4.

 私が、このまま父の屋敷に行って馬を見たいと言うと、父は少し戸惑った。
 私をもてなす準備ができていないと言った。
 構わないと言うと、受け入れてくれた。
 馬車は断った。ラザックシュタールの弟のように、父の鞍に乗りたかった。控えめに望みを伝えると、目を伏せ、ぎゅっと私を抱き締めた。
 父が軽く腹に足を当てると、馬は軽やかな脚を披露した。
「橋を渡った時みたいに、疾走させて。」
 私が強請ると、父は
「首に伏せろ。」
と言って、拍車を当てた。
 馬は恐ろしいほどの速さで駆け出した。こんな速い馬の上で平然としていられる父に、驚いた。
 終始、父は馬に強い指示は与えなかった。舌鼓と脚の動きだけで、馬を操った。

 私の馬は聞いていた通り、鹿毛の美しい馬だった。丈夫で勇敢なラザックの馬だ。“凱風”と銘がついていた。
 父の軍馬の息子だということだった。同じ血統の馬を持つのが、この上もなく嬉しかった。
「軍馬になる?」
「ならん。お前は戦をしない方法を考えるんだろ?」
 父は先程のことを持ち出した。

 厩舎でも玄関でも、皆が父に平伏して迎えた。父は彼らを当然のように跨ぐ。それが、シークに対する草原の者の挨拶の仕方だと知っていたが、私には慣れなかった。
 屋敷はがらんとしていた。通された父の居間は暖かかったが、何もなかった。
 私が当惑しているのに気づいた父が
「昨夜、戦場から戻ったんだ。身体を洗って、寝て起きただけ。荷もほどいていない。」
と教えてくれた。
「戦場……」
 私はどうしても実感がわかなかった。私を見て、父は不思議そうに
「さっき言っただろう?」
と言った。
 父の手からペルシャの香が薫ったのは、戦場の血のにおいを消すためなのだと気付いた。

 泊まりたいという私の望みも、父は受け入れてくれた。
 粗食だと前もって言われたが、本当に簡単な食事で驚いた。いつもそうなのだと父は言った。そして、草原の者は皆そうだとも言った。
 ぶつ切りにした羊の肉を塩茹でしただけのおかず。豆と根菜を煮込んだ汁。乳酪。平たいパンは、ぼそぼそして酸っぱい味がした。小麦ではないのだ。
 物珍しかったが、これが毎日では辛いと思った。
 父をこっそり眺めると、左手に銀器を握っていた。使いにくそうだと思ったが、父は器用に左手で食事をした。

 寝室は用意してもらったが、私は少しでも長く父といたかった。だが、一緒に寝ていいかと訊くのは、ずいぶんと勇気が要った。
 父の寝所を訪ねると、父は目を丸くした。
「赤ん坊かよ。」
と言って、くしゃくしゃっと笑った。

 父は枕を背にかち、寝衣の袖をまくり上げた。腕には、いくつかの傷跡が白く残っていた。新しい青あざがあり、それを撫でていた。今度の闘いでできたのだろう。
 私はその時初めて、戦というものを実感した。身体に傷を負うこと、命が危険に晒されること。デジューが感射しろと言った意味がわかった。
 単なる憧憬に、畏怖の念が重なった。

「父上はどれくらい戦に出たの?」
 父は私が眠ったと思っていたのだろう、驚いて私を見た。
「そこそこ。」
「顔には傷がないんだね。」
「そりゃ、お前……俺の美点は面しかないんだから、傷ついたら欠点だけになるじゃないか! 顔は死守だよ。」
 うすうすわかってきていたが、父の物言いも考え方も、まったく外見にそぐわない。私はふき出した。
「たくさんの敵を……その……殺した?」
「そうかもしれないね。」
「父上は亡くなったら、きっと大神の宮殿に招かれるね。勇敢な戦士だけが寛げるという広間で、歓待されるんだ。」
「どれくらい殺した奴らがいると思う?」
「……百人くらい?」
「……そこ、間違いなく俺の親父がいるから、行きたくないな。」
「え? 父上はお祖父さまが嫌いなの?」
「親父は四つの時に死んだから、よく知らんが……怖いんだよ。だいたい、大量に人殺しをした凶暴な奴らがいる広間なんか、恐ろしくていられるか。綺麗な女が酌してくれるってのは捨てがたいけど、遠慮しておくよ。」
 二人で、腹を抱えて笑った。

 父の髪の間から、耳飾りが覗いた。黄金の日輪に喰いつく天狼の意匠。翡翠の狼は口を大きく開いて、牙と爪を立てている。怖いと思った。
 代々受け継がれる耳飾り。この“天狼”と言われる耳飾りは、何人のシークの耳を飾り、どれだけの血を見てきたのだろう。身震いが出た。
 父は私の視線を訝しんだ。
「何?」
「耳飾りが怖いと思ったんだ。」
 すると、父は一頻り笑って
「お前だって、下げているじゃないか。」
と言った。
 大公家の当主である私も勿論身に着けていたが、父のものとは重みが違う気がした。
 父は私の耳たぶに手を伸ばした。
「いずれ、お前が“天狼”を下げるわけだが……。お前のこれ……まずいな。真ん中に穴が開いている。もう一つ開けるのは難しいぞ。」
「父上が開けたんでしょう? 後々のこと、考えなかったの?」
 私が苦笑すると、父は手を離し、目を逸らせた。瞳が寂しげな灰色にくすんで見えた。
「それはコンラートが開けた。」
「え?」
「お前の名前も、コンラートがつけた。」
 父親が息子にすることをどれもしていない。その意味を質したかったが、父は
「もう寝ろ。明日の朝議に大公がいないのでは、示しがつかないだろ?」
と言って、話を打ち切った。

 コンラートさま。身体を損なわれて、まだ赤ん坊だった私に大公位を譲った母方の叔父。車椅子に乗り、たくさんの書物に囲まれて、穏やかに過ごす彼の姿しか、私には思いつかなかった。
 しかし、父と叔父の間には、一言では言えぬ何かがあるのだと気づいた。



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