6.

 シーク。草原のラザックとラディーンの大族長。
 二百五十旗の軍勢を従える、草原の絶対的な主。
 その命令は絶対で、ラザックもラディーンもたちどころに従う。
 シークが“死ね”と命じれば、その場で自刃するとも聞いた。
 本当なのかとデジューに尋ねると、自刃の話は大げさだと苦笑した。しかし、彼もシークがどのようなものであるか、うまく説明できなかった。
 そもそも、私は草原を自分の目で知らない。国の南半分であるのにも関わらずである。
 今までの大公は、シークに厳しく臣従を要求したが、古の約定を守って、草原の采配に口出しすることはしなかった。だが、私はいつかシークになるのだから、草原を知りたいと思った。まず、草原に行かなければならない。
 諸侯は、皆反対した。物騒だと言った。大勢の護衛を連れて行かなければならないと言った。草原と親しく交わってほしくないと思っているようだった。
 私は諸侯の意見を受け入れ、草原行きは一旦諦めた。そして、騎馬と武芸の稽古に励んだ。父には、草原へ出向きたいと、頻りに書状を送った。
 父からは“待て”とだけ返信が着た。

 数年経ったある日、朝議の広間に、ラディーンの戦士が二人入ってきた。
 諸侯がざわめいた。
「馬賊……」
とそこかしこで、囁く声が聞こえた。
 ラディーンは都に近い草原の北部地域に暮らしている。私が生まれる前まで、気性の荒いラディーンは、諸侯の荘園と度々争いを起こしていた。その時の忌々しい記憶がまだ鮮明なのだ。
 そんな陰口は聞こえないのか、どうでもいいのか、二人の戦士は涼しい顔で、諸侯の間を通り過ぎ、私の前に膝をつくと
「お迎えに上がりました。」
と言った。
 諸侯は驚愕した。口々に非難する声が挙がった。
「控えよ! これはシークのご命令である。」
 戦士が怒鳴ると、全員が怯んだ。
「いや、お前らの言葉で言えば“父公”か。まったくもって、トゥーリさまも奇妙な称号をもらったものよ。」
と言って、戦士たちは大笑いしていた。
「父上のご命令に従わねばならん。」
「護衛を……」
「お前ら、我らでは不足だとでも言うのか?」
 ラディーンがぎらりと睨んだ。諸侯はもう止めなかった。止められなかったのだ。
 私は二人を引き連れ、広間を出た。ラディーンの戦士を従えるなど、シークのようだと思った。小気味よかった。

「“トゥーリさま”……そなたらは、父上をそう呼ぶのか?」
「さよう。“アナトゥールさま”は、我々にとっては、大昔の英雄の方ですからな。畏れ多い。まあ……トゥーリさまも、アナトゥールさまに引けを取らぬことを成しましたが、何分……トゥーリさまですからなあ。」
「そうそう。英雄にはなれんお人ですわ。」
 そんなことを二人は言って、くすくす笑った。
 英雄ではない理由は詳しくはわからなかったが、何となくそうだろうと思い、可笑しかった。
 ラディーンの戦士と笑い合うと、もうすっかり親しくなった気がした。
「馬は?」
「父上から頂いた馬がある。」
「ああ、そうだった。“凱風”。鹿毛で、上の唇白。浪門に旋毛があったかな……」
 ラディーンはおそろしく詳細に、私の馬を覚えていた。
 馬群の馬を一頭一頭、そうして区別して、良馬には必ず星や風にちなんだ名前を与えるのだと教えてくれた。
「父上のお招きは、ラザックシュタールか?」
 その問いへの答えは、少し残念だった。
「いいえ。ラディーンの野(ラディーナ)。ラディーンの宗族の氏族長(ヤール)のところです。お望みならば、周辺のラディーンの氏族をお訪ねになれます。」
「やはりラザックシュタールは遠いのだな。」
 私が溜息をつくと、二人は顔を見合わせて笑った。
「遠い? 都のお方にはそうなのでしょうなあ……。馬車でのろのろ行くには遠いな。草原の者なら一直線。」
「それでも、数日はかかるだろう? 街道を使わないで、迷わないのか?」
「そうですなあ……トゥーリさまは昔、都から三日で駆け抜けただなんて自慢なさるけど。街道なんか使わなくても……ラグナルさまくらいの歳なら、単騎で行くのが普通。」
「父上もそうだったの?」
「ええ。あなたより小さいころから、トゥーリさまは単騎行なさいましたよ。」
「一人? どうやって?」
「どうって……宿を請うたり、夜営しながらでしょ。」
 ラディーンは、馬鹿なことを尋ねるというような顔をして、私を見つめていた。
 何もない草原の真っただ中で、私より年少の身が一人っきりの旅をする。想像できなかった。そして、それが当たり前の草原。驚かされるばかりだった。

「そんなことより。早く出ましょう。南の大門を出て、草原に入るまで、少し距離がある。今日のうちに草原へ出ないとね。」
「荷を……」
「嫁入りでもなさる? 荷物なんか……ちょっとラディーナへ行くだけでしょう? 剣と弓・馬・(ひうち)・金椀と水の入る革袋。その程度で十分ですわ。食うものは我々が持っている。」
「でも……」
「ああ、匙くらいは要るな。それから、草原は夜が冷えるから、何かあった方がいい。」
 ラディーンは笑いながら私を急かせた。

 それからは駆け通しだった。ラディーンたちについて行くのが精いっぱいだった。凱風の脚は十分どころか、彼らの馬よりもずっと優れているのだから、私の技術がまだまだ拙かったというわけだ。
 南の関を出る頃には、陽がかげってきた。
「急ごう。森の中で闇に捕らわれる。」
 緩やかに下って行く街道の、両脇の森が次第に疎らになってくる。灌木の茂みに変わり、それも無くなり、やがて眼前が開けた。
 そこで、私は馬を止めた。
 見渡す限りの平原だった。
 壮麗な夕日が大地を染め上げて、ゆっくりと沈んでいく。乾いた風が吹き渡っていた。馬の足許で、さらさらと草の揺れる音がした。
 一方のラディーンが、銀の馬上杯に酒を注いだ。
 彼は空に一滴弾き
「風の神に。」
と言い、地面に一滴垂らして
「大地の神に。」
と言った。
 初めて見たにも関わらず、奇妙な懐かしさを感じる仕草だった。
 彼は馬を寄せ、私に盃を手渡した。
「アルヒ。強いから少しずつね。」
 強い酒だった。咽込むのを見て、ラディーンは笑った。笑われたことは、少しも不愉快ではなかった。私も笑い返した。
 もう一人のラディーンの戦士が静かに言った。
「おかえり。ラグナル・アナトゥーリセン。我らのシークの息子。母なる緑の大地に抱かれ給え。」
 二人とも、私に深々と頭を垂れた。



註:アルヒ 馬乳酒を蒸留させて作る酒。アルコール度数30〜40%。


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