天狼を継ぐ者
5.
私はしばらく“三つ丘のラザック”の宿営地に留まった。
私を泊めてくれるターヴィに、何かさせてくれと言うと、放牧に連れて行ってくれた。その中で、家畜のことをいろいろと教えてくれた。
やがて、家畜の出産期になると、途端に慌ただしくなった。
しかし、困ったことに、この近隣の街道に賊が出た。ヤールは討伐を決めた。
ターヴィは、出陣しなければならないと言った。私は、彼が戦士階級、つまり貴族なのだと知って、驚いた。
質素な幕屋、家畜もさほど持っていない。奴婢も所有していない。単なる牧人なのだと思っていた。
「まだ出産していない牛が一頭いる。心配なんだが、行かなければならないからね……」
彼は私に、帰るまで頼むと言い、出陣して行った。
ほどなく、その牛が産気づいた。だが、なかなか産まれない。牛は目を剥き、泡を吹いて苦しんでいる。
ターヴィの妻たちは、逆子なのかもしれないと慌て出した。
私には勿論、どうすべきか判らない。妻たちは、おろおろするだけの私など端から頼りにもしていない風で、産道に腕を入れ、逆子だと判断した。そして、素早く胎児の脚に縄を掛けた。
「大公さま、引っ張って!」
突然の依頼に、私は戸惑った。
「誰か呼びにいっている暇はないよ。男はあんたしかいないんだ!」
妻たちが陣痛の様子を確かめ、私に合図した。縄を肩に担いで、力いっぱい引っ張った。
「もっと力を入れなよ!」
何度か繰り返すと、ずるりと子が出てきた。
産道から大量の生臭い水があふれた。不気味な膜につつまれた血まみれの子牛を見て、私は気が遠くなりかけた。
妻たちは、干し草で子牛の身体を拭い
「さあ、さあ! 立ち上がれ!」
と励ましている。
子牛は、よろよろと立ち上がりかけては、倒れる。
私も妻たちも、母牛も、子牛を励ました。
子牛はやっと立ち上がり、すぐ母牛の乳房に吸い付いた。
私たちは、顔を合わせて微笑み合った。
毛が乾くと、さっきとはうって変わって、子牛は可愛くなった。
「あら、大公さまが泣いている。安心したのね。」
妻のひとりがそう言った。
頬を触ると、いつの間にか涙が流れていた。安心したより、感動したのだが、説明しにくい。私は彼女の言うままに頷いた。
もう一人の妻は
「草原の男なら泣いてはいけないのよ。泣いて許されるのは、母親の死んだ時と、戦に負けた時。それから、シークの亡くなった時。」
と笑いかけた。
「出産という戦に勝ったんだ。嬉し涙くらい許されるはずだ。」
と言い返すと、妻たちは笑いさざめいた。
ターヴィは無事帰還し、私の努力に感心し、礼を言った。
ラザネイトも訪ねて来て、私を褒めてくれた。
そろそろ都に帰らねばならなかった。長居しすぎた感があった。
ターヴィたちに告げると、残念そうな顔をした。
私が発つ朝、カラダーグが訪ねてきた。
「ターヴィの牛を出産させたそうだな。」
認めてくれるのかと思ったが、彼の目は厳しかった。だが、文句を言われることはしていないし、評価を下げることもしていない。
それなのに、どうしても彼を前にすると、落ち着かない気持ちになる。
「はい……」
とだけ小さく答えて、何を言われるのかと身構えた。
彼は鼻を鳴らし
「夏に、俺のところへ来い。びっちり夏の仕事を教えてやる。」
と言った。
「夏中、いるのは……政があるから……」
「面倒な身の上だな! いずれシークになるんだろ? 草原の仕事を覚える気はないのか?」
夏の間ずっといるとなれば、宮廷を納得させるのは、今まで以上に難しいだろう。かと言って、断ればラザネイトと引き離されるかもしれない。
悩んだが
「シークになるが、大公でもある。政を放り出すわけにするわけにはいかないんだ。ラザネイトをないがしろにするわけではないよ。来たい。来られるようにするつもりだ。でも、親父殿と軽々に約束はできない。」
と答えた。
「……そうか。道中の安全を祈る。」
彼はにやりと笑って、帰って行った。
見ていたターヴィの家族が、ホッと息をついた。私もそうだった。
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