9.

 ローラントは、ギネウィスに聞いたソラヤの猫の話が気になって仕方がなかった。
 部屋に入ると直ぐに、ティグルスが脚にまとわりついて甘えてきた。抱き上げ、膝に乗せて撫でているうちも気になり、ソラヤの猫は死んだ猫に似ているのだろうかと思った。
「ティグルス、すまん。お前を抱いているのに、違うやつのことを考えていた。」
と苦笑した。
(明日、公女の猫を見せてくれと頼もう……)
 そう決めて、ティグルスを抱いて寝台に入った。

 翌日、ローラントは城でソラヤの侍女を探し当てて
「公女に会いたい。」
と言った。
 侍女は怪訝な顔をし
「何のご用です?ソラヤさまは、殿方とはお会いしませんよ。特に侯爵さまには……」
と言いかけて、はっと口を噤んだ。嫌われていると言ったことに、気づいただろうかとそっと窺ったが、ローラントは涼しい顔をしている。
 すると、彼がおかしなことを言い出した。
「公女には会いたくない。」
 つい先ほどは会いたいと言ったのに、直後に否定する。侍女は戸惑った。
「俺が会いたいのは猫。」
 猫を連れてきた時の、多少奇妙な彼の様子は覚えている。
(猫がお好きなのかしら?“可哀想で可愛い”って……。可哀想な目に遭っていないかご心配なのかしら?)
 そう見当をつけたが、男嫌いのソラヤに男を会わせる、それも大嫌いなローラントを会わせると思うと気が滅入る。応えにくかった。
「猫に会わせろ。」
 彼の差し迫った様子を見て、彼女は失笑した。
「“可哀想で可愛い猫”は、可哀想な目に遭っていませんよ。」
 彼は苛立たしげに
「そんなことは申しておらんわ!」
と怒鳴った。
 侍女はよくよく考えて、ソラヤが馬場に出ている時間だと思い、こっそり猫だけに会わせることにした。

 侍女が猫を連れてくると、ローラントは途端に目を輝かせ、一匹一匹抱き上げた。
 目を細めて、実に嬉しそうに抱き締めている。
(“氷のシーク”がこんな表情をなさるとはね!眼福……)
 侍女は微笑んだ。
 彼は子猫の一匹をじっと見つめ
「こいつ、似ている。」
と言うと、その猫を抱いて長椅子に座り込んだ。
「ちょっと……」
 留めかけたが、ソラヤが戻ってくるまでにはまだ時間があると、しばらく見過ごすことにした。
 ローラントは至福の表情で猫を撫で、庭園に向けた長椅子にじっと座っている。侍女は苦笑し、控えに下がった。

「何をしている?」
 厳しい声と共に、短刀の冷たい刃がローラントの頬を撫でた。
「猫を抱いている。」
 慌てず騒がず、言い訳せず。ずれた答えに、ソラヤは苛立った。
「見ればわかるわ!何をしに来たかと申しているのだよ。」
「猫を見に来た。」
 またもやおかしな答えを返すのに、彼女はかっとしたが、激昂して怒鳴り散らすのは負けた気になる。
「見たなら帰れ。」
 彼は立ち上がりもせず、もの言いたげにしている。
「何だ?」
 促すと、彼は猫を抱いたまま
「くれ。」
と言って、じっと彼女を見つめた。
 緑色の瞳がきらきらと光って、彼女の目の奥を見ている。ぞくりとさせる艶っぽさが目元にあった。
(これが娘たちの言っていた“ベリルの瞳で……”ってやつだな。私は騙されん。)
「断る。お前はあの時、もう一匹見つけてくるとか申したではないか。見つけたんだろう?それを飼っていろ。」
 ソラヤは短刀を引き、帰れと言わんばかりに顎で扉を指した。
 ローラントは座ったまま
「あれは死んだ。」
と言って、俯いた。
 彼女は厭わしそうに顔を顰めた。
「ああ、やはりやったか。お前ならやると思ったのだ。罪もないものをよく殺せるな。」
 彼は昂然と顔を上げた。
「殺していない!」
 びくりとする大声だった。
 彼は彼女をぎっと睨んだが、すぐに目を伏せ
「どうしてそんなことができる?」
と呟いた。
 彼女は黙って見つめた。
「あいつは何かに食われて死んだ。」
 ぽつりと言う。
「そうか……」
「夜のうちに寝間から出て行ったのか……?朝に見つけたら死んでいた。森から何か獣が来たのだろうと皆が言った。」
「そうか……」
 ぽつぽつと苦しげに話す彼が、少しだけ憐れだった。彼女はゆっくりと聞いてやった。しかし
「ラザックとラディーンの戦士に、山狩りせよと命じたかった。」
と言うのに及んで、彼女は失笑した。
「お前……おかしいぞ。変なことを命じなくてよかったな。」
「それはそうだろう?探したところで、どの獣か判らんのだから。皆が困る。」
 また見当はずれなことを言う彼に、彼女は唖然とした。
「そういうことではなくて……お前、揶揄っているの?そうでもなさそうだな。……お前は変!」
 彼は途方にくれたような顔をした。
 ソラヤは舌打ちし、何が変なのかを説明してやった。ローラントは笑いもせず、真剣な表情で聞き入っていた。紙でもあれば、書き留めるのではないかと思うくらい真剣だった。

