もしも花弁が揺れるなら
11.
ローラントの初陣の祝いの宴が催された。
ツェツィルはローラントを側に座らせ、集まった者たちに息子の武勇の程を自慢そうに語った。
延々と続くそれに、ローラントはほとほと嫌気がさした。
(心にもないことを……)
もう一刻もその場にいたくないと思って立ち上がり、黙って出て行った。
皆が驚いて止めようしたが、ツェツィルは
「疲れたんだろう。行かせてやれ。」
と言った。彼も、実はほっとしていた。
(褒めても、嬉しそうにするわけでもなく……可愛げのないことよ。)
何度も思ってきたことがまた浮かび、小さな舌打ちが出た。
ローラントはいつものように、母の部屋のある南の翼へ向かった。
篝火に照らされた回廊に、赤っぽい髪が浮かんで見えた。短く刈った髪の男だ。草原の者ではないと見えた。
男は角で立ち止まって、きょろきょろしている。
(ロングホーンの者?客人?迷ったのか……)
ローラントは歩み寄り
「真っ直ぐは南翼だ。西翼は右。」
と、客を泊める西の翼への道を教えた。
男は振り向き
「ああ、ありがとう。でも、私の行きたいのは東の翼なんだ。」
と微笑んだ。
「東は左。」
男は右手を伸ばして壁に触れ、左手を空に泳がせた。
ローラントは訝しんだ。その気配を察したのか、男は
「目が見えないんだよ。手水に行ったら、迷ってしまってね。」
と言った。
澄んだ青い瞳は、ずっと向こうを見ているようでいて、虚を彷徨っていた。
ローラントは男の肘をそっと掴むと、東の翼へゆっくり歩き出した。
「悪いね。東の翼の一番南が私の部屋なんだ。そこまで、頼むよ。」
東の翼はシークの家族の使う場所である。男の告げた部屋は、シークの住む南翼により近く、最も父親に愛されていた異母姉が、嫁ぐまで使っていた部屋だった。
だが、誰なのか特段興味もない。目が見えないという男を慮って、ゆっくり歩いていた。
「気を遣わなくていい。普通に歩いてくれればいいよ。」
男はにこにこしている。
「そう。」
と応えたものの、歩きやすいように、段差や物のあるたびに声をかけた。
部屋は整えられていた。男がゆっくり壁を触りながら移動して椅子に座るのを見届けて、ローラントは出て行こうとした。
男は呼び止めた。
「もう行くのか?祝宴に戻らねばならないのかな?」
「いや。」
「それなら、しばらくいてくれないか?皆、宴を楽しんでいるようだから、少し寂しくてね。」
男の物言いは柔らかだ。ローラントは応じる気になり、すぐ前に立った。
「ああ、そなたは今度の戦に出たのだね。」
「何故わかる?」
「血の臭いがするから。盲人は目の代わりに、鼻や耳が利くんだ。微かでもわかる。」
男の言葉は終始静かだった。
ローラントは話すことも見つからず、話すことも苦手だから黙ったまま、そこに立っていた。
しばらくの間があった。男は
「身体に触れていいかな?」
と言った。
「うん。」
男は手を伸ばし、ローラントの身体に触れ
「大柄だね。」
と言って、微笑んだ。
「そうかもしれないな。」
「顔も触っていいかな?」
「ああ。」
男の方へ屈んだ。身体に触れたときよりも、ずっと優しく手が触れた。温かくて柔らかな手だった。
ゆっくりと輪郭をなぞり、額、目元、鼻、口許に触れた。
「そなたは……とても……とても若いのだね。」
微笑んだまま、見えない目をローラントの方に向けていた。
「どこの氏族の者かな?名前は?」
「ラザックの……まあ、宗族なのかな。ローラント・ツェツィルセン。」
すると、男の顔はぱっと輝いた。
「ああ、神さま。そなたがそうか。ここへ戻ったら、一度会ってみたいと思っていたんだ。昨日の今日で会えるとはね!」
嬉しそうに頷いている。
ローラントは白々したまま尋ねた。
「誰?」
「私はそなたの兄だよ。エーレン・ツェツィルセン。」
そう言って男は、にっこり笑った。
「え……」
ローラントは驚き、咄嗟に応えが出なかった。
兄がいるのは知っていた。だが、彼が生まれる前に僧籍に入り、家を出たと聞いていた。
「どうしたわけか、父上がお呼びになってね。そなたの初陣の祝宴に出ろということかと思ったんだが、僧籍を取り消されてしまって。私など屋敷に置いても、戦に出られるわけでもなし、家畜を見られるわけでもなし、町方のことも知らないのに、どうしたことだろうね。そなたのような立派な息子があるのに。」
エーレンは困った顔で首を傾げている。
ローラントは、父がそうまで自分を疎んでいるのだと悟ったが、元より驚くことでも嘆くことでもない。
また沈黙の時が流れた。エーレンはくすくす笑って
「無口な弟だ。いや、責めているんじゃないよ。無理して話題を探さなくてもいい。……隣に座らないか?」
と長椅子の空いたところを指した。
ローラントが座ると、エーレンは彼の膝をぽんぽんと叩いて
「ああ、今日はいい夜だ。家族が、弟がこんなに側近くにいるなんてね!」
と言って、うっとり目を閉じた。
ローラントはどうしたわけか、苛立った。
「薔薇の香りがする。咲いているのか?」
「ああ、白いのが咲いているな。」
「しばらくはこの香りを頼りに、ここへ戻ることができるね。」
黙って二人で座っているうちに、ローラントの気持ちは落ち着き、この兄に話しかけようと思った。
僧院のことでも聞こうと口を開きかけたが、それは叶わなかった。
言い出す先に
「ローラント、もう部屋にお帰り。私の側にあまり長くいてはいけない。」
