天狼を継ぐ者
7.
その夜は、草原の入り口で夜営をした。
ラディーンの戦士たちは難なく泉のある場所へ赴いた。鞍を下ろすと、彼らは馬の脚に小さな皮ひもを通した。
チュドルという道具で、夜間に馬が走って逃げないようにするものだと教えてくれた。なるほど、近辺を自由に歩き、草を食むことはできるが、大きく足を動かせない。
「厩舎の馬は必要ありませんかな。でも……そんなことも、ロングホーンは忘れたんですか!」
ラディーンは驚いていた。
いとも容易く彼らは火をおこし、食事の用意を始めた。その辺に生えていた香草を摘み、干した肉と一緒に茹でる。そして、椀に大麦の粉を入れ煮汁で溶き、戻した肉を載せて、私に渡した。
匙で混ぜて食べろと言う。案外旨かった。
それから、彼らは羊の皮を地面に引いた。鞍敷きをその上に重ね、そこに寝るのだと言った。
脂を落としていない羊の皮からは、強い臭いがした。
「その……臭いがするな。」
控えめに不快感を伝えると
「羊の臭いが、蛇や毒虫を遠ざけるのです。」
と答えが返ってきた。
危険な生き物に囲まれているのだと気づいた。
「狼は?」
「この辺りにはいない。」
ラディーンの戦士は、すぐに寝入ってしまった。
満天の星、清かな月。私は夜空を見上げ、しばらく起きていた。少し冷え込み、私は外套を引き上げた。
外で眠るのも初めてならば、こんなに多くの星を見るのも初めてだ。方角を示す破軍星・北の一つ星はどれかすらわからない。南の一つ星はもっとわからない。遥か彼方まで続く草の海を旅することは、私には不可能なのだ。
ラザックの一族からロングホーンの一族が分かたれて、千年が経つという。ロングホーンの者は、草原の技術も文化も忘れてしまった。
翌日は明け染めるころに起こされ、出発した。
陽が中天に達するころに、ラディーンの宿営地に到着した。ヤールが既に待ち受けていた。
「やあ! やっとお越しになった。お待ちしておりましたよ。」
と微笑み、私を天幕へ招いた。
美しい織物で囲まれた内部。絹のクッション。私は大きな長い椅子に座らされた。それは夜には寝台になるのだと教わった。
ヤールは思ったより若く、父と同年配だろう。気さくに私に話しかけた。
「エール? 馬乳酒?」
私は馬乳酒を飲んでみたかった。酒は昼間からはまずいだろうかと思ったが、それは酒ではなかった。薄い乳酪のようだった。
ヤールは、酒とつくが極弱く、子供から年寄りまで飲めるものだと教えてくれた。
何もかもが珍しく、教わるたびに感心した。楽しかった。
ヤールは、馬乳酒を持ってきた娘を指して
「この娘が、ラグナルさまのお世話をいたします。」
と言った。
彼女は私に微笑みかけた。大柄で、女らしい身体の美しい娘だった。
ヤールの心遣いの食事は、宮廷とは比べるまでもなかったが、草原で食べる羊の肉は旨かった。穀物は大麦だった。草原の者は小麦より大麦を好むということだった。
宗族のところには、ラザックもラディーンもシークの天幕を張るそうで、父の天幕があった。家族が暮らすものではない。小さめだった。
娘が中にいて、既に火を入れ、整えてあった。
「もういいよ。おやすみ。」
と言うが、娘は出て行かない。
「自分のところへお帰り。」
娘は驚き
「伽をしなくてはいけませんから、帰りませんよ。」
と言った。
「伽?」
「夜は冷えますから、一緒に寝るんです。……もうおやすみにならねば、明日は早いですよ?」
そう言って、私の服を脱がせ始めた。
「おいおい、自分で脱げるよ。」
私は娘の手を退け、自分で下着姿になった。
すると、娘は訝しげに
「そんな格好で?」
と言った。
寝る時は寝衣を着るが、持ってきていないのだから仕方がない。これ以上何があるのかと惑っていると、娘はどんどん脱ぎ始めた。
私が留める間もなく、彼女は腰巻だけの姿になった。
「裸で寝る方が温かいです。」
「……どうしても裸にならねばいけないわけではないのだろう?」
