2.

 私は城でまだかまだかと待ちわびていたが、父はなかなか現れなかった。
 やっと登城の先ぶれがあった。
 私は待ちきれず、諸侯の屋敷街に繋がる東の橋の塔の上に上がって、窓から眺めた。小雪のちらつく日だった。
 馬車で城に入るのだから、眺めていても姿は見られないと気づいたころ。一頭の鹿毛の馬が、猛烈な速度で橋を渡ってきた。衛士は止めようともしなかった。その後を、長い髪を揺らした草原の戦士が一騎走ってきた。
 父だと、思った。胸が高鳴った。
 馬車でもなく、たくさんの供も連れず、たった一騎の近習を連れただけで、颯爽と駆け入る姿に感じ入った。
 都の貴族とはまったく違っていた。そして、普段から馬の上で当たり前に生活しているとわかる、慣れ切った操馬だった。
 ラザックシュタールの屋敷は、内部まで馬を入れられる造りであること。草原の者は、生まれる前は母の鞍の上、生まれた後は父の鞍の上で大きくなるという話。自分の脚で歩くより、馬の脚で歩く方が多いという話。
 眉唾で聞いていた話は、絶対に本当なのだと確信した。
 私もそうだったらいいのにと、実に悔しかった。
 私は塔から駆け下り、自分の翼に慌てて帰った。父が訪れるのに、少しでも遅れてはならないと思った。

 自分の居間で待っている間も、椅子に座っているのが苦痛なほどだった。
 うろうろと立ち歩きたかったが、デジューが側で見ている以上、行儀よくしていなければならない。
 小姓が現れ
「父公さまがお越しになりました。」
と告げた時は、眩暈がした。
 気を落ち着ける間もなく、父が入って来た。
 息を呑む美貌だった。
 背が高く、編んだ黒い髪が尻の下で揺れていた。
 デジューが扉口まで出迎え、微笑んで
「シーク……お久しぶりにお見受けしましたが、お変わりになりませんなあ。」
と言った。
 デジューは“父公”ではなく、“シーク”という称号で父を呼んだ。
 彼が膝を折り、平伏しようとすると、父は彼の手を取り
「つまらんことを……。デジューさまにされると戸惑います。」
と言って、助け起こした。
 そして、私に目を移した。碧い瞳だった。
 父の羽織っていた毛皮が、肩から滑り落ちた。すぐさま近習が拾い、抱えた。父は、近習に見向きもしなかった。都の貴族ならば、口先だけでも“ありがとう”と言っただろうに。
 毛皮の下は、襟に銀糸の錦が縫い付けられた黒っぽい草原の衣装をまとい、青いサッシュを結んでいた。歩くと、首に掛けた長い瑠璃の玉がじゃらじゃら鳴った。

 父は私の前に立つと、しばらくじっと見下ろしていた。戸惑うような間があった。
 父の近習が私に
「大公さま、失礼ながら……」
と言いかけたが、父が
「ラザック、控えよ。」
と言うと黙った。
 デジューが
「ああ、申し訳ない。お教えしていませんでした。」
と父に謝っていた。
 後で知らされたが、草原では、例え息子であっても、シークには平伏して“尊きシークにご挨拶申し上げます”と言って、跨がれなくてはならないということだった。
 父は苦笑して、私に屈みこみ
「ラグナル……ずいぶん会っていない。十年ぶりか。……俺のことは忘れたかな?」
と言った。
 強い草原の訛りがあった。訛っていることを隠そうともしない。
 デジューが、よく草原の訛りを教えてくれたが、父の話し方は聞き取りにくいほどだった。
 何を言われたかは理解できたが、私は答えず黙り込んだ。
「お前は……アデレードに似ているのかなあ?」
 私には答えようもない。デジューが代わりに
「そうですね。奥方さまに似ておられる。……でも、口許があなたに似ているかもしれない。」
と言った。
「そうかな……?」
 父は私をまじまじと見つめ、嬉しそうに微笑んだ。左の頬に笑窪がひとつあった。大きなサファイアの指環をした手が、私の頬を撫でた。荒れた手だった。そして、ペルシャの香のかおりがした。
 抱き締められると、湿った髪から雪の匂いがした。

 小姓が、飲み物と菓子の載った盆を、私たちの前に置いた。
 湯に葡萄酒を注ごうとすると、父は留めた。
 湯と赤い葡萄酒。都の水は硬くて飲みにくく、葡萄酒で割るのだ。
「俺はそれ嫌い。」
 そう言って、父は湯だけを注がせた。
 菓子皿の上に、見慣れない砂糖菓子があった。
「これは?」
とおずおずと父に尋ねると
「ああ、初めてお前の声を聞いたよ。しゃべらないから、機嫌が悪いのかと思った。」
と言って、ほっとため息をついた。安堵したのだろう。
「それは大食の菓子だよ。薔薇の花びらを砂糖で漬けたもの。あまり旨いとは思えんが、ラザックシュタールにいる子供たちは好きだから、お前も気に入るのかと思った。」
と言った。
 なるほど、白や桃色・赤の花びらの色が、結晶した砂糖の下から透けて見えた。甘くていい匂いがした。
 砂糖は高価だった。砂糖を採るキビは都では育たず、ラザックシュタールから砂糖の形でもたらされるのだ。都ではあまり口にできなかった。
「おいしい。」
と言うと、父は何とも言えない嬉しそうな顔をした。
 父はなんて美しいのだろうと思った。この父と、手紙で知るだけの優しい母、珍しい文物に囲まれて過ごす弟妹が、心から羨ましかった。
 私は、会えなかった分を取り戻したく、父に肩が触れるほどぴったり座った。それを察したのか、父は私の肩を抱き、近くに引き寄せてくれた。
 父はまた私を喜ばせることを言った。
「お前に馬を連れて来た。今度、屋敷に来るといい。」
「父上のみたいな鹿毛?」
「見ていたのか。あれは鹿毛とは言わん。栃栗毛と言うんだ。脚が白かっただろう? お前のは鹿毛だけどね。」
「鹿毛は足が白くないの?」
「鹿毛は脚が黒い。たてがみや尾も。」
 私は好奇心いっぱいの表情をしていたのだろう、父は笑いながら
「草原では、もっと詳しく馬を表すよ。毛色はもちろん、どこがどう白いか黒いか、星の形、毛並み……お前は馬が好きなんだね。いい傾向。」
と言った。


註 大食:アラビアのあたり


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