天狼を継ぐ者
草原の女
1.
父が言うであろうことを言うと、宮廷は黙った。
私は、草原に度々出かけるようになった。
諸侯は不満そうだったが、強硬に反対する者はいなかった。やがて、私が草原に行くことに何も言わなくなった。
私の背後に父の権威を見ているのだろう。それを利用するようで、情けなく恥ずかしかったが、都合のいい事実でもある。今は父の威を借りることだと、自分を宥めた。
最初はラディーナばかりに出かけ、都へ帰った。
だが直ぐに、それでは物足りなくなり、段々と草原の深くに出るようになった。ラザックの土地にも入った。いろいろな氏族の許に滞在した。
ラディーンと比べて、ラザックは皆丁重だった。しかし、より気位が高かった。辱めを感じて決闘したという話をよく聞かされた。
都では、ラディーンは気が荒く好戦的だと聞いていたが、むしろラザックの方がそうなのではないかと思った。
春先のことだった。
ラザックの土地で、私は方角を失った。草原の旅には慣れたと過信して、行ったことのなかった方へ、深く入り込んでしまったのだ。
日没が迫っていた。家畜はもう宿営地に戻ったのだろう、見渡しても動く物もない。勿論、人の姿もない。
連なる丘、泉も小川もない。初めて独りで夜営しなければならないのだ。急に心細くなった。
私は、かつて共に夜営した草原の者の行動を、必死で思い出していた。
すると、風に乗って笛の音が聞こえてきた。私はできるだけ耳を澄まし、そちらの方向へ馬を向けた。
丘の向こうに、小さな白い天幕が一張り見えた。犬が私に気づいて、盛んに吠えたてた。
天幕の陰から女がひとり現れ、私に手を振った。
私はほっと胸を撫で下ろした。今晩の宿を請うことにし、駆け寄った。
女は吠える二頭の大きな犬を抑え、私を待っていた。犬は狼ではないかと思うような大きさで、敵意を丸出しにして唸り、私に飛びかかろうとしている。彼女は犬の首輪をぐいぐい掴んで
「客だ、客だよ! 鎮まれ!」
と大声を出した。
犬は残念そうな様子で、それでも私を睨み、繋がれた。
女は私を上から下までじろじろと見た。
「どこから来た? どこへ行く?」
高飛車な問いかけだった。私も怯まず、堂々と答えた。
「都の方から来た。行く先は……気の向くままだ。」
「都の方? ラディーンか。」
「宿りを請いたい。」
彼女は、値踏みするような目を向けた。
怪しまれて、放り出されては拙い。私は胸を張り、彼女の視線を受けた。
「……あんたは戦士ではなさそうだ。牧人か? ……そうも見えない。まあいい。盗人でもなさそうだ。入れ。」
私は天幕に招き入れられた。
質素な食事が振る舞われた。
「アルヒがある。飲むか?」
「もらうよ。」
女の態度は先程より柔らかになっていた。酒を注ぎ
「あんた、大きな耳飾りをしているね。ラディーンの氏族はあまりよく知らないが、名のある一族の長のようだ。」
と言った。
私のことをラディーンの者だと思い込んでいる。そう思わせておけばいいと、私は曖昧に笑っておいた。
彼女は遠慮なく私の左耳に手を伸ばすと、耳飾りを観察した。
「狼か。月輪をかじる狼。シークの“天狼”と似ている。畏れ多い一族だな。」
「これは“赤月”という名前があるが、誰もそう呼ばんな。この狼は、シークの“天狼”の狼の弟に当たるやつだ。」
「ますますもって、畏れ多いやつらだ。」
女は眉を顰めた。
気まずくなった私は、話を替えた。
「この天幕、小さいな。」
「これは“娘の幕屋”だよ。ラディーンもあるだろ? 知らないのか?」
訝しげな目を向けられ、私は内心慌てた。
恍けてみせれば余計に怪しまれると思った私は、ぞんざいな口調で
「俺の氏族にはない。」
と言った。
幸い、彼女はそれ以上訊くことはなかった。
「さっきの笛はお前が?」
「そう。退屈だからな。」
そう言えば、家畜もおらず、家族なり氏族の天幕も見当たらなかった。たった一張りだ。
「氏族は? 一人で営んでいるのか?」
「“娘の幕屋”だと言っただろう? 氏族はこの丘の東、直ぐ次の丘で宿営している。私はここで、男の来るのを待っている。夫になるかもしれない男をね。」
試し婚をする習慣なのだろう。不味いことになったと思ったが、はっきり宣言しておくことにした。
「俺は夫にはならんよ。」
「それは私が決めることだ。あんたは身なりもいいし、大きな耳飾りをしている。それに……あんたは綺麗な言葉をしゃべる。都の者みたいだ。ラディーナは都に近いから……?」
私が答えずにいると、彼女は
「寝よう。」
と言った。
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