「それで……どうしたらいい?」
 死んだ猫の為にできることを尋ねているのだと解るまで、ソラヤには考える時間が必要だった。
「墓を作って、弔え。」
「墓は作った。弔う?」
「弔うんだよ。」
「神官を呼ぶか……」
 またおかしなことを言い出したと、彼女は溜息をついた。
「そうではない。花でも供えてやれということだよ。」
 途端にローラントの表情が輝いた。
「花か!」
と言うなり、出て行った。

 ソラヤと侍女は呆気にとられたまま、後姿を見送った。
「あれ。娘どもにきゃあきゃあ言われているようだが、どこがいいのか?」
 侍女は苦笑した。
「まあ……立ち姿の麗しい方ですからねえ。」
「私の方が麗しいぞ?」
 ソラヤが真面目な顔で言うから、また侍女は笑うしかなかった。
(あの男、やはりおかしい……。関わり合いにならん方がいいな。)

 ローラントは城からの帰りに、早速大きな花輪を求め、死んだ猫の墓に供えた。
 人間の墓に供えるのにも惜しくなるような、豪華な花輪だった。そうして、ずっと猫の墓を見下ろしていた。
 屋敷の者はそうまで哀惜するのかと気味悪がった。
 屋内に入るなり、彼は近習に
「俺はおかしいか?」
と尋ねた。
 近習は答えあぐねた。
「ありていに申せ。」
「少し……」
「どこが?」
「……いろいろ。」
「そう。」
 ローラントは目を閉じ、眉根を寄せて考え込んだ。だが、それ以上は尋ねることもせず、ティグルスを呼んで寝間に入った。

 その後、ローラントに少し変化があった。
 戦場に出ても、赤ん坊とその母親は殺さなくなった。皆は安堵すると共に訝しんだが、誰もわけを尋ねられなかった。
「どうして殺さないのですか?」
とでも言えば
「ああ、そうだな。殺そう。」
と、あっさり言い出しそうだからである。
 今までなら、そう言ったかもしれない。
(罪のないものを殺すのは“変”らしい。赤ん坊は罪がない気がする。赤ん坊の世話をする母親は……仕方ないだろう。)
 ローラントはやっとそれに思い至ったが、それ以外の人間を殺すのはどうしても止められなかった。強すぎる快楽に負けた。

 ヤールたちは、ローラントの変化に微かな期待を持った。
(もしかしたら……結婚してお子さまでもお生まれになれば、子供は殺めなくなるのではないか?女は……奥さまのことを思い出されて……?)
 話し合った結果、ラースロゥが進言した。
「ご結婚なさらんか?」
「まだいい。」
 やはりと思ったが、皆の切なる希望だからと気を取り直し
「シークはもういいお歳ですよ。その歳ならば、子供の二・三人おる者も沢山おります。」
と言い重ねた。
 ローラントは不機嫌そうにラースロゥをじろりと睨み、黙り込んだ。
 その後は、ラースロゥが何を訴えかけても、貝のように押し黙って会話を拒否した。

 その話の後、ローラントに更なる変化があった。
 虜囚の女たちを眺め、彼は考え込むようになったのだ。
(女の夫や息子は、俺か俺の軍勢の誰かが殺した。辛いのだろう。苦しいのだろう。“哀しい”に“寂しい”に“可哀想”だ。)
 しかしその直後には、違うことを思った。
(では、俺は?可哀想ではないか?……生きていると思えるのは、あの時だけなのに……。あの悦楽……。俺には関わりのないやつらだ……。全員死ねば、誰も苦しまない……)
 ぞくりとする気持ちが押し寄せてきた。
 どちらの気持ちに従えばいいのか悩ましかった。
 いつもの殺戮を始める素振りのない彼に、ヤールが恐る恐る尋ねた。
「あいつら……どうなさる?」
「……好きにしろ。」
 そう言うのはかなりの努力が必要だった。
「分けてよろしいのか?」
 決心がくじけそうだった。また誘惑に負けそうになったが
「いい。」
と言えた。

 ローラントは虜囚が引き立てられていくのをぼんやり眺めた。女たちの悲鳴や泣き顔を見ていると、身体の奥で何かがぺろりと舌なめずりしたような気がした。
“今なら間に合う。分けさせるな。全員殺せ。”
 そう囁きかけていた。
(殺してしまいたい。そうすれば、あれが……。殺すか?いやいや、それはだめだ。“可哀想”だ。)
 葛藤しているうちに、虜囚の分配は終わっていた。
 後悔と逃した悔しさがあった。欲望を抑え切れた安堵感もあった。
 それがよかったのかそうでないのか、もう考えることすらできなかった。疲れ切って、ぐったりと座り込み続けた。
 
 他人を殺した時にだけ、自然に湧き上がるあの快感。己の命の歓びと実感を得たい。
 それは、阿片のようにローラントを苛んだ。突き上げるような欲求を理性で抑え込む。
 彼の生涯を通じて続く闘いになった。



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