もしも花弁が揺れるなら
7.
ローラントは夕方まで掛けて、残った子猫を探し出した。
ソラヤのところへ持って行かなければならないと思ったが、身分の高い婦人を訪問する時間ではないと諦め、屋敷に連れ帰った。
「シーク。今までどちらに?」
「城。」
「朝議は?」
「休んだ。」
「お探ししました。」
「そうか。大儀。」
悪びれる風もなく最低限の答えだけを返す彼に、皆は呆れ果てた。取りあえず、事故も事件もなかったようだと胸を撫で下ろすしかない。
彼は懐から、麻布でぐるぐる巻きにした猫を出した。
小姓も近習も眉を顰めた。
「何です、それ?」
「猫。」
「それは判っています。どうなさる?」
「飼う。」
呆気にとられる彼らを残し、ローラントはさっさと自室に入った。
麻布を解いた子猫は、早速彼の手を引っ掻いた。怯えて怒ってばかりいる。
可愛いはずなのに、その様子は可愛いと思えなかった。
家具のかげに入って出て来なくなったから、そのまま放っておいた。
しばらくすると、子猫はひょっこり出てきて、彼の脚にすり寄った。抱き上げようとすると逃げるのに、また寄ってくる。
何度かそうしているうちに、何かを求めているのではないかと思った。
腹が減ったのだろうと思い至り
「猫の飯。」
と控えに向かって呼ばわった。
細かく叩いた肉がきた。
子猫が食べるのをじっと眺めた。
(こうすれば、鳥も鼠も殺さなくていい……)
鳥も鼠も可哀想な目に遭わず、猫も空腹を抱えずに済めば可哀想ではない。それが彼の思考だった。
餌をやった後はげんきんなもので、子猫は膝に上がり甘えた。
触ると温かく柔らかだった。頼りなさの残る小さな身体は、少し力を入れると壊れてしまいそうだ。
彼は出来るだけそっと猫の身体を撫でた。猫は喉を鳴らして、心地よさそうに膝の上でまどろんだ。
ゆっくり優しく撫で続けていると、心の中に何か蠢くものがあった。殺しをしたときとは違う感覚だった。激しい興奮と陶酔感ではなく、じわじわと広がる安堵感だった。気持ちが落ち着いた。
ずっと側に置いて撫でたいと思った。壊さないようにしたいと思った。
(可愛い……か。こういうことなんだな……)
舌と歯を使わないで、初めて実感が掴めたことが彼には驚きだった。
嬉しくもあり、笑みがこぼれた。
誰も見ていなかったが、見るものがいたら、花が綻んだようだと評しただろう。
ローラントは、この一匹だけはソラヤにやらないでおこうと決めた。
猫に寝台に上がるのを許し一緒に寝て、朝議から帰るとまず猫を探す。屋敷にいる間は、猫を眺めたり、抱き締めて微笑んでいる。
ローラントのその様子を、周りの者は訝しんだ。
「猫がお好きだったかな?」
そういう素振りはなかった。馬・犬・家畜などの動物には、今まで無関心だった。皆は顔を見合わせ、首を傾げた。
「……あれは食えもせず、命令をしても働くわけでもない。いるだけの生き物だからなあ。仕草を愛でるものだが……」
「可愛いと思し召したのではないかな。子猫だし。」
信じられない思いは拭えなかったが、皆はその了解で納得した。
ある朝、起きると布団に猫がいなかった。部屋を見渡してもいない。
ローラントは控えの近習に
「俺の猫は?」
と尋ねた。
「え?存じ上げません。」
近習は主のあまりにも真剣な顔を見て、答えを足した。
「小便にでも出たのではありませんか?」
だが、待っても帰ってこない。猫のために開けてある窓から、見渡してもいなかった。
ローラントの落ち着かない様子を見かねた近習は、笑いながら
「探してきましょう。」
と出て行った。
しばらくして、表から女の悲鳴が聞こえた。
「シークのお猫さまが!」
と言っていた。
彼は慌てて駆け出した。
子猫は庭先で死んでいた。獣が襲ったのか、半ば食われていた。
