もしも花弁が揺れるなら
9.
ツェツィルは久方ぶりにラザックシュタールの屋敷に戻り、そのまま真っ直ぐアンフィサの居間に向かった。
扉の前に立つと、ローラントの笑い声が聞こえた。
(また入りびたりか……。やはり、俺の言いつけに従うつもりなどないのだ。)
不快感を覚えながら、扉を開けた。
庭園に向けた長椅子に、母子が並んで座っていた。ローラントはいつものように手振りで、盛んにアンフィサに“話しかけている”。
アンフィサの後ろ姿も楽しそうだった。
ツェツィルは、それを見るたびに苦々しさを感じていた。彼も言わんとすることはいくらか伝えられたが、ローラントのように指と手で、多くのことを伝えることはできなかった。
ふとアンフィサが手を伸ばし、ローラントの髪に触れた。彼はくすぐったそうに微笑んだ。彼女も愛しげに微笑んでいる。
その横顔はそっくり瓜二つだった。
アンフィサもローラントも、そんな笑顔をツェツィルに見せることはなかった。
ローラントは父親の入って来たことに気づいて、ちらりと見た。しかし、母親に促すこともなく、また何か“話している”。
ツェツィルは血を上らせたが、息子に嫉妬するなど愚かなことだと抑え近づいた。
アンフィサもようやく気づいて、ローラントのお下げにした髪を片方引っ張って、ツェツィルに何か言いたげにした。
(何だ?)
彼は戸惑ったが、ローラントにはすっかり意味が解っているようで、痛そうな顔をしてみせて、母親に指先で何か伝えた。
ローラントの長すぎる髪が、だらりと長椅子の背中に垂れた。
「ローラント、髪を切れ。」
そう言うと、ローラントはじろりとツェツィルをねめつけたが、答えもしない。
その態度に更に怒りが強くなったが、どうにか抑えて笑いかけた。
「母上もそう言っているのだろう?何もロングホーンのように短く刈りこめとは申しておらんわ。背中の真ん中くらいで切り揃えろ。大昔のラザックの戦士みたいだぞ。」
「ラザックの戦士だから。」
ローラントはツェツィルから目を逸らし、母親の顔を見ながらそう答えた。
「戦にも出たことのない子供が、何が戦士だよ。親の言うことを聞け。」
ツェツィルは無理に笑顔を作った。すると、ローラントは振り向いて
「出る。」
と言った。
また単語しか言わないことに、ツェツィルは苛立った。
黙っていると、ローラントは母親に向き直り、親指で自分を差し、左右の人差し指をかち合わせて見せた。
アンフィサは驚いた顔をして、素早く指を動かした。それにまたローラントが指を動かして見せた。彼女が頷いた。彼はやっとツェツィルに向き合い
「髪は切らない。戦に出る。」
と言った。そして、早足に出て行った。
ツェツィルは立ちつくし、呟いた。
「ローラントに初陣させる。」
アンフィサは彼を、いつもの硝子玉のような目で眺めていた。
彼は苛立たしげに近習を呼び
「ラースロゥを、ラザックのヤールを呼べ!」
と大声で命じた。
(生意気な!)
怒りで、震えが止まらなかった。
ラースロゥにローラントの初陣の話をすると、彼は慌てて止めた。
「十三歳ですよ?大昔じゃあるまいし。慌てて初陣させることもないでしょう?」
「草原の男の子は弓が引ければ、すぐに氏族の戦士の仲間入りだ。あれくらいの歳で、焼き討ちに同行する者もいる。あれは大柄だし、弓も引ければ、剣も軽々持つ。」
「もしものことがあれば……」
「もしものことなどない!」
ツェツィルの目は、ぎらぎらと物騒に光っていた。
ラースロゥは、積もり積もったものがとうとう弾けたのだと悟った。
「激情に駆られているようです。感心しません。」
「お前が感心しようがしまいが、もう決めた。出す。逆らうのか?」
もう止められないと知った。
「……いずこへ?」
「東の街道。あそこはいつも弱い。また不逞の輩が出た。殲滅だ。すぐに三旗集めろ。明後日には出発だ。」
「……かしこまりました。ローラントさまには乳兄弟がおられませんから、私の息子を二人ほどつけてよろしいか?」
「勝手にすればいい。」
「武装は?」
「適当なものをお前が見繕え。それから、あのみっともない長すぎる髪を切ってやれ!」
「何かあってはならんから、しっかり整えねば。何しろ、シークのたった一人の男の子。」
わざと聞こえるように独り言をしたが、ツェツィルは黙って顎で扉を指した。
(初陣だというのに、武装も用意してやらんのか……。ローラントさまのこととなると、お人が変わる。それもこれも……“ラディーンの王女”。魔女かもしれん。)
ラースロゥが出て行くと、ツェツィルは彼の“独り言”を反芻した。
(たった一人の男の子だと?もう一人おるわ!僧籍に入れたエーレンを呼び戻して……。盲目ゆえシークにはなれんが、子を儲けさせればいい。孫息子がしっかりするまで、俺が生きていればいいだけのこと……。ローラントなど死んでもいい!)
