10.

 ソラヤは馬の水飲み場で、ローラントの姿を毎朝のように見かけていた。近寄りたくない彼女はいつも彼が立ち去るのを待って、馬に水を飲ませた。
 最近、ローラントは馬の側に座り込み、長い間じっと考え込んでいることが多かった。
 彼女は、以前とは比べ物にならないほど長く木立に隠れて、苛々しながら待たねばならなかった。
 だが、気の短い彼女はそんなことを毎朝続けられない。
「退け。お前専用の水場ではない。」
 とうとう声をかけた。
 彼は身構えて振り返った。声の主がソラヤだと判ると、途端に緊張を解いた。
「お前か。」
 彼女は、言い草に上気した。
「“お前”だと?無礼者が!退け退け。」
 彼は場所を開けただけで、去ろうとはしない。
 そればかりか、彼女を上から下まで眺めまわしている。
「お前、いつも男のような形だな。」
 嘲笑しているのかと彼を見ると、不思議そうな顔をしていた。
「似合うだろうが!」
 彼女は胸を張ってみせた。
 彼はまたじろじろ見て
「お前だっておかしい。」
と一頻り笑って駆け去った。

 ソラヤは、ローラントに会わないように、陽が高くなってから乗馬に出かけることにした。しかし、いつも彼がそこに座っていた。
「待った。」
と言うが、彼女が現れると、何を言うでもするでもなく立ち去る。
 彼女は気味が悪くなり、絶対に彼の来られないであろう朝議の時間に出かけることにした。

 ソラヤが来なくなると、ローラントは物足りなさを持て余した。それは“寂しい”という感情だとすぐ理解できた。
 彼は夜暗いうちに出かけ、彼女の来るのを待った。
 しばらく続けて、彼女が出てくるのは早い時間ではないのだと判ると、朝議を休んで待った。
 ソラヤはそうまでするとは思わない。
 いつも通り出ると、水場に鹿毛の馬がいた。その陰に、射干玉色の髪が見えた。彼女は慌てて隠れた。
「出てこい!臆したか?」
と大声がかかった。
 挑戦的な言い方には敏感である。向こうっ気が起きた。
「お前ごときに、臆病風に吹かれることなどない。」
 彼女は悠然と馬を引き、歩み寄った。
 そして、涼しい顔で馬に水を飲ませた。だが、内心は動揺頻りだった。
(早く飲め。立ち去らねばならんのだ。)
 ローラントはその様子を眺めていたが、ぽつりと言った。
「お前が来ないと寂しい。」
 困った顔をして見つめている。
 彼女は無視した。
「俺が朝議に出ている時間を目がけて来るのか?」
 今度は心細そうな顔をした。
 彼女は苛立ち
「そうだよ。お前になどには会いたくないからな!目の穢れ。早う立ち去れ!」
と言い放った。
 彼は俯き
「お前に言われると、こんなに哀しいとは……。どうして、お前はそんなに俺を嫌うのだ?」
と言った。
 彼女は答えずにいた。すると、肩を落として駆け去った。
(叱られた子供みたいだな……)
 彼女は少しだけ憐れに思った。

 それからも、さすがに毎日ではないが、ローラントはソラヤの前に姿を現した。
 宮廷のことを考えた彼女は
「お前、度々朝議をさぼってここにいるようだが、不真面目だぞ。真面目に出よ。」
と窘めたが、彼は
「いい。お前に会う方がいい。」
と淡々と言う。
 どういうつもりで言っているのか、彼女は意図を測りかねた。
 会えても嬉しそうにするわけでもない。今まで言い寄ってきた男たちとは違い、恋しくてそう言っているわけでもなさそうに見えた。だが、わざわざ待っているのだから、自分のことを好きなのだと思った。
「お前は何を考えているか、解りにくいな。まあ……この私に惚れてしまうのは仕方がない。」
 彼は戸惑った顔をした。
「惚れる……?」
「恥ずかしがらなくていいぞ。この美貌だ。私を恋する男は沢山おるのだ。」
 彼は困った顔のまま、黙り込んでいる。じっと何かを考え込んでいるようだったが
「惚れる?恋?」
と言った。
 途方にくれた子供のような顔をしていた。
「褒め称えろ。……やっぱり駄目だ。お前はいかん。諦めることだな。」
 また、彼は考え込んだ。やがて
「美しい女は嫌いだ。」
と言った。
(またわけの解らんことを言い出した。)
 ソラヤは無言で立ち去った。

 ローラントはぼんやり水面を眺めながら、ソラヤの言ったことを思い出した。“恋”という言葉に実感がない。
(もやもやする……何なのか、これは……?)
 だが、己の気持ちが何なのか確かめることはしなかった。拒否されたのだ。
(俺はいかんのか……。哀しいってやつだな。)
 もう待ち受けるのはいけない。そう思った時の感情は、“寂しい”であると判った。
 そして、やがて草原に帰る春になると思うと、より一層寂しくなった。



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