2．

　老婆は翌日、アンフィサの父親に昨夜の若者の話をした。彼はうんざりして、母の話を遮った。
　毎晩のように、同じことが繰り返されているのだ。
　ほんの少女の時からあったことだった。まだ乳房の膨らみもあるかないかの頃から、同じ氏族の若者が近づいては連れ出そうとした。
　それがやがて、隣の氏族の男になり、離れた氏族の者になり、ラディーンの名のある戦士になった。
　娘らしくなると、早速連れ去られ、数日後に戻って来た。
　氏族の男たちは、誰が連れ去ったのか調べ上げ、私刑にした。
　遺恨が生まれた。
　二度連れ去られると、父親は自分の老母に、アンフィサの側に休むことを頼んだ。
　老婆は、アンフィサを言い寄る男たちから守った。そのやり方は、羊の群れを狼から守る驢馬のようだった。つまり、闘ったのだ。
　“ラディーンの王女”と二つ名が付けられ、その噂が広まるのと同じくして、老婆の荒々しい保護者ぶりも知れ渡り、力ずくで連れ去ろうとする者はなくなった。
　アンフィサの家族が、一応の安心をしたところだった。今年の春先に、事が起こった。

　ラザックシュタールのすぐ側から、ラザックの戦士がやって来て、アンフィサを連れ去ったのだ。
　その男は、ラディーンの若者のように
「婆さまを打ちのめすのはなあ……」
と思わなかった。それだけ本気だったのだろう。老婆を殴り倒して、振り切った。
　相当手練れの戦士らしく、彼は氏族の戦士を斬り伏せて、瞬く間に彼女を抱えて駆け去った。
　周りのラディーンの氏族にすぐに事件が知れ渡り、五旗の氏族の戦士が集結した。
　ラディーンの戦士たちは、ラザックの戦士を見つけ出した。彼は自分の氏族の許に、既に帰っていた。
　アンフィサを奪い返すのに乱闘が起こり、彼らはラザックの戦士を殺した。
　五旗のラディーンに一旗のラザックが、復讐にのりだした。激しい戦闘に至った。
　それを聞きつけたラディーンの宗族の氏族長（ヤール）が取り成しに駆けつけて、戦闘は止んだが、また遺恨が生まれた。

「おふくろ、もう術がないよ。アンフィサは誰にも心を動かさない。俺が誰かを決めて、アンフィサを嫁がせても、みんながいがみ合うだろう？　俺はあいつをヤールに差し上げようと思うんだ。」
と父親は告げた。
「ヤール？　そうだねぇ……。」
　老婆は感心しなかったが、そうすれば、少なくとも周りのラディーンの男たちは大人しくなるだろうと承知した。
　老婆はアンフィサによくよく伝えた。話し合うことはできないから、重要な話をするときにいつも使う石盤を使った。
　読み書きはもちろんできるはずなのに、アンフィサは自分で思いを書くことはなかった。
　今度の話などは、若い娘にとって、最大の関心事であろうに、アンフィサはただ頷いただけだった。

　アンフィサを伴い、父はヤールに会った。ヤールは彼らを愛想よく迎えたが、アンフィサを見て、少し眉をひそめた。
　何度も見てきたが、娘盛りに向かって、見るたびに美しくなると、ヤールは思った。それは諍いに諍いを招くように思われた。実際、だんだん大きな事件になってきている。
　この前はうまく秘密裏に処理できたが、度々ラザックの氏族と戦うようなことがあれば、そのうち大族長（シーク）の耳に入るだろう。
　シークは臆病とまでは言わないが、若いころからあまり荒々しいことが好きではなく、老いた今はますます嫌うようになっている。
　小娘ひとりに戦うなど、激怒して、きつい仕置きをするだろう。

　ヤールはアンフィサの父の話すのを聞きながら、当の娘を眺めた。
　嫁がせるという話は聞かされているだろうに、何か思いがあるようではまったくない。ヤールの方を向いてはいるが、その後ろのずっと先を見ているような遠い目をしている。
（また硝子玉の目か……。この娘に感情はあるのだろうか？　笑うこともなく、怒る素振りも哀しむ素振りも見せたこともない。まるで人形だな。それも神のような職人の手で作られた美しすぎる人形だ……。若い男どもが、この娘を微笑ませたいと熱くなるのもわかるが……）
　ヤールはひとつため息をついた。この娘の感情を揺らすことなど、誰であっても無理に思われた。
「話はわかった。だが、俺はアンフィサを娶るつもりにはならないよ。……いやいや、欲しくないわけではない。」
「だったら……」
　父親が説得を始めようとするのを遮った。
「お前の言うように、俺のものになれば、ラディーンの若いやつらは大人しくなるかもしれん。だが、ラザックはどうだ？　この前のように、戦いも辞さない元気なやつが現れないとは限らん。」
「親父の氏族とは言え、ラディーンの宗族のヤールに挑むような無謀なやつはいませんよ！」
「わからんぞ。昔はそういうこともあったと聞く。結婚式に乗り込んできて、かっさらったとかな。この娘を巡る騒動を聞くと、ありうるわ。」
　二人は困った顔を見合わせた。

　しばしの沈黙の後、ヤールが言った。
「もうな……シークに差し上げよう。」
　父親は驚いた。
「シークですって？　……そりゃ、草原では誰も文句も手出しもできなくなるでしょうがね、シークは……六十のお歳ですよ！　孫娘と結婚するようなものです。」
「まあ、そうだが。諍いはことのほかお嫌いになる。結婚と言っても、諍いを避けるためにお側においていただきたい、とでも申し上げれば、お聞き届けになるかもしれん。」
　父親よりも年上の夫を持たせるなど、アンフィサが憐れだという気持ちがあった。ヤールの気持ちを、どうしたら変えられるだろうかと考えたが、術が思いつかない。
「それがいい。そうするぞ。」
　ヤールはもう決めたようだった。父親は渋い顔で受け入れた。
　彼らの思惑通り、シークは結婚の申し出を受け入れた。

　アンフィサに父から、シークとの結婚の決定を告げられた。老人との結婚を、彼女は哀しいとも嫌だとも思わなかった。
　草原の絶対的権威であるシークの奥方のひとりになることも、何の感動もない。
（ヤールだろうがシークだろうが、男など皆同じ。大げさに騒いで、私を抱くだけ。シークに嫁げば、父さんもヤールも厄介払いができるんだから、それでいいわ。）
　それだけだった。


  Copyright(C)　 2015 緒方晶. All rights reserved.