22.

 すでに深夜である。トゥーリは、とうに寝室に引き取っていた。
 近習の止めるのを制して寝間に入ると、寝ぼけ眼のトゥーリが寝台の中から
「何? 夜中だぞ。」
と声をかけてきた。
「失礼は百も承知です。父公さまの姫君を頂きたく……」
 彼は、ヘクトールの言葉を遮り
「予感していたが、いきなり? もう、話がまとまったのか?」
と言った。不機嫌そうだった。
 二人は彼が予想していたことに驚いた。
「はい。ナズィーラをきっと幸せにいたします。」
 父はゆっくりと寝台から下りた。夜着を引きずりながら、彼らの側に来て、二人を交互に見た。そして、ヘクトールに視線を止めると、じっと見つめた。強い眼差しだった。
 ナズィーラは怖れ
「何? 父さまは難癖をつけるの? アマラードのことを大悪党なんて言っていたけれど、ヘクトールもそうだと言うの?」
と小声で尋ねた。
 父は、ヘクトールを眺めたままだった。
「娘を俺から奪っていくやつは、全員大盗人だよ。ただじゃあやらん。」
 二人は目を見合わせた。
「盗人だなどと……どうすれば……?」
「まさか! 父さま、腕ずくで奪ってみろとか、乱暴なことを言うんじゃないでしょうね!」
 彼女の言葉に、父は少し驚いたようだったが
「腕ずく? ヘクトールと俺が決闘?」
と、にっと笑った。
「ヘクトール、さっき武芸の腕前はどうのって言っていたけれど、あれはどうなの? 父さま相手ならどう?」
「さっきの彼なら勝てる自信はあるけれど、父公さまには無理だよ。我が家は武門ではない。それに、父公さまはたくさんの経験があるのだから、私とは雲泥の差だ。斬り刻まれるのがオチだな……」
 二人は途方にくれた。だが、ヘクトールは
「父公さまが私を相応しくない、ナズィーラはやれん、斬ると仰せになるなら、挑戦する。」
と宣言した。静かな覚悟が瞳に浮かんでいた。

 父はその様子をずっと眺めていたが、ため息をついて
「ナズィーラ。お前、何故そんなに先走って、殺伐としたことを考えているんだよ。一言でも申したか。」
と言った。
「だって、ただじゃやらんって言ったじゃない?」
「桃色のあれ……ドラジェと言ったか……あれを持って来い。ヘクトールの家では、慶事に欠かせないのだろう? たくさんはいらん。あれは食いすぎると、胸焼けする。適度な量でいいよ。」
 途端に、二人の緊張が解けた。ヘクトールは
「はい! 明日、必ずお持ちします。」
と応え、ナズィーラに微笑みかけた。
「まったく……俺の娘はどいつもこいつも……。夜中に親父を叩き起こしては、狂ったことを申す。そのうち、寝首を掻くのではないかと、気が気でない。ゆっくり寝かせて欲しいね。」
 そう言って、父は流し髪をさらりとかき上げた。何かが、燭台の灯りにきらりと光った。
「あっ! 父さま……」
「何? 驚くよ。大声出して。どうした?」
「白髪が……」
「えっ! 抜け抜け!」
「ほら……」
 ナズィーラが抜いた髪を父に見せた。長い黒髪の根元が、親指の長さほど白かった。彼は目を丸くした。
「ああ……これは一大事……。どうしよう? そんな歳?」
「どんな歳よ? 孫もいるでしょ。真っ黒い髪だから目立っただけよ。」
「真っ黒い髪だから困るんだろ! 嫌だなあ……」
「一本抜くと、そこから三本白髪が生えるそうですよ。」
 ヘクトールが苦笑しながら口を挟むと、父は不愉快そうな目を向けて
「何だと? だったら、抜くのを止めろよ! まったく……これはきっと、娘どもと息子が必要以上の心配をかけるからだ。そうに決まっておる。……二度と俺を悩ませるな。お前! ヘクトール、お前のことだよ! ナズィーラが俺に泣きついてくるようなことがあったら、その時こそ斬り刻む。」
と、つけつけと言った。
「かしこまりました、父公さま。ナズィーラをどんな悲嘆からも守ってみせましょう。ご照覧あれ。」
「そのけったいな呼称で俺を呼ぶな。」
「失礼しました、シーク。」
「お前らロングホーンのシークではない。」
「気難しいですね、義父上。」
 ヘクトールは笑い出した。
「さよう。注意した方がいいぞ。急に野蛮人の血が騒ぐからな。……もう下がれ。」
と言って、父は寝台に上がった。

 二人が微笑み合い、寝室から退出しようとしたところ、寝床の中から呼び止められた。
「ヘクトール。こんな夜更けに料理人を叩き起こしてはならん。ドラジェは明後日でもいい。」
 ヘクトールは、そんなことを心配していたのかと苦笑し、寝床の背中に
「はい、義父上。」
と答えた。
「それから、近習に、誰か来ても入れるな、起こすな、無理に入るやつは斬り捨てよと命じたと申せ。……おやすみ。」
 ヘクトールが扉に手をかけると、今度は怒鳴り声がかかった。
「お前ら!」
「はい?」
 父は寝台に半身起こして、睨んでいた。
「まだ一緒の寝台で休んではならん。」
 ヘクトールは失笑した。
「そんなことは考えておりませんよ。」
「どうだか……男は油断も隙もないんだから……」
と、渋い顔をしている。
 ナズィーラは
「父さまはそうなんだ。」
と笑った。
「俺は品行方正だよ。」
「嘘。」
「嘘なもんか! 結婚するまで童貞だったよ。」
 真顔で答えるから、二人とも大笑いした。
 もう言うことは無くなったらしく、父は寝台に横になった。
「おやすみなさい、父さま。寝言は寝てから言ってね。」
「おやすみなさい、義父上。寝酒が過ぎたようですよ。」



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