
「それでヤール共が怖気づいた。」
「迷信深いことです。」
 うんざりするといった様子で、ローラントが託った。
「金色の髪が生えてきたら、また騒ぐ。別名“金髪のアナトゥール”だからな。」
「あら、それはわからないわ。私に似たら金髪だわ。」
 草原の生まれではないソラヤには、金髪のアナトゥールに対する草原の者の気持ちがいまひとつわからない。軽くそう言うと、彼はくだらないとばかりに鼻で笑い
「どうでもいいわ。毛の色くらい。青い髪の毛でも生えてきたら別だが……。この数日、飯も食わず、寝ないで駆け戻ったというのに……。納得のいく名前も思いついて気分がよかったのに……。頭にくる。」
と言った。最後は低く呟くようだった。
「……お怒りになると、口数が増えますのね。」
 彼女が笑いかけると、彼はぷいっとそっぽを向いて、また黙り込んだ。
 赤ん坊が小さく泣き始めた。彼女は慌ててゆりかごから抱き上げて、さも愛しそうに
「あれあれ……。騒ぐから、坊やが起きてしまったわ。お乳かしら?」
と言って揺すった。
 彼は驚いて振り向き
「お前、自分の乳を与えているのか? ならんぞ。ラザックから乳母を召し出す。」
と咎めた。
 彼女はぎゅっと赤ん坊を抱きしめて
「嫌です。乳がよく出るのに。自分で育てたいのです。」
と抗弁したが、厳しい言葉が返ってきた。
「ならん。公女が下々の真似をしてはならぬ。ラザックのヤールに申し伝えるゆえ、そのようにせよ。」
「でも……」
 彼はため息をついた。
「言うとおりにして。もう疲れたよ。」
と言った。厳しさは消え、ひどく疲れた口調だった。
 彼女は抗弁する気が失せて
「はい……」
と受け入れた。
 また黙り込んだ彼が、何やら落ち着かないでいる。彼女はいつものように促した。
「何です?」
「風呂。」
 子供のことで何か言いだすのかと思ったら、まったく違うことを言い出した。子供のことはもう済んだと思っているようだった。彼女はふき出した。
「ああ、どうぞ。小姓に申し伝えておきます。」
「飯も。」
「厨房に伝えます。」
「それから、すぐ寝る。」
 いつもながら、最低限のことしか言わないのが可笑しい。彼女は笑い声を挙げた。
「殿はメシ、フロ、ネル、しかおっしゃいませんな、基本的に。こんなご様子、ほら、私の若い姪のギネウィスが知ったら……」
 彼女は、かつてローラントに熱を上げていた若い姫君の名前を出した。その姫君のことは、彼女の気持ちを多少揺るがすところがあった。その名前が彼にどう作用するか探る目を向けたが、彼は涼しい顔で
「嫁いだよ。」
と答えた。
「あらら……どこへ?」
「知らん。」
 興味すらないようだ。ギネウィスのことが気の毒に思われるような無感情さだった。
「知らんって……。殿、どちらへ?」
 彼は怪訝そうに
「風呂。」
と答えて、出て行った。

 ソラヤは苦笑した。
(相変わらず……人情の機敏に疎い男……)
 そして、ローラントが寝物語に“左利きのアナトゥール”の話をしていたのを思い出した。憧れている英雄の名前を息子に与えたのだ。誕生を喜んでいるのは間違いない。
「坊やにも素っ気ないの……? でも、お父さまは気に入ってくれたようよ。アナトゥール……」
 彼女は赤ん坊に乳を含ませた。



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