「それはそうですけど……」
娘は不思議そうな顔をしたが、それ以上脱げとは言わなかった。
私が寝台に上がると、娘が隣に入った。その時になって初めて、寝台は一台だったと気づいた。
それならば、娘は地べたの絨毯の上に寝るのではないかと思ったが、そう言うのは不憫に思えた。
娘は私にぴったりと身体を寄せ、抱きついた。柔らかい乳房が押し付けられた。照れくさかった。
「おい、側に寄り過ぎだよ。」
娘は潤んだ瞳を上げ、私の手を乳房に置いた。
ぎょっとした。
娘は構わず私の身体を触り始めた。
「待て! こんなことは……」
と抗議したが、娘は止めない。
その晩、私は初めて女と交わりを持った。
私は幾らか罪悪を感じた。
「こんなことをするのが伽なのか?」
「ご存じないの? 旅人にはそうする。シークの息子ならば、当然でしょ?」
「……子供ができたら、どうする?」
娘は目を丸くして、やがて大笑いし始めた。
「できたら、それは私の持ち主のものになる。」
「持ち主?」
「え? 私の主はヤールだから。子はヤールのものになる。ヤールの奴婢になるのよ。」
娘はそう答え、呆れ顔で
「おかしなことを訊くのね!」
と言った。
「……父上……シークにもするんだよね?」
「トゥーリさまにはしない。お若い時はしたんだろうけど、ご結婚してからは要らないって仰るから。」
「そう……」
少し安心した。草原では当たり前のようだが、私の感覚では不貞だ。父がしていたらがっかりする。
翌朝、娘は朝食の世話をした。何となく居心地が悪かった。
私はやはり納得がいかず、ヤールに尋ねた。
「あの娘……どうしたらいい?」
「どうって? ……粗相がありましたか?」
ヤールは娘を咎めようとする。慌てて止めた。
「そうではない、そうではないのだ。この後、どうするべきなのかと……」
彼は考え込み、やっと私の言わんとすることを理解した。
「手をつけたからですか? 気になさらんでも、奴婢ですから。この後は、ラグナルさまの関知することではありませんよ。」
ヤールも娘も失笑していた。
私はまだ納得がいかなかったが、どれだけ自分の気持ちを説明しても、彼らにはわからないのだろうと黙った。
半ば強引に草原に来た。私はもう都へ帰った方がいいのかと、ヤールに相談した。彼もその方がいいと言った。
最後に、疑問だったことをヤールに尋ねた。
「シークとは、どういうものなのだ?」
「父親ですね。部族の父。」
理解しにくい答えだ。私は納得のいかない顔をしていたのだろう。ヤールは説明を加えた。
「父親は息子の心配をして世話をする。喧嘩をすれば仲裁し、腹を減らしていれば、食わせる。息子は父の言うことに従い、働く。それから、シークはラザックシュタールの街を守る。」
言うことは解ったが、彼らの感覚は完全には理解できなかった。
「父上もそうか?」
「トゥーリさまは……まあ、よくなさるけれど、基本的には面倒くさがりですから、できることだけなさる。草原の采配はもちろんなさいますよ。街は……放任ですな。町方に任せておられる。何か言ってきたら、常に“やってみろ”です。失敗したら、“立てなおせ”。勝手に何かすれば、さすがに怒るけれど、そういうことはないですわ。……街の為に、街道を守るくらいしかなさらん。」
ヤールは苦笑した。
それで上手くいっているとは驚きだ。
「今度のこと、諸侯がいろいろ言うのだろうが……父上ならどうなさると思う?」
「悪いことをしているわけではないでしょう? トゥーリさまなら“うるせえ、黙っておけ”でしょうな。“俺の土地を見回って、何が悪い”とかね。」
私は、少し知っている父の性質を思い出して、ふき出した。その通りだろうと思った。
「私もそうするか。」
そう言うと、ヤールは頷いてにっこり微笑んだ。
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