「お猫さまが……その……亡くなられました。何かの獣が森から来たのかもしれません。」
彼は目を逸らし
「……庭に埋めてやれ。」
と小さく言って、立ち去った。
いつもの無表情と淡々とした言葉だった。周りの者は一旦、それほど執着がなかったようだと安堵した。
だが、深い観察をした者がいた。
「何だか……肩を落とされて……。それほどでもないような口ぶりだったが……」
なるほどと、皆はローラントに同情を感じた。
ローラントはまた、頭の奥に何かが蠢くのを感じていた。徐々にそれは、怒りに同化した。
詰めているラザックとラディーンの戦士に、命じたかった。山狩りをして“下手人”を探し出せ、見つけるまで帰って来るなと。
しかし、辛うじて思い留まった。
(それはいくら何でも、難しいだろう。大体、どの獣か特定できん。)
猫の仕草や撫でた時の柔らかい手触りを思い出すと、堪らなかった。もういないのだと思うと、ぽっかりと心に穴が開いたようだった。
(怒って探して、その獣を殺しても……何も変わらん。生き返るわけでもない……)
猫のことを思い出して、溜息ばかりが出た。その日は、食も進まなかった。
その様子を見た小姓が
「哀しんでおられるのですか?」
と言った。
「哀しい?」
「ええ。お寂しそうですよ。」
「寂しい?」
「ええ……」
小姓は心配そうに見つめている。
「突然に亡くなられましたから、殊更でしょう?私が、新たなお猫を分けてもらって来ましょう。」
「うん。」
小姓はすぐに新しい子猫をもらってきたが、どうしたわけか、ローラントは気持ちが晴れなかった。
新しい猫も可愛いとは思った。
だが、甘えてくる仕草も、時機も前の猫とは違った。前の猫は寝る時に布団の中に入って来たが、今度のは布団の上の足許で丸くなった。
違う猫なのだと思い知った。前の猫との思い出が蘇り、胸がしくしく痛んだ。とうとう、ほろりと涙が零れた。
彼自らも驚き、涙を拭った指を、いつものように舐めて確かめた。
(哀しい……?)
足許の猫を眺めると
(あいつに会いたい。でも、もう会えない……)
と思った。
今度はしんみりとした気持ちになった。前の猫が恋しかった。
そして、前の猫に名前すらつけていなかったことを思い出した。
(“あの猫”、“あいつ”ではなあ……。俺とて、“あの男”なり“あいつ”と呼ばれれば、いい気はしないな。そればかりか、“おい”って呼んでいた……。あいつは嫌な思いをしていたのかなあ……)
ぞんざいな扱いをしたように思われ、申し訳ないような、不憫に思う気持ちが湧き起った。
(可哀想……というやつ?)
哀しい・寂しい・可哀想。三つの感情を短時間に一気に知った。
いつもの夜の手水の時間だと気づいたが
「手水に行かなければ……」
と呟かなければ、動揺のあまり何をすべきかはっきり自覚できなかった。
「手水、手水……」
小さく呟きながら出て、小用を足しながら
「名前、名前、名前をつける……」
と繰り返した。
ローラントの中に浮かんだ微かな揺らぎは、いつも蜃気楼のように消えてしまう。だが、今回は失われてしまうのが惜しく思えた。
彼の持つ感情の動きは、他人とは遥かに薄い。他人が自然とそれと判る感情を、彼はしっかりと掴み取り、ひとつひとつに説明と名前をつけて、確認していかねばならない。
辞書を編むような作業だった。
新しい猫は虎縞もようだった。ローラントはそれに因んで“虎”と名前をつけた。
布団の中に入れ、抱き締めた。
「ティグルス、お前はあったかいな……」
と頬ずりしたが、猫はにゃあんと鳴いて、布団から出て行った。
頭の中の辞書を繰ると、その時ごく微かに蠢いたのは、知り初めたばかりの“寂しい”という感情だとわかった。
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