もしも花弁が揺れるなら
15.
ソラヤは慌てて、扉を押し閉めた。
「待て。お前……なんだか可哀想になってきた。」
ローラントは当惑した顔を見せ
「俺が可哀想?……俺がお前に辛く当たられているからか?」
と言った。
言い回しは微妙に変だが、彼女の意図しているところを捉えている。言い方を論うのは控えた。
「そうなのだが……かと言って、私のお前に対する態度が改まる期待をしてはならん。」
「そんな期待はない。」
即答だった。
彼が常人と違う思考をするのを彼女は既に判っていたのだが、やはり呆気にとられた。
(もっと優しくしてくれ、などとは言わんだろうとは思っていたが……)
「何の期待もないことはないだろう?」
「……お前は可愛いから、撫でたいな。」
他の男が言ったら、生々しいと思うところである。しかし、ローラントが言うのには、何の含みも感じられなかった。
それでも彼女にはまだ、一抹の疑念があった。
「それ……お前、これまで何人の女に言ってきた?」
彼は眉を寄せ
「お前が初めてだよ。」
と言った。
「言うわけないだろう?こんな変なことを思ったのは、初めてなんだから。」
不当で不愉快な疑いだと彼は少し腹が立っていたが、本当に初めてだったのか再確認しようと思った。
小首を傾げ、指を折り始めた。
彼女は直ぐに何をしているのか察した。
「……おい。お前、今までの女を一人ひとり思い出して、どんな気持ちだったか確認しているだろう?」
彼は涼しい顔で頷いた。
「うん。やはり、こんな変な気持ちは、誰にも抱いたことがなかった。」
またもや彼女は唖然とした。
「お前……この一連の発言で、女が喜ぶと思うか?」
彼は驚き目を見張った。そんなことは考えてもなかったのだ。
「さあ……?訊くから答えた。思うままのことを言った。おかしいか?」
「ああ。おかしいぞ。」
「そう断定されると……哀しいな。」
彼は途方に暮れ、彼女の教えを待った。
ソラヤは考え込んだ。
(この男は、他のやつらのように、うすら寒い美辞麗句を重ねるわけでもない。言っていることはおかしいが、正直に自分の言葉で話しておる……。本気なのだろう。)
ローラントを目をやれば、困惑した様子で見つめている。
その表情は不似合に幼く見えた。彼女は失笑した。
「何故、笑う?何が可笑しい?」
と慌てている。
彼女は腹を抱えて笑った。
(娘どもも、男どもも。“氷のシーク”の中身がこれとは、夢にも思わんだろうよ!ひとの気持ちの機敏など、とんと解らんのだから……表情の揺れないのも当たり前だよ。)
「“子供のシーク”。あの花輪は何だ?」
彼女が嗤うと、彼はむっとした顔で
「二十七だと言っただろう!花輪の何がおかしい!……おかしいのか?変か?」
と言った。
憤慨しているが、どこか不安そうに見える。おかしいのが何故か、本当に解っていないのだ。
彼女は苦笑した。
「お前は放っておけないな。」
その意味は、彼にも多少は把握できた。一歩側へ寄った。
「さっき期待することは何か訊かれたが……」
「何だ?」
彼は少し躊躇ったが
「お前が俺を愛することも期待している。」
と言って、小さく笑った。
「その無謀な申し出に挑戦してもいい。」
彼女はにっと笑い、胸を張って尊大な口調で言った。
彼は彼女を胸に抱き込んだ。
「“してもいい”なのか?“したい”と言われたいが……。まあ、それでいいよ。」
そう言って、いきなり口づけをした。だが一旦止め、じっと考え込んでいる。
彼女は嫌ではなかった。ただ、不意打ちのような行いが少しだけ気に障った。
責めようかどうしようか迷っていると、彼は
「殴るな。……蹴るなよ?」
と言って、もう一度口づけをした。
異様に長い口づけだった。
ソラヤは、女は勿論、男とも親密な口づけなどしたことはなかったが、そう思った。
息をつこうと思っても、ぎゅっと頭を押さえつけられて、離れられなかった。舌を絡め、吸い、歯をたて、唾液を啜るような執拗さだった。
ソラヤはようやく離された。見れば、ローラントは満足したというより、納得したというような顔をしていた。
「東の国の……」
彼はそう言いかけて、続く言葉を探した。
「また、おかしなことを言い出すか?」
それには答えず
「遠い東の国の高価な香辛料。肉桂?丁子?小豆?肉豆?」
と歌うように呟いた。
彼女は答えに困った。
「林檎を薄く切って、肉桂を加えて煮る。旨いが、入れ過ぎると死ぬ。」
何を言いたいのか更に解らない。
彼は目を伏せ、口許を綻ばせた。
「好きなんだ。お前は肉桂みたいだな。甘い香りと刺激的な味。あまり食うと死にそうだ。」
その味を思い浮かべているのだろう、うっとりとした甘い微笑みだった。
「でも、止められない。夢中だ。」
彼はまたぎゅっと抱きしめた。
「結婚してくれ。」
そして、彼女が応える前に
「お前……また男のような格好をして……。男と抱き合っているようだ。」
と笑った。
それでも離そうとせず
「どうする?うんと言うまで、離さない。」
と無茶なことを言う。
「わかった……」
「俺が含みのある言葉は解らんのだと、知っているだろう?どっちなんだ?」
「お前と結婚してやる。」
「嫌々するみたいだな。」
「……お前と結婚する。」
「そこは“したい”と言わねばならん。」
彼女の向こうっ気がやっと機能し始めた。彼の胸を強く押し返した。
「蹴るなよ?殴るのもいかん。」
彼は両手を挙げ苦笑している。
彼女は不敵な笑みを浮かべ言い放った。
「この私を、お前ごときが上手く扱えるとは思えんが、おかしなお前は私くらいしか扱えんだろう。」
「お前に俺が乗りこなせるとも思えんが?」
「無礼者!偉そうに、誰にものを言っている?」
「じゃじゃ馬!お前の兄にも言ったが、草原の男に乗りこなせん馬などおらん。」
「……吠え面かくなよ!」
「吠え面はかかない。惚れ面はかく。」
「……生意気な台詞を言えるようになったな!」
「口の減らん女だ。」
ローラントは高笑いして、出て行った。
(噛むところだった……ソラヤは……撫でていたい。壊してはいけない……)
歯と舌の感覚ではっきりした彼女の“質感”は、ローラントの心にくっきりと深く刻まれた。それには、“愛”という名前がついていた。
取り残されたソラヤは座り込み、奇妙な求婚の会話を思い出していた。
(あのやり取りで、結婚を決める女など……私の他にいるわけないな。)
そう思うと自嘲が出た。
あんな求婚をして、受け入れられると思っていたのかと、ローラントにも笑えた。
(私が肉桂なら……ローラントは胡椒か生姜か。ぴりっとして、身体の奥が熱くなるような……)
彼女は震える指先で唇に触れた。
「まだ熱い……」
思わず呟いていた。
誰もいないのは解っているのに、彼女は辺りを確かめた。
火照りが治まるまで、随分とそこにいなければならなかった。
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