2.

 私は地面に鞍敷きを敷いた。
「そんなところで寝ることはない。言っただろう? 夫になる男を待っていると。」
 女はそう言って、私を寝台に座らせると、口づけをした。そして、私の腿を撫でた。
 いきなりの行いに驚いた。
「あんた、綺麗な青い目をしている。……私を抱くのは嫌か?」
「いや、そうではないのだが……」
 彼女は小さく笑って、脚の間に跪いた。
「ちょっと……」
 私が止めるのにも構わない。何と積極的なのだろうと戸惑った。
 女は私の上に跨った。男が跨るものではないのかと思ったが、そのまま続けた。
 彼女は息を弾ませ、腰を揺らし、甘い声を挙げた。私の胸や腹に、ぽたぽたと汗が落ちた。
 二人とも夢中で求め合った。

 すると、おかしなことが起こった。
 乳房に唇を寄せた時、何かが口の中に弾けた。微かに甘い味がした。
「ん? 何か変だよ?」
「ああ、乳が出たか。男と交わると乳が張ると聞いたが、本当なのだね。」
「乳って?」
「息子はもう乳を断ったのだが、まだ出るみたい。……乳が出る間は孕まない。もっと楽しもう。」
「お前、子供がいるのか!」
「そう。そんなことより……」
 私の身体に垂れ落ちていたのは、汗ではなく乳だったのだ。気持ちは少し萎えたが、身体はそうでもなかった。
 そのまま夜中まで抱き合った。

 女は息子がいると言ったが、姿がないのが不審だった。だが直ぐに、宿営地で他の家族と一緒にいるのだろうと思いついた。
 雑談の端緒にと、軽い気持ちで尋ねた。
「息子は?」
「父親の許だよ。」
 彼女は淀むことなく答えたが、私は耳を疑った。
「これは不貞ではないのか?」
 女はけらけら笑った。
「不貞など働くか。息子はいるが、夫はいない。夫が欲しいから、父にこの幕屋を建ててもらった。」
「何故、夫はいなくなった?」
「あの男は……卑怯な振舞いをした。だから、私は嫌になった。男は他にも妻がいたから、別れることに異存はなかったんだろうね。」
「そうか……」
 私の知っている都の貴族の社会では、夫婦別れはない。家と家の繋がりだから、険悪になっても別れないのだ。
 それに比べて驚いたが、町人は別れることも珍しくないと言うし、当たり前のことなのかと思った。むしろ、愛情のなくなった者同士が夫婦でいることこそ、不自然だ。
「あんたは誠実そうだ。私は気に入ったが、あんたはどう?」
 改めて見ると、肉感的な美女だ。あからさまな話しぶりは戸惑うが、自分を偽らないところは好きだ。
「会ったばかりだからわからないよ。嫌いじゃない。」
「嫌いじゃない……好きになるかもしれないってことだね。」
 彼女はにっこり笑った。

 深い仲になったが、女の名前も知らないことに私は思い至り、名を尋ねた。
「ラザネイト。あんたは?」
「ラグナル。」
「父親は何という? 父称は?」
 私は答えに詰まった。
“アナトゥール”。大昔のこの英雄の名前は、草原では長く忌避されてきた名前だ。この名前を持つ草原の男は今のところ、父しかいないのだ。
 ラザネイトは答えを待っている。父称のないのは奴隷階級である。奴隷の身分だとは誤魔化せない。
「……アナトゥーリセン……」
「えっ?」
 彼女は驚きの声を挙げ、起き上がった。
「それはシークの父称じゃないの。あんた、シークの息子なの?」
「そうなんだよ……」
「ん? シークの息子はまだ子供……」
 ラザックシュタールにいるシークの息子、私の弟たちはまだ子供である。
 私が誰なのか判ったのだろうが、彼女は私の口から明かされるのを待っているようだった。
「一番上の息子だよ。大公なんだ。」
「次のシークか……」
 大公であることは、彼女にとって重要ではないらしく、シークになるということの方が気になるようだ。何度も
「シークにねえ……」
と呟いて、難しい顔をしていた。

 別れ際に、ラザネイトは
「また来て。」
と言った。
「お前の夫にはなれないよ。」
 そう言ったが、私も少し残念だった。
 彼女は私に抱きつき
「いい。ラグナルが気に入った。だから、また来て。」
と言った。
 シークになる男だから繋ぎ止めたいのかと思ったが、彼女の屈託のない榛色の瞳を見ると、そうとばかりも思えなかった。
 私は周りを見渡し、地形を覚え込んだ。移牧すると判らなくなると思い、氏族の呼び名を尋ねた。
「“三つ丘のラザック”。」
 なるほど、三つの丘がある。
「“三つ丘のラザック”のラザネイト。また来る。」
 私は彼女を抱き締め、口づけしてから騎乗した。
 彼女は手を振って、いつまでも見送っていた。



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