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 その数世代後。
 王国の都には、先細りの王家に年老いた王と世継ぎの王女が一人。
 古い王朝に以前の勢いはなく、群雄割拠する草原と海から侵入を繰り返す入江の民が台頭し、国内は乱れ始めていた。
 入江の民は数年前、河伝いに草原にまで侵入し、ラザック族と交戦する始末である。その際、ラザックの年老いた 大族長 ( シーク )を捕縛し、神への生贄と称して、血の鷲という残虐な方法で処刑した。
 草原での大規模な略奪を終えて、帰途に就く入江の民を討伐したのが、王家に仕えるロングホーンの若いシークだった。彼はラザックの老シークを処刑した入江の民の長を捕らえ、草原の深部にあったラザックの宿営地に赴き、後継の息子に引き渡した。
 “左利きのアナトゥール”と呼ばれる後継の息子は、自分より若いロングホーンのシークの武勇と寛大さに感服した。
 そして、必ずこの大恩を返すことを約束した。
 ただ、勇者として有名であったがゆえに、父の仇に後れたことは彼の心に恥として刻まれた。

 それから数年後のことだった。海から入江の民の大襲撃を受け、都が落城した。
 老王は混戦の中で命を落としたが、世継ぎの王女は、ロングホーンのシークとその軍勢に守られて、からくも城壁の外へ逃れることができた。
 しかし、都は丘陵に囲まれている。彼らは近郊の高台の隘路に追い込まれて、窮地に陥った。
 その時、忽然と現れた草原の軍勢が、敵の背後に襲い掛かった。戦の風向きが変わった。
 王女の一行は草原に逃げ込んだ。
 どうにか最初の窮地を切り抜けられたのだ。

 風の吹きすさぶ草原の、僅かに盛り上がった丘の影。小さな天幕がひとつ張られている。細い月に照らされ、心細げに見えた。
 中には王女とロングホーンのシークの二人が向かい合わせに座っていた。二人とも無言だった。
 王女は静かに背を正しくして座り、目の前の細やかな食事を見つめている。ロングホーンのシークは、ちらちらと彼女の様子を見ては、溜息をついている。
 風の音、兵の小さな話し声、馬が鼻を鳴らす音、どれもが不安感をかき立てた。
 突然、彼は剣を手に立ち上がった。王女に目配せをし、戸口に立ったが、抜きかけた剣を納めた。
 戸口の皮を上げて、男ひとりが顔を覗かせた。じろりとロングホーンのシークを見、天幕に入ってきた。
 大柄な男だった。赤銅色の日焼けた肌に、茜の威し化粧を施している。熊の皮を羽織り、札を連ねた昔ながらの鎧をつけていた。
 剣を右に帯びている。左利きなのだ。そして、何より目を引くのは、輝く黄金の長い髪だった。
 王女はわずかに身震いした。彼はそれに気づき、鼻を鳴らした。
「“左利きのアナトゥール”。」
 彼は野太い声で名乗り、王女の前に腰を下ろした。睨むような強い目で彼女を見つめている。
 ロングホーンのシークは、王女の右に座った。
「今後の策だが……」
 アナトゥールは、声の主を見ることもなく、言葉を遮った。
「策などない。」
 王女は、アナトゥールの強い視線を真っ直ぐに受けた。先程の恐れた風は、今は全く無く、無表情に見つめ返していた。
 沈黙が流れた。
 やがて、ロングホーンのシークはアナトゥールの肩を叩き
「少し……外で話そう。」
と促した。