とエーレンが言った。
「何故?」
彼は寂しそうに微笑んだ。
「労咳なんだ。うつるって言うからね。」
そして、小さな声で
「でも、時々は来てくれるかな?」
と言った。
ローラントは黙って出て行った。
労咳が怖かったわけではなかった。
ローラントは行きたいとは思わなかったが、何故か気になった。
自分の部屋の出入りには、どうしてもエーレンの部屋の前を通らねばならない。ついでだと自分に言い訳をして、時々訪ねた。
労咳を怖れるのか、近習も小姓もいないことが多かった。
控えからこっそり居間の扉を開けると、どんなに音を立てずに開けたと思っても、エーレンは気づいた。
そして、嬉しそうに微笑んで手招きをした。
不思議だと言うと
「私は僧院で猫を飼っていたんだ。猫の動くのもわかるんだから、人間のそなたの動きはわかるよ。」
と答えた。
「僧院では?目が見えないのに、何かできたのか?」
意地悪な言い方をしても、エーレンは怒ることもない。
「何もできないよ。けれど、ひとの言うことは聞ける。ひとから学んで、教えてやったり、更に教わったり。そんなことをしていた。」
「何を?」
「いろいろだね。坊主だから、ひとの苦しみ哀しみを癒してあげなくてはいけない。」
「苦しみ?」
「ああ。ひとの苦しみはいろいろあるが、大本は四つだ。病、老い、死、そして生きること。」
ローラントは、病気になるのを苦しみとするのは、よくわかった。老人が身体の不調に苦しむのも見知っている。生きる苦しみついては、よくよく考えたら、生きている毎日は、なるほど煩わしいことが多い。それのことかもしれないと思った。
だが、死を苦しみとするのはわからなかった。死ねば何もわからなくなる。生きているのが苦しみなら、死を待ち望むことはあっても、苦しみにはならないのではないかと思った。
「死ぬのは苦しみか?」
エーレンは少し驚いた様子を見せたが
「死ぬのは、皆恐ろしいだろう?それに、死ぬときは苦しいよ。」
と静かに言った。
「死が恐ろしい?俺はそんなことを思ったことはない。」
それは本心だった。虚勢でもなんでもない。
「そなたは勇敢な戦士なのだろうな。」
皮肉を言われたと思ったが、そうではなかった。
「皆、怖いと思うんだ。それは嘲ってはいけないことだ。そなたはこれから、沢山のひとの命を奪わなくてはならないかもしれない。でも、いつも命の前には、頭を垂れるようでいなくてはならないよ。」
エーレンは手首に掛けた数珠をまさぐった。
何か祈っているようだった。
「そなたに、いつもいい風が吹くように。」
そう言って、エーレンは退出を促した。
ローラントは気味が悪くなった。
それから何度もエーレンを訪ねたが、二人とも難しい話はもうしなかった。
何の花が咲いただの、気持ちのいい天気だとか、当たり障りのない話ばかりした。
エーレンはそんな話に、とても幸せそうな表情で応えた。
しかし、訪ねる度にエーレンは具合が悪そうになり、一緒に過ごせる時間もどんどん短くなった。
背中に枕をかって、寝台の上で会うことも多くなり、それも横たわったままになった。
ローラントの前で喀血してしまった後は、訪ねて行っても会ってくれなくなった。
ある日、エーレンの方から会いたいと言ってきた。
エーレンは寝台ではなく、椅子に座ってローラントを迎えた。
げっそりとやつれていた。
「久しぶりだね。」
と微笑んで伸ばした痩せた手が、ローラントの髪に触った。
「嗚呼、肩で切り揃えているんだね!まさしくラザックの戦士だ。」
嬉しそうな顔だった。
父のツェツィルとはまったく違った。
「そう言えば、そなたの姿は尋ねたことがなかった。髪の色は?」
生まれつき目が見えないのだから、色など知らないだろうと訝しく思ったが
「黒。」
と答えた。
「そうか……。瞳の色は?」
「緑。」
「そうか……そうか……。」
そう言ったきり、エーレンは黙り込んだ。
しばらくの後
「夜の闇のような黒い髪に、夏の草原のような緑色の瞳。丈の高い勇敢な戦士。私の弟。」
と小さく言い、目を閉じた。じっくりとその言葉を味わっているようだった。
「私はもうやがて死ぬ。弟のことをちゃんと頭に刻んでおかないと。」
ひっそりとそう呟き
「死ぬのは恐ろしい。坊主なのにね。」
と言って、照れくさそうに笑った。
「もうお帰り。……これが最後かもしれない。」
エーレンの顔が曇ったと思うと、見る見るうちに涙が零れた。
「私の猫……僧院に残してきた猫はどうしたかな?」
ローラントには答えが思い浮かばなかった。
「さあ……」
「そういう時は、誰かが面倒をみていると聞いた、とか空々しい嘘を言うものだよ。」
エーレンは泣き笑いしていた。
「そなたに、いい風が吹くように。」
いつもの文句を唱えて、エーレンはローラントを帰した。
見えない目が、ずっと見送っていた。
その数日後、エーレンは亡くなった。
父のツェツィルも、母である一室も嘆き暮れた。葬儀に参列したヤールたちも沈痛な表情だった。
(兄上、死はいかがでしたか?死は兄上ではなく、残された者にこそ苦しみのようです。)
エーレンの死に顔を見たが、ローラントには、どうしても苦しいと思えなかった。哀しいという気持ちもない。
死んだのだと事実を認識しただけだった。
死に対して、畏れも怖れも感じなかった。
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