だが、アンフィサのことを思うと惑った。ローラントが死ぬようなことになれば、彼女は自分を許さないはずだ。
決心が緩みかけたが、ローラントの態度を思い出すと、覆す気にもならない。
アンフィサは自分がとっくり慰めればいいのだ、と思い直した。
ローラントは、自室の窓辺に頬杖をつき、ぼんやり庭を眺めていた。入ってきたラースロゥに、そのままの格好で
「どこへ?」
と尋ねた。
ラースロゥは戸惑った。少し考えて、行先のことを尋ねているのだと解った。この幼い身で初陣することを疑ってもいないのだと、空恐ろしく感じた。
「東の街道ですね。私の息子が二人、お側に付き従います。」
ローラントは目を細めて庭を眺め、風の香りを嗅いでいる。
「うん。」
と短い応え。何の感情もない声だった。だが、僅かに表情が揺れたように見えた。
「髪を……少し切れと、お父上がお命じでした。」
髪を切るのを嫌がると聞いていた。拒否するかと案じたが、意外にも
「うん。」
とすぐ答えた。
ローラントを座らせ、子供のする二つに結った髪をほどいた。長すぎる髪がはらりと散った。真っ直ぐで豊かだ。腰の下まであった。
「鬱陶しいほどの髪ですな。やはり長すぎます。」
「父上が、昔のラザックの戦士みたいだと嗤った。」
ローラントはぽつりとそう言った。だが、悔しそうな色も見えない。
「ああ、そうですね。今は皆、長くても背中の真ん中辺りで切り揃えます。昔は、両脇を肩で切り揃えて、後ろはほとんど切らなかったそうです。」
「どうして、脇だけ切る?」
「首を守るためですよ。両脇は垂らして、後ろは編んで、鎧の帯に挟んだそうですよ。」
「……アナトゥールさまも?」
それは、英雄視されている大昔のシークの名前だった。
「でしょうな。」
ラースロゥは、ローラントの黒い髪を掴むと鋏を入れ始めた。ざくりと音を立てて、髪が一房落ちた。
「ヤール、待て。」
切るなというのかと思い
「止めるはなしです。途中まで切りましたからね。」
と宥めた。
「そうではない。両脇だけ肩で切れ。」
ラースロゥは眉を顰めた。
「昔の戦士みたいだと、お父上はお叱りになったのでしょう?そんなことをしたら、ますます昔の戦士です。」
「父上なんか、何を言おうと構わん。」
父親への反抗心で言うのかと思い、どう言い聞かせたものかと言葉を探していると、ローラントは
「アナトゥールさまみたいにしたい。」
と呟いた。
初めて子供っぽい我が儘を聞いたと思え、ラースロゥは失笑した。ローラントはじろりと睨んだが、何も言わなかった。
微かに照れくさそうな表情を見取り、ラースロゥは言う通りにしてやった。
ツェツィルが指定した日、命令通り三旗の戦士が集まった。
ローラントは、ラースロゥがどうにか用意した鎧をつけて現れた。シークの息子が使うとは思えない武装だったが、美貌ゆえとても凛々しく見えた。
ツェツィルは、上から下までじろじろ眺めた。剣だけは由緒のありそうな立派なものを下げている。短くした両脇の髪は肩の下で揺れていたが、帯に長いままの黒髪を編んで挟み込んでいた。
ツェツィルは舌打ちした。大昔の戦士みたいだと叱ったのに、更にそれらしくした。反抗の極みだと思った。
「出陣します。」
ローラントは小さく父に告げて、さっさと歩き出ようとした。アンフィサが駆け寄り留めた。
彼女は何か指で伝えて、ローラントの肩に顔を埋めた。彼はその腰を抱いた。
しばらく抱き合った後、彼は彼女の両肩を押しやり、顔を覗き込んだ。
彼が頬を撫でて指を動かすと、彼女は頷いてそっと離れた。
ローラントは、近習が引いていた鹿毛の馬に跨って駆け去った。
アンフィサが、その後ろ姿をいつまでも見つめていた。
(まるで、恋人の出陣を見送る娘のようだ。……まさか……?いや、母親と息子だぞ……。考えすぎだ……)
ツェツィルはアンフィサの腕を掴み、屋敷の奥に連れて行った。
息子の初めての出立を案じる気持ちも、見送るつもりも、ツェツィルにはなかった。
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