6.

 朝議が始まる前の早朝、馬を引き出し散歩に出るのを、ローラントは退屈な都での日課にしていた。
 散歩道の途中、馬に水を飲ませる小川がある。そこを縄張りにしている猫がいた。
 野良猫だが、人懐っこかった。
 彼は動物に愛情を持つこともなかったが、嫌いでもなかった。人間より更に表情の読みにくい動物には、残忍なことをしたいとも思わない。
 猫はいつもいるわけではなかった。だが、いるときは、手が届くか届かないくらいの場所で寝そべったり、毛づくろいをしたり、自由な姿を見せた。子猫を連れて来ることもあった。
 その猫を見る度に、亡くなったエーレンが、僧院に残してきた猫を頻りに案じていたことを思い出した。
 猫が鼠なり小鳥などを捕え、ローラントに見せびらかすように咥えてきて、目の前で食べ始めることがあった。
 食べる前に、獲物を玩ぶ。
 前足を緩め、逃げ出そうとする獲物をまた掴み、爪で転がしては噛む。
(獲物が苦しむのを見たいのかな。)

 その日もローラントは、猫の食事の儀式をじっと見つめていた。
 背後から小さな鋭い声がかかった。
「何を見ている?」
 振り向くと、馬上のソラヤが見下ろしていた。
「猫。」
 彼女は指差された方を見て、直ぐに目を逸らした。
 ちょうど、猫が小鳥を食べ始めたところだった。
「惨い……」
「惨い?」
 不思議そうに尋ねる彼に、彼女は怪訝な目を向けた。
「お前、何とも思わんのか?」
「腹が減っているんだろう。」
「そうではない。鳥だよ。惨い目に遭って。可哀想に……」
 彼は素早く猫の首根っこを掴んで持ち上げた。
 そして短刀を抜き、猫に向けた。
「やめろ! 何をするのだ!」
「……猫がいなかったら、鳥は惨い目に遭わない。」
 彼女は絶句した。
「お前、おかしいわ! 猫が可哀想だろうが。」
 彼はまた不思議そうな顔をして、彼女を見上げた。
「おかしい?」
「ああ、お前はおかしい。」
「どこが?」
「どこがって……全部だよ! お前は変!」
 彼は驚いた顔をし、問いかけるような視線を彼女に向けている。
 意外な表情に彼女は虚をつかれ、何も言わずに駆け去った。
(変……何が変だ?)
 彼には意味が解らなかった。

 ローラントは、ソラヤの言ったことを繰り返し呟いた。
「鳥が可哀想、猫も可哀想……?」
 掴んでいた猫をじっと見つめ、可哀想という意味を考えた。
 猫は怒っている。首根っこを掴まれて、さほど暴れることは出来ない様子だったが、手足をもがいて逃れようとしている。
 エーレンが、猫は可愛いと言っていたことを思い出した。
 大きな目と大きな耳、丸い顔、ふわふわした毛の手触り。殺すべきではないような気がした。この思いが可愛いということかと自問した。
 猫の質感をはっきりさせようと、舐めて噛みたくなった。それをしないと、彼はぼんやりとした実感しか持てないのだ。
 だが、猫は汚れていた。
 彼はしばらく考えて、舐めるのも噛むのも思い留まった。鞍袋から麻縄を取り出し、暴れる猫の手足を縛り鞍に括り付けた。
 鐙に足をかけて、また考え込んだ。
 彼は猫をそのままにして、小川の茂みに分け入った。
 子猫を探す為に、彼は朝議を休んだ。

 その日の午後、ローラントはソラヤの居室を訪ねた。
「ソラヤ公女に会いたい。」
と侍女に告げたその姿は、くしゃくしゃの髪に落ち葉を絡みつかせている。着ている物も汚れていた。
 そして、汚い猫と麻袋を持っている。
 緑色の瞳を煌めかせ、いかにも嬉しそうな顔をしていた。
 “氷のシーク”の見たこともない表情に侍女は断るのも気が引けて、ソラヤに目通りさせた。
 呆気にとられるソラヤに、ローラントは誇らしげに猫をつきつけた。
「猫。可哀想で可愛い。」
 どう言ったものか、ソラヤも侍女も迷った。
 彼は二人には構わずに、麻袋をひっくり返した。子猫が二匹落ちてきた。
「子猫。あと一匹は見つからなかった。」
 今度は、ひどく残念そうで悔しそうな顔をする。
 またもや、女たちは言葉を失った。
「また探して、見つけてくる。」
 彼はそう言って、さっさと帰って行った。
 ソラヤも侍女も、その後ろ姿を無言で見送った。開いた口が塞がらなかった。
「ソラヤさま……猫がお好きでした?」
「特別好きというわけではないが……」
「侯爵さま、嬉しそうでしたよ。でも“可哀想で可愛い”って……どういう意味なんですかね? 野良猫だからってことでしょうか?」
「全く解らんな……。まあ、猫は飼うか。」
 ソラヤは、汚れた猫を洗うように命じた。
(あの男……おかしいどころではないわ……)



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