13.

(ローラントと顔を合わせると、苦い思いばかりが湧く。)
 ツェツィルは、その日は屋敷にいるのがもう我慢できず、草原に出た。
 しかし、家畜を追っている時、翌朝に町方と会う予定があったのを思い出した。彼は仕方なく、夜更けに屋敷へ帰った。
 そのまま寝室に向かったが、夏の日差しに一日照らされて汗だくだった。身体を洗おうと思い立ち止まったところ、回廊の向こうにローラントの姿が見えた。
 寝衣を引きずり、半分寝入っているのかふらふらと歩いて行く。
(また手水か……)
 ローラントの身体には、奇妙なところがあった。夜尿である。普通の子供がとうにしなくなる年齢になっても、しばしば失敗した。十歳を超えても、控えにいる夜番の近習が夜中に起こしてやらねばならなかった。
 最近はさすがに習い性になり、夜中の決まった時間に自分で起き出して行くようになっていた。
 ツェツィルは溜息をついた。心配だったからではない。苛立ったのだ。
 彼の嫌いな長すぎる髪が揺れている。編んでいるのに、尻の下で揺れていた。
(伸びたままにして……。嫌がらせのようだ。忌々しい長い黒髪!)
 彼は舌打ちし、早足で浴室に向かった。

 身体を洗いさっぱりすると、ツェツィルは急にアンフィサのことが恋しく思われた。
 もう寝入ってしまっただろうと思ったが、彼女の寝室の扉を開けた。
 寝台の側に燭台がひとつ灯されている。
 起きているのかと期待し寝台に近づいたが、眠っていた。
「不用心なことだ。」
 彼は灯りを消しかけて手を止め、彼女の寝顔を見つめた。年齢を感じさせない美しさだった。
「お前はいつまでも変わらない。本当に美しいな……」
 そして、愛しそうに
「おやすみ、アンフィサ。」
と囁いた。
「おやすみなさい、父上。」
 彼は飛び上がるほど驚いた。咄嗟に言葉が出なかった。
 寝台の向こう、庭に向かって置かれた長椅子にローラントが座って、肩越しに彼を眺めていた。
 いつもの無表情だ。
 ツェツィルはこくりと喉を鳴らし、唇を舐めた。
「……何をしている……?」
 ひっそりと低く尋ねた。
「別に。」
と答えが返ってきた。
 ローラントが髪をかき上げた。ぱらりと髪が広がった。
 ツェツィルは違和感を覚えた。その理由は直ぐに解った。回廊で見た時は髪を編んでいたのだ。
 息子が、髪に異様な執着を持っていることは知っている。寸分の乱れなく髪を編んでいる姿しか見たことがない。編んだ髪のまま眠っているのではないかとすら思える。
 それが今、流し髪でいる。髪が乱れる何かがあったのだと思った。直す間もないほど、つい今し方にだ。
 そして、仲の良すぎる母子であることは知っている。疑ったこともあった。
 やはり、そう・・なのだと思った。
「……いつから?」
 彼は尋ねてから悔やんだ。答えを聞かされたくなかった。
 ローラントは言い淀むこともなかった。
「前から。」
とあっさり答えた。
 慌てている素振りも、言い繕おうと何か考えている風も全くない。
 そもそも、隠し逃れるつもりなら、声をかけないだろう。
(どういうつもりだ!)
 ツェツィルはわなわなと震えた。大股にローラントに歩み寄ると髪を掴み上げ、殴りつけた。
 ローラントは黙って顔を上げた。切れた唇を舐め、ツェツィルの目の奥をじっと見つめた。
 妖しい色気が目許にあった。
 ツェツィルは、情事の後なのだと確信した。
「この……畜生が!」
 彼は無抵抗のローラントを殴り続けた。

 出抜けに、背後からか細い声がした。
「おうあん。」
 ツェツィルが振り返ると、身を起こしたアンフィサが見つめていた。
 彼女が言葉らしいものを発するのを、彼は初めて聞いた。信じられなかった。
 彼は掴んでいるローラントを見、辺りを素早く見渡した。やはり、先程の声を発するような者はいない。
 身動きも忘れた彼はただ、彼女を見つめるしか出来なかった。
 ローラントは父を引きはがして、寝台の脇に跪いた。
 彼女は目を見開き、おずおずと彼の殴られた頬に手を伸ばした。
「おうあん……」
 大粒の涙が零れた。
 ローラントは彼女の涙を指で拭い、何かまた指で話した。
 ツェツィルにはもう見られなかった。彼には厭わしすぎる光景だった。
「……それはお前のことか?」
 彼は後ろ向きで尋ねた。
「俺が教えた。母上はこれだけ言える。」
 彼がかつて教えようとして、出来なかったことだ。くらくらするような嫉妬心が湧きあがった。
 ふと脳裏を過ったのは、ローラントも同じように教えたのではないかということだった。
 その後に彼がアンフィサと行ったことをも、ローラントはしたのではないかと思いついた。吐き気を覚えた。
「畜生道に堕ちよって……。おぞましいやつらだ……」
 そう呟いて、ツェツィルは静かに部屋から出て行った。
 アンフィサは、彼が出て行くのを不思議そうに眺めていた。

“お父さまはどうなさったの?”
“誤解なさったようだよ。俺が母さまを抱いているのではないかと。”
“馬鹿馬鹿しい。ちゃんと説明しなくては駄目。”
“もう遅い。”
“駄目だめ。夜中のお手水の後に、ここへ来てから部屋に戻るんだと言って。”
“嫌だ。”
“照れくさいの?今でも夜中に行かなければ、失敗しそうだって言うのが?それとも、子供みたいに、私のところに来てしまうのを知られたくないの?”
“父さまには、絶対知られたくないんだ。それに、今から説明しても、言い訳にしか聞こえないよ。もう無理。”
“まったく。ローラントは、お父さまが怒ったり苦しんだりするのを見るのが好きなの?”
“父さまは俺のことが嫌いなんだろ。邪推して。……俺もわざと声をかけたんだから、それを見るのが好きなのかもしれないな。”
“困ったひとね。”

 二人の指の会話は、傍から見えるより驚くほど内容が多く、ずっと雄弁だった。そして、普段の固く冷淡にも見えるのとは、全く違う様子で二人とも話していた。
 アンフィサはローラントを見つめ、心配そうに溜息をついた。
 彼は母が何か“言う”のを待っていたが、それ以上はなかった。
“おやすみ、母さま。”
と部屋を出て行った。

「苦しそうな顔をした……」
 ローラントは閉めた扉の前でそう呟いて、目を閉じた。
 彼は長い間そうしていたが、やがて小さく舌打ちすると、部屋へ去った。



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