 アナトゥールには、滅び行く王朝にこだわる理由がなかった。
「ロングホーンのシークよ、何故王朝の為に命を懸けるのか?」
 ロングホーンのシークはアナトゥールに、臣従するという意味を理解してもらいたかった。
「ラザックのシークよ、臣従しているからだよ。同源のお前ならわかるだろう。我々にとって、一度した契約の重さを。」
「……契約は神聖で破ることは許されない。しかし、お前の契約の相手は、先頃死んだではないか。相手の無くなった契約などないのと同じこと。昔のように、草原へ還れ。」
「それはできない。」
「何故?」
「ずいぶんと時が経ったのだよ。何代にもわたって王朝に仕えた我々には、もう長角の山羊を追って、放浪する暮らしは耐えられないのだ。」
「できるさ。ラザックも傍流のラディーンも、今でも馬と羊を追っている。自らの家畜の乳を飲んで肉を食らって、羊毛をまとって、天幕に暮らしている。同源と先に言うたではないか、お前らにも同じ祖先の血が脈々と流れているはずだ。」
「いや、我々には遠いことだよ。……髪を切り、絹をまとって、山海の珍味を口にして、赤い葡萄の酒を飲み、石造りの邸に住まいする我々にはな。もう戻れない。」
 昔と同じく草原で暮らして、何の不自由も感じていないアナトゥールには、理解できないことだった。嘆かわしいとさえ思えることだった。
「情けないことだ。元をただせば弟の部族が、そこまで堕落していようとは。元の暮らしに戻れぬまでも、切れた契約の為に無駄な戦いをすることはない。」
「いや、契約は切れていない。王統が切れていないのだから。王女がいる。」
「武勇なる若いシークよ。女人と契約する戦士などいない。」
「……私の妻になる女なのだ。」
「なら、話は早い。女を連れて草原へ還って、邸を構えたらよい。」
 アナトゥールは淡々と、簡単なことだという顔で話す。ロングホーンのシークはとうとう
「アナトゥール! アナトゥールよ! 草原で暮らせる女ではないのだ。」
と大声を出した。
 アナトゥールは怯むでもない。
「女はすぐ環境に馴染む。」
「そうではない種類の女もいるのだ。誇り高い王女に、草原の名もなき女となって生涯を送れと申し上げるのは……不憫だ。」
「女を憐れんで、自らは死地に赴くというのか?」
「憐れんでいるのではない、愛しているのだよ。私にはもう捧げるものが、自分の武運と命しかないからな。」
「それで満足なのか?」
「明朝王女をお前に託して、追撃を迎え撃つ。王女を草原の深部へお落とししてくれ。そして、いつか都にお戻しして王位に就けて差し上げてほしい。」
 ロングホーンのシークは苦しそうに顔を歪めていた。
 アナトゥールには、彼の心が理解できなかった。だが、その闘いを諦めさせることが無理だということだけはわかった。
「……王女は説き伏せたのか? 納得してもらわんことには、私が扱いに困る。」

 二人のシークは、天幕に戻った。
 王女は身動きすらしなかったように、先程と同じ様子で座っていた。
 アナトゥールは、ロングホーンのシークが王女を説得するのを傍らで聞いた。
 王女が静かに頷いた。ロングホーンのシークが丁寧にお辞儀をして向き直り、アナトゥールに退出しようと目配せをした。
 出ていく二人の背中に、王女がぽつりと言った。
「ロングホーンよ。お前はこのたび出陣したれば、もうわたくしの許へは還らぬつもりでいるのか?」
「さようにございます。」
「お前がいなくなれば、どんなに心細く思われるであろう。」
「ご安心あれ。アナトゥールが、ラザックのシークが草原へお落としすると、約束してくれたのですから。助けを得て、王統をおつなげすることだけをお考えなさいませ。」
「王位に就いたとしても、尊く古い王朝の最後の王となるだろう。夫無くしては、王統はつなげない。」
「殿下の左にふさわしい方が、いずれ現れるかと存じます。その方と。」
「それは、わたくしの夫になるべきお前の命令か?」
「……畏れ多い仰せかと。」
 白々とした口調だった王女は、その言葉に感情を露わにした。
「二夫にまみえるつもりはない! お前をなくして王になって何が嘉しきかな。わたくしの右で仕えると申したではないか。ロングホーンのシークは二言するのか?」
「無理をおっしゃる。先ほど、わかったとおっしゃったではありませんか。」
「亡き父を思えば諾と申したが、わたくしはお前と共に……」
「みなまでおっしゃってはいけません。お父上の最期をお忘れなく。」
「父の死と共に王朝は終わったのだ。輝く髪のアナトゥールよ、明朝わが夫が出立した後、わたくしの引導を引き受けておくれ。死に後れたくないのだ。」
 王女はそう言って、ほろりと涙を流した。ろうたけた美しい顔に、涙がぽろぽろとこぼれた。

 無感情に話を続けてきた王女の内面が、どれほどに激しく揺れていたのか。それを知ったアナトゥールは憐れみを感じた。
「どうあってもと言うなら引き受けんでもないが、女を斬るのは気が進まぬ。それに二人とも死ぬれば、何の為の戦かわからぬ。」
「この度が私の死に所なのだよ。この方を生かす為ならば、何の恐れもない。」
 ロングホーンのシークの声には静かな決意が感じられた。王女は辛そうに眉根を寄せた。
「だが、王女も死ぬと言う。お前は王女の為に王朝を守りたいと言い、王女はお前と王朝をつなげたいと言う。二人とも生き延びて王朝をつなぐことを考えんのか?」
「今は、草原にお落としするので精一杯だ。」
「落ち延びた後はどうするのだ?」
「残った氏族をとりまとめて、都の奪還を計る。私の従兄弟のテュールセンが戻って援けてくれるだろう。」
「では、お前の従兄弟のテュールセンと王女は王朝をつなぐのか?」
「それは……」
 ロングホーンのシークは言い淀んだ。そこへ王女の厳しい言葉が飛んだ。
「それはならん! 都の奪還者に与えられる褒賞に、この身に成り下がれと申すのか?」
「殿下……」
「このような談合は不快だ。シークよ、わたくしを殺せ。今すぐ。不名誉の生をさらすより、慕わしいお前の手で死ぬ方が幸せだ。」
「そればかりはお許しあれ。私の生きる糧であった美しい姫さまが、あたら若い乙女の身で儚くなるなど。それもこの私のような武骨者の手にかかるなどと。どうあってもというのなら、私は退出しますのでその後、アナトゥールに……」
「断る。女を手にかけるのは嫌だ。それも、恩義あるお前の恋人を殺せば寝覚めが悪い。」
「……どうしたものか……?」

 苦しげに思案するロングホーンのシークを一瞥し、アナトゥールは遠い目をして、考え感じたことを述べ始めた。
「愛とは……不思議で厄介な感情だな。勇敢な戦士に、恋人のために命を捨てると言わせる。私とて妻のある身だ。それぞれ愛しいと思う。妻たちのために命を捨てるかと問うてみたが……、命までは捧げないな。生きてこそ愛し合えるものだからな。しかし、羨ましくもある。そんな相手と巡り合えるというのは、たいへんな喜びだろう。」
 剽悍な草原のシークが愛などについて語ることが、ロングホーンのシークには意外なことであった。嘲りなのだろうかと疑った。
「私を情熱に浮かされたと……?」
「話は終わっておらん。聞け。……お前たちの在りように心を動かされたのだ。二人で草原に落ちよ。追撃は私が迎え撃つ。」
「申し出はありがたいが……。」
「黙って従え。私にも理由のない提案ではない。お前が父の仇を私の許へ連行して来た日のことを思い出してみよ。長征先という口実はあったが、私が父の仇討ちに後れをとったことはかわらぬ。お前は虜囚を自ら始末しても良かったのに、敢えて生かして私の許へ連れ、首を落とさせてくれた。恥じ入るばかりだ。」
「私の行いはお前の名誉を損なったか?」
「いや、感謝している。しかし、私は復讐に後れた自分の不甲斐なさが情けない。いつも胸の奥に熾きのようにくすぶっている。この不名誉を雪ぐ機会が来るかと、不安で苦しんだ。だが、今回のことで雪辱が成る。軍神・テュールの恩寵に賀すばかりかな。」
「これは王家とその臣下たる私の戦だ。」
「お前に恩義を感じた時から、漠とした予感があった。そして、決めていたのだ。その時が来たら、野を駆けて、何としてでもお前の助けになろうと。それが今なのだ。お前は王女と王朝をつなげ。」
 そう結ぶと、アナトゥールは満足そうに立ち上がり、戸口に手を掛けた。

 王女はアナトゥールを慌てて呼び止めた。
「“左利きのアナトゥール”。臣下ではないお前に働いてもらうわけにはいかない。」
「臣従を誓ったことはないが、代々王家に朝貢している。同じようなものだ。かたちを尊ぶのなら、今をもって臣従する。私の剣の主は王女だ。シークの決定は誰も覆せない。」
「強引な! 剣の押し売りをするのか。」
 王女の上気した顔を見て、アナトゥールは小さく笑った。
「そうだよ。私は主君たる王女のために、古き王朝をつなぐ階となる。お前たちは払暁、部の民を連れて草原に下れ。」
 王女は義と情に惑い、応えを返せなかった。
 ロングホーンのシークは王女に何かを囁き、アナトゥールに向かって
「入江の民の陣備えを見ただろう?」
と尋ねた。アナトゥールはにっと笑った。
「見た。壮観だな。」
「生きて戻れんかもしれんぞ。」
「……戦の野に果てたいと思っていた。それまで美しく生きたいとも思った。双方叶うようだな。私を守ってくれた盾の乙女のジークルーンが迎えにくるだろう。」
 もう話すことはないとばかりに、アナトゥールは戸口をくぐった。
 王女とロングホーンのシークは顔を見合わせた。
 外からアナトゥールの大声がかかった。
「飯は食え。山海の珍味、赤い葡萄の酒とやらが恋しければな。目の前の乳酪が明日を作る。」
 そして、高笑いが聞こえた。
 恋人たちは呆気にとられて、残された。



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